スバルショップ三河安城の最新情報。スバルのヒストリー外伝「プリンス自動車〜消えるべくして消えた、スバルの兄弟〜」 | 2018年8月8日更新

 

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5.5LV8搭載の怪鳥。R381の開発。〜エンジンは何と外部調達。〜

5LV12の開発が間に合わず、エンジンはシボレーのV8を採用。

1967年の敗北を受けて、日産内ではR380の継続開発とともに、全く新たな大排気量の新型プロトタイプの開発を決定します。RXと名付けられたそのマシンは、5LV型12気筒という化け物エンジンを搭載する計画でした。しかし、その時点ではV12エンジンの影も形もありません。翌年の日本グランプリに間に合わせるのは、不可能。そこで、日産は重大な決断をします。

エンジンを外部調達したのです。櫻井は在日米人を介して、北米のチューナーとコンタクト。日産の「秘密兵器」は、シボレーの市販車用5.5LV型8気筒OHVをレース用に仕立てたもので、460bhpを発揮しました。ところが、このエンジンが曲者で、トラブルが頻発。櫻井の頭痛の種となります。

リヤにそびえる、2枚の巨大ウイングが羽ばたく。

Nissan R381 002

リヤにそびえる、R381の2枚のウイング。コーナーで迎角が変化する仕掛け。
I, 天然ガス [GFDL, CC-BY-SA-3.0 or CC BY-SA 2.5 ], from Wikimedia Commons

正式には、R381と呼ばれたこの新型マシンは屋根付きのグループ6仕様で、基本的にはR380のスケールアップ版でした。鋼管スペースフレームは、強度と剛性が大幅に引き上げられたものの、基本設計は変わっていませんでした。ただ、フレームはその剛性を高めるために、フロアやバルクヘッドにアルミハニカムパネルを接着する新たな試みが行われていました。

R381の最大の進化は、空力でした。まず目を引くのは、マシン後方にそびえる2枚の巨大ウイング。エアロスタビライザーと呼ばれたそれは、アメリカのシャパラル2Eにヒントを得たもので、独自の進化として左右独立で迎角を変化させられるメカニズムを組み込んでいました。サスペンションがロールすると、イン側の迎角を大きくし、タイヤの接地力を高めます。さらに、ブレーキング中は左右両方が立ち上がってエアブレーキの役目を果たしていました。

屋根なしのグループ7仕様に、突然の設計変更。

R381の開発は順調とはいえませんでした。3月に完成した1号車は、雨の中で大クラッシュ。テストの再開は、3月末の2号車の完成を待たねばなりませんでした。ただ、このクラッシュが思わぬ、チャンスを与えます。1号車を、屋根なしのグループ7仕様として修復したのです。グループ7は空気抵抗のデメリットはあるものの、車重制限やヘッドライト、スペアタイヤ等が不要なため、メリットが多かったのです。新1号車をテストした所、結果が良好だったため、残りの2台もグループ7仕様としてレースに参戦することになります。

1968年の日本グランプリはTNT対決と呼ばれ、史上空前の盛り上がりを見せていました。トヨタ、日産、そしてプライベータの滝・レーシングの三つ巴の構図。一昨年、ポルシェ906で果敢に日産勢に挑んだ滝進太郎が、タキ・レーシングを結成。ニューマシンポルシェ910を生沢に託すと共に、昨年の906に加えて、さらにローラT-70を3台も投入。最強の日産勢に挑戦状を叩きつけたのです。さらには、トヨタも完全なレーシングプロトタイプを開発。オープントップボディに3LV型8気筒を搭載するトヨタ7を4台を投入してきました。

2台がリタイヤするも、北野のR381が圧勝。

予選PPは、前年タイムを何と9秒も縮める1分50秒88を叩き出した高橋国光のR381。2位も、R381の北野。3~5位にローラが並び、6位にトヨタ7の福澤幸雄、7位はR380の黒澤、8位に砂子のR381が続き、生沢は11位と出遅れます。

迎えた決勝は、昨年より20周多い80周。長丁場のレースとなります。厚い雲の下、レーススタート。飛び出したのは、高橋と北野のR381と田中のローラ。大排気量の3台が熾烈なトップ争いを展開します。ところが27周目、田中のローラがサスペンションを壊してリタイヤ。さらに、高橋もホイールナットの緩みからハブを壊してリタイヤ。北野は、孤独な独走態勢を築きます。その後方には、一旦トヨタ勢が上がってくるも、レーし中盤に立て続けにリタイヤ。結局、北野は全車を周回遅れにする圧勝。2位に生沢が入賞するも、3~6位までを日産勢が独占。戦前予想に反して、日産の完全制圧に終わったのでした。

ただ、北野車のクランクシャフトにはヒビが入っており、実際には薄氷の勝利でした。

本命の巨大V型12気筒搭載マシン、R382。〜500psオーバーのモンスターの誕生。〜

6Lのバケモノ級V12エンジンを極秘開発。

NISSAN R382.(1969) (8563989389)

巨大なV12エンジンをストレスマウントする、先進的な設計の日産R382。海外挑戦が果たせなかったことが悔やまれる。
By MIKI Yoshihito from Sapporo City,Hokkaido., JAPAN (NISSAN R382.(1969))
[CC BY 2.0 ], via Wikimedia Commons

翌年に向け、日産では本命の12気筒搭載マシンの準備が着々と進められていきます。レースがこれまでの5月から、10月開催へと変更されたため、十分な余裕をもって開発に望むこととなりました。

ゼロから新規に開発されたV型12気筒エンジンはGRXと名付けられ、1967年10月から開発がスタート。バンク角は60度、ボア・ストロークは88.0×68.0で、圧縮比は12.2:1。総排気量4963cc、DOHC4バルブで挟み角は36度と近代的な設計。初号機は、1968年7月に完成。単体重量は267kgと目標を若干超過するも、ベンチテストでは目標性能を達成。508ps/7600rpm、48.5kg-m/6000rpmを記録しました。テストは順調に進み、12月には520psを超える順調な仕上がり。R381-II型に搭載して、テスト走行が勧められました。

R382と名付けられた車体は、1968年12月に開発がスタート。GRX型エンジンの重量増を考慮して、車体で大幅な軽量化を図ることとなります。スペースフレームの材質は、これまでの鋼製からアルミ製に変更。前後に通貫する4本のフレームは、40mm径の大断面とし、これをベースに大小様々な径のパイプを組み合わせ、高応力が掛かる部分にはアルミ合金パネルを溶接。ほぼ、アルミモノコック構造とも言える先進的な設計となります。さらに、エンジンをフレームに剛結。エンジン自体をフレームの一部として応力を受ける構造も取り入れています。60年代の設計にしては、非常に先進的な設計でした。

ところが、日産技術陣の開発はここに留まりません。トヨタの攻勢を予期したのか、さらなるパワーアップを画策したのです。そこで、排気量を6Lまで拡大したGRX-2型を試作。1969年6月には、本番仕様のGRX-3型がベンチテストで580bhpを記録します。この大胆不敵な秘密兵器は、レースギリギリまで極秘とされました。明かされたのは、レース2日前。トヨタは5L、つまり同じ排気量だと信じて開発をしていました。ところが、実際は違ったのです。トヨタがR382が6Lだと知ったのは、R382がサーキットに姿を現したその後でした。

ポルシェワークスが初上陸。トヨタも5台を投入。しかし、2台のR382が全車を周回遅れにして圧勝。

2年目のTNT対決となった日本グランプリ。日産勢が3台を投入したのに対し、トヨタ勢は、新開発の5LV型12気筒を搭載したトヨタ7を、5台投入 。タキ・レーシングは、ポルシェ本社に支援要請。すると、ワークスチームがドライバーとメカニックごと来日。エースドライバーのジョー・シフェールはポルシェ917を、ハンス・ヘルマンは908/2をドライブします。

予選PPは、1分44秒77を記録した北野。昨年より、さらに6秒短縮する驚異的なタイムです。これに黒澤、高橋のR382が僅差で続きます。対するトヨタ勢が4位以降につけるも、その差は4秒近いもの。ポルシェ勢も準備不足が祟り、不調のまま予選を終えています。

決勝は、この年から120周に延長。ドライバー交代も考慮する展開が予想されていました。10月10日、遂に決勝スタート。

強大なトルクを誇る余り、クラッチに不安のあった日産勢は慎重なスタート。トップに立ったのは 、新進気鋭で売出中の若手河合稔が駆るトヨタ7でした。これにシフェールの917が続きます。ただ、遥かにペースに勝る日産勢は、6周目に高橋がトップに立ったのを皮切りに、12周目までには盤石の1-2-3体制を構築。圧倒的なレース展開となります。

途中、高橋が燃料噴射系にトラブルを抱え交代したものの、120周を万全に走り切ってチェッカー。黒澤、北野の2台のR382は、再び全車を周回遅れにする圧勝。日産勢は、最強の名を欲しいままにするのでした。

日本グランプリからの突然の撤退。〜完成間近のR383は幻に。〜

プリンス―日産、レーシングプロトタイプの開発終了。

R383 01 NF2006

幻となったR383は、1975年に初めてその存在が明らかにされた。
作者 160SX [CC BY-SA 3.0 ], ウィキメディア・コモンズより

華々しい、日本グランプリ。過激な競争によって、技術力は急激な成長を遂げていました。富士スピードウェイでやっと2分を切ったのが、1966年。そこから、たった3年で20%もの性能向上。重大な事故が何時起きてもおかしくない、危険なレースとなっていたのです。苛烈な競争は、もう限界を超えていました。

1970年6月8日、日産は日本グランプリに参戦しない旨を突如発表。これを以って、R38シリーズの正式な開発に終止符が打たれます。その理由は、レース自体の危険性と環境対策が急務となったことでした。

ただこの時点で、R383と名付けられた新型マシンは既に完成間近でした。GRX-III型を搭載し、ラジエターをマシンの両サイドに移し、空力面での充実を図っていました。幻のマシンR383は1975年に突如公開され、一躍注目を浴びることになるのです。

R38シリーズの技術者たちはこの後、ツーリングカーに舞台を移し、ハコスカでスカイライン50連勝という新たな伝説を築き上げていくことになります。

トヨタ7も、2度の死亡事故で開発中断。

1970年の日本グランプリは、主役を失ったことで中止が決定。ところが、トヨタ7の開発は続いていました。北米のプロトタイプカーレースシリーズであるCan-Amへの参戦が、役員会にて正式決定したのです。トヨタは5LV8にターボを装着した1000psオーバーの化け物を開発していました。ところが、この計画は突如闇に葬られます。

トヨタのエースドライバー河合稔が、鈴鹿でのトヨタ7のテスト中に事故死したのです。河合のトヨタ7は、ヘアピン手前の緩い右コーナーを直進、コース上には黒々とブラックマークが残っていました。河合が、何らかの異変を感じてブレーキを掛けていたのは明らかでした。

ところが、トヨタは先の福澤の死亡事故を含め、すべての情報を非公開とし、事故車両は即座に廃棄処分とされました。福澤と河合は、モデルとして大衆紙の表紙を飾るなど、広く人気を集めていました。特に、河合はその年の2月に大人気モデル小川ローザと結婚したばかりだっただけに、この事故は世間の大きな注目を集めます。ただ事故原因が車両側にあったのは明らかでしたから、トヨタの隠蔽体質がこの後厳しい批判に晒されることになります。

日本グランプリは、戦後日本の自動車技術のひとつの頂点だと言えるでしょう。華々しいレーシングプロトタイプは、大きな人気を集めていました。時代の要請を受けてその歴史は途絶えたのですが、トヨタの事故が後味を悪くしているのは間違いありません。

 

文責:スバルショップ三河安城和泉店 営業:余語

 

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