スバルショップ三河安城の最新情報。スバリズムレポート第1弾「事故の歴史と教訓〜技術発達の陰にある、多大な犠牲と血の教訓〜」航空機編| 2018年4月4日更新

 

事故の歴史と教訓 〜技術発達の陰にある、多大な犠牲と血の教訓〜

Ice eschede 1
事故で不慮の死を遂げた方々のためにも、二度と同じあやまちは繰り返してはならない。それを、血の教訓と呼ぶ。
By Nils Fretwurst (自身の仕事) [パブリックドメイン], via Wikimedia Commons

技術発達の陰にある、多大な犠牲と血の教訓。

自動車に限らず、華やかな技術史の影にある悲惨な事故の数々。事故を望む者など誰もいません。しかし、ほんの些細な綻びが容易く重大な事態を招くのです。 痛ましい記憶の数々は、「血の教訓」として各業界で連綿と引き継がれてきました。しかし、その鎖も今や途切れつつあります。安全神話という幻の中で、漫然と育った世代にとって、重大事故は「対岸の火事」でしかないのです。

今回は、凄惨な事故の歴史を学ぶとともに、未来への教訓として引き継ぐキッカケとしたいと考えています。それぞれの事故の詳細を見ていくとともに、事故要因とその背景を通して教訓を学んでいきましょう。

 

繰り返されてきた鉄道事故の数々。

2本のレール上を高速で走行する鉄道は、信号の取扱や連絡の不徹底が一度でも起きると、重大な事故に直結します。自動車のように、自由な回避行動が取れないためです。その為、鉄道事故は往々にして凄惨を極めます。日本の鉄道史を振り返ると数限りない事故が起こり、おびただしい命が失われてきました。尼崎の事故は記憶に新しいところでしょう。

 

肥薩線列車退行事故〜物資不足が原因で、多くの復員兵が犠牲に〜 >>1945年8月22日 鹿児島県・宮崎県県境付近

復員兵が犠牲になった、肥薩線列車退行事故。

初代ジャスティ

終戦直後に起きたこの事故が凄惨さを際だたせるのは、死傷者の多くが死線を生き抜いて祖国に辿り着いた復員兵だったことです。あと少しで家族に会える。そんな願いも叶わず、悲しき血潮が2本のレールを真っ赤に染めていったのです。

1945年8月22日、肥薩線吉松駅ー真幸(まさき)駅間の山神第二トンネルをD51型蒸気機関車牽引+後補機の上り列車が走行していました。列車は、貨車と客車を連結した混合列車で、這々の体で登坂中でした。列車は復員兵で超満員、人々は屋根まで溢れていました。故郷に帰る復員兵の期待とは裏腹に列車の足は余りに遅く、きつい坂に苦しく喘いでいます。遂に、先頭の本務機関車がトンネルを出たところで、列車は力尽きてしまいました。しかし、後方の客車は未だにトンネルの中。煤煙の暑さと息苦しさから逃れようと、復員兵たちはたまらず列車から降りて、トンネル内を歩き出します。

そんな事を梅雨とも知らず、本務機は後補機をトンネル外に出すべく、列車を後退させてしまったのです。後補機の乗員が呼吸困難で呼びかけもできないまま、逃れる場のない復員兵たちは暗闇の中で列車に次々に轢かれていくのです。この事故で49名が死亡、50名以上が負傷しました。

 

肥薩線列車退行事故:事故原因と教訓

事故要因:熱量が低い粗悪な石炭、整備不足の機関車、復員兵で超満員という悪条件が重なって、登坂力が不足。単線トンネルゆえに退避場所がなく、照明もない中、後補機の乗員が煤煙で指示を出せない状況が重なって発生したもの。

教訓:本務機と後補機で後退時の汽笛合図を事前に示し合わせてあれば、無断で後退することはなかったはず。危険を扱う現場においては、想定される緊急事態についてより深く検討することが肝要。また、無応答の取扱について深い検討が必要と思われる。

 

国鉄五大事故〜悲惨な事故が、鉄道の安全の礎となった〜 >>1951年〜1963年 日本各地

2000名もの命が失われた、国鉄五大事故。

Mitaka Incident at Mitaka Station
1949年7月15日夜に発生した三鷹事件の状況。無人の列車が商店街に突入し、6名が死亡した。戦後の闇に葬られた、未解決事件の一つである。
By 未知の (毎日新聞社「写真昭和30年史」1955年P180) [Public domain], via Wikimedia Commons

戦後の物資・人材不足により、数々の凄惨な事故が起きています。その一方、下山事件や三鷹事件などのようなイデオロギー闘争の結果引き起こされた事故が起きています。大戦後、GHQは身分制度を廃し、特権階級から権力を奪い、米国主導の民主主義政府の確立を画策します。一方、これに反発する共産主義者たちは労働者革命を目指して闘争を開始。国鉄には多数の労働組合が設立され、各々が自ら標榜する理想を攻撃的に志向したが為に、安全運行という業務の根幹さえ蔑ろにされました。意図的と思われる軌道破壊が繰り返され、複数の脱線事故が発生しています。そして、驚くことに誰一人として罰せられないまま、こうしたテロは歴史の闇に葬り去られています。

 

桜木町事故〜群衆の見守る中、猛火に包まれた木造車両〜 >>1951年4月24日 神奈川県横浜市 京浜東北線桜木町駅構内

車両構造が救出を阻んだ、桜木町事故。

Sakuragicho Train Fire 1951
群衆が見守る中、高架橋上で猛火に包まれる、京浜東北線63系電車。
By 毎日新聞 [パブリックドメイン], via Wikimedia Commons

衆目の面前で為すすべなく、106名もの尊い命が焼け落ちた桜木町事故。戦後の資材不足を象徴する悲劇的な事故として今に伝わります。

戦後復興の足として、大量に量産された戦時設計の63系電車。物資不足で難燃性はまったく考慮されず、屋根上や室内に引き通し線が露出するという簡易な設計でした。この事故以前にも、発煙・発火事故を起こしていましたが、復興最優先のさなかにあって対策が取られることはありませんでした。

火曜日の午後、2人の女子高生が階段を駆け上がっていました。間に合うかな?そう思って駆け込むと、1人は間に合ったものの、1人はざんねん置いてけぼり・・・。ドア越しに手を降って、またね。そう言って別れた2人。それが、生き別れとなってしまうとは、その時思いもしなかったのです。

1951年4月24日午後1時45分、京浜東北線桜木町駅構内に赤羽発桜木町行き下り第1271B電車が差し掛かると、作業ミスで垂れ下がった架線に接触。架線が絡まったパンタグラフは、屋根に接触して短絡。激しい火花を上げます。可燃塗料で塗られた屋根が、瞬く間に炎上。木造車体の先頭車が、激しく燃え上がります。

乗客は、たちまちパニックに陥ります。乗客たちは3段窓からの脱出を試みますが、中段固定のこの窓からは逃げることは叶いません。側扉の開放を試みますが、消防団員はおろか乗務員さえも非常用ドアコックの位置も分からず途方に暮れる始末。車間の貫通扉は内開きで、殺到する乗客の圧力で開けることはできませんでした。為すすべない乗客は、たくさんの群衆に見守られながら、猛火に次々と命を落としていったのです。

 

桜木町事故:事故原因と教訓

事故要因:架線が垂れ下がったのは、作業員が誤ってスパナを落下させたのが原因。上り線は列車をとめる手配をしたものの、下り列車にはしなかった。桜木町駅構内で上り線に転線する当該列車は停止指示が無く、問題の区間に進入させてしまった。また、本来はブレーカが作動するはずであるが、事故前に発生した火災復旧のためにブレーカが取り外されており、送電が停止しなかった。

教訓:如何なる状況下であれ内圧で開放不能となるような設計は回避すべきで、内外双方から緊急時に強制開放できなくてはならない。また、その手段が広く一般にも理解されなければ意味がない。通常運行を最優先にするがために、安全回路まで一時的に無効にすることはあってはならない。

三河島事故〜安全対策の非常ドアコックが招いた悲劇〜 >>1962年5月3日 東京都荒川区 常磐線三河島駅構内

非常用ドアコックが招いた大惨事、三河島事故。

Mikawashima train crash 01
三河島事故の惨状。右端に見えるのが、事故の発端となった貨物列車。
By 未知の [Public domain], via Wikimedia Commons

桜木町事故を受けて、国鉄は全車両に非常用ドアコックを設置します。これにより、乗客は自らの判断で車両からの脱出が可能となりました。しかし、この非常用ドアコックが新たな事故を引き起こしてしまうとは、想像だにしなかったでしょう。

1962年5月3日午後9時36分、常磐線三河島駅東方350mで、常磐線下り本線へ侵入する下り287貨物列車が赤信号を見落としてオーバーラン。そして、脱線。先頭の機関車と2両目の貨車が下り本線側に傾斜しつつ、安全側線上に停車します。

同時刻、4分遅れで三河島駅を発車した上野発取手行き下り2117H電車が、貨物列車に40km/hで衝突。先頭2両が脱線し、今度は上り本線側に傾斜して停車します。この時点で、怪我人はまだ25名ほどでした。乗客たちは非常用ドアコックを操作して、ドアを開放。火災の危険から逃れるために、線路上を駅に向かって避難を開始します。この時、現場至近の信号扱所の掛員が事故報告と現場確認に勤しむ余り、上り本線の停止手配が疎かになっていました。

同42分、上野行き上り2000H電車が現場へ到達。気が付いた時には遅く、線路上に避難していた乗客を次々に跳ね飛ばしながら、下り電車の先頭車に激突。下り電車の先頭車は完全に粉砕し、2〜4両目以降は高架下に転落しました。乗員乗客合計160名以上が死亡、296名が負傷する大惨事となりました。

 

三河島事故:事故原因と教訓

事故要因:第一は、287貨物列車の信号冒進。信号冒進時に自動停止する装置がないため、脱線に至った。下り電車の衝突は脱線後1分以内であり停止手配は不可能だったと思われる。最大の課題は上り電車の衝突で、現場到着まで5分の余裕があったにも関わらず停止手配が間に合わなかった。列車停止の手配を運転指令に直接依頼できるよう指示系統が構築されておらず、手配に時間を要したのが原因。

教訓:危ないと感じれば、直ちにすべての運行・運用を停止すべき。安全確認はその後で良い。そして、その停止権限を、肩書の上下に関わらずすべての掛員に付与すべきである。

鶴見事故〜為す術無く、一瞬のうちに奪われた命〜 >>1963年11月9日 神奈川県川崎市 東海道本線鶴見ー新子安間

高速走行中の三重事故となった鶴見事故。

鶴見事故が起きた1963年11月9日は、458名が死亡した三井三池炭鉱炭塵爆発が起きた日でもあり、後に血塗られた土曜日と呼ばれる事となります。ケネディ大統領がダラスで暗殺されるのは、さらに2週間後のことでした。

この日の午後9時40分、東海道本線と並行する品鶴線を走行中の下り2365貨物列車が鶴見駅ー新子安駅間で、後部3両目が突如脱線し、架線柱に衝突。並走する東海道本線上り本線を塞いで停車。そこへ横須賀線上り2000S電車と下り東京発逗子行2113S電車がほぼ同時に進入。上り列車が90km/hで貨車と激突。先頭車は下り線方向に弾き出され、減速通過中の下り列車の4両目を串刺しにした後、5両目の車体も半分以上削り取ったところでやっと停車。2両とも全く原型を留めないほどに粉砕された他、上り先頭車も大破。死者161名、重軽傷者120名を出す大惨事となります。

 

鶴見事故:事故原因と教訓

事故原因:貨車の脱線現象は後の研究の結果、競合脱線と呼ばれる複合要因による脱線と結論付けられた。競合脱線は、2000年に発生した日比谷線中目黒駅脱線衝突事故でも起きており、現在でも完全解決には至っていない。

対向列車の停止手配については、過密なダイヤで運行される日本の鉄道ではほぼ対策は不可能。絶対に脱線しないよう、整備と環境改善を継続する他無い。

 

3つの重大鉄道事故。

桜木町事故は、疲弊した戦後日本で起きた悲劇でした。63系に欠陥があっても改善にまで手が回らない、当時の国鉄は困窮、疲弊していました。

桜木町事故を受けて、国鉄は事故の翌日には非常用ドアコック位置を知らせるガリ版刷りの張り紙表記するのですが、これが仇となって三河島事故は大惨事となってしまうのです。そして、どうにも対策のしようのない鶴見事故・・・。

3件の痛ましい事故を受けて、日本の鉄道は「安全最優先」の運行体制へと変貌を遂げていきます。新幹線が世界の誇る安全神話を創り上げてきたのも、安全最優先という慎重な経営が行われてきたからに他なりません。

しかし、危険意識というものは時間とともに薄れてしまうものなのです。

 

洞爺丸事故〜台風予測の誤りが、最大の海難事故を招く〜 >>1954年9月26日 北海道北斗市沖 青函連絡船

日本最悪の海難、洞爺丸事故。

Toya Maru
在りし日の洞爺丸。天皇陛下北海道行幸の際の御召し船も務める最新鋭艦であった。
By 言及なし [パブリックドメイン or パブリックドメイン], via Wikimedia Commons

洞爺丸事故は、1954年9月26日に発生した台風15号(洞爺丸台風)による海難事故であり、死者・行方不明者1,155人という日本海難史上最悪の惨事となります。当時、津軽海峡は海で隔てられていて、ここを海路で結んでいました。これが、青函連絡船です。貨物輸送を鉄道に依存していた時代ですから、津軽海峡を渡る貨車は船の甲板に固定して運ぶ航送で運ばれていました。人間は、上野発の夜行で青森に降りるとそのまま連絡船に乗り換え、函館に渡っていたのです。昭和55年を例にとると、上野19時50分発の特急ゆうづる1号では翌朝5時3分に青森着。そこで同25分発の3便に乗ると、函館港着は9時15分。函館まで13時間25分、40年前には半日以上を要して北の大地へ渡っていたのです。今なら、2時間少しで飛行機で行けるのですから、隔世の感があります。

1954年9月18日にカロリン諸島付近で発生した熱帯低気圧は、21日には台風15号となります。一旦勢力を落とすも、23日に勢力を回復。25日9時には975mbへと発達しながら、台湾沖で北東へ向きを変えて加速しながら日本列島へ接近します。26日、大隅半島に上陸。この時点では965mb、最大風速40mとなっていました。80km/hという稀に見る速度で北東へ進み、中国地方から日本海に出ると、さらに速度上げて津軽海峡に接近します。

 

日本最悪の海難、洞爺丸事故。

この台風が珍しかったのは、この時点でさらに発達したことです。北海道西岸に接近した21時には、956mbまで発達していたのです。前例のない速度と、前例のない勢力の推移。この台風15号は、気象判断に絶対の自信を持っていた青函連絡船洞爺丸船長近藤平市の判断を、完全に狂わせてしまうのです。

9月26日15時頃、函館港に洞爺丸を接岸させていた近藤船長は、船尾の可動橋が停電で動かなくなったために、出航が台風接近に間に合わないと判断して4便の欠航を決断。予報では17時頃に台風15号は渡島(おしま)半島を通過し、津軽海峡に最接近するとされていました。その頃には、函館港では土砂降りの後に風雨が収まって晴れ間が覗き始めます。台風の目だと思われましたが、それが誤りでした。これは閉塞前線の通過に伴うもので、台風本体はまだ通過していなかったのです。15時に19.4mに達した風も、18時には13.7mと、徐々に弱まってきていました。17時40分、台風は過ぎ去ったと判断した近藤船長は18時30分の出航を決断します。

18時39分、近藤平市船長は洞爺丸は乗員乗客1,331名を乗せて青森へ向けて出航します。しかし、出航後間もなく洞爺丸は南南西の激しい風に晒されてしまうのです。

誰もが台風の目だと考えたのは、これは閉塞前線の通過に伴うもの。再発達した台風15号は、津軽海峡を完全なる地獄に変えるのです。

 

出航は間違いだった・・・。

Toya-maru 1955
サルベージのため、港に曳航される洞爺丸。無残に船底を晒している。
By 朝日新聞社 (「アサヒグラフ」1955年6月1日号) [パブリックドメイン], via Wikimedia Commons

自身の判断の誤りに気がついた近藤船長は、仮泊するために投錨を決断。19時01分、函館港防波堤灯台付近で投錨します。しかし、57m/sに達する南西からの暴風と猛烈な波浪で、洞爺丸は遂に走錨を始めてしまいます。走錨とは、錨が嵐で流されて引きずられてしまう現象です。この時点で、船は既にアンコントローラブルに陥っていたのです。

構造上水密が不完全であった車両甲板から、浸水も始まります。22時5分、浸水のため両舷機関停止。以後、操船も排水も不可能となります。同12分、近藤船長は沈没を回避する最終手段として、七重浜への座礁を決断。同15分、旅客に救命胴衣着用を指示。同26分、洞爺丸は水深12.4mの海底に着底に成功します。しかし、激しい波浪は安寧を許してはくれませんでした。打ち付ける並の勢いに負けて、船体は傾斜を増していきます。同39分、SOSを発信。同43分、船体を支えていた左舷錨錯が切断。キールが海底に刺さった所に大波を受けて、ついに船体は横倒しになります。22時45分、右舷側に135度傾斜して沈没。生存者は、たった159名のみでした。

この日、同じ時間に4隻の青函連絡船が沈没。合計1,430人にのぼる命が失われます。この国鉄史上最大の悲劇は、青函トンネルの建設を一気に推進させることになるのです。

 

洞爺丸事故:事故原因と教訓

事故要因:台風15号の類を見ない進路により予報と観測に誤りが生じ、気象判断にミスが生じてしまった。実際に気象庁は台風15号の進路解析に2ヶ月要しており、台風15号がオホーツク海上の高気圧に阻まれて40km/hまで急減速させていたことがこの時明らかになっている。近藤船長の判断を一方的に責めることはできない。しかし、同時に函館港にいた羊蹄丸は悪化する天候を予感して、出航を「意気地がなかった」ため見合わせ助かっているのも事実である。当時、函館湾内は走錨する多数の船舶で混乱を極めており、停泊中の4隻も沈没している。この事から、湾内に留まっても結果は変わらなかったと思われる。ただ、乗客を降ろして被害を最小限に留めることは可能であった。

教訓:気象判断は常に慎重に大げさに行うべきであるし、長たるものは「意気地なし」であるべきである。また、定時運行・通常運用がプレッシャーとなって、安全判断を狂わせることはあってはならない。

 

紫雲丸事故〜修学旅行中の児童の多くが犠牲に〜 >>1955年5月11日 香川県高松市女木島沖 宇高連絡船

紫雲丸事故。霧の中の全速航行。

Shiun-maru Accidents
事故後引き揚げられた、紫雲丸。激しい損傷の跡が見えるが、この後普及された
By 未知の [Public domain], via Wikimedia Commons

紫雲丸は「死運丸」とも噂された呪われた船で、5回の事故を起こしています。この内、2回で沈没を経験し、合わせて175名もの命を奪っています。船舶においては、サルベージが可能であれば、沈没船を再就航させることは珍しいことではありません。しかし、気味の良いものではありません。国鉄五大事故に取り上げられるのは、5度目の事故です。修学旅行中の児童が逃げ遅れて多数犠牲になるという、悲劇的な事故となりました。

数多の島が点在し、潮流も激しい瀬戸内海。ここを大小様々な船舶が東西南北に行き交うので、海峡の航行には常に危険が伴います。

1955年5月11日、当日の瀬戸内海には濃霧警報が発令されていました。午前6時40分、中村正雄船長は視程400mを確認し、出航を決断します。修学旅行中の児童をたっぷり乗せた紫雲丸は、乗客781名、乗員60名で高松港を出航します。子供たちはこれから来る悲劇など知る由もありません。船内は楽しい笑い声に包まれていたことでしょう。

6時51分、霧は濃くなる一方で、視程100m低下します。逆に宇野港から高松港へ向けて航行中の第三宇高丸は、レーダー上で2,500m先に紫雲丸の姿を確認、海上衝突予防法に則り進路140度に変更。同53分、距離1,700mまで接近しますが、第三宇高丸からは紫雲丸の霧中汽笛音が左舷から聞こえたものの、目視では確認できず。第三宇高丸は回避できたものとして、全速航行を継続します。

ここまでは、宇高連絡船では日常のこと。ところが、事態はここから急変します。

 

突然の激突。

同56分、霧中に突如現れたのは、左舷30度100m前方に左回頭中の紫雲丸でした。船舶は急には止まれません。最早、為す術はありませんでした。 第三宇高丸船長は直ちに機関停止、左舵一杯を指示。回避を試みるも、紫雲丸右舷船尾付近に激しく衝突。

紫雲丸の右舷には大破孔が生じ、機関室へ激しく浸水が始まります。機関停止により直ちに船内は停電、消灯。乗組員は水密扉の閉鎖を試みるも、断念。急速に傾斜する船内は大混乱となります。乗客は我先にと右舷に殺到。大変気の毒なことに、体力のない児童は多数船内に取り残されてしまうのでした。

第三宇高丸は紫雲丸の沈没を予見したため、全速前進で紫雲丸を押し続けて、浸水の緩和を試みます。その間に乗客は次々に第三宇高丸に避難していきます。海上に難を逃れた乗客は、付近を通りがかった手漕ぎ船に次々救助されていきます。

 

子供たちと共に沈みゆく紫雲丸。

しかし、浸水は留まることを知りません。哀れ、右舷甲板に辿り着けない児童たちは次々と息絶えて行くのです。中には、救助のために引き返して犠牲になった先生もいたと言います。紫雲丸は多くの児童を遺したまま、7時2分に沈没。死者は168名に達しました。

児童の犠牲者は100名を数え、遺体収容活動は凄惨を極めたと言われています。階段付近には折り重なるように、児童の亡骸があったというのです。今日では理解し難いことですが、紫雲丸は事故後引き上げられて、修理が施されます。瀬戸丸と名を変えて、1966年まで使用され続けました。

 

紫雲丸事故:事故原因と教訓

事故要因:海上衝突予防法によって、船舶の右舷に緑灯、左舷には紅灯の設置が義務付けられている。互いに衝突を予見した際には紅灯が視界にある船舶に回避義務がある。また、互いに進路が交差する場合、相手船舶を右舷側に見る方に回避義務がある。対向する場合は互いの左舷側を通過する。これを鑑みれば、紫雲丸が左転ではなく右転せねばならなかった。両船ともに互いに無線連絡を取るべきとことを怠った。また、濃霧中にも関わらず、霧中汽笛のみで回避を判断し全速航行した判断は誤りであった。

教訓:危険な状況が日常化すると、正常化バイアスによって危険認識が低下する。規定違反を伴う現場判断であっても、幾度かの成功を経験すると、これが常態化・正当化してしまう。しかしそれは本来誤った取扱いであるので、いつしか重大なインシデントを引き起こすことになる。本来規則に則って、処置すべきである。

 

北陸トンネル火災事故〜トンネル内での火災事故が与えた教訓〜 >>1972年11月6日 福井県敦賀市 北陸本線北陸トンネル内

北陸線北陸トンネル列車火災事故。

長大トンネルでの鉄道火災という日本の鉄道史上初の事故は、犠牲者の大半が一酸化炭素中毒という前代未聞の大惨事となります。

福井県の敦賀ー今庄間は、急峻な山岳地形が海岸線まで続く厳しい地域であり、古くから難所として知られていました。北陸本線はここを海岸沿いの中腹に単線で線路を通し、25‰の勾配、4箇所のスイッチバック、12箇所のトンネルで通過していました。交通の隘路となるばかりか、雪崩や崖崩れによる不通も相次ぎ、迂回路の建設は急務でした。5年という突貫工事で建設された、延長13,870mもの長大トンネルとなった北陸トンネルは地元の大いなる期待をもって、1962年6月10日に開通したのでした。

それから10年後の1972年11月6日未明、未曾有の大惨事が発生します。

 

トンネル内の避難者を対向列車が救助。

Hokuriku Tunnel Tsuruga side 20081025
北陸トンネル敦賀側坑口。その左側が事故の慰霊碑。列車は入り口から4.6km先で火災に見舞われた。
By 列車のライダー (自身の仕事) [パブリックドメイン], via Wikimedia Commons

草木も眠る深夜1時40分、大阪行上り電車急行立山3号の運転士は前方にまったく予定外の赤信号を確認します。列車は、北陸トンネル内の木ノ芽信号場で停止。底知れぬ不安を感じたものの、20分後に信号が青になったため、ゆるゆると徐行で列車を進めていきます。300mほど進んだところで真っ暗闇の中に現れたのは、何とトンネル内を歩く人々。

運転士は重大事故の発生を確信、直ちに列車運行の中止を決断。2時3分、ドアを開放し避難者の救助を開始します。しかし、時間は余り残されていない様子。トンネル内に、深く煙が立ち込めて来たのです。恐るべきは、二次災害。自らの列車の乗客を巻き込む訳にはいきません。避難者はまだ多く残っていたようですが、二次災害の危険を察した運転手は立山3号の後退を決断。救助を求め、列車を呼び止める声に後ろ髪を引かれつつ、非情の判断を下ささざるを得ませんでした。運転士は立山3号を逆進させてトンネルから無事避難 、2時40分今庄駅に到着します。

 

火災対応の間に給電停止し、行動不能に。

避難者たちは、大阪発新潟行夜行急行きたぐに2号の乗客でした。トンネル内で発生した火災から命からがら逃れてきたのでした。

きたぐに2号は、1時14分頃敦賀側から4.6kmの地点で食堂車からの火災発生を確認。運行規定に則り、直ちに列車を緊急停止。難燃対策が不十分な10系客車は火の回りが早く、鎮火を断念。当該車両の解放を試みます。しかし、1時52分頃に火炎でトンネル天井の雨樋が溶け落ちて、架線がショート。給電が停止して、遂に列車は身動きが取れなくなってしまいます。

国鉄史上初めて長大トンネル内での火災事故。対応は後手後手に回り、救助作業は難航します。電化区間では火災は起きないとの想定で、何と消火設備は未設置。労働組合からの要求で、トンネル内の照明設備も点灯させていませんでした。何に手間取ったのか、敦賀側の消防への通報には事故発生から40分、今庄側の消防通報には1時間を要しています。

 

火災対応の間に給電停止し、行動不能に。

消防の救助活動も難航します。まず、4.6kmも消火ホースを伸ばすのは不可能ですし、有毒ガスからの防護を考えると長時間の滞在も厳しいという状況。為すすべなく時間ばかりが過ぎていきます。仕方なく、リスク覚悟での救援列車でのトンネル内突入を決行。逃げ遅れた人々を救助しますが、火元に辿り着く事はできませんでした。全員の救助が完了したのは、発生から半日を過ぎた14時。死者30名、負傷者714名に達する大惨事となります。死因はすべて、一酸化炭素中毒でした。

事故後、問題になったのはきたぐに2号が火災発生時に停止手配を取ったことでした。もし、そのまま走り抜けていれば、被害は少なかったのではないか、とされたのです。実は、1969年に同様の火災事故が北陸トンネルであり、この際に停止手配を取らなかった運転士は規定違反で処分されていました。このことは、きたぐに2号の判断に大きな影響を与えたとされています。

事故後、火元となった食堂車オシ17は直ちに全車使用停止。10系客車も急速に置き換えが進められ、車両の難燃対策も進行していきます。また、長大トンネルや橋梁上での緊急時の取扱規定は、可能な限り走り抜けることに変更。1988年3月のサロンエクスプレスアルカディア火災事故ではトンネル外で緊急停車させたために、人的被害を免れています。

 

死因は焼死ではなく、一酸化炭素中毒。

事故要因:長大トンネルに対し関心が輸送改善に集中したために、危険予知や災害対策が完全に疎かになっていた。国鉄は電化区間では火災事故は発生し得ないと考えていたため、管轄消防からの救助訓練要請を断っている。そのため、長大トンネル故の救助環境に対策が取られず、発生しうるリスクに対し運行規定を再検討することもなかった。結果、トンネル内での緊急停車という最悪の取扱を行うこととなり、30名もの命を奪うこととなった。

教訓:有効であった安全規定であっても、いつの間にか実態と乖離している可能性がある。安全規定は新たな環境に適応するために、常に継続して再検討するべきである。

 

信楽高原鐵道列車正面衝突事故〜安全を軽視した為に起きた、完全なる人災〜 >>1991年5月14日 滋賀県甲賀市

信楽高原鐵道列車正面衝突事故。

SKR Shigaraki train disaster site
事故現場付近に建立された慰霊碑と、通過する信楽高原鐵道の列車。事故はこの付近で発生した。
DD51612Wikipedia日本語版 [http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html">GFDL or http://creativecommons.org/licenses/by/3.0">CC BY 3.0], via Wikimedia Commons

1991年5月14日、信楽高原鐵道の小野谷信号場―紫香楽宮跡駅間で対向列車が正面衝突、死者42名、負傷者614名という大惨事が発生します。当初は第三セクターの稚拙な運行管理が問題かに見えたこの事故ですが、その実際はJR西日本に重大な過失があったことが明らかになります。自らの都合で安全を第二とする社風はこの事故の裁判を通じても是正されることはなく、JR西日本はJR福知山線脱線事故を起こしてしまうのです。

信楽焼で全国に名を知られる滋賀県甲賀郡信楽町で、1991年に「世界陶芸祭セラミックワールドしがらき'91」が開催されます。人口13,000人余りのこの町に、1日2万人もの人が訪れるというビッグイベント。イベント実行委員会では、想定総来場者35万人のうち、25%の9万人を信楽高原鐵道による鉄道輸送で賄う計画を立てていました。

信楽高原鐵道は不採算の国鉄信楽線を受け継いだ第三セクターで、滋賀県内のJR貴生川駅と信楽駅間14.7kmを結ぶ小さな鉄道です。通常時はたった1列車の運行ですべてを賄っていた信楽高原鐵道は、イベントに際してJR西日本からの直通臨時列車を運行する輸送計画を立てます。しかし、全線単線で行き違い設備のない同鉄道では、複数列車の運行は不可能。そこで、2億円を掛けて途中に行き違い設備(小野谷信号場)を新設。それに合わせて、運行管理形態をスタフ閉塞から特殊自動閉塞に変更し、信号機と分岐器を自動設定する自動進路制御装置も設置しました。

 

原因不明の信号トラブルの頻発。

準備万端整ったかに見えた信楽高原鐵道ですが、新しい運行システムはトラブル続きでした。貴生川駅の出発信号を青にできない原因不明のトラブルが4月中に2度発生。さらに、5月3日には信楽駅の出発信号を青にできないトラブルが発生していました。この際、運行を維持するため信楽高原鐵道はありえない危険な手法で運行を継続していました。これが、14日の事故に繋がります。

通常、信号故障が生じた場合は代用閉塞という手法を採ります。まず、無人の小野谷信号場へ掛員を派遣。そこで代用閉塞であることを告げた上で対向の下り列車を抑止し、信楽駅―小野谷信号場間に列車がいないことを確認。これを信楽駅に伝達して確認された上で、信楽駅から上り列車を発車させねばなりません。

ところが、5月3日はあろうことか上り列車に掛員が添乗、小野谷信号場で手動で分岐器を操作して行き違いをさせていたのです。この時の両列車は、14日に事故を起こした列車そのものだったのです。この日、下り列車は誤出発検知装置の動作によって、出発信号が赤になったため、小野谷信号場を出発しませんでした。しかし、14日は原因不明のトラブルの修理のため、誤出発検知装置が正しく動作しなかったのです。

 

規定違反の勝手な運行判断が事故を招く。

14日も同様に信楽駅の信号は赤のまま、変わらないトラブルが発生。信楽駅では、3日と同様添乗員を乗せて信号を無視して上り列車を出発させてしまいます。一方の小野谷信号場に差し掛かった、JR西日本からの直通臨時列車は青が現示された出発信号を確認。小野谷信号場を通過して単線区間に進入させてしまいます。完全なる連絡の不徹底と杜撰な運行規定違反が招いた悲劇でした。

事故原因究明の段階で、4月と5月の原因不明のトラブルが調査されます。ここで明らかになったのは、JR西日本と信楽高原鐵道の双方が互いに近畿運輸局に「無断」で運行システムを「勝手に」改造していたことでした。しかも、その改造は互いに通告されることもなかったのです。結果、信号システムは欠陥を抱えた状態になっていました。先の信号トラブルは故障でなく、通常動作で起こった欠陥によるものだったのです。

特にJR側が改造した部分は、通常の規定に違反して運用しないと動作しないようになっており、JR西日本はこの違反運用をマニュアル化して使用を継続。しかも、事故後このマニュアルは改ざんされて規定違反の隠蔽を図っていました。

 

信楽高原鐵道列車衝突事故:事故原因と教訓

事故要因:運行システムの無断改造という、余りにも安全を軽視した愚策が最大の要因。事前に3度も原因不明のトラブルがあったにも関わらず、無断改造を通知しなかったJR西日本の対応は大いに疑問が残る。本来は、人的・技術的援助を図り安全運行を支援すべきであったにも関わらず、自社の都合を信楽側に一方的に押し付けている。さらに、運行規定を無視する杜撰な臨時対応が行われた結果、事故に至った。また、信楽側は創業以来初めて経験する大量の乗客を裁くことしか手が回らず、安全に対する冷静な判断を欠いていた。

教訓:大量の業務に忙殺されることはあっても、安全だけは決して度外視してはならない。規定に則り、冷静に粛々と業務に従事せねばならない。

 

福知山線列車脱線転覆事故〜記憶に新しい、余りにも凄惨な鉄道事故〜 >>2005年4月25日 兵庫県尼崎市

福知山線列車脱線転覆事故。

2005年4月25日に発生した史上稀に見る重大事故は、まだ記憶に新しいところです。兵庫県尼崎市にあるJR福知山線塚口駅―尼崎駅間の右カーブで快速列車が脱線転覆し、隣接するマンションに激突。死者107名、負傷者562名という大惨事となります。

列車は、乗客の証言から完全にオーバースピードでカーブに進入したことが明らかになっており、なぜそのような事態に陥ったのが事故後の焦点となりました。

JR西日本は阪神大震災で関西の鉄道網が完全に麻痺する中、いち早く全線を復旧。国鉄時代よりも大幅に列車を増発し、特急以上に高速化した新快速によって、シェアの一気拡大に成功しました。さらに、1997年には尼崎駅と京橋駅を結ぶJR東西線が開通。アーバンネットワークと呼ぶ、近畿全県に及ぶ広大かつ複雑な高速高速鉄道ネットワークを実現します。

 

日勤教育に対する恐怖からパニックに。

鉄道運行には多少の不測の事態は不可避。そこで、鉄道ダイヤには余裕時分という時間の遊びが設けられています。この範囲内であれば「定刻通り」に運行が可能です。ところが、当時のJR西日本は余裕時分全廃を目指していました。ギリギリの速度で運行し、遅延しても回復運転がほぼ不可能。実態に即していない目標に対し、乗務員は尋常ではないプレッシャーに晒されていました。そのプレッシャーの原因が、後に有名になる日勤教育でした。目標を達成できない乗務員に対し、パワハラそのものというべき懲罰行為が行われていました。その内容は完全なる「職場内いじめ」であって、鬱や自殺に追い込んだ事例もありました。事故を起こした運転士は懲罰行為を過度に恐れ、完全にパニック状態に陥っていたとされています。

当日、運転士は複数回のミスを犯し、規定違反も数度犯しています。完全に運転士をパニック状態に貶めたのは、伊丹駅での72mものオーバーランでした。システムによる「停車です。」のメッセージが聞こえないのか、ブレーキ操作が過度に遅れてしまったのです。この際、車掌に対して運行司令への報告を「まけてくれへんか?」と尋ねていますが、車掌が乗客の問いかけに答えるために電話を切ってしまっています。これで、後日の日勤教育が免れ得ないと確信し、パニック状態に陥ったと推測されています。

また、JR西日本は積極的な投資による利便性の向上の陰で、同時に行うべき安全設備に対する投資を後回しにしていた実態も明らかになりました。当時、JR西日本では過密な大都市圏にも関わらず、速度照査機能が不十分な旧式の自動列車停止装置(ATS-SW)が使用されていました。事故要因には直結しないものの、JR西日本の安全に対する意識の低さが露呈したのは確かです。

 

福知山線脱線転覆事故:事故原因と教訓

事故要因:JR西日本は利益至上主義に陥っていた嫌いがある。現場の声を無視して運行計画を策定し、これを満たせない者に辱めを与えるという恐怖政治的な乗務員管理は糾弾されるべきである。技術の進展によって重大事故が減少傾向にある中、JR西日本のみが二度の有責事故を起こしているのは、決して偶然ではない。

教訓:安全を司る者については、技術、健康ばかりでなく、心理面についても慎重な管理が必要である。実際、欧州ではパイロットの自殺に伴う旅客機墜落事故が起きている。

 

石勝線特急列車脱線(火災)事故〜教訓が失われた時、再び事故は繰り返される〜 >>2011年5月27日 北海道勇払郡

石勝線特急列車脱線(火災)事故。

キハ283系事故車

JR北海道で2010年代前半で繰り返された事故は、道内での鉄道輸送に対する信頼を失墜させ、その後の同社の経営を著しく阻害する要因となりました。中でも、石勝線特急列車脱線火災事故は北陸トンネル火災事故の教訓が、既に完全に風化していることを思い知らされる事故となりました。国土交通省はこの後も繰り返される事故を鑑み、JR東日本に対して保守等に関する技術支援を要請する前代未聞の事態に発展することになります。

2011年5月27日21時55分頃、石勝線清風山信号場構内を走行する釧路発札幌行スーパーあおぞら14号で、4号車に乗務する車掌が異常振動を感じて運転士に連絡。列車は第1ニニウトンネル内に緊急停止します。列車内に煙が充満し、間もなく出火。列車全体が火災に見舞われ、トンネル内で全焼。不幸中の幸いで、死者は無かったものの軽傷者79名が発生する事故となりました。

 

失われつつある血の教訓。

運輸安全委員会の事故調査報告書によれば、原因は4両目後方の台車からプロペラシャフトが脱落し、デフがまくらぎに衝突して乗り上げて脱線したことにあります。火災は、何らかの理由で6号車の前部燃料タンクから燃料が流出し、これが高温のエンジンに触れて出火したものと推察しています。根本原因として、車輪踏面の剥離が基準を超えているにも関わらず、これを放置。このため走行中に振動が生じ、プロペラシャフトの脱落を誘引したとしています。

JR北海道では、北の厳しい自然環境の中で長大路線を維持するため、不採算路線を含めて莫大な保線費用が必要です。にも関わらず、厳しい経営環境のために合理化や人員削減が推進された結果、慢性的な人員不足に陥っていました。その結果職場環境は悪化し、労働意欲の低下や激しい労働運動が顕在化し、安全意識が徐々に失われていったと考えられています。

安全第一で維持されてきた鉄道の安全は、今危機に晒されています。華々しい新幹線の開通と同時に、並行在来線はJRから切り離されてしまいます。こうした路線は端から不採算路線となることを宿命づけられています。また、地方の過疎化の進行により不採算路線は増加する一方です。そうした状況下でも、これまでと同様の安全を維持し続けられるのでしょうか。

 

日本坂トンネル火災事故〜長大トンネルで発生した火災事故〜 >>1979年7月11日 静岡県東名高速道路日本坂トンネル

日本坂トンネル火災事故。

1979年7月11日、東名高速道路日本坂トンネル下りトンネル内で発生した多重事故をきっかけとする火災事故です。死者7名、消失台数173台という、大きな被害となりました。

まず、トンネル出口近くで小さな事故が発生。これをきっかけにトンネル内で渋滞が発生します。この渋滞の発見が遅れた大型トラックAが、急ブレーキ。追走していた大型トラックBが、避けきれずにここに追突。さらに、乗用車CがトラックBに追突した後、乗用車Dは3台を避けてトラックBの側面に接触して停止。さらに後方の大型トラックFが100km/h近い速度で、事故現場手前で何とか停止した大型トラックEに激しく追突。その結果、突き飛ばされたトラックEに押された衝撃で乗用車CがトラックBの下部にめり込み、乗用車DはトラックEに後部を潰されてガソリンが漏出。ここに火が付いて、火災が発生します。

トラックBとトラックFの運転手と乗用車Cの計4名は、衝突の衝撃で即死。車内に閉じ込められた乗用車Dの3名を後続のドライバー達が救出を試みるも、火と煙が激しく近寄ることはできませんでした。

 

長大トンネルと火災対策。

トラックEは合成樹脂、トラックFが松脂を積載しているために火勢が強く、鎮火には65時間を要する大火災となりました。事故発生後、トンネル入口の警報で進入禁止を呼び掛けるも、車両の進入が続いてしまいます。後続のドライバーにケガ等は無かったものの、放棄された車両に次々類焼。結果、173台もの車両が消失してしまいます。

トンネルは火炎による損傷が激しく、コンクリート被覆が崩れ、支保工が熱で変形するなど大きな被害に見舞われます。事故後1週間、東名高速道路は普通。その後対面通行で仮復旧するも、本格復旧には60日を要しました。

この事故は、長大道路トンネルの防災対策に大きな影響を与えます。事故の発生を知らずに、後続車両が続々侵入して被害を大きくしたことから、トンネル入口に信号機と情報板が増設、消火設備と換気装置が改良されています。

ただ、可燃物積載のトラック全ての事故を回避することは不可能です。2008年には首都高速熊野町ジャンクション付近でタンクローリーが転覆し、炎上。5時間半の火災の結果、鋼製桁が40mに渡って変形。開通したばかりの中央環状線が1ヶ月に渡って不通となる事故が発生しています。飛騨トンネル等の長大トンネルでは、危険物積載のトラックを通行禁止として万が一の事態を防いでいます。

 

笹子トンネル天井板落下事故〜インフラの老朽化対策が喫緊の課題に〜 >>2012年12月2日 山梨県中央自動車道笹子トンネル

笹子トンネル天井板崩落事故

SasagoTNnaibu
事故以前の笹子トンネル。トンネル断面のうち、上部半段面を天井版で仕切って換気口として使用していた。
By ワタキチポヨョ (自身の仕事) [https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0">CC BY-SA 3.0 or GFDL], via Wikimedia Commons

甲州街道で山梨に至るとき、まず登るのが小仏峠。ここを過ぎると、山梨県大月市。狭隘な山間部を抜けて甲府盆地へ至るとき、通らねばならぬのが笹子峠です。1977年に開通した笹子トンネルは全長4.7kmもの長大トンネルであり、中央道でも恵那山トンネルに次ぐ長さを誇ります。ここで起きたのが、2012年12月2日に発生した笹子トンネルは天井板落下事故です。死者9名、負傷者2名という、当時最悪の道路災害となります。

笹子トンネルでは換気孔としてトンネル天井部を仕切るために、連続的にコンクリート製の天井板が設置されていました。午前8時5分頃、上り線トンネル82.6キロポスト付近で天井板の崩落が始まります。この崩落は隣接する天井版の崩落を促し、5m×1.2m、重量1.2tものコンクリート版270枚が、138mに渡って落下。同区間を走行中であった車両3台が下敷きとなり、うち2台から火災が発生します。崩落の下敷きとなった乗用車から計8名の焼死体が発見された他、トラックの中で1名の死亡が確認されました。

 

見過ごされてきたインフラの老朽化。

Sasago Tunnel(Chūō Expwy) 3D model 2
トンネルの模式図。中央上部からの釣具が破断して、天井板が次々に崩落した。
By 浅永 (自身の仕事) [http://creativecommons.org/publicdomain/zero/1.0/deed.en">CC0], via Wikimedia Commons

天井版は、トンネル上部に削孔した穴に接着剤カプセルを装填し、ここに打設したアンカーボルトに吊り下げられていました。事故後の調査によれば、設計上4tの荷重に耐えられるとされたものが、中には1.2tに耐えられないものも存在。竣工から35年という年数で激しく老朽化が進行していたにも関わらず、これを放置していました。残存箇所を緊急点検した結果、10%近くで不具合が確認されています。また、天井板1枚の落下が連続的な崩落に伝播する構造自体の不備も、同時に指摘されています。この事故を受けて、国内の高速道路で同型の天井板が全て撤去されています。

この事故における最大の教訓は、日本のインフラに対する喫緊の老朽化対策が必要とのことです。高速道路や鉄道などに限らず、インフラの多くは東京オリンピックを契機に全国で突貫工事で進められました。その多くは、充分な点検とメンテナンスで安全を維持していますが、この天井板同様に盲点となって見過ごされている箇所があるかも知れません。また、予算不足からそもそも点検が不十分な箇所も存在するはずです。早急かつ緻密な、調査が必要が求められています。

 

1955年ルマン24時間レース〜メルセデスは、ルマンで事故を繰り返す〜 >>1955年6月11日 フランス ルマン サルテサーキット

1955年ルマンで起きた最悪の事故。

メルセデスは呪われたように、幾度もこのルマンで事故を繰り返しています。モータースポーツ史上最悪となる事故は1955年に発生したもので、これを契機に、メルセデスは以後30年に渡り一切のモータースポーツ活動を停止した他、スイスは現在に至るまで全てのモータースポーツイベントの開催を禁止しています。

1955年のルマンは、3大ワークスの激突で大いに盛り上がりを見せていました。ジャガーは前年投入のDタイプの改良型を投入。フェラーリは4.4Lを搭載する121LMを、メルセデスは直噴直列8気筒搭載の300SLRを持ち込みます。

当時のルマン・サルテサーキットはピットレーンに壁がなく、ホームストレートを減速しながらピットに停止するという危険なスタイルでした。減速する車両と、加速する車両が交錯する大変危険なレイアウトだったのです。驚くことに、このレイアウトが改修されるのは90年代に入ってからのことです。

6月11日午後4時、伝統のルマン式スタートで始まったレース。序盤から互いに譲らずハイペースで進行します。スタートから2時間、マイク・ホーソンのジャガーがトップ、2位にエマヌエル・ファンジオのフェラーリ、3位にフェラーリが続きます。2時間半を経過すると、各車ピットインを開始します。

午後6時28分、トップのマイク・ホーソンは周回遅れのオースチンヒーレーを追い抜きざま、ピットインのため急減速します。目の前で減速されたオースチンヒーレーは慌てて逆側に進路をとるも、そこには加速中の20号車のメルセデス・ベンツがいたのです。ドライバーのピエール・ルベ―は為す術無く激しく追突すると、乗り上がるように中に舞い上がります。メルセデスは防護土塁上を数回激しくバウンドしつつ、パーツを撒き散らしながら観客席上に落下し爆発炎上。観客83名とルベ―が死亡した。

驚くことに、大混乱を恐れたオーガーナイザーはレースを続行。しかも、優勝はきっかけとなったマイク・ホーソンのジャガーとなりました。メルセデスは、レース途中で撤退を決断。その後、30年サーキットに戻ってくることはありませんでした。

 

復帰後、再び宙を舞うメルセデス。

Sauber-Mercedes
1988年のC9。ペーター・ザウバーはメルセデスから徐々にサポートを引き出していくが、その間も宙を舞い上がる事故を起こしていた。
By マイティアンタル (自身の仕事) [GFDL or CC BY 3.0], via Wikimedia Commons
Paris - Retromobile 2012 - Sauber Mercedes C9 - 1989 - 016
1989年に圧倒的な強さで優勝したメルセデス。80年代以降、優勝はこのたった一度のみ。
By Thesupermat (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
 
 

スイス人のペーター・ザウバーは、1985年にメルセデスに「サービス残業」でエンジンを作らせることに成功。スポーツカー選手権にオリジナルマシンC8で参戦を開始します。

デビュー戦となったのが、1985年のルマンでした。しかし、予選中にマシンが宙を舞って一回転するアクシデントが発生。大事をとって、決勝レースの欠場を決めます。

1987年に投入したニューマシンC9は、当時絶対王者であったワークスポルシェに次第に肉薄。次第に、メルセデスは技術的関与を深めていきます。そして、1988年。メルセデスはワークスとして公式に活動を再開。チーム名もザウバーメルセデスに変更されます。

迎えた1988年のルマン、C9は予選中に原因不明のタイヤバーストに見舞われます。悲劇の再来を恐れるメルセデスは、決勝レースからの撤退を決断します。メルセデスは、再び宙を舞う恐怖にかられていたのです。

翌1989年は、1-2フィニッシュで並み居る競合を圧倒して、37年ぶりの優勝を遂げます。この時、この優勝がまさか最後となるとは当時誰も思いもしなかったことでしょう。この後、シルバーアローとなったザウバーメルセデスは、圧倒的強さで世界スポーツカー選手権を席巻します。無地のシルバーが異様な恐怖感を与えて、レースを我が物にしていたのです。

 

無理を重ねて、功を焦るメルセデス。

1991年末、メルセデスは突如スポーツカー選手権からの撤退を発表。以後は、F1に活動を移していきます。

一方、メルセデスが猛威を奮っていたドイツのツーリングカー選手権は大人気を博し、世界選手権に昇格するものの、たった1年で崩壊。仕事を失ったスタッフは、1997年の次なる活動先をスポーツカー選手権に定めます。128日という突貫工事で作られたCLK-GTRは、参戦初年度でチャンピオンを獲得。

翌1998年にはさらなる進化型のCLK-LMで、ルマンに再び姿を見せます。この年のルマンは、トヨタ、BMW、ポルシェ、日産がワークス参戦する空前の激戦。このCLK-LMはわざわざ予選用エンジンを持ち込んで、トヨタのPP獲得を阻止。しかし、決勝は冷却系の問題でエンジンが壊れ、相次いでリタイヤ。並々ならぬ決意で臨んだだけに、メルセデス陣営は大きな失望を味わうことになります。

 

危険なマシン、CLRが宙を舞ってクラッシュ。

Mercedes-Benz CLR front 2009 Nurburgring
異様に低い、メルセデスCLR。空気抵抗を徹底的に削減したために、フロントの安定性が極端に低く、それが「離陸」に直結した。
von Marc Oliver John from Wachtberg, Deutschland (Nürburgring)[CC BY 2.0], via Wikimedia Commons

翌1999年は捲土重来を期して、メルセデスは並々ならぬ闘志でルマンに現れます。持ち込んだのはルマン専用設計となる、ニューマシンCLR。このCLRは極端にトップスピードを意識した超低ダウンフォース設計であり、走行開始直後からその危険性が指摘されていました。

CLK-GTR以来、メルセデスのGT1カーには周期的にフロントが跳ねる悪癖がありました。ポーポイジングと呼ばれる現象で、これを避けるにはダウンフォースを増やすか、空力的にマイルドな設計とするしかありません。しかし、前者は付け焼き刃的な対応に過ぎません。一般には、設計段階からリスクを避けて後者が採用されます。しかし、メルセデスはそれを怠ります。さらに、空気抵抗を削減を目的に車高を大幅に下げたため、CLK-LMでフロントに設けていた3番目のダンパーを除去したのです。その結果、CLRはポーポイジングを独立して制御するのが不可能な、完全に危険なマシンとして誕生したのです。

1999年のルマンにメルセデスは、3台のCLRを持ち込みます。早速悪夢は訪れます。予選2日目、当時新進気鋭のマーク・ウェバーの駆る4号車がインディアナポリス手前の最高速セクションで突如「離陸」し、宙を舞った4号車は激しく路面に叩きつけられます。修復された4号車は、決勝前のウォームアップで再び離陸。ミュルサンヌ手前で激しく回転しながら、仰向けに路面に叩きつけられます。4号車の修復は不可能で、決勝は2台でのスタートとなります。

 

300km/h超での離陸。

2度の離陸という大失態を演じたメルセデスは、マスコミの激しい詰問攻めに遭います。そこで、メルセデスはフロントに2枚のカナードを急造して装着。ダウンフォースを増やして、対策とします。その上で、ドライバーに他車のスリップストリームに入らないことを厳命します。しかし、ただでさえ狭いサルテサーキットでレースをする以上、スリップストリームに入るな、というのはムリな命令でした。

決勝の76周目、インディアナポリス手前の最高速セクションでトヨタTS020を追う、5号車のCLRは不用意にスリップストリームに入ってしまいます。CLRは300km/hオーバーでフロントをリフトさせると、為す術無く宙に放り上げられてしまいます。後ろ向きに数回転すると、そのままコース外に姿を消してしまいます。幸い、着地した場所が林を伐採したばかりの場所で、何にも触れることなくお腹から着地。ドライバーのピーター・ダンブレックは軽症で済んだのでした。メルセデスは直ちにレースからの撤退を決断。6号車をピットに入れて、ガレージのシャッターを閉めてしまいます。

 

技術的宿命として放置された欠陥。

メルセデスは再三の指摘にも関わらず、ポーポイジングの悪癖を改めることはありませんでした。このことが事故に直結したのは間違いありません。これまでの成功で慢心に陥った上、ルマン制覇に集中する余り冷静な判断を失っていたとの指摘に、メルセデスは反論することはできないでしょう。

一方で、大きな床板を持つレーシングカーが容易に離陸することは、空力学的にも明らかでした。その後、危険な事故に直結する離陸現象を回避するため幾度もルール変更が行われ、現在では大きな飛翔事故は発生しなくなりました。

こうした設計上の悪癖は、その装置に備わる「技術的宿命」だとして放置されているケースは少なくありません。急停止機構を持たない原子力機関や、翼を失えば落下する航空機なども同様だと言えるでしょう。事故から教訓を学び取り再発防止を期さねば、必ず事故は再発します。そこで失われる命は、まったくムダに終わってしまうのです。

 
 

コメット連続墜落事故〜原因不明の連続空中分解事故〜 >>1953年〜1954年 世界初のジェット旅客機 デ・ハビランド コメット

コメット連続墜落事故。

Dh Comet
世界初のジェット旅客機として、華々しく登場したデ・ハビランド・コメット試作初号機。
By British official photographer [Public domain], via Wikimedia Commons

イギリスのデ・ハビランドが開発した世界初のジェット旅客機コメットは、就航以来原因不明の事故を繰り返す「死の航空機」としてその名を知られます。その一方で、その事故から得られた知見は航空工学のみならず機械工学全般に対し、多大なる影響を与えました。

終戦直後、ドイツと並んでいち早くジェット機を実用化していたイギリスは、今後も航空業界をリードしていくために、デ・ハビランドによる次なる航空機開発を国家プロジェクトとします。

1946年9月に、開発着手。機体は全金属製で、新開発の超々ジュラルミンを採用。推力不足が明らかだったため、徹底した軽量化が図られました。コメットと名付けられた新型ジェット旅客機は、大いなる期待とともに1951年1月9日に英国海外航空(BOAC)に初納入。2機の試作機は世界各地に飛来し、慎重に試験を繰り返していきます。1952年5月2日にロンドン―ヨハネスブルグ線に初就航。所要時間はレシプロ機の半分。コメットは、衝撃とともに世界にジェット旅客機時代の到来を華々しく告げるのでした。

このコメットは、思いとは裏腹にイギリスの航空産業の息の根を止めてしまうのです。

初就航から5ヶ月。コメット9号機が経由地のローマ・チャンピーノ空港からの離陸するも、速度が足りず再接地。滑走路を逸脱して停止。機体の損傷から、9号機はたった26日で廃棄処分となります。原因は、最大荷重付近での加速力が不足と、機首上げ動作による空気抵抗が増大によって、失速速度まで加速できなかったものとされました。

 

就航直後から、相次ぐ事故。

英国海外航空のDH.106コメットMk.I。コメットは、この後原因不明の事故を繰り返す。

2件目の事故は、翌年の3月3日。カナダ太平洋航空への引渡しで移動中の機体がパキスタンのカラチから離陸する際、やはり機首上げ動作を急いだために機体が充分浮揚せず、空港外の橋梁に主脚を引っ掛けた後、土手に激突し爆発炎上。乗員5名とデ・ハビランドの技術者6名全員が犠牲となりました。

3件目の事故は、セネガルのダカール空港。仏のUTA航空が着陸進入に失敗。滑走路を逸脱して、主脚を破損。乗員乗客は全員無事だったものの、機体は現地で放棄されました。

以上3件の事故を受けて、デ・ハビランドはフライトマニュアルを改訂。指定速度に達するまで、機首上げ動作が禁じられました。ここまでは運用上の問題であり、機体性能に適した運用に改めれば回避できることでした。しかし、ここからコメットは次々と原因不明の事故を起こすのです。

1953年5月2日、BOACの8号機がインド上空で強い雷雲に突入すると、突如機体が空中分解。乗員乗客43名全員が死亡しました。事故後の調査で、事故機が雷雲内でダウンドラフトに遭遇した際にパイロットの修正操作が過大だったために主翼に設計限度を超える荷重が生じ、空中分解に至ったと結論付けられました。この時点で、機体の欠陥に伴うものとの指摘もありましたが、十分な確証が得られず、構造欠陥を明らかにすることはできませんでした。

 

原因不明の連続空中分解事故。

Fuselage of de Havilland Comet Airliner G-ALYP
サルベージされた事故機の破片。
By Krelnik (Own work) [CC BY-SA 3.0 or GFDL], via Wikimedia Commons

1954年1月10日、BOACの1号機が地中海上空で無線交信中に、破裂音とともに突如交信不能となります。高度7000mでの機体の空中分解によって、乗員乗客35名は全員が即死。事故を目撃した漁師は、爆発音の後機体がバラバラになって炎や煙に包まれて海上に落下したことを証言します。事故機の残骸は英海軍によって徹底的にサルベージされ、機体の65%が回収されました。この事故を受けて、コメット全機は運行停止となり、海外に駐機中の機体は低空飛行でロンドンに戻されました。

一時は、テロの可能性も考えられたものの、原因は不明。3月23日には、運行を再開します。

6件目の事故は、BOACの9号機でした。同年4月8日イタリア南西沖を飛行中に突如交信不能となり、高度10,700mで同じく空中分解。乗員乗客21名全員が行方不明となりました。事故機の飛行時間はたった2,704時間。製造から2年と、まだまだ新米の航空機でした。

今回も徹底した回収が試みられたものの、水深1,000mに沈むコメットの回収は当時は不可能。僅かな漂流物と6名の遺体のみしか収容できませんでした。この事故の結果、コメット自体に大きな問題があることが明白となり、全機が本国へ召喚。二度と現役に戻ることはありませんでした。

 

試験と実際の負荷の違いは何か。

1954年1月10日の空中分解事故後、回収して復元された3号機の残骸。

空中分解した機体から収容された遺体に対する検死が行われた結果、肺や鼓膜を損傷していることが判明。何らかの要因で、機体が急減圧したと断定されます。ただ、その急減圧の要因は分かりません。

そこで1月の事故機のサルベージに全力を投入。回収された残骸を木製の木枠に貼り付けていき、パズルの如く機体形状の再現が行われます。その結果、テロやエンジン爆発などの可能性は否定されます。機体が何らかの要因で突如空中分解した、と考える他ありませんでした。

そこで疑われたのは、機体与圧による疲労破壊でした。しかし、コメットは十分に安全を考慮した運用与圧の0.58気圧の2倍の与圧で設計されていました。耐久試験でも、2倍の与圧下で1万8000回で亀裂が発生。設計が試験でも実証されたと考えられていました。その上、事故機はたった900回しか飛行しておらず、そもそも金属疲労が原因だとは考えなかったのです。

 

たった3060回の飛行で、亀裂発生。

そこで、召喚された機体を丸ごと沈めるプールを建設。そこに、機体を沈めて与圧を再現し、機体疲労を試験することになりました。

これが世界で初めての、全機疲労試験でした。水槽内・機内を水で満たし、水の増減で加圧・減圧を繰り返します。加速試験として実施されたため3時間の飛行を10分に短縮できたものの、1日150回程度が限界。当時はコンピュータがないため、24時間人員を配して、昼夜連続で試験が続行されました。

当初、5ヶ月掛かると考えられた疲労試験は、たった2週間半後の1830回目で終了します。

客室窓の角から発生した亀裂は、前後に急速進展。さらに円周方向にも進行したのです。機体は既に1230回の飛行を終えていたため、3060回の飛行で亀裂が生じたことになります。開発段階の試験とはまったく異なる結果でした。この結果から、2回の空中分解事故が疲労破壊によるもの完全に結論付けられます。事故機の残骸を再調査したところ、胴体天井のアンテナ取付部に疲労破壊の痕跡が見つかったのです。

 

コメットが授けた、疲労強度という新たな概念。


上が787の静強度試験、下が同じく787の疲労強度試験の模様。

では、開発段階のより厳しい試験では耐えられたのに、なぜ実際の飛行に耐えられなかったのでしょう。

問題は、実は試験手順にありました。試験では、同じ機体で耐圧試験も実施していました。この耐圧試験によって機体がギュッと締め上げられ、実際よりも疲労強度が高まってしまっていました。刀鍛冶が鋼を鍛えるような現象が起きていたのです。その結果、実際よりも優れた疲労試験結果が示されていたのです。

コメットは、その後の航空機開発に決定的な影響を与えます。新型機の開発に際しては、2機の地上試験機の製作。

1機は、全機強度試験に使用されます。最後は主翼の破壊強度を調べるために、主翼をもぎとられてしまいます。この際、想定荷重よりも強度が高すぎてもいけません。設計精度が悪いとみなされるのです。

もう1機は、全機疲労試験機。機体内にエアを送り込んで与圧を掛け、設計通りの疲労耐久性があるか厳しく試験されます。多くの疲労試験機は機体が維持されるので、博物館の展示物となる場合が多く見られます。

この2つの試験のお陰で、航空機の設計上の欠陥が飛行前に明らかになります。例えば、航空自衛隊の輸送機C-2は、与圧試験中に貨物ドアが吹き飛ぶ事故が発生。設計の修正が行われています。もし、飛行後に起きていたら、大惨事になっていたことでしょう。

コメットは航空工学のみならず、機械工学に新たな疲労破壊に対する新たな知見を与えました。1kgの荷重で切れるヒモに、100gの重りでもある回数ぶら下げると、必ずヒモが切れる。

誰しもが考えもしなかったことが、コメットでは起きたのです。

以後、疲労破壊は輸送機関だけでなく、建築・土木の分野へも拡大適用されていっています。コメットの連続墜落事故は、貴重な事故の教訓が正しく生かされた事例とも言えるでしょう。

 

テネリフェの悲劇〜偶然と慢心が招いた、航空史上最大の事故〜 >>1977年3月27日 スペインカナリア諸島テネリフェ島

テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故。

Pan American World Airways Boeing 747 N750PA 01
KLM航空の事故機と同型の747-206B。
Piergiuliano Chesi [CC BY 3.0], via Wikimedia Commons

テネリフェの悲劇とも呼ばれる史上最悪の航空事故は、ほんの些細な言葉の行き違いが大惨事に繋がることの恐ろしさを、私たちにまざまざと教えてくれます。

ロサンゼルス国際空港を発ったパンアメリカン航空1736便と、アムステルダムを離陸したKLMオランダ航空4805便の2機のボーイング747は、同じ大西洋のリゾート地グラン・カナリア島のラス・パルマス空港を目指していました。ところが、最終目的地のこの空港に「爆弾が仕掛けられている」というテロ予告の電話があり、空港が閉鎖。当初空港閉鎖は長引かない見込みだったため、上空で旋回待機していましたが、管制塔は結局2機にテネリフェ島のテネリフェ空港にダイバートを指示します。

テネリフェ空港は1941年開港の古い地方空港であり、1本の滑走路と並行誘導路しかない小規模空港。管制塔はもちろんありますが、地上監視レーダーはありません。どこの島にもある小じんまりとした空港でした。しかし、この日の小さな空港は、隙間がないほど航空機がひしめき合っていたのです。

先に着陸したのはKLM機。ところが、エプロン(駐機場)はおろか並行誘導路まで航空機で溢れかえっており、KLM機は管制官の指示に従って並行誘導路端部の離陸待機場所での待機を余儀なくされます。それから30分後、パンナム機が着陸。KLM機の後位に他の3機と共に駐機します。このような状況のため、離陸には滑走路をタキシングして180度ターンせねばなりませんでした。

 

管制塔の判断を、勝手に解釈する2機。

KLM 747 (7491686916)
パンアメリカン航空の事故機と同型の747-121。
By clipperarctic (KLM 747) [CC BY-SA 2.0], via Wikimedia Commons

それから2時間後、KLM機の機長は一旦乗客を降ろしていたため、テネリフェで給油することを決断。給油を開始します。

ところがそれから5分後、ラス・パルマス空港の再開が知らされます。テロ予告は嘘だったのです。各機はラス・パルマス空港を目指して、次々と離陸していきます。

パンナム機も離陸しようとしますが、狭い空港では747はあまりにも巨大。小柄な他機が自機の脇を擦り抜けるのを目の前にしながら、パンナム機は待機を余儀なくされてしまいます。そこで、無線でパンナム機が給油時間を問い合わせると、KLM機はぶっきらぼうに「35分」と回答。パンナム機のイライラは頂点に達します。機長は、副操縦士と機関士を降ろしてすり抜ける隙間があるかチェックさせるも、ギリギリで無理、と諦める他ありませんでした。

離陸を前に戻ったKLM機の乗客は、1人減った234人となります。テネリフェ島に住むボーイフレンドの家に行くことにしたからでした。給油を終えたKLM機はやっと移動を開始、それに遅れてパンナム機が続きます。ところが、この最中に空港は濃霧に包まれてしまいます。視程300mほど。管制塔からも、滑走路を見ることはできなくなってしまいます。

16時58分、KLM機は管制塔の指示に従って、滑走路端まで移動。そこで180度転回して、航空管制官からの管制承認を待ちます。一方のパンナム機は、管制塔から次のような指示を受けます。それは、滑走路上をタキシングして「3番目」の出口まで進んだら左に滑走路を出て、平行誘導路でKLM機の離陸を待て、というものでした。

霧中、C3出口に到達したパンナム機のクルーが目にしたのは、左後方を向いたC3出口でした。一般に、747のような大型機は転回が困難なため、滑走路上でわざわざ急転回させたりしません。そこで、パンナム機はもう一つ先のC4出口を指示しているものと、勝手に判断。さらに先の、C4出口まで滑走路上を進んでしまいます。指示を聞いたのが、C1を過ぎてC2手前だったので「3番目」はC4に違いないと判断したのです。

 

紛らわしい管制塔の言葉が勘違いへ導く。

Plataforma tfn
狭く小さなテネリフェ空港。当時、テロの影響で大変な混雑であった。
By No machine-readable author provided. Guanxito2006 assumed (based on copyright claims). [GFDL, CC-BY-SA-3.0 or CC BY 2.5], via Wikimedia Commons
Map Tenerife Disaster IT parking
図々しい態度のKLM機が給油を始めたため、パンナム機は苛立ちを感じていた。
By Airplane_silhouette.png: Jussi Pajuderivative work: EH101 (Airplane_silhouette.svgown work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
 

同じ頃、KLM機の機長はブレーキを緩解し離陸滑走を始めようとします。ところが、副操縦士は管制承認をまだ聞いていません。

17時6分18秒、管制官は管制承認を行います。あくまで、これはフライトプランの承認であって、離陸許可ではありません。KLM機の機長は、無線中にあった「take off」という言葉を、離陸許可とみなして離陸滑走を開始してしまいます。

同23秒、KLM機は管制官に対し、「We are at take off」か「We are taking off」のどちらともとれるオランダ訛の英語で回答。管制官はうまく聞き取れず、「OK・・・(2秒間無言)・・・Stand by for take off. I will call you.」とその場での待機を命じます。

これを聞いていたパンナム機は不安を感じ、「No, we are still taxiing down the runway」と滑走路上にいることを警告します。ところが、この無線送信が2秒の無言の直後だったため、KLM機には管制官の「OK」の一言しか伝わっていなかったのです。KLM機は、スロットルを離陸推力まで引いて、一気に滑走路上を加速します。

 

2機のジャンボジェットが激突、炎上。

Tenerife-airport-disaster-crash-animation
事故を再現したアニメーション。互いを視認した時には、もう既に回避不能だった。
By SafetyCard (Own work) [CC BY-SA 3.0 de], via Wikimedia Commons

管制官はパンナム機に対し「Report the runway clear」と伝え、パンナム機が「OK, we'ii report when we're clear.」と、滑走路が開いたことを報告する旨を確認しています。これが事故を回避する最後のチャンスでした。

濃霧のため、互いの姿を確認するのは、不可能でした。KLM機の副操縦士は、パンナム機が滑走路上にいるのではと不安に感じて機長に尋ねていますが、不幸にもこれは一蹴されてしまいます。

17時6分45秒、パンナム機のクルーが目にしたのは滑走路上を急速接近するKLM機の着陸灯でした。パンナム機は出力全開にして、C4出口を出ようと急ぎますが、間に合いません。

機首を45度ほど回頭したパンナム機の機体に上から覆い被さるように、KLM機が激突します。KLM機の機尾と主脚が胴体右側上部に激突すると共に、右翼のエンジンがパンナム機の2階客席全部を粉砕。次に、KLM機は宙に舞い上がると、失速して150m程先に落下。滑走路を300mほど裏返しのまま滑っていって、爆発炎上します。

 

史上最悪の航空機事故。

KLM機の乗員乗客248名は全員死亡。一方のパンナム機は、爆発炎上によって396名中335名が死亡しました。生存者は、パンナム機の乗員7名と乗客54名。胴体左側の座席の乗客で、機体がちぎれたことで火災から免れていました。また、衝突が機首は残存したため、クルー3名も難を逃れています。

双方合わせて583名の死者は、3.11の同時多発テロを除いて現在においても世界最悪の犠牲者数です。ほんの些細な言葉の行き違いと、イライラ、そして不運。何か一つでも違っていれば、事故は回避されていたはずでした。管制官の指示にOKやtake offといった誤認もやむを得ない用語が使われていたのは、事故後大きな問題となります。

以後、管制用語から誤解を招く表現は一切排除され、クルーの復唱も必須となっています。しかし、同じような「言葉の事故」は国内でも発生していて、重大インシデントとして調査が行われています。

絶対にミスの許されないこうした状況下では、用いる用語ひとつにも注意を払わねばならないことを、この事故は私たちに教えています。

 

日本航空123便墜落事故〜日本の航空史上、最大の事故〜 >>1985年8月12日 群馬県多野郡上野村「御巣鷹の尾根」

日本航空123便墜落事故。

JA8119 at Itami Airport 1984
事故の当事機である、JA8119。この後、大惨事を招くことになる。
By Harcmac60 [CC BY-SA 3.0 or GFDL], via Wikimedia Commons

明石家さんまが偶然難を逃れ、歌手坂本九が命を落とした、余りにも痛ましくかつ有名な航空事故です。520名の命が奪われたこの事故は、世界最悪の単独機の航空事故として記録されています。

現在でも、毎年墜落現場では慰霊祭が行われている他、日本航空では残存機体の一部を永久保存し全ての社員の見学を義務付けています。

1985年8月12日18時12分、東京発大阪行日本航空123便747SR-100(機体番号JA8119)が羽田を定刻より4分遅れで離陸します。乗員乗客は524名。機内はお盆ということもあり、非常に混雑していました。ここまでは、何も変わらない日常風景。しかし、そんな状況は一変します。

同24分、相模湾上空高度24,000ftへ向けて上昇中、突如衝撃音とともに機内が急減圧したのです。123便は緊急救難信号を発信。羽田への緊急着陸を要求。27分、123便は直ちに緊急事態を宣言。28分30秒、東京の航空管制部の東進の指示に対し、「But now uncontroll」と返答。地上側は、123便が操縦不能になっていることを認識します。

実はこのJA8119、事故を遡ること7年前にしりもち事故を起こしていました。その修理の際に、ミスが発生。機体は7年もの間、誰にもその欠陥を知られることなく飛んでいたのです。

コメット機の時にお話したように、航空機は上空で機体に与圧を掛けて大気圧を維持。機内の乗客に快適な空間を提供しています。この与圧箇所と非与圧箇所を隔てるのが、圧力隔壁です。この圧力隔壁が破壊すると機内が急減圧し、乗員乗客はたった数秒で意識を失って死に至ります。極めて重要な圧力隔壁、この修理にミスがあったのです。結果、強度が不足していて圧力隔壁はいつ破損してもおかしくない状況す。ところが、この部分は他の部材に覆われて目には触れません。ですから、7年もの間放置されてしまうことになったのです。

 

圧力隔壁が吹き飛び、制御不能に。

Boeing B747 Aft Airlock
B747の圧力隔壁。JA8119はこの隔壁修理にミスがあり、尾翼の一部を喪失した。
By User:Stahlkocher (Own work) [GFDL or CC-BY-SA-3.0], via Wikimedia Commons

そんなことを知る由もないクルー達は、突然の事態に混乱します。

しかし、状況はこの時点で既に絶望的でした。圧力隔壁が吹き飛んだことで、垂直尾翼は上半分を喪失。その際、補助動力装置と油圧4系統すべてが損傷し、操舵翼すべての制御が不能となったのです。機体は、完全にコントロールを失っていました。

頼るべきは、4つのエンジン出力のみ。制御ができない機体は、フゴイドやダッチロールなど周期的な動揺を起こし、上昇下降を繰り返します。この時点では高度20,000ftを維持していましたし、エンジンは生きていたので、クルーにはまだ制御を試みる時間が残されていました。クルーは、乗員乗客の命を掛けて、懸命のコントロールを試みます。

同40分、ランディングギアを降下。空気抵抗を増やして、降下を試みます。機体は富士山東側を北上、大月市上空で急な右旋回を描きつつ、一気に6,000ftまで高度を下げます。機体制御は次第に絶望的となり、クルーたちは無線にも応答しなくなります。機体は羽田方向へ向かったものの、埼玉県上空で左旋回。群馬県南西部の山岳地帯へと向かっていきます。

 

御巣鷹の尾根に、激突し炎上。

ボイスレコーダーには、「頭下げろ!」「頭上げろ!」など失速と降下を制御しようと奮闘するクルーたちの声が刻み込まれていました。

46分、機長の「これはだめかも分からんね」との声。

49分、機首は39度に上がり、速度は200km/hまで落ちて遂に失速警報が作動。山岳地帯で高度を失いそうになる中、上昇と下降を繰り返しつつ、懸命な操作が続けらます。

51分、電動でフラップを作動。

53分頃に、一旦機体は安定し始めます。

しかし、54分機首が再び上がり、速度が低下。しかし、機首は下がりません。

55分12秒、さらにフラップを下げると機体は風にあおられて急降下。

56分07秒、フラップを再び上げるも機首は36度も下がり、ロール角は80度を超えます。

56分14秒、対地接近警報が作動。

56分23秒、クルーの命がけの奮闘は実を結ばず、右主翼と機体後部が樹木に接触。この時の速度は、640km/h。

18時56分30秒、機体は裏返しの状態で斜面に衝突。123便は墜落します。機体後部と尾翼は山の稜線を超えて、滑落。樹木をなぎ倒しながら、滑走して停止。一方、機体前部は原型を留めないほど破壊された上に、炎上。乗員乗客524名中、生存者はたった4名でした。

 

錯綜する情報、遅れる救助。

500名以上が乗った航空機が行方不明という日本国内では前代未聞の事態に、地上側は大混乱に陥ります。墜落位置の特定ができていなかったのです。

墜落から20分後の19時15分頃、米空軍のC-130輸送機が横田基地から方位305度、距離34マイルを第一報を通報。

さらに、同21分には航空自衛隊のF-4戦闘機2機も方位300度、距離32マイルを通報します。20時42分には空自救難隊のKV-107ヘリコプターが現場上空に到達するも、夜間での救難作業が困難なため撤退。

これらの情報は正しかったにも関わらず、生かされることはありませんでした。

民間航空は当時の運輸省の管轄。縦割り行政の弊害で防衛庁からの情報は無視。運輸省は独自の情報ソースに固執します。

そこで頼ったのが、陸上からの目撃情報。しかし、現場周辺の捜索に当たらせていた群馬、埼玉、長野の各県警からの情報や、110番通報による情報など、それらの殆どはバラバラの位置を示しています。その度にごとに、ムダな捜索活動が展開。時間は、刻一刻と過ぎていきます。

この間にも、胴体後部で生存していた乗客たちは、次々と息絶えていっていたのです。

 

123便は、果たして着陸可能だったのか。

Cenotaph of the japan air flight 123 at osutaka Ridge
墜落地点の御巣鷹の尾根に建立された、昇魂之碑。
By nattou (Own work) [GFDL or CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

翌13日4時30分、航空自衛隊救難隊が墜落機体を発見。ようやく救助が開始されたのは、それから4時間後のこと。8時半頃のことでした。

長野県警機動隊員2名がラベリング降下。さらに、陸上自衛隊第1空挺団が現場に降下して、仮設ヘリポートを設置。救助が本格化した時には、事故から既に14時間が経過していました。

ところが実際には、墜落地点の第一報を伝えたC-130は、米海兵隊の救難ヘリを現場に誘導していたことが、1995年に明らかになりました。生存者も墜落直後に飛来したヘリを記憶していたといいます。海兵隊は、命令次第で直ちに救助する体制を整えていましたが、下ったのは突然の撤退の命令。日本政府が、理由は不明ながら、いち早い米軍の救助活動を拒絶したのが理由だとされています。

この事故は、航空機設計に大きな影響を与えます。墜落の原因が、4系統の油圧系統を同時にロストしたことにあったからです。もし、1系統でも生きていれば、少なくとも機体の安定を保つことはできたでしょう。

これ以後、油圧系統の位置が集中しないよう設計が見直されました。また、油圧のバックアップとして電動を追加している機体が増えています。胴体後部を完全に喪失しない限りは操舵翼の制御が可能になり、機体の安定を維持できるように見直されたのです。

さらに、各航空会社ではすべての操舵翼を失い、急減圧が発生した状態で緊急着陸が可能なのか、シミュレータで試みられていました。その結果、いくつかの事故が墜落を免れています。

 

ユナイテッド航空232便不時着事故〜御巣鷹の教訓が最悪の事態から人命を救う〜 >>1989年7月19日 米国アイオワ州

ユナイテッド航空232便不時着事故。

UA232precrash
事故機の飛行経路。右上の▲印でエンジンが破損。迷走しつつ、着陸体制に入った。
By NTSB (NTSB accident report) [Public domain], via Wikimedia Commons

ユナイテッド航空が運行するマクドネル・ダグラス製の旅客機DC-10が起こした、1989年7月19日の不時着事故。この事故は、先の123便の事故事例を徹底的に研究していた非番のパイロットの尽力により、墜落を免れた事例です。この事故は、事故の教訓を活かすことの大切さを私たちに教えてくれます。

乗客285名、乗員11人を乗せたユナイテッド航空232便はコロラド州デンバーを14時9分に離陸、シカゴ・オヘア国際空港を目指していました。通常通りに予定高度37,000ftに到達し、ここでオートパイロットをセット。232便は順調に巡航に入ります。

ところが、離陸から約1時間後の15時16分10秒。乗員は大きな爆発音に驚きます。続いて、機体は激しく振動を始めます。計器類を確認すると、第2エンジンに異常あると特定。直ちに、オートパイロットを解除し、機長は各部のチェックを指示します。すると、機関士が油圧計と油量計がゼロを示していることを発見。続いて、副操縦士が機体が右旋回で降下中であり、制御不能に陥っていることを報告します。

事態は、既に絶望的でした。第2エンジンのタービンブレードが破砕して吹き飛び、機体構造部分を貫通。その結果、油圧系統はすべてロストしていたのです。123便と同様に、機体制御は極めて困難でした。機長が第1エンジンの推力を下げると、機体は徐々に水平を回復し始めます。15時20分、クルーはミネアポリスの航空管制センターに無線連絡、スー・ゲートウェイ空港への緊急着陸へ向けた進路誘導を要請します。同25分には、救難信号を発信しています。

 

油圧を失って、操舵不能に。

UA232map
着陸直前に撮影された事故期の状況。赤色で示された部分が破損している。
By NTSB with highlights added by Anynobody (talk) 03:20, 16 April 2009 (UTC) (NTSB) [Public domain], via Wikimedia Commons

たまたま232便に乗り合わせていた、DC-10の訓練審査官の資格をもつ非番の機長デニス・E・フィッチが、客室乗務員に対し協力を申し出ます。

コックピットに呼ばれた彼は、機長から状況の説明を受けます。この時、機体は操縦桿を左に一杯に切った状態で、右旋回をしていました。機体を制御する手段をすべて失った旨の報告を受けると、フィッチは客室窓から外部損傷の確認と操縦翼面が動作しているか確認するため、客室に戻ります。フィッチが見たところ、主操縦翼面が動作していませんでした。

フィッチはスロットルレバーの後ろに跪き、そこで推力調整による機体制御を試みます。これにより、機長、副操縦士のワークロードが低減されました。操縦翼面は、左右非対称の位置で固定されていたため、機体は常に右旋回する傾向があり、クルーたちは左右の推力を非対称にすることで機体の安定を取り戻そうとします。

15時32分、機長は速やかな不時着への備えを客室乗務員に指示。滑走路にたどり着けず、不時着する可能性もあることを伝えます。さらに、機長は緊急着陸に備えて様々な情報を収集します。同35分、燃料を急速投棄。同48分、重力を用いた予備の方法でランディングギアをセット。フィッチは航空機関士席に移って、スロットル操作を継続します。

 

着陸寸前に、姿勢を乱す。

同51分、管制官は空港北21マイル地点にいることを告げ、旋回を緩めることを求めます。これは市街地上空を避けるためでした。さらに数秒後、方位180度への旋回を求めます。同55分には、機内放送で4分後の着陸が伝えられます。

当初、管制官は滑走路31への着陸を想定していましたが、機長はそれは困難と考え、ほぼ正対していた滑走路22への着陸を決断します。

同59分時点での、スー・ゲートウェイ空港の天候は視程24km、風は360度の方向から14ノットでした。進入中もフィッティは細かくスロットルを調整し続けます。

同59分44秒には、対地接近警報装置が作動、大きすぎる降下率を警告します。着地20秒前、速度398km/h、降下率1620ft/m。完全ではないものの、機体はある程度制御されていました。

ところが、着地寸前で右主翼が急激に下がり、同時に機首も下がり始めます。機体は滑走路22の終端、やや左に接地。右主翼翼端が地面に接触、続いて右エンジンと右主翼が接地。右エンジンは、爆発炎上します。機体は滑走路右にスライドし、右主翼と機体尾部が分離してしまいます。残された機体は炎上し、横転の衝撃で分解していったのち、停止。機体中央部は裏返しになって、炎上し続けました。

 

123便の教訓が生かされ、助かった命。

分解した機体が、背の高いトウモロコシ畑の中に入ったため、救助には空からの援助が必要となります。胴体は、接地の衝撃で5つに分離。機体前部と後部は損傷が激しく、その多くが死亡。機体中央部は、その後方が主翼の火災にさらされたため、煙による窒息者が多く出ました。

激しく損壊したコックピットは絶望視され、救援は後回しにされますが、奇跡的に乗員4人が救出されています。

乗員乗客296名中110名が死亡。これだけの絶望的な状況にも関わらず、生存者がいたことが、既に奇跡です。クルーたちの懸命の努力が結実した結果と言えるでしょう。

この後、数件の機体尾部喪失や操縦翼の失効などのインシデントが発生していますが、いくつかの事例では着陸を成功させています。123便も、早期に損傷を把握できていたならば、状況は違っていたのかも知れません。

 

中華航空140便墜落事故〜自動操縦システムとパイロット操作の競合〜 >>1994年4月26日 愛知県 現県営名古屋空港内

中華航空140便墜落事故。

1994年4月26日に発生した名古屋空港で発生した、中華航空140便墜落事故は自動操縦装置の異常動作に起因するもので、自動操縦に関する多くの課題を私たちに突きつけました。

20時16分、中華航空140便(エアバスA300-600R)は台北空港を発って名古屋空港に着陸進入中に失速。滑走路東側に墜落、炎上します。この事故で乗員乗客271名中264名が死亡しました。生存者は、すべて主翼桁上に着席していた乗客でした。

140便は副操縦士による手動操縦でのILS(計器誘導)進入で着陸態勢に入っていました。140便は順調にILS進入を継続していましたが、同14分05秒、副操縦士が誤ってゴー・レバー(ゴー・アラウンドや離陸開始時に推力最大にするレバー)を操作したため、ゴー・アラウンド・モードになって推力が増加。機体は推力が増したために、正規の降下経路から浮揚してしまいます。

機長は、副操縦士に対して、ゴー・レバーの解除を指示。さらに、副操縦士に対し上にズレた降下経路の修正を指示します。副操縦士は、操縦桿を機首下げ方向に操作。それに加えて、自動操縦で本来の着陸高度に戻すために、副操縦士はオートパイロットを作動させます。しかし、ゴー・レバーはそのままだったため、ゴー・アラウンド・モードは解除されておらず、自動操縦のコンピュータは意に反して、ゴー・アラウンドをするため高度を上げようとします。

 

自動操縦の反抗により、制御不能に。

操縦桿の操作によって、昇降舵は機首下げ方向に動作。これに対し、水平尾翼はコンピュータによって機首下げ方向に限界まで作動。この時、機首下げの効果が若干上回ったために、機体は降下を始めます。同14分50秒頃、オートパイロットをオフにします。

機体は機首上げを起こし迎角が増加したことで、同14分57秒過ぎに失速防止装置が作動。推力が一気に増加し、さらに機首上げが強くなります。同15分03秒、機長が操縦を代わるも機首角は10度以上に達します。機長は、15分14秒頃に着陸を断念。管制官にゴー・アラウンドを通報します。しかし、水平尾翼は機首上げに限界まで作動していたため、昇降舵を戻したことで機体は急上昇。機首角が53度に達したことで、失速。同15分45秒、墜落に至ります。

 

自動操縦とヒューマンエラー。

直接的な墜落原因は、自動操縦と手動操縦の競合にあります。当時のエアバスの設計では、自動操縦を手動操縦がオーバーライドできる設計にはなっていなかったのです。また、そうした場合に特別な警告もありませんでした。また、ゴー・レバーが誤って作動しかねない機構だった点も見逃せません。

その一方で、クルーが機体システムについて理解が不十分だったことは、厳しく指摘されるでしょう。ただ、極度の緊張状態ではヒューマンエラーは起こりうるものであり、こうした状況下においても正しくシステムが作動するよう、十分に考慮されねばなりません。

ヒューマンエラーと自動操縦の欠陥、そのどちらが起こり得るものです。その上で、人間とコンピュータのどちらを優先すべきなのでしょう。現時点では、人間の最終判断を優先すべき、というのが工学分野における共通認識です。そのため、操縦ミスや判断ミスによる事故は、回避することはできないのが現状です。

 

ハドソン川の奇跡〜迅速かつ的確な判断による、奇跡の生還劇〜 >>2009年1月15日 アメリカ合衆国ニューヨーク市ハドソン川

USエアウェイズ1549便不時着水事故。

Plane crash into Hudson River (crop)
1549便が、不時着水を敢行した直後の状態。迅速な避難が既に始まっている。
By Greg L [CC BY 2.0], via Wikimedia Commons

「ハドソン川の奇跡」と呼ばれたこの事故は、2009年1月15日に発生したUSエアウェイズ1549便のエアバスA320が極寒のハドソン川に不時着水したものです。チェズレイ・サレンバーガー機長とジェフリー・B・スカイルズの2名のクルーは、その勇敢かつ冷静な判断が乗員乗客全員の命を救ったとして、全世界で高く賞賛されました。この事故は、のちに映画化されています。

1549便は、ニューヨーク州のラガーディア空港を離陸直後に、不幸にもカナダガンの群れに遭遇。この際、左右2機のエンジンに成鳥(4kg)が複数飛び込み、コンプレッサに致命的なダメージを負ってしまいます。これで、右エンジンは完全に沈黙、左エンジンは推力は失ったものの、気流で何とか回転だけは維持していました。

航空機の離陸直後は速度・高度ともに低いために、パイロットに与えられた時間は僅かしかありません。ほんの些細な判断ミスは、文字通り「命取り」となります。サレンバーガーは即座に操縦を交代、空港管制に非常事態を宣言。副操縦士に、手順通りの異常確認を実施させます。手順とは違うものの、直ちにAPU(補助動力装置)を起動。機体設備への給電を確保します。当初機長はラガーディア空港か、進行方向にあったテターボロ空港えの着陸を目指します。しかし、それには高度・速度がギリギリ。もし、着陸に失敗すると市街地に機体を墜落させてしまい、甚大な被害が生じてしまいます。機長は、ハドソン川への緊急着水を宣言します。高度を下げる1549便は、空港管制のレーダーから消失してしまいます。そこで、周囲の航空機に対し1549便に対する支援を要請しています。

サレンバーガーは、趣味のグラインダーで使うフォワードスリップというテクニックを使って、高度・速度を落としていきます。

 

フライドチキンの味は、如何に。

ジョージ・ワシントン・ブリッジをギリギリで回避すると、さらに高度を下げていきます。異常発生から3分後、サレンバーガーは大きなエアバス機を約270km/hで滑るように着水させることに成功。着水時に機体姿勢がほぼ水平だったため、翼端が水面に接触したことによる機体分解も回避されます。ただ、機体尾部に損傷があったために、直ちに浸水も始まります。

客室乗務員の適確な誘導により、乗客は前部ドアから直ちに避難を開始。客室乗務員は、機内から救命胴衣と毛布を回収して、乗客に配布。氷点下6度という極寒にも、適確に対処します。機長は浸水が始まっていた機内に2度確認に向かい、全員の避難が確認した後に機外へ脱出します。機体は、約1時間後に水没。後に引き上げられ、厳重な調査が行われています。

勇敢な機長として様々な表彰を受けたサレンバーガー機長は、2009年1月17日のオバマ大統領の就任式に招待されています。その前夜、ディナーに選んだのは、レストラン・ハドソンの「フライドチキン」でした。

 

血の教訓を、未来へ。

今回の文中に記載されたすべての事故の犠牲者は、のべ3,962名にのぼります。この場を借りて、すべての犠牲者の方々に対し、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

鉄道、船舶、航空の各分野では、新たな歴史のページをめくるたびに、数多くの凄惨な事故を引き起こしてきました。その度に、人類は原因を分析し、理解し、これを血の教訓として記録してきました。そして、事故の再発防止を誓うとともに、また一歩時代を進めてきたのです。しかし、これは20世紀の常識に過ぎません。今や、時代は変わったのです。

たくさんのかけがえのない命と引き換えに、学んだ血の教訓。私たちは、これを失ってはいけないのです。皆さんのご記憶のいつか何処かで、今回のレポートがお役に立つことを願っています。

 

筆/文責:スバルショップ三河安城和泉店 営業:余語

 
 

ニュースリスト

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2018年01月08日 スバル

スバルの2018年展望

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2017年09月04日 スバル

オレたちのスバルが向かう道。

 
 
 
 
 
 
 
  • スバルショップ三河安城
  • 和泉サービスセンター
  • 福祉車両事業部
  • 中部自動車販売会社概要