スバルショップ三河安城の最新情報。戦後〜富士産業株式会社時代〜| 2014年3月21日更新

 

中島飛行機時代〜日本航空産業のパイオニアの出発と終焉〜

飛行機を天職と定めたり。〜苦学を重ねた学生時代〜

Chikuhei nakajima.jpg
By 犬養内閣編纂所 - 犬養内閣編纂所編『犬養内閣』
(犬養内閣編纂所、1932年)パブリック・ドメイン
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中島知久平

中島知久平は、1884年群馬県新田郡尾島村(現在の群馬県太田市)の農家中島粂吉の長男として生まれました。父の粂吉は、農業の他に養蚕、養鶏などの副業を手がけており、商才に恵まれた人物でした。少年時代の知久平はとても相撲が強く、周囲から「チッカン」と呼ばれ親しまれていました。
中島家のしつけは厳しいものでした。農家に勉学は必要なし!と進学を諦めさせられてしまったのです。これは、祖母が粂吉の兄が勉学ばかりして体が弱いがために、早くに亡くなったことが影響しています。農家であるからには、体を鍛えなさい。という考えを押し付けられてしまったのです。それでも、進学を諦めきれない知久平は、売上金を神棚に供える日を狙って、それを持ちだして、突如家出してしまうのです。知久平は、どうしても進学したかったのです。

知久平は、東京へ出ると貧しさと闘いながら、勉学に励んでいました。夏は裸で過ごして洗濯代を節約。銭湯では、流れてくる泡をすくって体を洗うことで、石けん代を浮かせていたのです。苦難の末の、2年4ヶ月後。以後の進学に必須となる専門学校入学検定試験に合格します。ちょうどその頃、知久平の人生を決定づける衝撃のニュースが地球の裏側からやってきます。アメリカのノースカロライナ州キティホーク近郊の丘から、ライト兄弟のライトフライヤー号が舞い上がり、世界初の有人動力飛行に成功したのです。人類の悲願がついに叶ったのです。1903年12月17日のことでした。知久平は航空機時代の到来を確信。独学で研究を開始します。しかし、教科書も参考対象もありませんから、仕方なく飛んでいるワシをずっと眺めては、参考にしたのでした。

 

飛行機狂 中島知久平〜夢は叶い、大空に羽ばたく〜

1903年、海軍機関学校に優秀な成績で入学。4年後に卒業し、少尉に任官。知久平は飛行機の時代が来ることを予見して研究を続けており、周囲に飛行機の国産の必要性を説いて回っていましたから、飛行機狂「中島知久平」の名は海軍内で次第に知られていくようになります。
1910年、巡洋艦「生駒」に配属されていた知久平は、ロンドンで開催される日英博覧会の視察の折に、フランスの航空界の視察を上官に願い出ます。艦長は願いを聞き入れて「行方不明」としての上陸を許可!アンリ・ファルマンなど先進の機体工場や発動機工場の見学は、その後の人生に大きな影響を与えます。

1910年12月19日、代々木練兵場にて陸軍の徳川好敏と日野熊蔵が共に、日本初飛行に成功。一方、知久平は1911年10月25日、日本最初の飛行船である「イ号飛行船」に操縦員として搭乗。この飛行船は、陸軍と海軍が共同で開発に取り組んだもので、機体は純国産、エンジンは輸入品でした。10月27日には、徳川好敏大尉操縦のアンリ・ファルマンとの同時飛行にも成功します。
さらに、この年には海軍大学校へ入学、飛行機と飛行船の研究に従事します。翌1912年には海軍大学校を卒業、見事大尉へと昇進を果たします。この年、中島機関大尉は海軍航空術委員会員としてアメリカに渡り、日本人で3人目となる飛行士免状を取得します。

 

行き詰まりを感じ、退官。〜飛行機制作会社設立願い〜

Yamato Trial 1941.jpg
By 神田 武夫 - http://forums.ubi.com/eve/forums/a/tpc/f/6421019045/m/1221005465/p/1
This photo is part of the records in the Yamato Museum (PG061427). Search with the kanji characters of Yamato (大和)
for the name (second field), and 昭和 for the period (last field).The photo can be seen in the US Naval Historical Center
here (Photo #: NH 73092), courtesy of Kazutoshi Hando. http://blog-imgs-26-origin.fc2.com/m/3/i/m3i/1146236297705.jpg
, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=382832
大艦巨砲主義の象徴、戦艦「大和」

中島機関大尉は、アメリカからの帰国後、横須賀鎮守府(現・海上自衛隊横須賀基地)に、海軍工廠(官営の軍需工場)造兵部員として配置。1913年、彼の長年の夢が結実します。
海軍初の国産航空機である「日本海軍式水上機」の設計主務となったのです。1914年には再度渡欧し、海軍士官としてフランスの航空事情の視察を実施。日本へ戻った中島機関大尉は飛行機工場長となり、欧米で学んだ見識を元に、様々な水上機の設計に従事しました。日本帝国海軍の航空機開発の中心原動力となって、彼は一目散に走り始めるのです。それと同時に、彼の胸中にはもうひとつの確信が芽生え始めていました。

知久平は、軍部主導の航空機開発に窮屈さと行き詰まり感を感じていました。特に、欧米列強は民間主導で激しい開発競争を繰り広げていましたから、知久平は「今後、航空機の急速な発展を望むならば、絶対に民間では無くてはならぬ」との確信に至ります。
この事を、密かに打ち明けた相手が、のちの海軍中将大西瀧治郎でした。大西はこの計画に大賛成で、資本主を探すべく奔走。自らもこれに加わろうとします。しかし、海軍はそれを許しませんでした。将来有望な士官を手放す訳にはいかなかったのです。知久平の提出した「飛行機制作会社設立願い」は、海軍内で大問題になります。結局、知久平のみ病気と偽って退官することになります。

聯合艦隊司令長官山本五十六は、世界で初めて艦載機を打撃力とする機動部隊を編成し、連合艦隊の主力としました。真珠湾攻撃は、その威力が遺憾なく発揮された最初の事例であり、壊滅的な打撃を受けた米海軍はこれに学んで、現代へと続く機動部隊主力への編成へ大転換を果たします。
一方、日本帝国海軍の上層部には、日露戦争時の日本海海戦における「東郷ターン」の奇跡的な逆転劇を念頭に、戦艦の打撃力を主軸とすべしとの大艦巨砲主義が依然強く残っていました。この考えは艦隊決戦思想と結びついて、旧態依然とした体制からの変革を大きく阻害し、連合艦隊を破滅へと向かわせていくのです。

 

飛行機研究所を設立〜華々しいスタートは失敗の連続〜

1917年12月1日、知久平は故郷の尾島町に戻って、長年の夢である自らの研究所を設立します。「飛行機研究所」という名のこの研究所にて、知久平は同士数名とともに初めての純国産機の設計に着手。工員の人数も次第に増えていきます。
しかし、その歴史のスタートは苦難の連続でした。第一号機は1918年7月に完成したものの、初飛行で大破。第二号機も8月に初飛行したものの、これも破損。三号機、四号機も同様に失敗の連続でした。口の悪い人々から「上るのは米ばかりで太田の飛行機はサッパリ上らぬ」とか「飛行機乗りには娘はやれぬ、落ちた飛行機で芋を掘る」と、彼らは揶揄されるのにも耐えねばなりませんでした。

1919年2月に完成した四型六号機は、帝国飛行協会主催の第一回東京、大阪懸賞郵便飛行大会に参加。往復6時間58分で優勝します。もう一機参加した六型は途中進路を間違えて和歌山県に不時着したものの、復路にて2時間10分という日本記録打ち立てて、中島機の優秀性をここに証明することになったのです。
しかし、この当時の航空機の性能はまだまだ不十分で、箱根はおろか鈴鹿の峠を越すのが精一杯といった状態。エアパワーとして、軍の主力となる知久平の夢の実現には、まだ長い道のりが必要だったのです。この四型六号機、マトモに飛んだ初めての中島機でもありました。

海軍出身の知久平でしたが、決して海軍優先ではありませんでした。退官時にトラブルが元で一寸距離を置かれていたのです。一方の陸軍は、イ号飛行船の際に懇意となった井上幾太郎少将との縁で、良好な関係を築いていました。
しかし、採用したくても中々まともに飛ばず、陸軍は諦めかけていました。やっと四型が所定の性能を発揮し始めると、陸海軍共に互いに先を越されてはならぬと、今度は一転焦り始めます。相次いで飛行士を派遣して試飛行を実施して、これに成功。結果、ついに陸軍から偵察兼練習機として中島式五型が初採用。1919年8月、ついに20機の受注に成功するのです。翌年初めには、海軍からの受注にも成功しました。

 

巨大コンツェルンへと急成長。〜東洋一の航空機メーカーへ〜

1943年夏、飛行第25戦隊第2中隊のエース大竹久四郎曹長の一式戦二型(キ43-II)。部隊マークとして白色で縁取られた中隊色の赤色帯と、機体番号の下桁を垂直尾翼に描いている
By オリジナルのアップロード者は英語版ウィキペディアVuvar1さん, 2005年10月25日 (original upload date)
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一式戦闘機「隼」

知久平が「飛行機研究所」設立の際に頼ったのが神戸の豪商石川茂兵衛でした。この石川が間もなく事業に失敗。代わって出資を引き受けたのが川西清兵衛でした。川西は、関西を中心に紡績業で財を成した実業家でした。中々進まぬ航空機研究と、日々蓄積される研究経費。失敗の先にある成功を信じて進む技術者中島知久平と、資本家として投資の回収を急ぐ実業家川西清兵衛は、まさに水と油でした。
事ここに至って、両者の関係は破綻。1919年12月、川西は全ての資本の引き上げを決定。知久平は三井物産を頼って事業を継続します。川西は、引き上げの際に連れて行った技術者のために、川西航空機を設立します。これが今に続く新明和工業です。

川西との分裂騒動後、中島飛行機製作所と改め、残されたメンバーで再スタートを切ることになります。当時の中島飛行機は細々と試作機を作っていた頃とは違い、月産6〜7機のペースで安定した生産を重ねていました。工場も次々と拡張していき、社員も400人近くまで増えていました。ここまでたった4年。中島飛行機は、この後も恐ろしい勢いで成長を遂げていくのです。
1924年、中島飛行機は現在の東京都杉並区荻窪に発動機(エンジン)の製作を目的とする東京製作所を開設します。わざわざ遠い東京に開設したのは、良い人材を集めるには東京だ!という鶴の一声があったからとも言われています。この工場が、のちのプリンス自動車となります。

大正年間の航空機では、発動機は依然輸入に頼っていました。見よう見真似の大工仕事でも何とかなっていた木製布張りの機体と違って、精巧な金属加工が必要な発動機の製作にはまだまだ技術力が不足していたのです。そこで、陸海軍は海外製発動機のライセンス生産からスタートさせることとします。
イギリスのブリストルが開発した空冷星形9気筒「ジュピター」は、当時の傑作エンジンでした。中島飛行機はこれのライセンス生産を受注、その数は約600機にのぼりました。このジュピターに中島が独自に改良を施したのが、「寿」です。日本初の傑作発動機となった寿の総生産台数は実に7000台にも達し、次の「栄」に繋がっていくのです。

世界に今もその名を残す大戦初期の名機。零式艦上戦闘機は1939年に初飛行した、総生産機数10,430機に達する空前絶後の名機です。劣勢となり、人財・資材不足に悩む大戦後期には、戦闘爆撃機や特攻機としても用いられるなど、帝国海軍の命運を象徴する存在としても知られています。
中島飛行機は、この零戦の発動機である「栄」の開発・生産を担当した他、機体のライセンス生産も手掛けました。結果、総生産数の半数以上の6,545機を生産するに至りました。この「栄」、他にも「隼」などにも搭載されましたから、桁違いに生産数は多く、総生産機数は33,233基に達しました。

 

増産に次ぐ、増産。そして、空襲。〜大戦末期、灰燼に帰す。〜

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By 不明 - 世界文化社「日本大観 第15巻」より。なお、この写真は既に公表済である。
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東京都三鷹市にあった中島飛行機三鷹研究所本館(現:国際基督教大学)

増加の一途をたどる陸海軍の生産要請に対して、中島飛行機は1942年から1944年にかけて次々と製作所を増設していきます。海軍の「天山」「彩雲」を生産するために愛知県半田市に半田製作所を、海軍発動機を増産するため埼玉県に大宮製作所、陸軍の「疾風」を生産するために栃木県に宇都宮製作所、陸軍発動機を増産するため静岡県に浜松製作所、補機関係を生産するために静岡県に三島製作所など、日本各地に突貫工事で建設されていきました。
各地に分散することで、目前に迫った本土空襲を前にリスクを分散する狙いがあったものと思われます。しかし、B-29から逃れられる土地は日本国内には何処にもなかったのです。

日本の航空機の半数近くを生産する中島飛行機は、米軍にとって格好の爆撃のターゲットでした。初期の爆撃作戦は、工場や基地、兵站を対象とした戦術爆撃でしたから、各地に散らばった中島飛行機の各工場は徹底的な猛爆撃にさらされたのです。
1944年11月24日には、武蔵製作所への初爆撃が実施され、その後度々爆撃にさらされて、苦労して作り上げた工場の棟々は、全て灰燼に帰したのです。
とどめを刺したのは「地の神様」でした。1944年以降、航空産業が集積する東海地方を中心にM7以上の大地震が頻発。中島飛行機は、軍部の方針で国有化されたものの時既に遅く、壊滅的な打撃を受けてしまうのです。

 

巨大航空機工場があった街。〜中島飛行機半田製作所の話〜

皆さまお馴染みの半田市。その一帯には1800haにも及ぶ中島飛行機半田製作所がありました。国道247号線の南側に富士重工の半田工場があるのをご覧になった方もいらっしゃるでしょう。この工場を中心として半径800mの範囲にビッシリと工場が立ち並んでいたのです。
ここで生産されていたのは、天山と彩雲でした。最初の1機が出荷されたのが、1944年1月。10ヶ月後には月産100機を達成するも、12月の東南海地震で生産能力は一気に減少。その後の急速な復旧によって1945年3月には月産140機に到達します。しかし、7月の空襲で設備も住居も壊滅。工員の多くは故郷へ去っていき、たった1年半の歴史に終止符を打つのです。
広大な敷地の中心にあるのがJR武豊線乙川駅。国道247号線は、飛行場まで完成した飛行機を運ぶための輸送路として、幅31mで建設されました。国道を挟んで北側には、2万人分の工員の住居が建設される予定でした。東側は飛行場で、この地域で唯一遺構を確認できる場所です。

現在、富士重工が航空産業の拠点としている半田市。もともと、織物業が産業の中心だったのですが、1930年代後半に深刻な不況に陥った半田市は官民挙げて工場誘致に取り組みました。一方、中島飛行機は箱根以西への進出に強い希望を持っていました。調査の結果が良好だったため、1942年半ばに中島飛行機の半田進出が決定します。
至上命令は、1943年中に初号機を飛ばすことでした。命令は絶対ではあっても、工場建設と生産準備は一朝一夕に整うものではありません。それならばと、「人・トラ」と称して半完成部品を群馬から「手荷物」で運んで現地で組み立てました。半田工場の幕開けはとんだドタバタ劇だったのです。

 

2度の大地震。トドメを刺す爆撃。〜あっという間の壊滅〜

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By 不明 - www.combinedfleet.com, パブリック・ドメイン
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艦上偵察機「彩雲」
天山一二型 
パブリック・ドメイン
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艦上攻撃機「天山」

1944年12月7日午後1時36分、尾鷲市沖を震源とするM7.9に達する巨大地震が発生。東海地方で甚大な被害が発生しましたが、航空機を中心とする軍需施設が甚大な被害を受けたことを敵国に知られぬように、その被害は大本営によって隠蔽されました。
半田製作所は震度6の烈震に見舞われ、レンガ造りの工場が倒壊。153名が犠牲者となりました。続いて、1945年1月13日午前3時38分にM6.8の直下型地震が発生。復旧が進まぬ地域を中心にさらに甚大な被害が生じました。半田製作所では、震源から距離があったために被害は軽微でしたが、それでも治具に狂いが生じて生産性は大きく低下しました。

1945年3月は半田製作所の最盛期でした。動員した学徒の技術の向上によって月産140機を超えました。そして、4月に入ると中島飛行機は国営化されるに伴って、半田製作所も第一軍需工廠第三製造廠となりました。
一方、1944年夏にはマリアナ陥落、1945年3月21日の硫黄島陥落により、3月10日の東京大空襲を含め、各地で米軍による戦略爆撃の被害が甚大となってきました。これを受けて、疎開の検討が開始されます。実現することはありませんでしたが、1946年にかけて岡崎、小松、伊那への疎開工場への移転が計画されていたのです。ここまで幸運にも空襲がほとんど無かった半田にも、ついにB-29の大編隊が現れます。

7月15日、戦闘機P-51が10数機で飛来。機銃掃射により市民8名が犠牲となります。 7月24日は「2000機爆撃デー、24時間攻撃デー」と銘打たれた悪夢の1日であり、B29が600機、護衛の小型機1400機が大阪・名古屋・桑名・和歌山・半田の5つの戦略目標に対する爆撃を実施。
伊勢湾を横断して武豊方向から進入したB29 78機が、18分間に高度4500〜6000mから250kg爆弾2149発、1t爆弾数発を投下。小型機による機銃掃射は夕方まで続きました。当日は、警戒警報と共に全従業員は自宅待機でしたが、北側の居住地域の被害も甚大で、一説には200名以上の方々が犠牲になったと言われています。

7月27日、半田製作所は再度爆撃にさらされます。この日までの空襲によって全施設の41%が破壊されて、爆撃後1週間は生産が完全に停止。7月以降は、これまでの爆撃によって住居を破壊された従業員が勝手に郷里に戻ってしまったことで、従業員の無断欠勤が増加します。終戦時の概算では、常時1300名ほどであったようです。
そして、終戦。半田製作所は一切の操業を停止します。良質な機械設備は戦後賠償の対象として失われ、航空機製作用の専用設備は破壊を命じられました。苦労して完成させた10機の航空機も、自らの手によって破壊しなければならず、たった1年半の短い半田製作所の歴史の終焉は実に歯がゆいものでした。

 

見果てぬ夢。武蔵野研究学園都市計画。〜中島知久平の死〜

知久平のもう一つの姿、それは政治家でした。代議士の立場を得て、エアパワーを主体とする航空立国に日本を大転換するのが目的でした。 知久平は、1930年の衆議院選挙に県下最高得票で当選。 豊富な資金力で立憲政友会内で力を持つようになり、革新派を形成して勢力を伸ばします。1938年、第一次近衛内閣で鉄道大臣で初入閣。終戦後も、東久邇宮内閣にて50日間のみ軍需大臣および商工大臣を努めています。
1945年12月にA級戦犯に指定された知久平でしたが、病を理由に三鷹の泰山荘に自宅拘禁扱いとなります。1949年10月29日、知久平は突然の脳出血に倒れ、そのまま急逝。まだ65歳の若さでした。

東京都三鷹市の富士重工業東京事業所はかつて、中島飛行機武蔵製作所の一部でした。この事業所から、調布飛行場に至る広大な地域一帯は当時、航空産業の一大集積地だったのです。本来、知久平はこの地域一帯を社会・経済・政治など様々な学者を国内外から招聘する先進学園都市とする計画でいました。残念ながら、知久平の夢は戦乱の中で絶たれてしまいましたが、この武蔵野の森に自らの邸宅「泰山荘」を構え、生活の拠点としたのです。
現在では、武蔵製作所本館が国際基督教大学本館として今にその姿を伝え、大学構内には泰山荘の建物類が大切に維持されています。

 

戦後の苦闘〜ふたたび大空へ〜

 

最後に空を飛んだ日〜国産ジェット戦闘機「橘花」の初飛行〜

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日本初のジェット戦闘機「橘花」

「橘花」は大戦末期に初飛行した日本初のジェット戦闘攻撃機です。原型となるメッサーシュミット「Me262」の詳細資料を載せた潜水艦は、バシー海峡で撃沈。先回りで日本に届いた資料は、完成図面のみでした。
戦況打開の為に何としてもジェット機が欲しい海軍は、中島飛行機に試作を指示。あらゆる物資と最低限の技術資料さえ不足する中、 代替材料や小型化など苦心を重ねた技術者たちは、8月7日たった1回の初飛行に漕ぎ着けるのです。度重なる空襲を避けつつ、8月12日の再飛行では離陸に失敗。修復も叶わず、終戦を迎えます。この機体が、中島飛行機の最後の仕事となったのです。
敢え無く陽の目を見ることのなかったこの機体は、散り散りなった旧中島の各工場をひとつに結びつけるきっかけとなる、戦後初のジェット練習機「T-1」へと繋がっていくことになります。

 

栄光は今や昔。散り散りボロボロになる。〜12社に分割されての再出発〜

1945年富士産業生産許可品目
1945年富士産業生産許可品目
1946年富士産業生産許可品目
1946年富士産業生産許可品目
1946年新会社設立案
1946年新会社設立案

1945年8月15日、軍需大臣から第一軍需工廠長官に生産停止命令が下ります。8月17日、中島飛行機はその名を富士産業株式会社と改め、平和産業への転換の第一歩を記します。翌8月18日、知久平が東久邇内閣の軍需大臣に就任。同日、中島乙未平が社長に就任します。昭和20年、各工場は次の製品の製造許可を連合軍軍政部に申請し、許可されています。

1946年、日本国内では戦地からの引き上げが本格化したものの、本格的な戦後不況が訪れ、まだまだ復興の足掛かりさえ掴めない混沌のさなかにありました。この年の連合軍軍政部への製造許可申請は次のとおりです。スクーターやバスボデーなどに、富士重工の気配を感じ取ることができます。

歴史ある巨大財閥とともに、 GHQによる財閥解体の対象に中島飛行機が指定されたのは、1946年9月6日のことでした。1946年8月提出の新会社設立案が認可され、企業再建整備法による第二会社12社が発足しています。

再出発を図ったそれぞれの工場ですが、戦後賠償とGHQの日本弱体化政策で生産設備の多くは進駐軍に接収され、人員整理により従業員は4000人ほどまで減少していました。それでも、残された人々は何か仕事を探して食べていかねばなりません。
分割された各工場にて、残資材や廃棄された航空機を用いて様々なものが作られました。戦後流通したジュラルミンのお弁当箱や鍋もこうしたもののうちの一つです。太田工場ではリヤカー、三鷹工場では占領軍の食器、三島工場ではバリカンなど、日用品の生産まで手を出していることからも、その困窮ぶりが伺えます。

 

思いがけぬ大ヒットで窮地を脱する。〜ラビットスクーター〜

ラビットスクーター
ラビットスクーター

終戦直後、荒廃した富士産業の呑龍工場に1台のスクーターが持ち込まれました。米軍の落下傘部隊が使用していた「パウエル」という製品でした。この1台が、富士産業ひいては後の富士重工の運命を大きく左右することになります。
富士産業は、それまでの航空機開発・製造技術を戦後復興に活かすこと考えていました。当時、公共交通機関は戦災により完全に麻痺していました。しかし、復興の折には必ず人々の移動手段が必要となります。そこで計画されたのが、国産スクーター「ラビット」の開発だったのです。「ラビット」は小型のスクーターで、国内の経済性や道路事情を鑑みて造られていました。「ラビット」のタイヤに爆撃機「銀河」の尾輪を転用していたとも言われていますが、これは太田工場製の試作2号車まで。銀河の尾輪は溝のないタイプだったため、量産車には溝付の新品タイヤが用いられました。
1947年に発売された「ラビット」は爆発的な大ヒットとなり、国民の脚としてその後も改良を加えながら1968年まで生産が続くロングヒットとなりました。

 

日本初のフルモノコックボデーバスの開発〜百瀬晋六の登場〜

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日本初のモノコック構造バス「ふじ号」

1945年秋、交通機関の主役たるバスの状況は惨憺たるものでした。そこで進駐軍からの払下げトラックに架装するバスボデーの設計が小泉工場で始まります。1946年秋には小泉ボディとして独立し、ボデーの製造を開始します。
海兵隊の水陸両用車をバスに改造する場合、船底やスクリューを撤去、素のフレーム状態に戻し、ここにジュラルミンをリベットで組み立てたボディを架装しました。特徴は、ボンネットを持たないキャブオーバー型となっていることで、ボンネット型よりも高いスペース効率を誇っており、好評を博したのです。バスボデー事業は順調に成長し、1955年には売上比の20%を占めるまでになります。

1949年10月、日本初のモノコックボディ・リアエンジンバス「ふじ号」完成。これまでのフレーム構造に対し、タマゴの殻のように外皮全体で強度を分散して負担するモノコック構造を採用していました。構造を単純化できるのでより軽量に仕上げられる一方、高度で複雑な強度計算が必要でしたが、ヒコーキ屋の彼らにはモノコック構造はお手の物。
ふじ号はバス技術の転換点となり、その後主流はリアエンジンへと移行していきます。設計を手掛けた百瀬晋六は1942年1月入社の技師で、この後に「P-1」「360」「1000」を設計することになる人物で、スバルの歴史には決して欠くことのできない存在です。

 

東京製作所を率いた中島良一の戦後。〜プリンス自動車の誕生〜

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By baku13 - photo taken by baku13, CC 表示-継承 3.0
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たま自動車

プーさん。彼は皆からそう呼ばれていました。上下関係よりも自由な議論を重んじた中島飛行機の技師たちは上も下もなく、一丸となって開発に取り組んだのでした。中川良一は、1936年東京帝大工学部機械工学科卒業、同年中島飛行機に入社しています。
有望な若手にどんどんチャンスを与えていった中島飛行機らしく、20代にして「栄20型」以降の設計主任、「誉」設計主任を歴任しています。創業間もない中島飛行機には中々帝大卒業生は来ませんでした。吉田孝雄以降、徐々に入社が増えると、有能な彼らに大まかな設計を任せつつ、経験ある技師たちが組立図面や部品図面を起こす体制が組まれていました。

エンジン開発の中心が東京製作所に移ると、上司の新山春雄と共に杉並区荻窪に移り、そのまま終戦を迎えます。分社化によって誕生した富士精密工業の初代社長は新山であり、中川はエンジン屋として技術陣を牽引していきます。その後、たま自動車と合流してプリンス自動車となると、中川は技術担当役員としてR380などに代表される高性能車、同エンジンの開発を指揮していきます。
プリンスは1966年日産に吸収合併されてしまうのですが、新天地に於いても常務・専務をを歴任、また自動車技術会会長などを通じて日本の自動車技術の発展に貢献しています。

戦後、立川飛行機の技師たちが東京電気自動車という会社を設立し、「たま」というクルマの生産を開始します。社長にはブリヂストンの創業者石橋正二郎が就任。社名も「たま自動車」と変わります。朝鮮戦争が勃発すると、鉛が不足、急遽ガソリンエンジンへの転換を迫られます。
そこで、石橋が声を掛けたのが富士精密工業でした。たま自動車は、富士精密工業製エンジンを搭載した「プリンス」を発売。石橋は両者の合併を画策、ここにプリンス自動車が誕生します。プリンス自動車の技術陣は、富士重工の双子の兄弟であるとともにヒコーキ屋が主力たる自動車メーカーだったのです。

 

双子の兄弟の消滅。〜夢に投資しすぎた企業の敗北〜

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By Mytho88 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4681786
プリンス自動車「R380」

日本の自動車産業の黎明期において、最も早く名声を確立したのがこのプリンス自動車でした。伝説は、やっと産声を上げたモータスポーツの世界でから生まれます。第1回日本グランプリに出場したプリンスはワークス活動禁止の申合せを愚直に守った結果、ものの見事に惨敗。
中川良一は、会長の石橋正二郎に雪辱を固く誓い、1964年の第2回日本グランプリに出場します。日本グランプリに向けて、プリンスが作り上げたのが、エンジンベイを200mm延長して、グロリアの6気筒エンジンを押し込んだ「スカイラインGT」でした。プリンスは、レースに勝つがために急遽100台を生産してまで、ホモロゲーションを取得します。

優勝確実と思われた「スカイラインGT」でしたが、その前に立ちはだかったのが急遽輸入された式場壮吉のポルシェ「904」でした。式場は予選で大クラッシュ!スタートの4分前にグリッドについた式場ですが、圧倒的な性能差を活かしてスタートで一気にトップに。7週目、激しいスライドをさせながら追いすがる生沢徹の「スカイラインGT」が、周回遅れに阻まれた式場をオーバーテイク。生沢はグランドスタンドにトップで通過。この瞬間、グランドスタンドは総立ち。ヨーロッパの一流スポーツカーを抜き去ったスカイラインは、一躍日本の期待の星となったのです。結局、レースは式場の独走優勝。再び敗北を喫します。

プリンス技術陣は、パイプフレーム構造のシャシーに新開発直列6気筒を搭載した、全く新たなレーシングプロトタイプ、「R380」の設計に着手。1965年の日本グランプリは休止となりますが、1966年に開催された第3回日本グランプリでは1-2フィニッシュを飾り、ついに雪辱を果たします。プリンスはモータスポーツ活動によって一躍名声を得たものの、技術偏重の経営姿勢や過剰な設備投資により経営状態は手の施しようがない程悪化していました。プリンスは命運尽きて、日産自動車に吸収合併となり、1966年8月1日その短い歴史を閉じます。

 

小惑星イトカワ。〜日本ロケット開発の父、糸川英夫博士〜

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By 不明 - http://www.rocket..., パブリック・ドメイン
ロケット開発の父、糸川英夫博士

小惑星イトカワ。この名は、日本の宇宙開発の父とされる糸川英夫博士にちなんだものです。この小惑星に着陸探査を行なったのが「はやぶさ」。こちらは、糸川が若かりし頃に中島飛行機で隼の空力設計を行なったことにちなんでいます。
糸川英夫は、1912年東京で生まれました。当時、最難関として知られた東京帝国大学工学部航空学科を卒業。中島飛行機に入社し、九七戦、一式戦隼、二式戦鍾馗などの設計に携わります。1941年、退社。東京帝大第二工学部助教授に就任します。後輩エンジニアの育成に疲れてくると、今度はミサイル開発に夢中になっていくのでした。

そして、終戦。GHQは、航空機に関する研究・開発の一切を禁じましたから、糸川は人生の目的を見失ってしまいます。糸川が次に夢中になったのは音響工学でしたが、心はやはり航空機に置いてきたままでした。
1954年、糸川は東大生産技術研究所内に仲間とAVSA研究班を立ち上げます。太平洋を20分で横断する超音速ロケットを開発するプロジェクトでした。こうしたプロジェクトには、民間企業の強力が欠かせません。あちこち断られた結果、唯一協力を申し出たのが、富士精密工業でした。この後、ペンシルロケットで研究を開始して、一躍宇宙開発の牽引者となっていくのです。

 

Veni Vidi Vici〜ホンダ第一期F1活動を率いた中村良夫。〜

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By Evers, Joost / Anefo / neg. stroken, 1945-1989, 2.24.01.05, item number 921-4526
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中村良夫とジョン・サーティース

ホンダ第一期F-1活動の責任者、中村良夫は1942年9月、東京帝大工学部を繰り上げ卒業後に中島飛行機に入社。超大型重爆「富嶽」や陸軍キ201「火龍」の設計に携わっています。
戦後、日本内燃製造(後の東急くろがね工業)に転じたの後、1958年ホンダに入社。当時、本田宗一郎は四輪事業への参入を目論んでいました。しかし、オートバイメーカーの社内には四輪の経験のある者はおらず、入社後まもなく本田技術研究所の四輪開発の責任者に任じられます。中村良夫は「S500」や「T360」といった市販車の開発を主導する一方、本田宗一郎の命によりF-1参戦の責任者となったのです。

1964年7月のデビュー戦から参戦11戦目。標高2200mの高地にあるエルマノス・ロドリゲス・サーキットで開催される1965年の最終戦メキシコGP。中村良夫は、中島飛行機時代の経験を基に、高地に適応したセッティングを徹底的に研究。これが的中して予選セッションから絶好調。予選3番手につけたリッチー・ギンサーの駆るRA272は、スタートでトップを奪うとそのまま独走。ついに悲願の初優勝を遂げたのでした。
この時、中村良夫は本社へ「Veni Vidi Vici」(来た、見た、勝ったと言う意味のカエサルの戦勝報告)の一文を送信した逸話が今に語り継がれています。

 

二度と航空機を触らなかった男。〜天才設計者小山悌の戦後〜

多摩陸軍飛行場(福生飛行場)にて陸軍航空審査部飛行実験部戦闘隊によりテスト中のキ84増加試作機(第124号機)
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小山悌が設計主務を務めた四式戦闘機「疾風」

日本を代表する航空機設計者と言えば、三菱の堀越二郎、川崎の土井武夫、そして中島飛行機の小山悌の3人が真っ先に挙げられるでしょう。特に、堀越二郎は近年映画化されるほどに、その名を知られています。
小山悌は、中島飛行機を代表する航空機設計者ですが、余り有名とは言えません。それは、堀越と土井が戦前の記録をもとに手記の執筆をしつつ、戦後の航空機設計にも大いに力を発揮しているのと対照的に、小山は二度と航空機に携わらぬままにその生涯を終えているからでしょう。一見、不思議にも思えるその後半生ですが、小山は戦後の日本に一体何を伝えたかったのでしょうか。

小山悌は1922年東北帝国大学に入学。航空機に興味はありませんでしたが、叔父と知久平の強い勧めもあって入社。フランス文学を趣味としていた小山は技術者の通訳をしつつ研鑽を重ね、陸軍機の設計の重鎮として数々の航空機の設計に携わっていきます。
代表作は、四式戦「疾風」。疾風は格闘戦にこだわらず、一撃離脱戦法を念頭に置いて防弾・速度などに着眼した、小山ならではの戦闘機でした。1944年後半から終戦までに約3,500機が生産されたものの、中島製の2,000ps級発動機のハ45(誉)の品質低下に伴うトラブルが頻発。ついに本領発揮は叶いませんでした。それでも、戦後の米軍の評価では最優秀戦闘機と評価されています。

小山は、岩手県の黒沢尻製作所所長となり終戦を迎えます。1952年、公職追放から解除されると岩手富士産業(現:イワフジ産業)の取締役に就任しますが、「日本の国力回復の基は、まず山林の開発であると思ったのです。また、私自身、そうした仕事が好きだったここともあるのでしょうが。」と、本人は林業に専念。小山は、他の多くの航空機技術者たちと違って、航空機開発に携わることを生涯拒み続けました。
小山は戦後、こう語っています。「われわれの設計した飛行機で、亡くなった方もたくさんあることを思うと、いまさらキ27がよかったとかキ84がどうだったと書く気にはなりません。」

 

日本人の夢が再び空を舞う。〜5人のサムライとYS-11〜

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航研木村秀政、三菱堀越二郎、川重土井武夫、川西菊原静男、富士重工太田稔の「5人のサムライ」が携わったYS-11

1950年6月朝鮮戦争が勃発。いわゆる「朝鮮特需」によって、敗戦国日本は長く続いた戦後不況からついに脱却しました。GHQは東西冷戦を念頭に日本占領政策を一変。一転して、その独立と再軍備を急ぐことになります。1951年9月、サンフランシスコ講和条約が締結。日本の再独立によって、悲願である航空機製造や研究も解禁されました。
国内民間航空においては、1951年の日本航空を皮切りに、全日空、東亜国内航空の前身となる航空会社が相次いで発足し、本格的な民間航空の時代が到来します。かつての航空産業の復活を夢見て、国産航空機を求める声が次第に高まるのも無理もないことでした。

戦後の航空産業の復活の第一歩は、朝鮮戦争で使用される米軍機の整備・修理でした。1952年には、再軍備を目的として保安庁が創設、2年後にはいよいよ防衛庁・自衛隊が発足します。
1955年には、川崎航空機と新三菱重工業にて航空自衛隊向けの機体のライセンス生産が決定。いよいよ、日本の航空産業に復活の時が到来します。1956年に政府主導にて国産民間機計画がスタート。先行研究は新明和工業にて始まり、1957年5月には「財団法人輸送機設計研究協会(以下:輸研)」が東京大学内に設立され、本格的に小型旅客輸送機の開発が始まります。

輸研は、政府方針から日本の航空産業の総力が結集されるジョイントベンチャーとして発足しました。 航研の木村秀政を専務理事に、三菱から堀越二郎、川崎重工業から土井武夫、川西航空機から菊原静男、そして富士重工から太田稔が参加しました。伝説の技術者たちの姿を人々は「五人のサムライ」と呼びました。彼らは設計を終えると、後進に後を託し揃って輸研を去ります。
2年後の1962年8月30日、日本国民の期待を一心に受けた「YS-11」は見事に初飛行に成功。商業的には失敗に終わったYS-11ですが、改良を着々と重ねた機体は今でも現役で日本の空を飛び続けています。

 

再び動き出した時計の針。〜国産ジェット練習機「T-1」の初飛行〜

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By Rob Schleiffert from Holland - T-1B Ashiya, CC 表示-継承 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=44759765
航空自衛隊中等ジェット練習機「T-1」

1952年、保安庁(後の自衛隊)が初等練習機50機の導入を決定。うち30機をライセンス生産にて国内調達する決定がなされます。悲願の航空産業への再参入へ向けて、富士工業、富士自動車工業、大宮富士工業、東京富士産業、宇都宮製作所の宇都宮車輛の5社は、1953年7月15日、航空機生産を事業目的とした新会社「富士重工業株式会社」を設立。9月、新会社を含めた6社が合併契約書に調印。1955年4月1日、富士重工業が5社を吸収合併して正式に発足します。
1953年、富士重工の提案する米国ビーチ・エアクラフト社の「T-34A」の採用が決定。航空機メーカーとして再びその道を歩み始めます。

日本の航空産業がYS-11の開発へ向けて動き始めるより少し前の1955年8月23日、防衛庁が中等練習機の国内開発を決定して、仕様案を提出しました。1956年3月までに公募に応じたのは、次の3つの計画案でした。川崎航空機の「T1K1」、新明和工業の「T1S1」、そして富士重工の「T1F1」。
富士重工の「T1F1」は、機種にエアインテークを配した機体に、後退翼を採用する意欲的な設計であり、高い機動性が期待されたために、7月11日防衛庁は富士重工案の「T1F1」の採用を決定します。それから18ヶ月。初代社長北賢治の「社運を賭して完成させる」との決意表明を受けて、中島飛行機の技師であった内藤子生(やすお)を設計主任として、有能な技術者を総動員して全力が開発に取り組みました。1957年11月、「T-1A」の初号機が多くの関係者に見守られる中、無事にロールアウト。翌1958年1月19日午前11時、滑走を開始した「T-1A」はわずか300mで離陸。美しい銀翼を輝かせながら、一直線に空に舞い上がります。「T-1A」の初飛行は大成功でした。

この「T-1」には、中島飛行機の名残が随所に強く感じられます。主翼の翼型の設計は艦上偵察機「彩雲」のそれを範としており、胴体は「橘花」の面影が感じられるおむすび型が採用されていました。そして、この「T-1」の初飛行を行なったのは、「橘花」の初飛行パイロットでもあった高岡迪でした。
1945年8月7日の最初で最後の初飛行から13年。中島飛行機の人々は、あらゆる危機に晒されながらも再びここに立ち上がり、あの時諦めた国産ジェット機の夢をここに結実させたのです。この「T-1A」、それから実に半世紀に渡ってその任にあたり、最終飛行は2006年3月3日のことでした。

 

スバルのはじまり〜ヒコーキ屋のクルマづくり〜

スバルDNAのすべてはひとりの男の技術哲学だった〜天才技術者百瀬晋六の登場〜

M45「プレアデス星団」和名すばる
M45「プレアデス星団」和名すばる

スバル「360」、革新的なこの乗用車の開発を主導し、その後のスバル車の開発に大きな影響を与えた人物。それが、百瀬晋六です。百瀬晋六は、大正8年2月長野県塩尻市の造り酒屋の次男として生まれました。旧制松本高等学校を経て昭和14年帝国大学航空工学科へ入学、原動機を専攻します。
中島飛行機への入社は昭和17年。直後に海軍に転籍し、海軍航空技術廠に勤務。2年後に中島飛行機に復帰した百瀬を待っていた仕事は、海軍偵察機「彩雲」への排気タービンの搭載でした。結局、試験飛行を実施したのみでこの仕事は完成を見ぬまま終戦を迎えます。
戦後、1000名を数えた小泉製作所設計部員は散り散りに去ってゆき、残された10数名に与えられた仕事はGHQに接収される機材・資材の目録づくりでした。

昭和20年秋。百瀬は伊勢崎でバスボデーの設計を開始。厚い鋼板を加工する資材も機材も無く、仕方なく航空機用ジュラルミンの薄板を活用します。ジュラルミンを丁寧に板金加工してリベットで接合した、百瀬のバスボデーは見た目もよく、評判も上々。昭和21年には中古シャシーにジュラルミン製キャブオーバーボデーを架装した1号車が完成。早急な更新が望まれていたボディ事業は順調に成長し、国内市場のシェアも伸びていきます。
昭和24年には、百瀬はフレームレスのモノコック構造リヤエンジンバス「ふじ号」を開発。しかし、ボスボデー事業は戦後数年間は復興需要があるものの、その後は頭打ちとの予測。昭和26年、専務の松林敏夫は百瀬をに乗用車産業の研究を命じます。いよいよ、乗用車事業進出に向けて第一歩を踏み出すことになるのです。

 

富士重工に当面の安泰をもたらす。〜ラビットスクーターの成功〜

ラビットスクーター
ラビットスクーター

終戦直後、呑龍(以後、太田)工場に米軍のスクーターが持ち込まれます。このスクーターを参考にして開発したのが「ラビット」でした。エンジンは三鷹、シャシーは太田で開発・生産。
個人用の移動手段はもっぱら人力に頼っていたこの時代、手軽に高速で移動できるスクーターは爆発的人気を博しました。このラビットの成功によって、富士産業は当面の安泰を得たのでした。ラビットの生産は、昭和43年まで継続。このラビットが、後に「360」に大きな影響を与えることになります。
この時代に製造していたのは、実はスクーターだけではなかったのです。その名は「ハリケーン」。もし「360」が失敗に終わっていたら、バイク生産を継続する川崎重工とよく似た企業になっていたのでしょう。

 

エンドレスの人。〜上下の無い徹底した議論をせよ〜

初期のスバルの車両開発を牽引した百瀬晋六
初期のスバルの車両開発を牽引した百瀬晋六

本来業務のバスボデーを優先する百瀬に、痺れを切らした松林は組織改革を断行。百瀬を課長とし、小型乗用車の設計を担う第2設計課を新設。さらに、富士精密工業(後のプリンス自動車)のエンジンを架装する小型乗用車の開発が決定。プロジェクトは本格始動を迎えます。
百瀬は世界一級の自動車を目指しました。当時の国産車のデキは酷いもので、長距離走ると背中がすりむけることもありました。しかし、欧米車はクッションが効いていて快適そのもの。百瀬は、国産車はこんなものと諦めたくなかったのです。航空機開発では常に世界を凌駕する機体を目指します。 作るからには、最高のものを。そんな技術者としての百瀬のイデオロギーは、今もスバルに連綿と受け継がれています。

当時、専門的な文献はおろか、まともな資料さえありません。困った百瀬らは、GHQが設置した日比谷のCIE図書館に出掛けました。ここには乗用車関係の資料や文献が揃っていたのです。といっても、工学書よりもマニア向けの資料が中心。当時はこれでも貴重な情報でしたが、ここの本は持出し厳禁。仕方なく、会社に急遽10万円の予算を組んでもらい、写真屋さんに撮影を依頼しました。こうして集めた紙焼きの資料は高さ30cmまで積み上がりました。
資料を読み漁っていくと、今度は実車の見分をしたいところ。そこで赤坂界隈の外車ディーラーを見て回りました。夢中になってアチコチ勝手にいじくり回すことに腹を立て、怒鳴られて逃げ出すこともあったようです。何とか手に入れたクルマは、徹底的にバラしては細かく分析を行いました。

百瀬は言います。「とにかく徹底的に考えろと。理詰めで、考えて考えて考え抜け。そして、ひとたび行動を起こしたら自分の信念でつらぬけ。」設計陣にはこの考えが徹底されたのです。その代わり、議論は自由でした。
それでも、考えに詰まることは数多く有りました。すると、百瀬は同窓の研究者を頼りました。この時代、大学研究室の方が企業より先行していたのです。後に弟子たちが作った「百瀬語録」にも、「専門家の意見を聞け」という言葉が残されています。人呼んで「エンドレスの人」。「1日の仕事に終りのない人。酒を飲んでも終りのない人。タバコを吸っても終りのない人。思考力に終りのない人。」百瀬のカリスマ性は、次第に周囲を巻き込んで大きなエネルギーを生み出していくのです。

 

P-1計画始動。遂に、自動車産業へ本格進出。〜産声を上げたP-1計画〜

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P-1の保存車両

小型乗用車プロジェクトは「P-1」と称され、急速に具体化していきます。富士精密が持ち込む「FG4A」は1500ccから48馬力を発揮。石橋正二郎の戦前製のプジョー「202」を参考にしたものでしたが、性能は安定していました。車体は当時のクラウンに匹敵する小型車規格一杯のサイズという本格的な乗用セダンでした。
何よりも軽量化を重要視していた百瀬は、ボディにフルモノコック構造を採用。フレームがないため車体は軽量に仕上がりますが、設計は煩雑さを極め、高度な計算が求められました。敢えて困難に直面していくのも百瀬のスタイルでした。
前輪はリジット方式ではなく、先進的な独立懸架方式を採用。これに対し、リヤには安定性を考慮してコンベンショナルなリジットとしました。駆動方式もコンベンショナルなFRに決定しました。

概念設計が完了すると、次は詳細設計に移行していきます。ここでも百瀬は徹底していました。図面に徹底的にこだわったのです。1枚1枚の図面にたっぷり時間を掛けて議論を重ね、いい加減な図面は決して許しませんでした。図面の段階で完成度が低いと、後で苦労することを知っていたのです。これは、戦時中の経験から得たものでした。技術士官による厳しい設計審査が不合格ならば、全てが徒労に終わることもあったので、技術者たちは寝食を惜しんで図面に向き合いました。百瀬はそんな厳しさを求めたのです。
サスペンションジオメトリには特にこだわりました。設計変更があると、すぐにキャンバー変化、トー変化の図面を起こすことが命じられます。少しでもジオメトリが好ましくなければ、徹底的に書き直しが命じられました。

ひとつ問題ありました。走行試験が始めるには、全設計を終えねばなりません。議論を尽くして設計してはいるものの、走行してみないことには設計通りの性能を発揮するか分かりません。特に足廻りは、いち早く走行試験を開始したいところでした。そこで造られたのが、台車と呼ぶローリングシャシーでした。10万円を掛けて造られたこのクルマにはドアもなく、屋根の代わりに幌が張られた簡素なものでした。これに仮ナンバーを付けて、延々公道試験を繰り返しました。
走行試験は10月に開始。寒さが堪える季節になる中、開発ドライバーは徹底的に試験を繰り返していったのでした。一般に、初めて乗用車を手がけた時、手探りで試行錯誤を繰り返すように想像します。しかし、彼らはそうでは無かったのです。理詰めで、徹底的に考え抜いて作り上げていったのです。

 

富士精密のエンジン供給拒否。メインバンクからの通告。〜突如終焉を迎えるP-1計画〜

試作のみに終わった「P-1」のちのスバル1500
試作のみに終わった「P-1」のちのスバル1500

プロジェクト開始から3年、念願の試作車が完成。正統派セダンのデザインが与えられたP-1は技術陣の苦心の結果、車重1200kgで仕上がりました。トランクリッドには「すばる」のロゴがありました。
P-1を見た松林は、この試作1号車でいきなり成田詣に行こうと言い出します。200kmにも及ぶ役員同乗の走行試験でした。翌日の朝、リヤシートにゆったり腰掛ける松林に対して、百瀬の心中は如何ばかりだったでしょう。いざ走りだすと、未舗装路ではサスペンションがガシガシと音を立て、車体の様々な所からは何やら色々な音がします。気が気ではありませんでしたが、何かあったらその時はその時。そう覚悟を決めていました。
P-1はそんな3人を尻目に、万事快調に走ります。案ずるより産むが易し。P-1は、無事に成田山に辿り着いたのでした。

P-1プロジェクトは、成功を収めつつありました。しかし、このプロジェクトは突如終焉を迎えるのです。突如、富士精密からのエンジン供給が不可能となります。急遽、代替エンジンを大宮富士工業から調達。その場をしのぐしかありませんでした。結果、完成済みの11台にはFG4Aを搭載、残りの9台は大宮製のL4型搭載で完成しました。
次いで、メインバンクが融資を拒否。P-1プロジェクトは敢え無く中止となります。問題はいくつかありました。販売網が不十分でしたし、生産設備に対する莫大な設備投資も必要でした。そもそも100万円もする乗用車を購入できる日本人がいません。その後、プリンス自動車が業績不振に陥った考えれば、P-1計画中止の判断は正解だったと言えるでしょう。

P-1のうち、14台がナンバーを取得。8台が各工場の社用車となり、残り6台は太田市等でタクシーとして実用に供されました。「スバル1500」と名付けられたP-1は実によく走り、4号車の走行距離は40万キロに達しました。幻に終わったP-1計画ですが、百瀬は乗用車開発に自信を深めていました。後に百瀬はこう言っています。「飛行機、バスとやってきて、P-1で自動車屋になった。」スバルの原点はP-1にあるのです。

 

大人4人乗車の軽乗用車を開発せよ。〜K-10計画の始動〜

大人4人乗車を実現したスバル「360」
大人4人乗車を実現したスバル「360」

1955年12月9日、伊勢崎製作所で「軽四輪車計画懇談会」が開催されます。冒頭、正式にP-1プロジェクトの中止が決定。この席上、同時に次なるプロジェクト「K-10」計画が正式承認されます。会議上ではP-1よりも小型の乗用車案も出ましたが、すでに軽乗用車開発が既定路線でした。

K-10計画、これこそが後のスバル「360」でした。ここから、2年3ヶ月。その歳月は、P-1とは比較にならぬほど厳しい毎日の連続でした。1日19時間勤務。新婚の嫁を泣かす者もありました。しかし、このたった2年3ヶ月で完成した奇想天外な1台の軽自動車が、この日本の自動車産業に一大革命を巻き起こすことになるのです。百瀬はK-10計画に対して詳細な技術的提案を行なっています。それは次のようなものでした。
型式:軽の枠内 2扉
積載:大人4人(大人2人、小人2人および荷物60kg)
性能:最高速度80km/h
登坂能力30%
加速度Topにて0.606m/s2
エンジン:重量55kg 出力15馬力 最大トルク3.3kgf
重量:340kg
価格:最終販売価格35万円以下

 

百瀬の脳内で形作られていくK-10〜K-10計画の初期構想〜

大人4人乗車の軽乗用車
大人4人乗車の軽乗用車

百瀬は新たな軽乗用車計画について、大人4人の乗車を前提としました。当時、4人乗車という設計要件はまったくの無謀でした。アイデアを試そうと、いくつか自動車工学の大家をめぐってみたものの、絶対不可能との烙印を押される有様。しかし、百瀬は他の軽乗用車にいくつかの弱点を見出していましたし、それを実現する考えもまとまりつつありました。
百瀬は、理想の軽乗用車をイメージしてラフスケッチを繰り返しました。3mという限られた全長では、ホイールベースが絶対的に不足します。これでは、4人の大人が快適に乗車するのは不可能です。そこで百瀬は、タイヤを10インチまで小径化することを思いつきます。こうすると、ホイールベースが伸びたのと同じ効果が得られるのです。さらに、ペダルをフロント車軸位置まで前進させてみました。すると、運転席が大きく前進。これで後席足元に余裕が生まれました。しかし、これではフロントにエンジンはおけません。余ったスペースは、リヤシート後方のみ。この狭いスペースにドライブトレーンをすべて押し込める他ありません。こうして、リヤエンジン・リヤドライブ方式の採用が決定したのです。これは偶然にも、VW「ビートル」と同じものでした。機械本意でなく、人間本位でパッケージングを決めていく。百瀬のこの設計手法は、今もカタチを変えつつ「0次安全」という言葉で継承されています。

 

ホビーでしか無かった軽乗用車。〜数々の失敗の連続〜

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住江製作所「フライングフェザー号」

1954年に道路運送車両法が改正。全長3mx全幅1.3mx全高2mと車両規定は変わらないものの、2サイクルも同じ360ccへ拡大されました。これで軽乗用車に可能性が広がりました。
1952年には日本初の軽自動車「オートサンダル号」が発売。次の発売は「フライングフェザー号」ですが、1955年に48台を製造したのみ。3番目の登場はスズキが作った「スズライト」。1955年に発表したものの生産開始は1960年。お値段45万円。1955年の公務員初任給が9,000円でしたから、とても一般市民が購入できるものではありません。そのうえ、2人乗りが精一杯で実用には程遠いものばかり。
この他数々の軽自動車が現れましたが本格的な普及にはまだまだ。1957年の軽乗用車の販売台数は100台にさえ届いていませんでした。

GHQは、1950年の朝鮮戦争の勃発で占領政策の早期終結を迫られていました。それには日本の経済的自立のための輸出拡大は当然ながら、内需拡大が不可欠でした。自動車産業は単に製造メーカーだけでなく、原材料から物流、販売・整備に至るまで多種多様な経済効果を生み出します。そこで考えられたのが、国民車構想でした。
大人2人+小人2人の乗車とし、最高時速100km/h、排気量は350~500cc、車両重量は400kg以下、価格は25万円以下を目指すというものです。国民車構想は通商産業省の独断専行でしたし、技術的困難から大きな支持は得られませんでした。しかし、トヨタはのちの「パブリカ」となるA1型計画を発表。次いで小松製作所はポルシェ博士に開発を依頼して国民車の開発を目指すことを発表していました。

 

パッケージングでの鋭い対立。〜三鷹はFF、伊勢崎はRRを提案。〜

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By PLawrence99cx - 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン
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百瀬らが参考にしたシトロエン「2CV」

伊勢崎で車体開発を主導する百瀬に対し、三鷹工場側でエンジン開発を主導したのが菊池庄司でした。菊池は東京帝大出身で元海軍技術中尉で、戦時中は零戦発動機不具合対策のため、激戦地ラバウルへ派遣。連日の猛爆撃で次々に仲間が散華していく中、自らも死線をさまうのですが、何とかトラック島への脱出に成功。この経験が、菊池の人生観に大きな影響を与えていました。
戦後、紡績工場で工場長を務めてた菊池は、1953年に富士工業へ入社。入社後は三鷹でラビット用エンジンの2スト化に従事していました。

1956年1月14日、三鷹製作所でK-10の技術的な仕様決定を行う重要な会議が開催されました。この会議の冒頭、百瀬は先の本社会議で提案した内容を改めて三鷹側に説明しました。
菊池はK-10計画に際し、構造が簡便な空冷2サイクルエンジンを提案します。莫大な設備投資を避けるために、ラビット用エンジンの生産設備を活用を考えていたのです。エンジンは横置きを提案。回転方向を90度変換するベベルギアの生産設備が異常に高価だったためです。限られた設備で出来うる限りのエンジンを作り上げる覚悟でした。性能目標は、最高出力15馬力、最大トルク3.0kgf・m、ユニット重量55kgに設定されました。百瀬の提案する車体であれば、重量想定350kgで最高速度80km/h達成可能との見解を菊池が示します。

会議も中盤に差し掛かった頃、駆動方式を巡って二人は真っ向から対立します。菊池はパッケージングと運動性能の良さからFF方式を主張。これに対し、百瀬は等速ジョイントの技術的困難とパッケージングの双方を鑑みて、RR方式を主張したのです。
議論はまったく収拾がつかず、会議は10時間を過ぎても伯仲するばかり。そこで、議長権限で百瀬に一任することで決着。駆動方式はRRとされました。
会議終了後、伊勢崎に帰る百瀬らに三鷹が比較検討様に購入していたシトロエン「2CV」が引き渡されました。帰る道すがらも議論に熱中したおかげでヒータをかけ忘れていましたから、辿り着く頃には体はガタガタ震える有様。室田は、急いで寮の風呂に飛び込みます。しかし、悲しいことに風呂はすっかりぬるま湯。ガタガタ震える室田は、暫く風呂から出られませんでした。

 

目標重量あっての目標性能〜1g単位での軽量化に取り組んだK-10の設計〜

極限まで軽量化を徹底考慮したインテリア
極限まで軽量化を徹底考慮したインテリア

K-10計画は、ついに本格的なスタートを切ります。日夜、小口と室田を相手に議論を積み重ねていった百瀬は、コンセプトをどんどん煮詰めていきました。
使用目的は次のように定められました。「オーナードライブ、近距離走行向き、スポーツより実用本位、通勤・業務・荷物の運搬に適すること。」以上を満たす軽乗用車の開発。それは誰も見たことのない夢のクルマの開発でもありました。
百瀬が採用を決めた10インチタイヤ。実は、まったく世の中に存在しないものでした。開発を依頼したブリヂストンは、10インチタイヤの開発を快諾。百瀬はさらに4プライの強度を持つ、2プライの開発を提案します。目標重量の達成には、タイヤの軽量化は重要事項でした。

伊勢崎では比較検討用に西ドイツ製のロイトとイセッタを入手。ロイトは396cc空冷2サイクルエンジンを搭載したFF軽セダンでした。驚いたのはその重量。何と500kg。徹底的な重量の再検討が始まります。重量超過が事実ならプロジェクト存亡に関わる一大事。百瀬を中心に徹底的に再検討され技術仕様が決定していきます。
ボディはフルモノコック構造。フロアは0.8mm鋼板とするものの、それ以外は努めて0.6mmを使用。軽合金や非金属材を積極的に採用。サスペンションは4輪独立懸架とし、フロント:トレーリングアーム方式、リヤ:スイングアクスル方式とし、フリクションダンパーを採用。
性能を確保するための軽量化が、何よりも至上命題でした。技術者たちには1gを削るための長い長い闘いが待っていたのです。

 

堅実なエンジン開発。〜シンプルな空冷2サイクルを採用〜

EK-31強制空冷2サイクル2気筒エンジン
EK-31強制空冷2サイクル2気筒エンジン

菊池を中心とした三鷹側でも、具体的に基本構想を固めていきました。
エンジンは、出力が大きい割に部品点数が少なく軽量シンプルなうえに、排気音も小さい空冷2サイクルを採用。振動面を考慮して、シリンダー配列は2気筒としました。吸排気方式はピストンバルブ方式で、クランクは生産性を考慮して組立式としました。オイルは、混合潤滑式。燃料タンクはポンプが不要でシンプルな重力式。
トランスミッションは、デフケース一体式の前進3段、後進1段としました。懸念されたのはユニバーサルジョイント。トレッド小さいためにドライブシャフトの有効長が短く、キャンバー変化が大きくなります。結果、ユニバーサルジョイントの負担が増えてしまうのです。これについては、先行試験の実施を要請することになりました。

三鷹では、ロイト用エンジンを360ccにスケールダウンして14馬力を得る研究を開始。出力は10馬力に低下しますが、粘り強く改良を加えていきながら、チューニングデータを体系的に蓄積していくと16馬力に到達。このエンジンはロイトに搭載されて走行試験が実施されました。
試作1号機は1956年初夏に完成。部品の多くがアルミ製という前衛的な設計となっていました。セッティングを完了すると、耐久ベンチテストを開始。ピストン、シリンダー、給排気系を中心に改良を加えていくと、15馬力に到達。1957年1月、ついに第一次試作エンジン TB-50型(後のEK-31) が完成。3月までに8機の試作エンジンが完成し、このうち1機が伊勢崎に送られて台車による走行試験が開始されます。

 

スペースを作り出せ。〜トーションバーの採用〜

トーションバーを採用
トーションバーを採用

綿密な強度計算の結果、フロントトランクフードとリヤのエンジンフードにはアルミが、ルーフにはFRPの採用が決定します。富士重工の技術陣は目標達成のために貪欲に新技術を取り込んでいったのです。ガラスも軽量化の検討対象とされました。そこで、リアウィンドウのアクリル化のアイデアが出されます。これは運輸省のお墨付きを頂いたうえでの採用となりました。試作品は何と7,000円。のちの量産効果に期待することになりました。
K-10は車両車重が軽いため、乗車人数による重量変化が問題でした。そこで、油圧車高調整装置の採用することになりました。サスペンションのスプリングにはスペース効率に優れたトーションバーを採用。特殊な形状のため試作品は何と1本1万円。これも量産効果に期待することになりました。

 

初期のスバルデザインを担った佐々木達三〜百瀬と佐々木の固い結束〜

徹底的に考え抜かれた、佐々木達三によるスバル「360」のデザイン
徹底的に考え抜かれた、佐々木達三によるスバル「360」のデザイン

佐々木達三に、K-10計画のデザイン依頼があったのは1956年5月のこと。佐々木は、三菱で客船や貨物船、軍艦の内装などを手掛けていた工業デザイナーでした。居住空間から実用部分まで手掛けたこの経験が佐々木を工業デザイナーとして鍛え上げていきました。戦後、西鉄バスのデザイン業務を通じて富士重工と接点を持っていた佐々木は、依頼を受けてさっそく東京の本社へ出向きます。この佐々木を迎えたのが、百瀬でした。
佐々木はデザインを引き受けるにあたって、スケッチや図面でなく、実物大モデルでの検討を希望する旨を伝えます。百瀬はこの意見に強く同意、すぐに佐々木にデザインを一任することを即決したのでした。さっそく佐々木は、百瀬にデザイン検討用の1/5モデル製作を依頼します。

6月、1/5モデル製作完了の連絡を受けた佐々木は、伊勢崎にいる百瀬を尋ねます。木型モデルの木の部分は必要不可欠なサイズを示しており、その表面に打たれた釘が、デザインの自由が効く「外皮」を示していました。
旅館に戻った佐々木を、百瀬が訪ねます。百瀬と佐々木は風呂でのんびりと湯船に浸かりながら、存分に語り合いました。その中で、百瀬が佐々木に出した注文は「飽きがこない、無駄のない、ユニークなデザイン」というもの。百瀬がモノコックボディを卵の殻に例えて丁寧に説明したことが、大きなヒントになります。
イメージを掴んで東京の自宅に帰った佐々木は、一気に1/5モデルを仕上げます。1/5モデルを持って伊勢崎を訪ねたのが、6月20日。1/5モデルを見た百瀬は、K-10のデザインを即決したのでした。

 

いよいよ始まる実走行実験〜走行用台車での先行試験開始〜

軽量で丈夫なモノコックボディー
軽量で丈夫なモノコックボディー

0.6mm鋼板は単体ではペラペラ。しかし、これを3次元曲面に加工してモナカのように貼り合わせていくと強度が生まれます。卵の殻とまったく同じ原理です。 佐々木の1/5モデルはボディ全体が柔らかな曲面で構成されており、外板で強度を得ようとしたものでした。
室田にとって薄い鋼板でのボディ設計は難しい仕事でしたが、強度にメリハリを付けていけば実現可能との結論を得ていました。ボディ外板は0.6mmの薄板で曲面を構成しつつ、床面中央を凸型加工してバックボーンフレームとしました。ここに1.6mmの厚い鋼板を用いて、ボディ全体をガッチリ支えるようにしました。強度を要する部分を優先的に強化することは、却って全体の軽量化に繋がります。バックボーンフレームのトンネル部分はシフトワイヤ、サイドブレーキワイヤの通路として活用されました。

K-10でも台車での足廻りの先行試験が実施されました。スペースフレームで構成されており、乗員はいつもホコリまみれ。冬はガタガタ震える程の寒さが、身に堪えたました。
いざ走行試験を開始していみると、走りは実に軽快。公道試験中には他者を軽々と追い抜くほどでした。非常に細いトーションバーは意外にも有効に機能しました。しかし、万事順調という訳にはいきません。
ブレーキの前後バランスは複雑で、ともするとリヤタイヤが簡単にロックしてしまいます。ロールオーバーの危険がありましたので、試験を繰り返して、バランスを見つけ出す必要がありました。走行試験の進捗とともに現れてきた、次第に疲労や劣化による不具合については、原因を検討しては迅速に設計変更を繰り返していきました。

当初の設計案にあった油圧車高調整装置は、結局破棄されました。油圧シリンダの精度が不足していて動きが悪く、乗り心地を確保するにはトーションバーをさらに柔らかくする必要がありました。しかしこれ以上柔らかくするのは強度上不可能。代わりに採用されたのが、センタースプリングでした。これによって乗り心地を確保しつつ、ロール剛性の確保が可能となりました。この乗り心地は「スバルクッション」と呼ばれて、のちに好評を博すことになります。
最低地上高は少し大きめの180mmに設定。これは、フル荷重の状態で未舗装路を走行しても、底づきしないためでした。すべての試験項目が完了した段階で、台車の走行距離は4000kmに到達。先行試験は順調に終了したものの、騒音と振動の課題が残っていました。

 

子供向け工作用粘土で作っちゃった1/5モデル〜敢え無くヒビ割れ〜

非常にシンプルな増加試作車のインテリア
非常にシンプルな増加試作車のインテリア

佐々木は1/5モデルを百瀬に引き渡すと、視察旅行に渡米。生産技術部の技術者達は、1/5モデルを元に実寸大油粘土モデルの製作に取り組みます。場所は伊勢崎第一工場の片隅にある倉庫で、トタン屋根の古い建物。冬は底冷えが酷く、梅雨には湿気に悩まされました。夏は蒸し風呂のような暑さの中、汗だくで作業にありました。土の上に厚い鉄板を敷き、その上で作業を行ないました。
百瀬は、毎日のように訪れては、細かい指示を出していきました。9月に入ると、佐々木が伊勢崎にやってきました。佐々木は1/1モデルを見た瞬間、しまったと思いました。粘土モデルがヒビだらけ。何も知らない技術者は、子供向け工作用の粘土を使っていたのです。ここから3ヶ月、佐々木は伊勢崎の旅館に泊まりこみでデザインの煮詰めを行なっていきます。

百瀬は佐々木に対して、サイドウィンドウを縮小とルーフライン後部に丸みを持たせること、以上2点を追加で要望します。百瀬は夕方に佐々木の元を訪れては、ディスカッションを重ねていきました。時には、百瀬がひとりでモデルを修正していくこともあり、佐々木は変更箇所に吟味を加えていきました。次第に、ふたりの間には強い信頼関係が構築されていきます。
特に時間を掛けたのが、キャラクターラインとフロントフェンダーでした。吟味を重ねて全体のシェイプが完成すると、今度はライト、エアインテーク、ナンバー位置、ドアノブ、ヒンジなど、詳細部分もデザインを詰めていきました。その後は、生産技術者を呼んで、量産に際した検討が行われていきました。ラビット用のプレス機の流用が前提でしたから、パネル1枚ずつ慎重に検討が行われていきました。

百瀬は、試作車製造用の石膏モデルについて美術職人の指導のもと製作することになりました。10月、石膏モデルの製作がスタート。粘土の表面を丁寧に磨き上げ、ここに石膏を流してメス型が造られました。これを分割して取り外し、そのメス型の内側に再び石膏を流して、2台のオス型が造られました。1つはボディ製作用、もう1つはデザインおよび艤装部品製作用に使用されました。
残ったメス型は構造設計とインテリアデザインに活用されました。メス型の内部にはボンネットの下から入ります。窮屈なメス型の内部に長身の室田が潜り込み、強度計算に基づいて油粘土を盛っていくと、佐々木が造形を整えていきます。パッケージング検討は、百瀬と室田が腰掛けて実施。こうして完成した実物大モデル。これを測定して1枚ずつ慎重に図面を起こしていきました。

 

軽量化のため粘土モデルで検討〜1g単位での徹底的な軽量化〜

最後に百瀬自身が線を引いたリヤシート
最後に百瀬自身が線を引いたリヤシート

目標重量は350kg。徹底的な重量管理のため、複雑な構造の部品は必ず油粘土モデルを作るよう命じられました。粘土モデルを作ると、その度ごとに上司から厳しいチェックが入るのです。ここを削れ、ここの強度を上げろと、指摘を受けるたびに少しづつ修正しては、削ったカスを計測します。こうして、1gずつ丹念にそぎ落としていきました。しかし、それでも目標達成は困難。そこで、必要なものも工夫によって省略していきました。
インパネには速度計だけを残して、あとは省略。つまり、燃料計がありません。燃料タンクには2段階にコックが設けてあり、1段目が空になると、2段目を開放せねばなりません。それを給油の合図としたのです。
また、バッテリは12Vが初採用となりました。このバッテリの開発は、新進気鋭の松下電工で行うことになりました。

1957年に入り、第一次試作車の製作が開始。試作車ですから、当然全てのパネルは手叩きの鈑金加工。この鈑金加工技術は、中島飛行機時代に航空機生産を通して培われたものでした。そんな高い技術を有する熟練技術者たちが、もっとも難儀したのは、三次曲面で構成されたフロントフェンダー。複雑に回りこむ曲面を0.6mmの鋼板で作り上げるのは至難の業でした。少し間違うと、簡単に穴が空いてしまいました。フロントとリヤのフードはアルミ製でしたから、さらに困難を極めました。
技術者達は寸分違わずモックアップから試作車を作り上げていきましたが、本当の課題はこれと寸分違わぬ車両を量産すること。困難と苦労を重ねつつも、1号車は次第にカタチになっていきます。最後に残ったフロントシートは、百瀬自らの設計となりました。

 

試作1号車の完成式典と増加試作車の生産〜本格的な走行試験の開始〜

完成した増加試作車
完成した増加試作車
完成した増加試作車

1957年4月20日、開発に着手してから15ヶ月。ついに、試作1号車完成。ささやかな完成式典が伊勢崎工場内で行われました。佐々木が行なった最後の仕事が、エンブレム制作でした。車名については、初代社長北謙治が遺した「スバル1500」を踏まえ「スバル360」とすることが決まりました。神主によるお祓いが終わると「360」は工場の中を走り出しました。
やっと形になった「360」ですが、本当の苦難はここから始まるのでした。試作車は5台制作されました。1号車と4号車は耐久試験、2号車は性能試験、3号車はエンジン試験、5号車は強度剛性試験に使用されました。百瀬は、とにかく耐久試験を重要視していました。徹底的に走りこんで不具合を洗い出し、ひとつ一つ丹念に潰していく覚悟だったのです。

耐久試験は1日800km、8時間3交代で行われました。耐久試験は1台当たり50,000kmに達するまで継続されました。当初、トラブルはエンジンに集中しました。組立式クランクのボルト脱落、オルタネータ不良、スタータ不良、クラッチ摩耗、点火時期異常、エアクリーナが詰まる、オーバーヒートなど、その度毎に「360」は伴走車のP-1に牽引されて伊勢崎に帰ってきました。伊勢崎に常駐した三鷹の技術者は、毎日のように続くトラブルとその対策で電話のベルが鳴ると自然に身がすくむ程追い込まれていました。
最も深刻だったのはカーボンの蓄積でした。2,000km程度で排気ポートがカーボンで塞がれてしまうのです。ポート形状を変更しても効果は薄く、シリンダー温度とカーボン付着の相関関係を明らかにしようとしても、根本的な対策にはならなりません。ついに、開発責任者である菊池は進退を覚悟します。オイルメーカーの勧めで添加剤を導入すると、カーボンの蓄積は極端に少なくなり、7,000km程度なら問題なく走れるようになったのです。

 

乗用に耐えうるように。〜振動・騒音対策のスタート〜

ユニークな横H式のシフトパターン
ユニークな横H式のシフトパターン

当面のトラブルが解消すると、振動・騒音対策がスタートします。シリンダー内の摩擦音、駆動系のノイズなどは、各部品の工作精度を引き上げることで対処。クランクシャフトの二次振動は実験を繰り返すことで理論的に解決を見ました。車体側の対策も困難を極め、休む間もありません。
特に難題だったのは、エンジンマウントでした。高度な計算手法を採用して理論的に解決を図ったものを、位置と硬さを変化させてデータ取りを行なっていくと、振動は改善したが、今度はこもり音が出ます。メンバーの追加は軽量化に逆行するので用意に許可されません。最終的には1本メンバーを追加しつつ、マウントゴムを柔らかくしつつ、ストッパーを設けて解決を図りました。騒音に対してビードの追加と軽量な防音材の採用で対策を行なっていきました。

ボディは非常に優秀でした。しかし、トレーリングアームの強度不足は深刻でした。この段階でのトレーリングアームの設計変更はすでに不可能。そこで素材をクロモリ鋼に変更して解決を図りました。リヤのスイングアクスルに生じるクラックに対しては溶接技術の変更で対応しました。
駆動系では、シフトロッドの共振でギア抜けが問題となりました。これは試験を繰り返して、解決を図ることになりました。クラッチのジャダーも問題でした。発進時にエンジンが激しく振動するのです。原因はクラッチケーブルと判明。取り回しの変更とたるみの調整を行うことで解決しました。ギアシフトは、軽量化のためにシンプルなリンケージを採用したお陰で、横H式のユニークなパターンになってしまいました。

 

公道で行われた走行試験〜道路封鎖して最高速度試験〜

タイヤは完全な新設計でしたから、パンクするたびにチューブを修理し、得られたデータをブリヂストンに送って、タイヤとチューブの信頼性を高めていきました。性能試験は、利根川沿いの旧中島飛行機の飛行場跡地で実施されました。
ブレーキ試験は平坦な直線路を選んで実施。ここでも、前後のブレーキバランスは大きな問題となりました。担当技術者は製図板上でモデルカーのブレーキ実験を繰り返し行い、理解に努めました。加速・高速試験は、明け方に警察の許可をとった上で公道で実施。公道上のすべての交差点に監視員を配して、安全を期しての実施でした。ギアレシオは特に入念に検討が行われました。軽乗用車ですから、日常ユースの低速域を中心に据えた結果、最高速は80km/hほどに設定されました。

 

飛行機研究所を設立〜華々しいスタートは失敗の連続〜

オーバーヒート対策のためシュラウドを追加したEK-31エンジン
オーバーヒート対策のためシュラウドを追加したEK-31エンジン

リヤにエンジンを配する「360」に最後に残った最重要課題が、オーバーヒートでした。開発目標である実用での4人乗車を実現するには、絶対不可避な難問でした。
根本的な問題は、アイドリング中のベーパーロックでした。キャブレタ温度の上昇によって、フロート室でガソリンが気化。混合比が崩れて焼き付いていたのです。当然、キャブや潤滑系、シリンダ、ピストンなどの対策も実施されましたが効果は不十分。やはり、冷却自体の改善が必須でした。
問題は、エンジンルーム内のエアフローにありました。停車時に熱がこもるのです。アンダーカバーにスリットを設けると、リヤサイドのダクトの間で煙突効果が生じ、効果的に排熱可能となりました。キャブレタの温度対策に対しては、大型のエアダクトとシュラウドを接続して、熱影響を遮断することで解決しました。

冷却問題が一応の解決を見ると、さらに厳しい走行試験が開始されました。連続登坂試験です。いくつかの走行試験を繰り返すうちに辿り着いたのが、赤城山でした。ここの登坂が箱根や日光よりも厳しいことはP-1開発時のデータで残されていました。特に途中の「一杯清水」と呼ばれる場所が、傾斜13度に達する一番の難所となりました。
技術陣は、4人乗車での登坂を最終目標に設定。走行試験を開始してみると、すぐにエンジンが焼き付きました。アクセルを戻すと何とか登坂するものの、エンジン内部は酷い有様でした。ひとり三鷹から伊勢崎に常駐していた加藤は、戻ってきたエンジンを一人で分解し、交換可能な部品をすべて交換しては、不良箇所を三鷹に報告。翌日の走行試験に備えました。三鷹には昼夜構わず電話が鳴るので、こちらも対策に追われる毎日でした。

 

赤城山の登頂に成功〜運輸省認定試験にも合格〜

坂を駆け上がるスバル「360」
坂を駆け上がるスバル「360」

1957年3月、運輸省と通産省の担当官を招いて試乗会を開催。評価は上々との報告を受けて、スバル「360」の発表日が1958年3月3日、発売は5月に決定しました。残された時間はあと僅かでしたが、4人乗車での全開登坂は失敗続き。登坂試験は運輸省認定試験へ向けての前哨戦とされ、成功は必須とされました。
ピストン形状やクリアランスの設定、プラグの選定など、ひとつ一つハードルを乗り越えていきます。1958年2月4日。認定試験は直前でした。スバル「360」のプロトタイプは、大人4人を載せて赤城山を35分でついに登頂に成功。そして、60台の増加試作が開始。このうちの10台は試験用に使用されました。完成重量は385kg。安全対策のために重量増加を覚悟の上で対策を行なった結果、目標重量はオーバーしましたが、百瀬は十分満足していました。

1958年2月24日、認定試験が実施されます。技術陣は、2台の増加試作を入念に整備して村山試験場に搬入。下廻りの泥や汚れを落とすために丹念に洗車しました。担当ドライバーは真冬の中、ツナギの下にはパンツ一丁。どこまでも徹底していました。試験における性能試験結果以下のとおり。
燃費は25km/h定速走行で25.6km/L、30km/hで27.5km/L、40km/hで28.2km/L。加速性能は、0-200mで17.5sec、トップギア20km/hからの200m加速で19.35sec、30km/hからは15.85sec。20km/hからの惰性走行では116.7mを記録。ブレーキ性能は、35km/hから制動まで7.049m、50km/hでは13.073m。最高速度83km/h、最小回転半径4m、登坂能力は17度でした。
小田原から片瀬江ノ島間では燃費24.5km/Lを記録。箱根湯本から芦之湯間では、運輸省指定の30分を大幅に下回る22分での登坂に成功。この記録は、小型乗用車を大幅に上回るもので、試験結果は大いなる賞賛を持って迎えられました。

 

1958年3月3日正午〜スバル「360」発表会見〜

1958年3月3日スバル「360」発表会
1958年3月3日に行われたスバル「360」発表会

1958年3月3日正午。東京丸の内の富士重工本社で新型車スバル「360」の発表記者会見が行われました。しかし、ここで問題発生。本社に実車を用意していなかったのです。当然実車を取材できるものと思っていた記者たちとのすったもんだの末、2台の360が伊勢崎から東京まで陸送されることになりました。到着したのは夕方4時。1台が展示され、もう1台には記者たちが交代で乗り込んで、丸の内界隈での即席試乗会となりました。
価格は42万5000円。目標としていた、36万円には届きませんでした。公務員一種の初任給が2万4380円だった時代ですから、今に換算すると900万ほど。結局、百瀬を始めとする技術者たちは、誰も360を購入することはできませんでした。市民がマイカーを購入できる時代では無かったのです。

当初、伸び悩んだ販売台数でしたが、1960年には17,000台、1965年には52,000台、1967年には79,000台に到達しています。スバル「360」は、「てんとう虫」と呼ばれて国民を挙げて親しまれる「国民車」となります。スバルの成功を見た各社は、続々と軽乗用車を投入。一気に軽乗用車の時代が花開きます。
総計392,016台を販売した「てんとう虫」は後進の「R-2」に道を譲って、1970年にひっそりと生産を終了。実に12年に渡って製造されたスバル「360」は、日本のモータリゼーションに大きな影響を与えました。軽乗用車の普及とともに本格的なマイカー時代が到来。道路網は一気に発展を遂げていくのでした。戦後復興の中、自らの苦労を顧みずに戦い抜いた技術者たちの努力の結晶。そんな熱いスピリットが、愛らしいスタイリングの奥にひそんでいるのです。

 

今に伝わる技術哲学〜百瀬晋六の魂〜

百瀬は、航空機の技術で乗用車開発が行われたとする表現を快く思っていませんでした。実際に航空機開発を主導した殆どの人財は、戦後も富士重工の航空機開発に従事しましたし、百瀬自身も自動車に関しては完全なる門外漢だったからです。「みんなで考えるんだ。部長も課長もない。担当者まで考えるときは平等だ。」「人を育てろ。人が育たなければ良いクルマは作れない。若い人に生きがいをもって仕事をしてもらわなければならないし、伸びてもらわなければならない。」固定概念に縛られず、極限まで理論を突き詰め、人間本位での設計を行う。中島飛行機から受け継がれたのは、技術者魂だったのでしょう。
百瀬の言葉の数々は、スバルDNAとしてこれからも受け継がれていくことでしょう。

文責:スバルショップ三河安城和泉店 営業:余語

 
 

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