スバルショップ三河安城の最新情報。スバルのヒストリー外伝「プリンス自動車〜消えるべくして消えた、スバルの兄弟〜」 | 2018年8月8日更新

 

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宇宙産業への進出と、自分へのけじめ。〜中川良一の決断〜

小川秀彦がプリンス自販社長に就任。

Prince Sedan AISH exhibition show at the Bridgestone headquarters in March 1952

ブリヂストン本社にて。一番右が、外山保。中央左が、石橋正二郎。
By 田中次郎 [Public domain], via Wikimedia Commons

1958年1月31日、富士精密系の常務取締役であった天瀬は夜中の電話で叩き起こされます。内容は、石橋会長が突如プリンス自販への異動を命じたので、翌日から自販に出社せよ、というものでした。ワンマンここに極まる、理不尽な人事でした。天瀬は、前年自販へ転じていた外山と入れ替わりで自販の専務に就任します。慣れない販売業務に苦労しつつも、天瀬はそれまでの月販500台を1500台へ引き上げることに成功。さらに、天瀬は3ヶ月を掛けて、100億円を要する長期計画を策定します。しかし、この計画は日の目を見ることはありませんでした。それは、またしても石橋が専決した人事が原因でした。

1959年、石橋は住友銀行の堀田頭取の意を受けて、悪名高き男を役員に迎い入れます。小川秀彦、トヨタに最大の屈辱を与えた男です。

1950年、ドッジ不況で苦境に喘ぐトヨタは、メインバンク三行に緊急融資を依頼。しかし、当時住友銀行名古屋支店長だった小川は、トヨタに対し「機屋に貸せても、鍛冶屋には貸せない」と言い放ったのです。そして、融資はおろか、逆に融資金を回収。メインバンクの取引停止により、トヨタの信用は失墜。破綻寸前まで追い詰められます。結局、日銀名古屋支店長高梨の主導によって緊急融資は行われたものの、引き換えに豊田喜一郎は家訓で禁じられた人員整理を断行。責任を取って辞任した喜一郎でしたが、心労が祟り急逝してしまったのです。

石橋は、販売力強化のため運転資金の増強が必須となることを見据えて、取引銀行との関係強化の道を選んだと推察されます。鼻持ちならないこの男は、プリンス自販の社長に就任。早速、横柄な態度で周囲の顰蹙を買うのですが、石橋の威を借る小川に逆らう者は誰もいませんでした。

四つ巴の主導権争いにより、常に混乱する経営。

プリンス自動車村山工場

国土地理院地図・空中写真閲覧サービスより。造成中の村山新工場、1961年撮影。

プリンス自工に戻った外山は、1957年にこれまた壮大な5カ年計画を策定します。旧態依然とした設備を刷新し、国際競争に伍する最新技術を導入するためのものでした。総額250億円という莫大な資金調達を必要とする計画のメインに据えられたのは、40万坪に及ぶ巨大な村山新工場の建設でした。

小川は、この5カ年計画に強行に反対。外山と会議の席上で厳しく対峙します。結局は、石橋の「土地だけでも買ってしまおう」という鶴の一声で会議は決します。5カ年計画は、石橋によって無事承認。早速、担当役員は資金調達に奔走します。資金調達に目処が付くと、今度はこの計画を誰が実行するのか、で役員会は大揉めとなります。富士精密系とたま自動車系の主導権争いです。村山新工場の建設工事でも問題が起こる度に、主導権争いを目的とした責任追及が行われました。

プリンス自動車は、ここから日産への吸収合併へ向けて坂を転がり落ちていくのです。

プリンスが売れると、タイヤが売れない。本業の邪魔だった。

オール自動車メーカーを目指してプリンスを手中に収めた石橋は、ジレンマを抱えていました。トヨタや日産が、競合メーカーのグループ会社のタイヤを装着するのを嫌がるのは当然です。プリンスのクルマが売れるほどに、プリンスの存在がブリヂストンタイヤ販売の足かせとなっていきます。石橋は、ブリヂストンの販売サイドから厳しい突き上げを喰らいます。

プリンスが2代目グロリアのフルモデルチェンジに失敗し、第1回日本グランプリで大惨敗を喫すると、石橋は完全に興味を失ってしまいます。パトロンを失ったプリンスは、最早身売りする以外に道は残されていませんでした。

石橋が小川を役員に受け入れたのは、実はプリンスの売却へ向けた布石だったのです。つまり、1959年の時点で住友の堀田頭取とは既に話が付いていたのです。

ワンマン経営も、小川秀彦も、すべてはプリンス売却への布石だった。

PrinceGloria-super6

石橋の承認を得るべく、全身メッキだらけで登場した2代目グロリア。当然、鳴かず飛ばずだった。
By Ypy31 [Public domain], from Wikimedia Commons

技術者ばかりのプリンス自動車の面々には、売れるクルマを造るという認識は一切ありませんでした。世界に伍し、いつかこれを凌駕する自動車が作れれば、必ず売れるに違いないと、安易に考えていたのです。そんな彼らがまとめ上げた、2代目グロリアは石橋から見れば駄作でした。デザインは古臭くシンプルで素っ気ないもので、消費者の購買意欲をまったく刺激しないものでした。石橋は烈火の如く怒り、販売中止を命じます。

期待の新型車は、メッキモールの厚化粧をまとって何とか石橋の承認を得て、発売に漕ぎ着けます。しかし、予想通りに販売は苦戦の連続で、徐々に在庫が膨らんでいきます。

そんな折に、石橋が呼び出したのが外山でした。石橋は、自販への転出を命じます。5カ年計画をぶち上げて巨額投資を決めたのは、他ならぬ外山でした。責任をとって自分で売ってこい、という事です。外山は執拗に抵抗を試みたものの、すべての当ては外れます。1963年4月、外山は自販の副社長に就任します。外山は慣れない販売業務の改善に邁進します。ところが、1963年8月29日に再び不可解な人事異動が発令します。

新たに自販に転出したのは、誰であろう新山春雄でした。販売の経験が無い新山の異動は、まったく異様でした。石橋は、プリンスの幕引きを新山に託したのです。極秘の合併話は、すでに進捗していたのです。

1965年5月31日、プリンス自動車の名が抹消された日。

1965年5月31日午後3時、日本自動車史からひとつのメーカーの名前が永久に抹消されます。東京丸の内パレスホテルにて、住友銀行堀田頭取、日本興業銀行中山頭取を立会人に、石橋会長、小川社長、日産自動車川又社長出席のもと、合併調印式が行われます。合併比率は、だいたい日産1:プリンス2。実態上は、完全な吸収合併でした。

石橋は1963年5月の第1回日本グランプリでの大惨敗に失望し、とっくにプリンスへの興味は失っていました。それ以降、ずっと身売り先を探していたのが実情でした。当初は、住友系の東洋工業(現:マツダ)へ持ちかけるものの、松田恒次はこれを固辞。次に頼ったトヨタは、小川秀彦が出禁だったために頓挫。結局、行き着く先は日産しかなかったのです。

この合併発表は、課長級以上のみは午後5時なって知らさせましたが、社員たちは自宅のニュースで知らされる始末でした。富士精密系とたま自動車双方の取締役にとっても、誰もが寝耳に水の発表でした。

この事実を事前に知っていたのが、石橋と小川のみだったと聞けば、プリンスの晩年が茶番であったことは容易に想像が付きます。小川は全社員に対し、3ヶ月前から秘密裏に交渉していた旨を伝えていますが、これは事実ではありません。商才ある経営者が不在なばかりに、豪腕経営者に振り回されたプリンス自動車。悲運の自動車メーカーとして、今にその名を知られています。

モータスポーツへの挑戦〜運命を決した、第1回日本グランプリでの大惨敗。〜

日本のモータスポーツの胎動。

Datsun 1000 Fuji-Go 001

1958年に海外ラリーに挑戦した、ダットサン1000「富士号」。
I, 天然ガス [GFDL, CC-BY-SA-3.0 or CC BY-SA 2.5 ], from Wikimedia Commons

今から、遡ること60年。プリンスの面々は世界を目指していました。かつて、世界の列強と肩を並べて空を闘った技術者たちですから、世界と闘うことにためらいなど微塵も無かったのです。

彼らの運命は、第1回日本グランプリの大惨敗で決していました。しかし、彼らの情熱の行方は、決してはいなかったのです。

1960年代初頭、F1ではすでにミッドシップ革命が起こり、イギリスのロータスやクーパーが大活躍を演じていました。ドライバーはF1黎明期の世代から新旧交代の頃であり、ジム・クラークやグラハム・ヒルが徐々に頭角を現しつつありました。一方のスポーツカーレーシングは、フェラーリの一人天下。今日数十億で取引されている名車の数々が、鮮やかに駆け抜けていました。

一方、その頃の日本では、大小様々なメーカーが熾烈な販売合戦を繰り広げていました。その中から一歩抜け出そうと思えば、他社に対する優位性を示すのが一番です。そこで各メーカーは、国内外の様々なモーターレーシングに挑戦するようになります。まだまだ、初陣。初心者甚だしい時代のことです。国内レースを完走するだけでも、海外メーカーと一緒にレースに出場しただけでも、はたまた海外の有名サーキットの前まで行っただけでも、それだけで充分宣伝になったのです。

世界一流を目指すために、モータスポーツを志向したプリンス。

1961年の全日本自動車ショーで、プリンスは日本初の本格的スポーツカー「スカイライン・スポーツ」を発売。最大の特徴は、魅力的なデザイン。本場イタリアのミケロッティに委託したものでした。このモデルは、製造方法もカロッツェリアのそれに倣ったものでした。つまり、1台1台が手作り。手間がかかるため、総生産台数は60台ほどに終わります。兎にも角にも、世界に肩を並べる性能を標榜する自動車メーカーを目指して、プリンスはその第一歩を踏み出したのです。

自動車史を見れば明らかなように、技術を磨くにも、その技術を証明するにも、そのブランドを確立するにも、モータスポーツはもってこいの存在です。プリンスの面々が、自らのプロモーションの場にモータスポーツを志向したのは極自然なことでした。

そもそも、戦時中に国家防衛を担っていたプリンス技術陣の面々には、国内の自動車レースなど容易いと考えていました。「機織屋」のトヨタや日産に敗北するなどあり得ない話でした。

1963年5月、本田宗一郎お得意の無謀な計画の末に完成したばかりの鈴鹿サーキットで、FIA、JAF公認の本格的自動車レース「第1回日本グランプリ」が開催されることになります。日本で初めての本格的自動車レースとあって、大いなる関心が集まります。

真面目一本の旧中島の面々。見事に出し抜かれて惨敗を喫する。

ところが、当時は高嶺の花だった自動車。それをオモチャにしてレースをするなど日本の生活水準からは考えられないことでしたから、開催が決まっても各メーカーは冷たい態度に終始していました。その結果、日本自動車工業会の申し合わせとして、メーカーは一切の協力をせず全てをユーザーの手に委ねることとなります。

トヨタにしろ、日産にしろ、表向きはそのようでしたが、実際は違っていました。日本中の衆目を集める記念すべきレースで、一方的に惨敗することはメーカーの業績を大きく損なうことを見抜いていたのです。

車両規定を決めるにあたっては、我田引水を図るためトヨタと日産は強硬な態度に終始します。中小メーカーに過ぎないプリンスは、同意せざるを得ませんでした。車両はほとんど改造を許されず、特にエンジンとサスペンションはノーマルのままとされました。

結局、この申し合わせを忠実に守ったのは、旧中島の面々だけでした。プリンスと富士重工は、市販車で遥かに凌駕する競合に大惨敗を喫することになります。

レースが近づくと、各メーカーは鈴鹿にレースカーを持ち込んでテストを開始します。プリンスのタイムはライバルを大きく下回っていました。どう見積もっても、パワーの劣るはずのメーカーにいとも容易く置いていかれるその姿に、中川は敗北を確信します。と同時に、申し合わせ事項を遵守したのだから敗北も致し方なしと考えていました。

大惨敗で売却を決断した石橋と、忠実に翌年の雪辱を誓った中川。

結果は、想像通りの大惨敗。中川は、この時やっと自分自身がお人好し過ぎたことに気付くのです。

社長の小川は想像を絶する大惨敗のショックで鈴鹿からの帰途に脳貧血で倒れ、翌日東京に戻った中川は石橋に呼びつけられ、散々に怒鳴り散らされる始末。中川は、翌年の雪辱を石橋に誓うしかありませんでした。

そして、恐れていたことが現実になります。クラス優勝を遂げた各メーカーは、華々しく一大キャンペーンを開始。その優位性を強く形振り構わずアピールします。技術的優位性を個性にしてきたプリンスにとっては、特に手痛い結末となります。

この大惨敗の結果、石橋はプリンスの経営に興味を失い、日産への売却へと密談を進めていくことになるのです。

若き技術者の挑戦。〜スカイラインの父と呼ばれた男、桜井眞一郎。〜

自らの裁量を活かすべく、たま自動車に入社。

Shinichiro Sakurai and his boss Takuya Himura circa 1954 at Prince Motor Copany Mitaka Plant in Mitaka, Tokyo, Japan

前列左から2人目が、桜井眞一郎。1954年撮影。
By 桜井眞一郎 [Public domain], via Wikimedia Commons

スカイラインの父、後にそう呼ばれた男がいました。櫻井眞一郎です。無類の機械好きだった櫻井少年は、1929年生まれ。近くに日本通運の車が来た時に膝の上に乗せてもらって以来、完全に自動車の虜になっており、排ガスの臭いを嗅ぐためにオートバイの後を追いかけるほどでした。

戦時中は、学徒動員で工場に勤務。そこで、歯車製造装置を勝手に改造するなど、その才を遺憾なく発揮してきます。戦後入学した大学では、自動車部に所属。ボロ車を好き放題にいじり回していました。

ところが、就職活動は不調でした。仕方なく、櫻井は1951年に清水建設に入社。しかし、どうしても自動車への夢を捨てきれない櫻井は、給料も良く花形職業だった清水建設を後顧の憂いなく退社。当時貧乏一直線だった、たま自動車の欠員募集に応募します。面接を担当した外山に大いに訝しがられるものの、晴れて合格。櫻井は、胸をときめかしてその一員となります。

櫻井は、トヨタや日産のような大手企業に興味はありませんでした。自らの裁量を活かせる中小メーカーを望んでいたのです。ここから、櫻井は日本の自動車史に燦然と輝く数々の栄光を築き上げていくことになります。

そんな櫻井にとって、プリンスの気風は願ったり叶ったりでした。上下の分別なく議論に熱中し、才能ある若者にどんどんチャンスを与えていく。中島伝統の気風が、依然として強く息づいていたのです。

程なくして、櫻井は日本グランプリ向けのレースマシン開発の中心となり、チームを牽引していくことになります。

徹底した改造と一大物量作戦で、雪辱を期する。

前回の痛い戦訓を生かして、1964年の第2回日本グランプリへ向けて徹底的な改造が行われ、万全の体制で挑むこととなりました。1301~1600ccの車両で争われるT-Vクラス向けには、スカイライン1500を8台。1601~2000ccのT-VIクラス向けには、グロリアを9台。さらに、1001~2000ccのGT-IIクラスにはスカイラインGTを7台エントリー。総勢24台という、物量作戦。その予算はトヨタ、日産の2億円に対し、1.5億円に達したと言われています。

櫻井は早速、スカイライン1500ccの製作に精を出します。外板はすべて0.6mm厚で作り直し70kg軽量化するなど、各部の徹底的な見直しによって200kgを捻出。重量は、700kgまで軽量化されました。サスペンションは硬めに仕立て直し、ミッションも3速から4速に変更されています。

製作された車両を真っ先に走らせたのは、櫻井でした。例え、技術者であっても、自らステアリングを握り、自ら感じなければならない、というのが櫻井の信条だったからです。

レースカーで、悪路の東海道を下る。壊れたら、牽引で帰る。

そうして製作された車両は、次に鈴鹿に持ち込んでの徹底的なテストに供されます。10ヶ月前に始められたテストは、3週間おきに実施されました。と言っても、当時は立派な積載車などありません。参戦車両自らが、サポートトラック等とコンボイを組んで、450kmの道程をひたすら走ったのです。荻窪発は夕方6時、鈴鹿に辿り着く頃にはもう夜が明けていました。

ところが、テストさえまともに走れるようなレベルではありません。2時間ほど走れば、アチコチ壊れます。それでも、無駄骨で終わる訳にはいきません。昼休み返上で必至に修復、午後の走行に備えます。当然、午後も2時間ほど走れば、別のところが壊れます。部品が足りなければ、荻窪に電話。何とか代替品を造ると、荻窪から出発。翌日朝には、届く算段でした。

大変なのは、帰路。まともに走り切れる訳がないのですから、当然、帰路は自走不能となったテスト車両をロープで繋いで、これまた荷物満載のサポートトラックで牽引するしかありません。異常だったのは、翌日そのまま定時まで勤務したこと。残業規制もヘッタクレもありません。昭和の企業戦士、モーレツ社員は、夜を徹して働き続けたのです。

「スカG」伝説のはじまり。〜伝説の名車は、たった3ヶ月で誕生した。〜

グロリアの直6を押し込んだ、おばけスカイライン。

S54 Nissan Skyline 2000GT

ボディを200mm延長し、直6を押し込んだ怪物。これが、スカイライン伝説の始まり。
By 韋駄天狗 [GFDL, CC-BY-SA-3.0 or CC BY-SA 2.5 ], from Wikimedia Commons

スカイラインで、GT-IIクラスを戦うには、どうしてもパワー不足でした。新開発の6気筒は魅力でも、大柄なグロリアは鈍重でした。しかも、GT-IIクラスにエントリーするには、最低100台の生産が義務付けられています。レースカーまがいのGTカーを作る訳にはいかないのです。

櫻井は、ふと考えつきます。スカイラインに、グロリアのエンジンを載せちゃえばいい、と。これを100台作れば、優勝間違いなし。でも、レースまでたった3ヶ月。たった1度のレースに勝つのに、まったく馬鹿げた提案に違いありません。

ところが、その提案を中川は了承します。役員会での承認は後回しとし、即座に図面作成の開始を命じたのでした。

ところが、スカイラインのボディに長大な直6は収まる訳がありません。そこで、フロントタイヤ後方でボディを切って、ホイールベースを200mm延長。まるで化け物となった、秘密兵器が完成します。その名は、スカイラインGT。

スカG伝説の始まりです。

下位クラスを圧倒する、プリンス勢。しかし、刺客のポルシェ904が登場。

第2回日本グランプリ開幕。本気になったプリンス技術陣の実力は、圧倒的でした。T-V、T-VIクラス共にレースを席巻。上位を完全に独占します。ライバルは軒並み周回遅れ。プリンスは、日本グランプリの制圧に成功します。

ところが、予期せぬ事態が訪れます。本命のGT-IIクラスに刺客が現れたのです。精神医学の先駆者で知られた式場の息子、式場壮一郎が持ち込んだポルシェ904でした。FRP製の軽量ボディは、地を這うように低く、誰がどう見積もってもスカイラインGTに勝ち目はありません。これは、単なる市販レーシングカーだったのです。

プリンスがグランプリを完全制圧するのを阻止すべく、突如登場したその904を見た世間は、その存在を疑います。なぜなら、総生産台数が100台に満たない上、登場間もない904が日本にあること自体が不自然。そこで噂されたのが、トヨタの陰謀。プリンスの成功を阻むべく、裏から手を回したのに違いない、というのです。

当時、トヨタのワークスドライバーだった式場でしたが、鈴鹿を走るのは初めて。加えて、904もシェイクダウンしたばかり。フリー走行は慎重を期して、スカイラインGTの1秒落ちに留まります。ところが、事件は予選中に発生します。

スカG伝説、その始まりの瞬間。観客は熱狂は頂点に達する。

式場は、予選2日目に1コーナーで手痛いクラッシュ。904を、フロントからガードレールに激しくヒットさせてしまったのです。まともなスペアも無い、904。修復は、ほぼ不可能に思われました。

名古屋のガレージに運び込まれた904でしたが、フロントカウルの損傷は酷いものでした。砕けたカウルは、裏から布地を当ててエポキシ樹脂で固め、なんとか成形。しかし、フロントのアライメントは狂ったままでした。

決勝当日、名古屋を発った904ですが、名四国道は大渋滞。このままでは、鈴鹿に辿り着く頃には、レースが終わってしまいます。そこに、白バイが登場。鈴鹿まで先導を頼むと、到着は何とスタート4分前。ところが、本来ならばこれでもDNS。リタイヤ扱いです。プリンス陣営は、激しく抗議します。

主役の奇跡的な再登場。まるで、ドラマの様な筋書きに観客は大熱狂。それもあって、904の決勝出場が許可されます。

スタートから飛び出したのは、やはり式場の904。これを、生沢徹のスカイラインGTが追います。100%とはいかない904を、なだめる様に走らせる式場。ポテンシャルに劣るスカイラインGTを、激しくドリフトさせながら猛追する生沢。そして、7週目。今に語り継がれる奇跡の瞬間が訪れます。

ヘアピンで周回遅れのトライアンフに行き場を塞がれた間隙を突いて、生沢が式場の904を一気にパス。トップを守ったままグランドスタンドに現れたのです。観衆は総立ちの大熱狂。プリンスが、ポルシェを抜いた。その熱狂は、翌日の新聞一面を飾ったのです。

結果は、生沢を抜いた式場が優勝。10秒差の2位には、終盤遅れた生沢をパスした砂子のスカイラインGT。健闘した生沢は、3位に終わります。

後に、様々に語られたこの事件ですが、ここからスカG伝説が始まったのは間違いありません。

プリンスR380の誕生。〜技術者集団が生み出した究極のレーシングプロトタイプ。〜

プリンスの終焉。買収された社員たちは、内部工作で散り散りにされる。

いよいよ、本領を発揮し始めたプリンス技術陣。しかし、その命運は儚いものでした。第3回日本グランプリを前に、プリンスは日産に吸収合併されることを発表。ここから、旧プリンスの面々には過酷な運命が待ち受けていたのです。

日産は、トヨタ同様に激しい労働争議を経験していました。1953年から9月まで続いた日産百日闘争がそれです。そこに暗躍したのが、塩治一郎でした。塩治は別途第二労組を作り、労組の内部対立と切り崩し工作を図っていきます。会社側はロックアウトなど強硬な態度に終始、組合側は会社側の要求を全面的に受け入れるという完全敗北に終わります。労働争議を終結に導いた塩治は、社長の川又克二と完全に癒着。人事はすべて塩治を通すという、日産内に歪な労使協調体制が構築されます。

ここに吸収合併されたプリンスの労働者たちも、塩治らの激しい内部工作にさらされます。彼らは、2つある日産労組のどちらかに属するかの選択を強いられ、袂を分かった面々は激しい対立を始めます。給与体系が安い日産側に統一される事もあって、この時点でかなりの人数がプリンスを去っていきます。

この歪な労使協調路線は深刻な内部対立を招き、最終的には日産を破滅へと導いていくのです。その解決は、カルロス・ゴーンの登場を待たねばなりませんでした。

高速化時代の幕開けと、レーシングプロトタイプへの挑戦。

1970 in Japan-2

東海道新幹線と名神高速。日本に高速化時代が到来した。
作者 Szilas [CC0], ウィキメディア・コモンズより

スカイラインGTの成功によって、プリンス社内には自信が芽生えていました。と同時に、ポルシェに負けた悔しさの方が時とともに大きくなっていました。名神高速の開通に続いて、東名、中央と全国に高速道路網が広がりつつあり、東海道新幹線は最高速度210km/hで東京と大阪を結んでいました。時代は、高速化時代を迎えていたのです。

次は、ポルシェを倒したい。プリンス技術陣が、レーシングプロトタイプの開発に歩みを進めたのは、極自然なことでした。

1964年初夏、役員会にてレーシングプロトタイプの開発が承認されます。基本構想として、車両はFIAのグループ6に沿ったレーシングプロトタイプとし、エンジンはウェーバーキャブ3連装の2,000cc直列6気筒DOHCをミッドに搭載、鋼管スペースフレームにアルミニウム製ボディを架装することとなりました。名称は38番目の計画であることから、R380と名付けられます。

日本初の本格的レーシングスポーツは、トヨタでも日産でもない、プリンスから誕生することになったのです。

伝説の名車。プリンス最期の作品。R380の誕生。

1966 Prince R380 01

前年のスカイラインとは、隔世の感がある。流麗なフォルムを持つ、R380 A-I型。
By Mytho88 [GFDL or CC BY-SA 3.0 ], from Wikimedia Commons

ただ、本格的なレーシングプロトタイプをゼロから造るのは無理と判断、1964年6月の海外視察の折に見てきたブラバムBT8Aを購入。これをベースとすることを決定します。ところが、BT8Aは直4の搭載を前提にしていたため、フレームやサスペンション等は直6への換装を考慮して強度計算をしなおし、大幅な補強が行われました。この辺りは、戦前の航空技術が生かされています。

エンジンは、グロリア用の6気筒ではなく、新規に開発されるGR8型を採用。ボア・ストロークは82.0×63.0mm、圧縮比は11.0。給排気系は8000rpmに脈動効果が最大となるようチューニングされ、潤滑方式はドライサンプとされました。最大出力は、200bhp。組み合わされるトランスミッションは、ヒューランド製の5段が採用されました。

翌年の日本グランプリに間に合わせるべく、R380の開発は突貫工事で進められていましたが、第3回日本グランプリは鈴鹿サーキットとの契約が不調となり、中止。開発は幾分スローダウンしつつも、着々と準備を進めていきます。結局、1965年は開催されず、1966年5月に新設の富士スピードウェイで開催されることが決定します。

1965年4月、荻窪でGR8型エンジンの初号機が完成。9月には早くも目標値を超える205bhp/8400rpmを記録。6月末には、三鷹の試作課で1号車が完成。アルミ地肌の無塗装のまま、村山工場のテストコースに運ばれたR380は、7月3日には櫻井の手によってシェイクダウンが行われています。その後、テストは谷田部の自動車高速試験場に場所を移して継続、細かいトラブルにも順調に対策が行われていきます。

R380-I型での、速度記録への挑戦。

R380の開発は順調でしたが、レース本番は半年も先。そこで、東京モーターショーに展示する際に、技術水準の高さをアピールすらめに、1965年10月6日に谷田部で速度記録への挑戦が実施されます。当日、プリンスの面々はマスコミと招待客を招くほどの余裕を見せていました。

中川が振り下ろす日章旗のもと、R380は猛然とスタート。ハイペースで周回を重ね、最高速度255km/hをマーク。50kmは、国際記録を超えるハイペース。50マイル、100kmでは下回るも、100マイル、200km、1時間では、再び国際記録まで巻き返します。そして、いよいよ200km目前となった頃、左フロントに以上が発生。コントロールを失ったR380はクラッシュ、裏返しになった所でストップします。原因は、左フロントサスペンションのロアアームにあるピロボールの破損でした。

10月14日、諦めない面々は再び記録に挑みます。今回は前回を上回るペースで周回を重ね、50kmまでは快調。ところが、今度はトランスミッションでオイル漏れが発生。敢え無くリタイヤとなります。

2度のトラブルに見舞われたものの、東京モーターショーでは6つの記録が国内記録として公認され、技術のプリンスをアピールすべく華々しいデビューを飾ったのです。

第3回日本グランプリを目指す、R380 A-I型が登場。

Prince GR8 engine Nissan Engine Museum

R380に搭載された、GR8型エンジン。たった2000ccから、220hpを得た。
By Morio [GFDL or CC-BY-SA-3.0], from Wikimedia Commons

I型と呼ばれたこのR380は、あくまで試作車。1966年の日本グランプリに向けては、新たにA-I型と呼ばれるアップデート版が製作されます。

当然ながら、スペースフレームは完全プリンス製。ブラバムが厚肉小径の鋼管だったのに対し、プリンスは新たに薄肉大径の鋼管を採用。上下左右のフレームがオイルと冷却水配管を兼ねていたのを、独立した配管に移設。軽量化と高剛性化を図りつつ、信頼性の高い設計に変更されています。サスペンションは、ダンパー銘柄をトキコに変更した他、各部の強化を実施しています。燃料タンクはアルミ製から100Lの航空機用のラバー製に変更しつつ、高G下でも偏りしないよう対策が施されました。

フロントカウルは、新たにFRP製を採用。谷田部ではフロントのリフトが問題になったため、これを低減すべくフロント廻りの形状が見直されています。リヤカウルのアルミ製のままながら、デザインは大きく変更され、楕円形のエアインテクを持つ流麗な形状とされました。

エンジンは富士スピードウェイのコースレイアウトを考慮して、新たに仕立て直されています。ピーク領域を6000rpmに下げつつ、よりフラットなトルク特性とされました。その一方で開発が進んだ結果、その出力は220bhp程度まで向上していました。

全開で、30度バンクに突入せよ。1分59秒台に突入した、R380。

1966年3月、富士スピードウェイでのテスト走行が開始されます。ところが、タイムが思ったより上がってきません。ドライバーたちにはレーシングプロトタイプの経験が無かったからです。当時のバイアスタイヤはグリップ限界が低く、ツーリングカーはブレーキも貧弱で重心も高かったため、コーナーでは横向きにドリフトさせて走っていました。ところが、このドライビングはレーシングプロトタイプには向いていません。コーナーではしっかり減速し、スムーズに走らねばならないのです。

プリンスのシミュレーションによれば、1分59秒台が可能との判断でした。しかし、ラップタイムは2分7秒台で足踏み。その原因を詳しく分析すると、ホームストレートエンドから30度バンクに進入する際に減速していたことが分かりました。櫻井は、データを見せてドライバーを説得。やっと、全開で30度バンクに進入できるようになります。グランプリ直前には、生沢が想定通りの1分59秒台のタイムをマークするまで、熟成が進められました。

最終決戦となった、プリンス技術陣。再び、最新のポルシェが立ちはだかる。

完全なるレーシングプロトタイプを準備したプリンスに対し、トヨタと日産は様子見を決め込んでいました。トヨタは、アルミ製ボディに作り変えた2000GTを2台、日産はヤマハ製の6気筒に積み替えたフェアレディSを1台エントリー。対するプリンスは、4台ものR380を投入。必勝体制でこれに望みます。

ところが、再びポルシェの脅威がプリンスを襲います。滝進太郎が、さらに新しい906を持ち込んだのです。エンジンは水平対向6気筒へ進化し、最高出力は30bhp向上の210bhp。車重は、たった575kgしかありませんでした。プリンスのシミュレーションでは、1分58秒台が可能との結果。

既に日産への吸収合併が決まっていたプリンスにとって、第3回日本グランプリは最終決戦の場となるのです。

予選は、雨に見舞われます。車重が軽すぎるR380と906はタイムが出ず、2000GTとフェアレディSが予選上位を占めます。5月3日決勝、前日と打って変わって快晴。期待高鳴る観衆は、9万人の超満員。スタート時間が迫るにつれ、サーキットを興奮が包み込んでいきます。

9万人の大観衆。プリンスR380が、遂にポルシェを破る。

午後2時35分、決勝スタート。トップで30度バンクに進入したのは、生沢のR380。これに、砂子のR380が続きます。トップに立った生沢はミッショントラブルでペースが上がらず、砂子が2周目にこれをパス。生沢は滝を執拗にブロックして、砂子のサポート役に徹します。6周目に何とか生沢をかわした滝は、25周目には砂子もパスしてトップに立ちます。ピットに入る31周目には、その差は8秒まで開いていました。ところが、プリンス陣営には秘策がありました。給油装置です。滝が50秒以上掛かったのに対し、砂子はたった15秒でピットアウト。難なく、トップを奪い返します。

43周目、滝が最終コーナーでクラッシュしてリタイヤ。生沢も、46周目にはストップ。一縷の望みを掛けて、ピットまでマシンを押して戻る生沢には拍手と罵声の双方がたっぷり浴びせられたのでした。

砂子は、そのまま独走で優勝。2位は、同じくR380の大石。3位は、何とか無給油作戦で一矢を報いた細谷の2000GTが入賞しました。

最新のポルシェさえも圧倒する、プリンスの強さ。その姿は、観客を大いに熱狂させます。日産の軍門に降るプリンスでしたが、その技術は日本一であることは、誰の目にも明らかでした。1966年8月1日、遂にプリンスのその名が消える日がやってきます。幸いなことに、プロトタイプレーシングの活動は継続が決定します。

進化を遂げる、日産R380。〜更なる高みを目指して、A-II型の戦い。〜

次なる挑戦へ向けて、「日産R380」はA-II型へ進化。

Nissan R380 II

風洞実験の結果を反映し、近代的なボディ形状へ変更された、日産R380 A-II型。
作者 Iwao from Tokyo, Japan (Nissan R380 II)
[CC BY 2.0 ], ウィキメディア・コモンズ経由で

第4回日本グランプリへ向けて、「日産R380」はさらなる発展を遂げ、A-II型に進化します。

スタイリングはグループ6の規定変更に合わせ、ティアドロップ形状の流麗なルーフ形状となったのに伴って、ドアはガルウイング式に変更。新たに全FRP製となったボディは、風洞実験を反映して空力的に煮詰められました。

鋼管スペースフレームはさらなる大径薄肉化が進められ、強度と剛性が引き上げられました。エンジンは、動弁系や運動部品の材質変更等により、出力向上と軽量化を実施。出力は230bhpへ向上、車重は590kgまで軽量化が進みました。組み合わされるトランスミッションは、よりトルク容量の大きいZF製を新たに採用。タイヤはファイアストンに変更すると共に、大幅にワイド化。操縦性の向上を図っています。

ドライバーの布陣は、大幅に変更されています。日産との合併に伴って社員ドライバーが不可能となったうえ、生沢が欧州へ旅立ったため、横山、砂子、大石の3人が継続。日産からは、ホンダ契約ライダーだった田中健二郎、高橋国光、北野元と新たに契約することになりました。事前テストでは、早くも1分58秒台をマークするなど順調な仕上がり。ただ、砂子と北野がクラッシュを喫するなど、不安もありました。紆余曲折の末、R380は高橋、北野、砂子、大石の4人に託されることになりました。

万全の日産勢に、全面戦争を挑んだのはトヨタではなく、今年もポルシェでした。906が、3台も出場したのです。その内の1台は、何と生沢。欧州から戻った生沢は、R380のドライブを希望したものの、日産にその余地はありません。そこで、自らスポンサー集めを行ったうえ、三和自動車のサポートで出場することになったのです。ポルシェ勢は、本社からメカニックを招聘するなど、本気度が伺える体制を構築していました。

生沢が駆るワークスサポートのポルシェと、大激闘。

予選で速さを見せたのは、進化を遂げた生沢の906でした。たった5周で、1分59秒43をマーク。対する、日産勢は60周の決勝を睨んで、マシンを温存する策を採ります。高橋が3位、北野が5位、砂子が6位、大石は7位からのスタートとなります。

5月3日決勝スタート。飛び出したのは、酒井と生沢の906。これに安田のローラが続きます。R380は、その後方から追い上げを開始します。ところが、1周目のS字コーナーで大石がガードレールに接触し、早くも後退。さらに、最終コーナーで安田がスピン!これを避けるため、砂子と北野も後退。高橋は孤軍奮闘、2台のポルシェに挑んでいきます。高橋は、16周目には906に追いつき、生沢にプレッシャーを掛けていきます。すると、18周目のS字の進入で生沢がシフトミスから、スピン!驚いたのは、高橋の方でした。コース外でストップした高橋が再スタートに手間取る中、先に生沢がコースに復帰。この瞬間、日産勢の勝利の可能性は潰えます。レースは、生沢の独走優勝。高橋はピットイン後に激しく追い上げて、何とか同一周回でチェッカー。2位に入賞します。

再び、速度記録へ挑戦。

この敗北の後、1968年の日本グランプリへ向けて大排気量エンジン搭載マシンR381の開発が決定。R380は、そのバックアップ役を担うことになります。ただ、R380の進化は続きます。主に空力面の向上を図ったA-II改型は、谷田部のスピードトライアルに投入。見事、7つの国際記録の樹立に成功します。

さらに、1968年の日本グランプリには信頼性に不安の残るR381のバックアップとして、3台のA-III型が投入されます。タイヤはさらにワイド化され、新たにダンロップに変更。空力面は一層の進化を果たし、グリップも向上していました。優勝は、北野の駆るR381。これに続いて、黒澤のA-III型が3位に入賞しています。

唯一の海外挑戦。R380 A-III改型が、豪州に遠征。

R38シリーズは、1969年に唯一の海外進出を果たしています。日産陣営は、かねてより海外進出を夢描いていましたし、最終目標はルマンにありました。ただ、トヨタ、ポルシェとの激烈な日本グランプリの戦いは苛烈を極め、到底海外レースへ参加する余裕はありませんでした。たった、1度その望みが叶ったのが、1969年11月2日にオーストラリアで開催されたシェブロン6時間耐久レースでした。

投入されたのは、最終進化型のA-III改型。フロントエンドは、ライトの4灯化によって大幅に変更。ノーズを130mm延長して、大幅に低められました。エンジンも245bhp以上を確実にマークするとともに、連続20時間のベンチテストもクリア。さらに、海外遠征へ際してタイヤをさらにサイズアップ。R380は、大幅にポテンシャルを増していました。レースは、ライバルが早々に脱落したために、見事に1-2フィニッシュ。しかも、257周という周回数はこのレースの新記録でした。

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2018年06月07日 スバル

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