人類を宇宙へ。フォン・ブラウンとコロリョフの奇跡の生涯 その4 [2024年11月24日更新]
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人間が想像できることは、いつか必ず誰かが実現できる。
「科学の進歩は、一個人、一企業、一国家のものではない。秘密にされることなく、全人類がその恩恵に預かれるように努めるべきだ。必要なのは、人類の未来への進歩を確かなものにすることだ。進歩は、真理、正義、美に向かって魂を高めない限り、その名に値しない。」
「月世界旅行」で知られる19世紀末のフランスの小説家、ジュール・ヴェルヌ。ヴェルヌの世界観は、未来を描く人々にかけがえのない希望を与え、人類を宇宙へ導く礎となります。彼は、こう述べています。「私は現実とは思えないことを色々と思い浮かべた。しかし、人間が想像できるものは、いつか必ず誰かが実現できる。」
コンスタンティン・ツィオルコフスキー、ロバート・ゴダード、ヘルマン・オーベルト。ロケット開発の先駆者となった彼らもまた、ヴェルヌの教えに導かれたひとり。その挑戦は次の世代に受け継がれ、人類の至宝たる才に恵まれた若者は、今まさに宇宙へと手を伸ばそうとしていました。
しかし、時は大戦集結から、漸く5年。まだ傷は深く疼き、夢を見る余裕など誰にもありませんでした。人々は、宇宙進出など少しも望んでいはいなかったのです。
1953年3月6日、スターリンが死に、大粛清が終わる。
全共産党員へ。ヨシフ・スターリンの心臓は鼓動を止めた。
「全共産党員へ。親愛なる同志諸君、共産党とソビエト国民の賢明な指導者、ヨシフ・スターリンの心臓は鼓動を止めた。」
1953年3月6日午前6時。ラジオが発する衝撃的な発表を、すべてのソビエト国民が鉄のように沈鬱な表情で受け止めていました。それは、ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ(つまり、ヨシフ・スターリン)の死没を報じるもの。ソビエト共産主義の象徴的存在であり、ソビエトを超大国へ導いた指導者であると共に、大粛清により数千万もの犠牲を強いた、ヨシフ・スターリン。彼は、遂にその激動の生涯に幕を閉じたのです。
ただ、その死は突然に告げられたものではありません。スターリンの容態が芳しからぬものであることは、既に知られていた事実でした。3月4日、ラジオにてスターリンの健康状態を速報。脳卒中、意識喪失、体の麻痺があり、チェーンストークス呼吸の兆候があることを示しました。ソビエト国民は、「その時」が差し迫っていることを、十分に理解していたのです。そして、3月1日未明。脳卒中に倒れたスターリンは意志の疎通もままならぬまま、4日後の3月5日午後9時50分、死地へ旅立ちます。
ただ、スターリンの死は、とても奇妙なものでした。脳卒中を起こした鋼鉄の男は、ほぼ丸1日放置されていたのです。
スターリンが起きてこない。。。不気味な沈黙。
2月28日夜、スターリンは晩餐を催します。場所は、モスクワ近郊のクンツェヴォ・ダーチャ。それは、深く静かな森の奥にある邸宅。スターリンは、後半生の殆どをこのダーチャの「1階の書斎」で過ごしていました。
招かれたのは、内務人民委員ラヴレンチー・ベリヤ、ソビエト共産党第二書記ゲオルギー・マレンコフ、ソビエト副首相兼軍事大臣ニコライ・ブルガーニン、そしてニキータ・フルシチョフ。自らの側近4名を招いての賑やかな晩餐。しかし、それは晩餐とは名ばかりの、実に苦々しく重々しい時間でした。酒の余勢を駆ったスターリンの叱責が、何と朝4時まで続いたのです。それは指導と言うより、糾弾でした。その最中、その刹那、一瞬でも良からぬ事を考える者がいても、何ら不思議ではありません。
明くる3月1日朝、予定の起床時間が過ぎてもスターリンから何の指示もないことに、衛兵は嫌な胸騒ぎを覚えます。ただ、同志の安眠を妨げるのは、余りにも危険。しかし、万が一の事態を放置する訳にもいきません。衛兵は勇気を振り絞り、ドアのノックを試みます。コン、コン・・・。静かな邸宅に虚しく音が響きますが、何の音沙汰もありません。朝4時に就寝したのなら、起床が遅いのは当然のこと。これ以上は危険でした。明確な恐怖が、衛兵を縛り付けていました。
脳卒中の同志を残して、去っていく4人の側近たち。
唯一、書斎の鍵を持つ衛兵。しかし、彼は午後になっても、扉を開けられずにいました。モスクワの大地に太陽が沈む、午後6時。スターリンの部屋に電気が灯り、彼は漸く落ち着きを取り戻します。午後11時、スターリン宛の郵便物が到着。部屋に入る理由を漸く見つけた衛兵は、意を決して扉を開けます。その時、そこには見えたのは、床に横たわる同志のあられもない姿。スターリンは脳卒中に見舞われており、意識があったものの、意思の疎通は既に不可能な状態に陥っていたのです。畏れ多くもスターリン同志に手を差し伸べた衛兵は、身を抱き起こしてソファに座らせます。ところが、そこでスターリンは意識を失います。
状況は直ちに報告され、ベリヤが現れたのは2日午前3時。続いて、マレンコフ、フルシチョフ、ブルガーニンが相次いで到着。しかし、彼らは恐怖心からか寝室に入ることを躊躇います。意を決して書斎に入ったのは、マレンコフとベリヤ。そこで彼らが見たのは、豪快に鼾をかく同志の姿。状況を確認した両名は直ちに書斎を出ると、衛兵に電話の使用を一切禁じ、ダーチャを去っていきます。大きないびきは、脳卒中の典型的症状。彼らはそれを知って放置したのか、それとも知らなかったのか。今となっては理由は判然としません。ただ、その間もスターリンの生存の可能性が刻一刻と失われていったのは事実でした。
1953年3月5日午後9時50分、ひとつの時代が終わる。
3月2日早朝、衛兵はスターリンに異常の兆候があることを再度報告。「4名の同志」は、スターリンの元に医師の派遣を決定。駆け付けた医師の診断は、左中大脳動脈の出血性脳卒中に伴う右半身不随。午前10時40分、速やかに共産党中央委員会主席会議の公式会合が開かれます。この時点で、スターリンの死が目前に迫っているのは、最早疑いのない事実。これを受け、マレンコフの事務所では「共産党中央委員会事務局」の準備が進められます。これは、スターリン同志の重病に関する政府の公式報告と、党及び国家指導部の権力分配を検討することを目的にしていました。状況は無感情にスターリンの死を前提に動き出していました。
翌4日、ラジオを介して、スターリンの病状が公式に発表されます。同日、共産党中央委員会最高会議事務局は廃止され、共産党中央委員会最高会議に統合。政府規模は、大幅に簡素化。来るべき時に備え、マレンコフをトップに権力移行体制を整えます。
3月5日午後8時、共産党中央委員会最高会議、閣僚会議、最高会議議長会の合同会議が開催され、この中でスターリンの首相及び中央委員会書記という指導的地位の剥奪が決定されます。そして、午後9時50分。スターリンの死亡を確認。これを以て、19年にも及んだ、恐怖と狂気の時代は終わりを告げたのです。
偉大なる同志レーニンの隣に並べられたスターリンの亡骸。
スターリンの亡骸は、3月6日にモスクワ労働組合ホールに移され、レーニン同様に厳重に防腐処理がなされた後、9日にはクレムリン・赤の広場にあるレーニン廟に安置されます。モスクワ時間正午、クレムリンの鐘が厳かに鳴り渡り、21発の弔砲が発せられます。同時にソビエト全土にサイレンが鳴り響き、偉大なる同志を胸に、全国民が静かに黙祷を捧げたのでした。
葬儀を取り仕切ったのは、フルシチョフ、マレンコフ、ベリヤ、そしてスターリンの片腕として長きに渡って外交を司るも、失脚という不遇の渦中にあったヴァチェスラフ・モロトフの4名。偉大なる同士を讃えるため、彼らは壇上に立つと、激情家の如くスピーチを捧げ、スターリンに別れを告げます。軍楽隊は高らかにソビエト国家を奏で、ソビエト全土は4日間に渡って喪に服すことを宣言。悲しみの輪は東側諸国に広がり、偉大なる同志を失った同盟各国もまた壮大なセレモニーを催し、その偉業を讃えたのです。
レーニン廟は、直ちにレーニン=スターリン廟に名を変え、その亡骸は個人崇拝の象徴となります。共産主義国家最大の自己矛盾を象徴するように、偉大なる同志に別れを告げようと、数十万人ものソビエト国民が殺到。異常な熱気と悲嘆の狂気により、数百名が圧死する群集事故が発生。スターリンは死して尚、人を死に至らしめたのです。
フルシチョフによる権力掌握と、新たな時代の始まり。
同志マレンコフを利用し、権力掌握を図るベリヤ。
遺された「4名の同志」は、スターリン亡き後の支配体制を巡って、権力闘争を始めます。特に注意すべきは、ベリヤの動向でした。前任のエジョフと部下を「始末」し、その後釜に座って大粛清を粛々と推進したベリヤは、最も危険な人物でした。ベリヤは表向き旧知のマレンコフを立てつつも、内心は自分こそが最高指導者に相応しいと絶対的な確信と強かな野望を持っていたのです。
第一副首相に任命されたベリヤは、マレンコフの指導力欠如も相まって、実質的に最高指導者の地位を得ることに成功します。ベリヤは速やかに、警察及び治安部隊を掌握。自らの立場を脅かす勢力を牽制し、矢継ぎ早に各種施策を実行に移していきます。また、大赦を実施して、100万人以上の非政治犯を強制労働から開放。4月には、刑務所に於ける拷問の禁止に関する命令に署名しています。ベリヤはいつでも対抗勢力を逮捕することが可能であり、趨勢は一見決したかに見えました。
一方、フルシチョフはベリヤを失脚に追い込むべく、虎視眈々とタイミングを伺っていました。ただ、警察及び治安部隊を指揮下に置くベリヤを狙えば、返り討ちにされる危険があります。企みが露見すれば、デッチ上げの罪状で直ちに逮捕され、即決裁判で銃殺刑に処されることでしょう。側近がそばを離れ、ベリヤが一人になった瞬間が、唯一奇襲のチャンスでした。
三ヶ月天下、ベリヤ失脚。即決裁判の後、直ちに処刑。
6月26日、漸くチャンスが訪れます。突如、ベリヤは政治局会議の招集を通告されます。何も知らないベリヤを待っていたのは、「裏切り者」「英国諜報機関のスパイ」という、同志から浴びせられる根も葉もない非難でした。不意を付かれたベリヤは、反撃に出ることができず、ただただ狼狽するのみ。しかし、罪状を認めれば、それは死を意味します。慌てたベリヤは、長年の同志マレンコフに助け舟を求めます。黙って下を向いたマレンコフは、助け舟を出す代わりに「秘密のボタン」を押すのでした。
ボタンを合図に、堰を切ったように扉が開くと、ゲオルギー・ジューコフ元帥以下将校らが突入。"裏切り者"ベリヤは、あっさり身柄を拘束されます。ラヴレンチー・ベリヤ逮捕。それは「三ヶ月天下」が終わりを告げた瞬間でした。
ただ、クレムリンの外には忠誠を誓う治安部隊がおり、このまま連行するのは危険でした。そこで、日没まで特別房に拘束、車のトランクに乗せて連行することとします。クーデターを回避するため、国防相ブルガーニンは軍にモスクワ進出を命令。さらに、ベリヤの部下・同志を次々に拘束していきます。12月23日、ベリヤ以下7名に対し、ソビエト連邦最高裁判所は有罪判決を下し、死刑を宣告。そして、ベリヤがそれまで無実の人々に強いてきたように、裁判終了直後、直ちに刑は執行されたのです。
レニングラード事件へマレンコフが関与したという確証。
グルジア出身のスターリンは、同郷のベリヤを重用していました。スターリンがレーニンの汚れ仕事を引き受けて名を挙げたように、ベリヤも率先して泥水を被ることで、高い信頼を得ていたのです。スターリンと同じ道を歩む。それこそが、最高指導者への唯一の道であると、ベリヤは信じていたのでしょう。
ところが、今日スターリンの死への関与が最も疑われるのは、誰あろうベリヤなのです。その中には、毒殺説や倒れているスターリンに唾を吐いたなど、様々なものがあります。ただ、フルシチョフらはベリヤを処刑するに際して、十分な「理由」が必要であることにも留意せねばなりません。しかし、スターリンの死の真相は闇の中。ロシアが真相を明らかにすることは、永遠にないでしょう。
フルシチョフは、計画通りにベリヤを葬り去ると、最高指導者の地位を掌中に収めるべく、マレンコフの失脚を画策します。フルシチョフの切り札は、レニングラード事件へマレンコフが関与したという確固たる証拠でした。
大祖国戦争で最大の悲劇となった、レニングラード包囲戦。ナチス・ドイツは、レニングラードを872日に渡って包囲。早々に食料は底をつき、319万人もの市民は激しい飢餓に襲われ、遂には人肉を調理する店まで現れる惨状となります。
マレンコフを辞任に追い込み、フルシチョフが権力を掌握。
レニングラードの偉大な市民は100万人もの犠牲者を出しつつも、援軍が包囲網を突破するまで、遂にこれを耐え抜きます。スターリンはレニングラード市民に対する最大の賛辞として、英雄都市の称号を与えます。ただ、元より自治志向の強いレニングラードに、若く聡明な指導者が出現することは、スターリンの最も恐れるもの。レニングラードの指導者ジダーノフが謎の死を遂げると、スターリンはレニングラードの指導部メンバーをデッチ上げの裁判で次々に処刑していきます。後にレニングラード事件と呼ばれる一連の弾圧行為を主導したのが、誰あろうベリヤとマレンコフだったのです。
1953年3月、マレンコフはソビエト連邦最高会議幹部会の非公開会議で、個人崇拝の廃止と集団指導体制への移行を提案。これに対し、フルシチョフはソビエト連邦共産党中央委員会書記長に選出されると、9月7日には中央委員会一頭書記官に選出。そこで、フルシチョフは集団指導体制の廃止を決定します。この時点で、情勢は決定的でした。マレンコフの権力体制は、既に砂上の楼閣と化していたのです。1955年1月22日、マレンコフは閣僚評議会議長をフルシチョフに譲り、辞任。2月8日のソビエト連邦最高会議での正式に承認を以て、権力の掌握に成功。フルシチョフは遂に、絶対不可侵の最高指導者の地位を盤石のものとしたのです。
ホロドモール、ウクライナ人口の18%が犠牲に。。。
スターリンの時代、ソビエトは超大国の座を手に入れます。それは、共産主義に陶酔する者たちの成果だと評価できるでしょう。ただ、そこには夥しい(数えたらキリがない)犠牲があったことも、忘れてはなりません。独ソ戦時、ソ連赤軍兵は死を恐れぬ突進でドイツ軍を撃退します。一見、それは死地を守る勇敢な兵士たちの美談。しかし、第二戦を張るNKVD部隊の銃口が、後退・脱走する兵士に対して向けられていた、と聞けば全く意味が違ってきます。往くも還るも、彼らに待っていたのは死だけでした。
スターリンは、常に結果に忠実でした。だからこそ、結果を出すためには、どんな手段でも厭わず用いたのです。農業集団化は明らかに失政でしたが、その事実は隠蔽され、真実を訴える者は尽くこの世から消し去られました。
スターリンによる大粛清の犠牲者数は、800万人から2000万人とも言われます。最大の悲劇となったのは、ウクライナです。ホロドモールと呼ばれ、今に語り継がれる大飢饉は、スターリンによる農業集団化がもたらした悲劇でした。1932年から1934年の間に、人口の1割に相当する500万人が餓死しただけでなく、農業集団化に反対すると「思しき人物」は裁判に掛けられ、その半数以上が銃殺に処されています。犠牲者数の合計は1450万人にも達し、それはウクライナの人口の18%にも達したと推定されています。
1956年2月25日、スターリン批判。それは完全なる否定。
ソビエト史上3人目の最高指導者に就任したニキータ・フルシチョフは、ロシア国民の覚えめでたくない人物。その最大の理由は、ソビエトの弱体化を招いたこと。開拓を促進する農業政策に失敗して農産物輸入国に転落させ、西側との協調路線を敷くべく軍縮に応じたうえ、クリミア半島をウクライナに移管。その挙げ句に、キューバ危機で世界を核戦争の危機に陥れた。。。それよりも何よりも、絶対不可侵の同志スターリンを汚したこと。それは、西側にとって最大の功績であり、東側にとって最大の侮辱でした。著名な「スターリン批判」は、中ソ関係を決定的に悪化させ、東側国家の離反さえ招くことになるのです。
1956年2月25日、最高指導者の座に就いたフルシチョフは、ソビエト共産党第20回大会の秘密会議にて、歴史的な演説「秘密のスピーチ」を行います。日本では「スターリン批判」として知られるその演説は、スターリンによる大粛清の悲惨な実態を明らかにするとともに、スターリンの個人崇拝を真っ向から否定し、スターリンの専横がもたらした大祖国戦争に於ける失策を糾弾するものでした。衝撃的な内容に、会場から漏れ聞こえたのは僅かな拍手と微かな笑い声のみだったと言われています。
それは、時代は変わった瞬間でした。それまでスターリンは絶対でした。しかし、それは今ここに完全に否定されたのです。
コロリョフの追い落としを図る、ライバルたち。
チーフデザイナーの指揮下で進む、2つのプロジェクト。
1953年3月、激動の月。コロリョフは、R-5の発射実験を間近に控え、ジリジリする毎日を過ごしていました。R-5は、目標性能:射程1,200kg・弾頭重量1,424kgとして、西欧をターゲットとする中距離弾道ミサイル。キャンセルされたプロジェクトN-1に代わって、1951年10月20日に正式承認されたプロジェクトN-2の一環として計画されたものでした。
プロジェクトN-1は、目標性能:射程3,000kg・ペイロード3,000kgを狙うR-3がキャンセルされた後、G-4をベースとしたスケールモデル・R-3A(目標性能:射程1,000km・ペイロード1,530kg)の開発を技術研究目的に限って継続を認めたもの。所定の成果を得たとして、10月20日を以てキャンセル。新たに、プロジェクトN-2に移行していたのです。
プロジェクトN-2では、更なる技術発展を目指し、「チーフデザイナー」たるコロリョフの指揮下で2つの計画が進められました。一つは、中距離弾道ミサイル・R-5。そしてもう一つが、短距離弾道ミサイル・R-11。2つの計画は、異なる高みを目指していました。双方とも弾道ミサイル開発計画である以上、コロリョフの監督下にあるべきもの。しかし、R-11計画を気に入らないコロリョフは、自らの権限を以て計画を阻止しようとします。クレムリンから見れば、それは慢心とも言える不遜な所業でした。
単段式液体燃料ロケット、中距離弾道ミサイルR-5。
コロリョフの手によるR-5は、単段式液体燃料ロケット。推進剤には、酸化剤に液体酸素、燃料に92%エタノールを使用。目標性能は、弾頭重量:1,424kgの場合、最大射程:1,200kg。弾頭重量:2,625kg(弾頭:600kgを2個追加)の場合、射程:820km。3,830kg(同弾頭4個追加)の場合、射程:600kg。この時点では小型核弾頭が実現できておらず、弾頭には放射性物質を広範囲に散布する「汚い爆弾」を想定していました。総重量は28.6tに達し、全高:21.34m・直径:1.65m。112secの燃焼終了時には、最高速度:3,044m/sec・最高到達高度:300kmに到達。誘導には無線補正可能な慣性誘導装置を採用し、CEPは1.4kmを目指していました。
エンジンは、仇敵グルシュコの手によるRD-103。R-1用エンジン・RD-101の最終進化系であり、ドイツ人技術者との共同開発計画・ED-140で得られた知見をベースに、推力を更に強化していました。推進剤は過酸化水素駆動のターボポンプでチャンバーへ供給され、流量はエタノール:80.5kg/sec、液体酸素:115.9kg/sec。燃焼室は洋ナシ型から球形に設計を変更し、チャンバー圧力:2.44MPaを実現。最小直径:400mm、口径:810mmのノズルから、推力(sl):432kN、推力(vac.):500kNをを発生し、単体重量:870kg・比推力244secを達成していました。
成功裏に発射試験を終えたR-5。だが、実戦配備はならず。
R-5計画で最初に試験に供されたのは、移動式発射台・8U25でした。試験は1951年12月から翌年2月まで実施され、当試験用に10基のR-5を製造、うち2基が発射台試験に用いられています。
1953年3月15日、R-5の第一次発射試験が開始されます。3月18日の第2回までは射程をV2同等の270kmに設定し、難なくこれに成功。3回目となる4月2日では、最大射程に設定。計画通りR-5は1,200kmを飛んで、着弾。試験は幸先よく成功します。以降、5月23日までの試験は、8回中6回に成功したと判断されます。第二次試験では、7回中6回に成功。1955年2月7日まで実施された第三次試験では、19回に渡って発射実験を実施。10回中5回に成功、4回は誘導装置の無線補正に関する試験が実施されています。所定の成績を収めたR-5は、制式採用が決定します。ところが、R-5が実戦配備に就くことはありませんでした。
弾道ミサイルは、開発・生産に多大な費用を要するうえ、発射準備は複雑かつ難易度が高く、発射は1度きりの使い捨て。突入速度が高いため迎撃の可能性は低く、一撃で確実に敵地を叩く事が可能な反面、コスト上斉射は不可能なため、通常弾頭では打撃力は限定的でした。汚い爆弾は一つのアイデアでしたが、こちらも効果は限定的と考えられたのです。やはり、本命は核装備でした。
R-5の核弾頭装備型R-5Mの実戦配備を決断。
1954年4月10日、R-5の核弾頭装備に関する法令に基づき、核弾頭装備型・R-5Mの開発がスタートします。計画決定に最も大きな影響を与えたのが、1953年8月23日にセミパラチンスク核実験場で実施されたRDS-4の核実験でした。
RDS-4は、Pu-239を使用した原子爆弾であり、総重量1.2t、計画核出力はTNT換算:30kt。小型核弾頭(≒戦術核兵器)の実用化を目的としたものでした。RDS-4は、Il-28爆撃機から投下され、高度600mで炸裂。核出力28ktが達成されます。実験に成功したRDS-4は、直ちに量産が決定します。ソビエトは、弾道ミサイルに搭載可能な核弾頭を手に入れたのです。
1956年1月11日、R-5Mにダミー弾頭を搭載して発射実験を実施。続いて、2月2日にはアラル海の北東150kmへ向けて、射程1,200kmの実弾頭試験を実施します。R-5Mは計画通りの地点に到達したものの、核出力は弾頭の故障により0.3ktに留まります。しかし、1956年7月21日、ソビエトはR-5Mの配備を決断。ソビエトは米国に続いて、世界で2番目の戦略核ミサイル保有国となります。
ただ、R-5/R-5Mは根本的な欠陥を抱えていました。その最大の原因が、液体酸素でした。R-5では、機体軽量化を目的に断熱材を省略。その結果、大気温度に晒された液体酸素が激しく気化するため、発射寸前まで補充し続ける必要があったのです。
点火の必要がなく、長時間維持が可能な新たな酸化剤。
液体酸素は、様々な弊害をもたらしました。液体酸素充填に際しては、多くの支援機材が必要であるうえ、発射準備が完了するには当初30時間を要しました。これは訓練によって大幅に改善されたものの、それでも5〜6時間が限界。しかも、一旦発射準備体制に入ると、その状態を保持するのは精々数十分が限界でした。即応性の欠如。それは、兵器として致命的でした。
そこで計画されたのが、ナチス・ドイツの地対空ミサイル「ヴァッサーファル」をベースとした、短距離弾道ミサイル・R-11でした。ヴァッサーファルはV2の流れを組むもので、ハイパーゴリック燃料として、推進剤にビニルイソブチルエーテル、酸化剤に赤煙硝酸(硝酸:94%・四酸化二窒素:6%)を使用し、戦域からの即時発射を可能にしていました。
R-11は、目標性能は射程:270km・弾頭重量:950kg。R-1の40%の発射重量で、同一の射程を得る計画でした。燃料には、ヴァッサーファル同様にハイパーゴリック燃料を使用。推進剤に灯油、濃縮硝酸をベースにしたAK-20(硝酸:80%・四酸化二窒素:20%)を用い、発射時はTG-02サミンにより着火装置を不要にしていました。即応性に優れたR-11は、大きな可能性を秘めていました。
にも関わらず、開発作業はヴィクトル・マケエフに丸投げされ、コロリョフは一切の関与を拒否してしまうのです。
硝酸使用を理由に、R-11への関与を拒絶するコロリョフ。
弾道ミサイル開発を一手に担うOKB-1を率いるコロリョフは、今やソビエトロケット開発の「チーフデザイナー」に君臨していました。設計作業から手を引く代わりに、コロリョフには全てのプロジェクトに関して、広範囲の責任と強力な権限が与えられていたのです。
コロリョフがR-11への関与を拒絶した理由は、安全に対する強い懸念にありました。硝酸には人体に対する強い毒性があり、ハイパーゴリック燃料は漏洩時に爆発事故を誘発する可能性がありました。当時は、依然としてロケットの発射成功率は低く、事故を起こす可能性が極めて高いと考えられたのです。有人ロケット開発を念頭に置くコロリョフには、性能向上と引き換えに安全性の低下を受け入れることは、決して認められるものではなかったのです。
コロリョフがチーフデザイナーであるということは、あらゆる技術がコロリョフの監督下にあることを示しています。であるなら、硝酸の使用の可否を決定する権限もコロリョフにあるはずです。にも関わらず、R-11計画が推進されたのは、純粋に兵器として優れていたからです。発射に5〜6時間要する弾道ミサイルなど使い物になるはずもなく、R-5Mに兵器として実効性が無いのは明らかでした。クレムリンが望んでいたのは、安心安全なロケットではないのです。
即応性の欠如。ミサイルとして致命的なR-5Mの欠陥。
超大国米国と対峙するソビエトが求めるのは、国家国民に安全保障を提供する絶対的な兵器。それも、最高指導者の発射指示に対し、直ちに対応可能な核弾頭搭載の長距離弾道ミサイルでした。準備に5〜6時間も掛かっていては、発射する前に殲滅は間違いなし。一刻も早く敵地を叩くために、即応性は絶対不可欠なのです。そもそも、僻地から発射される核ミサイルが例え有害であっても、核戦争下ではさしたる影響はないはずです。
コロリョフが硝酸を拒否したのは、有人宇宙飛行を案じてのこと。しかし、宇宙への夢は胸の中だけの秘め事ゆえ、本当の理由を打ち明けることはできないコロリョフの拒絶は、明らかに不自然でした。理由をごまかしたままの強権の行使は、クレムリン内にコロリョフへの疑いを募らせていきます。チーフデザイナー氏は、自分が気に喰わないものはすべて拒否するつもりだと。
R-11がマケエフに委ねられたように、R-5の設計はコズロフとルミャンツェフに委ねられました。R-3に至る経緯を見れば分かる通り、コロリョフを優秀な設計者とするのは無理があります。ただ、コロリョフはプロジェクトを獲得し、予算と計画を管理し、成果を達成することに誰よりも長けていました。以後、コロリョフはチーフデザイナーとして天賦の才を開花させ、人類を史上初めて宇宙へと導くことになるのです。
思うように成果が上がらず、焦るコロリョフ。
OKB-1を分割せよ。フルシチョフの決断に焦るコロリョフ。
上司の支援が得られないながらも、マケエフの手によってR-11の開発作業は順調に進展。1953年4月18日の発射実験に失敗したものの、4回目の5月17日の試験に成功。12月13日には、SKB-385での量産開始に関する法令が発行。1957年には、R-1発射部隊に対してR-11の受領が命じられ、R-11は実戦配備に就きます。1961年9月10日、発展型のR-11Mに核弾頭が搭載され、ノヴァヤゼムリャで核実験に成功しています。R-11はその後R-11FMに発展し、潜水艦発射弾道ミサイルの基礎を築いた他、発展型・R-17(NATO名:SS-1c・スカッド-B)は、「弱者の鉾」として世界中に拡散されていくことになります。
OKB-1を取り巻く状況は、危険な徴候を垣間見せ始めていました。1953年末、フルシチョフが設計局の分散を決定したのです。この決断の背景には、2つの事情が影響していました。表向きの理由はリスク分散。開発拠点が1箇所に集中していれば、1発で全滅の可能性があります。それ故、開発局を分散する必要があったのです。もう一つは、コロリョフの専横。R-11では、コロリョフが断固として関与を拒否。OKB-1の副責任者ミハイル・ヤンゲリは、コロリョフの支持のないままプロジェクトを推進せねばなりませんでした。このままでは、硝酸を使用する弾道ミサイル開発が暗礁に乗り上げないとも限りません。
R-5Mを超える射程を実現する、ヤンゲリのR-12。
フルシチョフの命により、ウスティノフはOKB-586の設立を決定。ウクライナ・ドネプロペトロフスクにあったR-1の生産設備をヤンゲリに託し、その技術責任者に指名します。硝酸推進の弾道ミサイル開発を推進するため、コロリョフは意図的に排除されたのです。そして、クレムリンは、硝酸を酸化剤とするR-11の技術とR-5の胴体を組み合わせ、R-5Mを上回る射程:2,000kmを実現する中距離弾道ミサイル・R-12の開発をヤンゲリのOKB-586に命じます。R-5Mを凌駕する射程を持ち、即応性まで備える中距離弾道ミサイル。もし、それが実現して生産が本格化すれば、有人宇宙ロケット開発なぞ夢のまた夢。
明確な危険を感じ取ったコロリョフは、新しい設計局を自らの監督下に置くことを強く主張しますが、フルシチョフはその要求を自律的な組織の重要性を理由に拒絶。1954年7月9日、OKB-586設立に有効な法令が発行されます。この時、ウラル地方にもう一つ設計局を設立し、マケエフを技術責任者に据えるプランが検討されましたが、この時点では実行されませんでした。
R-12に関する基礎的な研究は、プロジェクトN-2で開始されています。ところが、コロリョフが硝酸の使用に激しく反対したため、ヤンゲリはR-11と共に単独で設計を進め、1953年2月13日に初期設計を完了させるに至ります。
グルシュコが開発した画期的なクラスターエンジン。
1955年10月、R-12の設計作業を完了。しかし、最大の懸念は出力不足のエンジンでした。OKB-456率いるグルシュコは、コロリョフを嘲笑うかの如く、ヤンゲリの方針に賛同。危険な濃硝酸を使用するロケットエンジンの開発に取り組んでしました。この難題に対しグルシュコは、過酸化水素駆動のターボポンプ1基で4つの燃焼室を制御するという、画期的なクラスターロケットエンジンRD-211の設計で応えます。
1952年に設計に着手されたRD-211は、推進剤に灯油、酸化剤に硝酸を使用し、単体重量:635kg。チャンバー圧力:3.92MPaで、燃焼時間:122sec。推力:642.3kN、比推力:262secを発揮。ところが、RD-211の性能では推力が不足しており、このままでは目標性能の射程:2,000kmの実現は不可能と見込まれました。
そこで、グルシュコは設計をさらに進め、1955年にRD-214の開発に着手します。新開発の円筒形燃焼室4個を有するRD-214は、チャンパー圧力を4.36MPaに高め、推力:730kNを達成。比推力:264secへ改善しつつ、単体重量は655kgに留めることで、推力重量比は65%改善されます。RD-214の試験は1957年に開始され、幾つかの改良を経て、3月までに無事開発が完了します。
順調に進展するR-12計画に焦りを募らせるコロリョフ。
順調に進むR-12に対し、コロリョフは忸怩たる思いを抱いていたのでしょう。かねてよりロケットの空気力学研究に腐心してきたコロリョフはR-12の設計案を見るなり、「この鉛筆は飛ばない!」と宣言するのです。コロリョフは、グレトルップ以来のシャープな円錐形デザインに確固たる自信を持っていました。これに対し、R-5の胴体を流用したR-12はまるで鉛筆、シンプルな円筒形を採用していました。ヤンゲリは設計思想の面でも、コロリョフの影響下を脱しようとしていたのです。
誘導装置でも、コロリョフの意見は真っ向から否定されます。コロリョフは有人宇宙ロケットを見据えて、無線で補正が可能な慣性誘導システムを推進していました。これに対してヤンゲリは、ジャミングによって命中精度が低下するのを回避するため、ソビエト初の自律慣性航法システムを採用していました。自律慣性航法装置であれば、発射後の追尾は不要で、打ちっ放しが実現します。核戦争下では、発射地点からの退避は早いほど生存性は高まりますから、打倒な選択でした。あらゆる意味で、コロリョフは否定されつつありました。フルシチョフは明確にコロリョフに懐疑的であり、築き上げてきた牙城は明らかに揺らぎ始めていました。
そして、事態はコロリョフにとって最悪な方向へと突き進んでいきます。R-12が、順調に成功を収めてしまうのです。
あらゆる意味でR-5Mより優れていたR-12。
1957年6月22日、R-12はカプースチン・ヤールから初の発射試験を実施。そして、翌年12月27日にかけて25基のR-12が発射試験に供され、試験は見事成功を収めます。1959年3月4日、R-12の制式採用が決定。R-12は、ソビエト初の熱核弾頭搭載の弾道ミサイルとなり、1989年に至るまで実に2,300基が量産されるに至るのです。
R-12は、中距離弾道ミサイルとしてR-5Mよりもあらゆる意味で優れていました。発射手順が簡易なため、移動式発射台でも、サイロからの発射も可能。そのため、発射準備段階で位置が露呈することを回避可能でした。また、R-12には4つの準備段階があり、その各段階でも待機が可能だったのです。
準備条件4:燃料タンク:空・誘導装置:なし。保証寿命:7年。最短発射時間:205分。
準備条件3:燃料タンク:空・誘導装置:装着・弾頭:装備。保証寿命:3年。最短発車時間:140分。
準備条件2:準備条件3で、発射台に設置。保証寿命:3ヶ月。最短発射時間:60分。
準備条件1:準備条件4で、TG-02灯油を搭載。腐食性のあるAK-27I硝酸は保管。保証寿命:1ヶ月。最短発射時間:30分。
後がないコロリョフが、人生最大の勝負に出る。
R-12の優位性は明らかでした。これに対抗するには、その性能を遥かに上回る長距離弾道ミサイルの実現が不可欠です。幸いコロリョフは、大陸間弾道ミサイルという壮大な目標性能(射程:5,000〜10,000km・ペイロード:1〜10t)を実現するプロジェクトN-3を、自らの監督下に置いていました。これだけの性能を実現できれば、軌道上に衛星を打ち上げるのは、造作も無いこと。コロリョフは大願成就へ向けて、いよいよ大きな一歩を踏み出そうとしていました。
ただ、コロリョフは逆境の最中にありました。自らの設計案は尽くボツとなり、そのうえプロジェクトN-3に失敗すれば、失脚は間違いありません。そうなれば、友人宇宙探査など夢のまた夢。しかも、その成功には仇敵グルシュコの協力が不可欠でした。
しかし、コロリョフはやり遂げるのです。世界初の大陸間弾道ミサイル・R-7は、スプートニックロケットへと発展し、スプートニク1号を、ユーリ・ガガーリンを宇宙空間へと安全・確実に送り届けることになるのです。
ただ、現実主義者のフルシチョフにとって、有人宇宙探査など全くの無価値。しかし、最高指導者のお墨付きなくては、プロジェクトは一歩たりとも前進はしません。フルシチョフは、自らの全てを賭けて、人生最大の勝負に打って出ることになるのです。
フォン・ブラウンが、新天地レッドストーンで掴んだ最大のチャンス。
遊休施設と化したレッドストーン兵器廠の再出発。
レッドストーン兵器廠、それは米国アラバマ州北部の街ハンツビルに存在していた、化学兵器及び各種弾薬製造を受け持つ陸軍工廠でした。1941年7月3日、陸軍が工廠開設を宣言すると、耕作していた農民はすべて追放され、テネシー川沿いの土地一帯に各種弾薬製造を目的とした施設が建設されていきます。1943年、この地域一帯に分布する赤い岩と土に因み、レッドストーン兵器廠に名称を変更。同年、日本の戦略爆撃を目的とした焼夷弾のテストを支援するため、レッドストーン陸軍飛行場が開設されています。
ただ、日本の無条件降伏により弾薬の需要が無くなると、施設は遊休状態となります。戦後、余剰となった焼夷弾の解体と、ガスマスクの製造が行われたものの、それは一時的なものでした。1947年には、施設が過剰であることが宣言され、施設の縮小と土地の返還が検討されます。1948年初め、幾つかの施設が、創業間もないケラーモーターズなる新興の自動車メーカーにリースされます。ところが、創業者が突然世を去ったため、製造されたのはたった18台に留まります。
陸軍は、1949年7月1日までに遊休のレッドストーン兵器廠を売りに出すよう指示をします。ところが、その売却は幻となります。1949年6月1日、陸軍はレッドストーン兵器廠をロケット研究開発施設とすることに決定したからです。
フォン・ブラウン、新天地レッドストーンに立つ。
束の間の我が家となったテキサスの大地を離れ、フォン・ブラウンらはハンツビルに移ります。しかし、今度は愛する家族も一緒でしたし、警護も監視もありません。新たな住処には、柵や塀もなく、そこには合衆国らしい自由がありました。
フォートブリス兵器研究開発部サブオフィスをレッドストーンに移したのは、トフトイ大佐でした。兵器局長室ロケット課長だったトフトイは報告書をまとめ、兵器局がロケット及び誘導弾の研究開発に十分役割が果たせていないことを強く指摘します。トフトイはその報告書の結びで、適切なロケット兵器開発局を直ちに設置することを勧告します。
兵器局はこれを支持し、直ちに工廠候補地の選定を開始します。1948年11月18日、ハンツビルのレッドストーン兵器廠を指定し、これを再稼働させることを発表。6月1日にレッドストーン兵器廠は正式に再稼働します。これに際し、フォートブリスが手狭となったフォン・ブラウンらの兵器研究開発部サブオフィスの移転が提案されます。10月28日、この提案は了承され、翌年4月15日に兵器誘導ミサイルセンター(OGMC)の設立が正式決定されます。OGMCは、ドイツ人の契約社員130名、米国人の公務員120名、軍人500名で構成され、指揮官はハミル少佐、技術責任者にはフォン・ブラウンが任じられます。
陸軍、戦術地対地ミサイルの開発計画を推進。
1946年の時点で、陸軍省装備委員会(スティルウェル委員会)は将来戦術ミサイルが重要な役割を果たすと予測。直ちに、有効な戦術ミサイルシステムの開発を求めると同時に、多くの基礎研究を要する状況では、着実に研究を進める重要性を指摘します。また、小型ミサイルで確立された技術・知見は、大型ミサイルにも必ず適用可能であるため、最初に着手すべきタイプを徹底的な検討が必要である、とも警告しています。闇雲に複数タイプを平行開発するのはリスクが高いとしたのです。
2年後、陸軍野戦軍委員会は、戦術ミサイル技術の進展に照らして要件の見直しを決定。これを受けて、審議会は地対地及び地対空ミサイルに関する草案の作成を進めます。陸軍野戦軍司令官は委員会を再招集。費用対効果の高い目標に対するミサイルの役割、想定される目標に最適な弾頭の種類、要求される命中精度について、検討が不十分であったと報告。次いで1950年、委員会は2つの地対地ミサイル(射程240kmと射程800km)の準備を並行して進めていることを発見し、2つの計画の統合を指示します。
1950年10月30日、委員会は最終報告書にて、陸軍野戦軍の戦術地対地ミサイルの必要条件を概説。軍団支援として射程:8〜56km、軍支援として射程:32〜240km、戦域支援として射程:240〜270kmのミサイルを優先的に開発することを提言します。
フォン・ブラウン、射程800kmの戦術ミサイルの予備調査。
委員会の意向を反映してか、兵器総局は射程800kmの開発を独自に検討し、OGMCに対して射程:800kmの戦術ミサイルの予備調査を指示します。提示された性能要件は、ペイロードとして弾頭総重量:1.3t、弾頭直径:1.1m。速度:マッハ2以上、航続距離:926km、命中精度:900m以内。目標性能を達成するために、高精度の制御装置を必要としました。ただ、命中精度は最重要要件であり、より高精度の制御装置を実現すべきとしました。また、打ち上げは液体燃料の大型ロケットか固体燃料のJATOを利用することとし、主推進システムはロケットエンジン及びラムジェットエンジンが最適としました。
続いて、兵器総局は評価試験に供する試作ミサイルを早期に準備するため、必要な人員と施設の検討を指示。陸軍野戦軍は、戦術ミサイルシステムの緊急的な開発・配備を要求し、予備調査は他のヘルメス計画より優先されるものとします。
1950年9月11日、兵器省はGE社とのヘルメス計画に関する契約内容を変更し、ヘルメスC1計画をOGMCに移管することを指示。加えて、資料・データの移管も指示します。ヘルメスC1は、他のプロジェクトよりも優先度が高いとされたものの、予算の都合上、当面の活動は予備調査に制限されました。
米軍降伏から5年。フォン・ブラウンに訪れたチャンス。
陸軍最高司令部は更なる指示を与え、試作段階で必要な人員・設備の見積をプロジェクトに追加します。また、射程:800kmのミサイルの代替案の検討も要求します。この新提案は、弾頭総重量:680kg・直径:0.81mである点のみが異なるものでした。
ヘルメスC1は、フォン・ブラウンらにとって漸くありついた「まともな仕事」でした。弟マグヌスが決死の思いでヨッホ峠を越えてから、早5年。フォン・ブラウンは、宇宙への夢をずっと心に秘めてきました。彼らは遂に米国陸軍予算を得て、やっとその端緒に辿り着いたのです。ヘルメスC1の目標地点は、宇宙ではなく、地上です。しかし、弾頭の代わりに小型ロケットを2段目に据えれば、人工衛星の打ち上げも可能なはずでした。傍目には小さくとも、フォン・ブラウンにとっては間違いなく大きな一歩でした。
ただ、当時彼らは引っ越しの真っ最中。人員、資材、資料、設備の移送作業に忙しく、新天地レッドストーン兵器廠は予算はさほど潤沢ではなく、設計や実験に使う部屋も自分たちで用意せねばなりませんでした。そんな環境にありながらも、フォン・ブラウンは予備調査の結果を的確かつ正確に報告書にまとめ上げます。この資料は1950年秋の研究開発委員会に提出された後、翌年1月25日の第30回誘導ミサイル委員会で発表されます。
XLR43-NA-1を搭載する、単段式液体燃料ロケット。
最終報告書の中でフォン・ブラウンは、開発に要する時間を節約するために、開発が既に完了し、実績のある技術を活用することの重要性を強調しています。エンジンに関しては、現状利用可能な選択肢は、大陸間巡航ミサイル・SM-64ナバホのブースターエンジンであるノース・アメリカン・アビエーション(以下、NAA)製XLR43-NA-1と、当時開発中であったエアロジェット社製AJ10-18の2つ。但し、1951年夏の時点で量産可能かつ要求性能を満たし得るのは、XLR43-NA-1のみとし、結果的にこれが最適であるとしています。また、ロケットエンジンは、ラムジェット方式を採用した場合でも、ブースターとして利用可能な点も指摘しています。誘導装置については、電波誘導には依然問題があり、既存の自製慣性誘導装置をベースに、ホーミング誘導装置で命中精度を補うのが最適としています。また、2段式ロケットはコストが高いものの性能上の優位性を指摘。ただ、射程:720km以内であれば、単段式ロケットを使用する必要があるとまとめています。
ここに予備調査は結論に至ります。ヘルメスC1は、NAA社製XLR43-NA-1を搭載した単段式液体燃料弾道ロケットとし、慣性誘導装置を無線航法システムで補完し、射程:740kmで命中誤差:450mを実現しつつ、帰還誘導装置の実現により命中誤差:150mを目指すとします。
独自開発を進めた、ノースアメリカン・アビエーション。
NAA社製ロケットエンジン・XLR43-NA-1は、V2ロケットのエンジン・39a型を再設計・改良したものでした。
NAA社は、1946年からロケットエンジンの実験を開始。独自に研究を進めていました。当初は、推力:4.5kNのエアロジェット社製を使用。その後、推力:1.3kNのエンジンを独自に設計。ただ、実験は小規模なもので、燃焼実験は駐車場で実施されました。高温・高熱の排気が従業員の自動車を焼いてしまわぬよう、ブルドーザを駐車して保護していました。
1946年春、V2用・39a型エンジンのデータが公開されると、自らの設計を放棄。39型をベースとした新エンジンの開発を決定します。6月、海軍航空局はNAA社に対して39型の改修及び試験を提案。年末には、サンプルとなるエンジン2基が到着します。NAA社は、まず39型を米国規格に適合する改修を実施。続いて、18個に分割された燃焼室を1個に統合。エンジン設計の簡素化を図り、軽量化と性能向上を実現します。また、更なる技術力向上を期して、元ペーネミュンデのディーター・ヒューゼルを雇用。1947年9月には、新たな「シャワーヘッド」設計を導入したエンジンの設計を開始します。この設計では、燃料に75%エチルアルコール、酸化剤に液体酸素を使用。39型同等の推力:250kNを目指しつつ、15%の軽量化を狙っていました。
V2エンジン39型の正常進化型、XLR43-NA-1の完成。
1949年11月末、新エンジンは漸く燃焼実験に漕ぎ着けます。翌年3月には、計画定格推力:333kNを4.5sec維持することに成功。6月には、不安定な燃焼の問題を解決し、1分以上に渡る最大推力の維持に成功。ここにXLR43-NA-1が完成に至ります。
XLR43-NA-1は、39a型の半分の重量で、34%増の推力を達成。ノズルはそのまま維持されたものの、球形だった燃焼室を円筒形に変更。製造コストの削減を実現しています。ターボポンプは、39型を踏襲。過酸化水素を過マンガン酸カリウムのペレットとの触媒反応させて、高圧蒸気を生成。ターボポンプを駆動しました。エンジン内部の冷却は、39型のホールリングに代わって、燃料噴射で賄われています。当初は燃焼が不安定になったものの、やがてこれも克服することになります。
この他、予備調査で検討されたものに誘導装置があります。検討の結果、選択されたのは内製の慣性誘導装置でした。ゼネラル・エレクトリック社の位相比較レーダは、対抗処置に弱いため不適。コンソリデーテッド・バルティ・エアクラフト社の地上追跡レーダ・アズサシステムも、開発の只中にあって不適。OGMCの慣性誘導装置は、ヘルメスIIに搭載されたもので、命中精度が450mにまで低下する可能性があったため、目標性能を実現するには更なる改善が必要でした。
折角の中距離弾道ミサイルが、短距離弾道ミサイルに。。。
ヘルメスC1計画の大まかなスケジュールを決定。
OGMCを率いるハミル少佐は、ヘルメスC1計画の大まかなスケジュールを決定します。最初の2基の発射試験は、計画開始から20ヶ月後に設定。ここに始まる試験プログラムは16ヶ月間継続され、合計20基の発射試験を実施。パイロット生産は試験プログラムの終了と同時となる約30ヶ月後に開始し、量産試験機は36ヶ月後に完成するとします。
ただ、OGMCが決定したスケジュールを実現するには、2つの条件をクリアせねばなりません。第一は、開発計画に高度の優先権が与えられ、なおかつ以下の条件を満たすこと。1.産業界が可能な限り約束を果たすこと、2.他の政府機関から風洞施設を必要に応じて遅滞なく提供すること、3.地上試験設備が遅滞なく準備されること、4.適切な人員を雇用すること、5.必要な資金を要求に応じて提供すること。
第二は、主要コンポーネントの開発・生産民間企業への委託でした。試験・部品製作・最終組立に際し、民間企業は必要に応じてOGMCの施設・試験設備を利用可能としました。また、OGMCは、民間企業が製造したコンポーネントの試験・評価を実施し、必要に応じて改良を実施します。これに伴い、OGMCの収容人数は最大1,000人が必要と見積もられます。
トフトイ大佐、突然ペイロード3.1tへの変更を通告。
OGMCの見積もりでは、36ヶ月間の開発プログラムに要する総費用は2,600万ドル。最初の20ヶ月間に330人の増員が必要で、900万ドルの予算が部品製造、施設の提供及び試験機2基の組立費用と関節管理費に充当されます。後半16ヶ月間では、18基の試験機18基の製造と発射試験で1,700万ドルを消費する計算でした。
ところが、事態はここで急転直下。OGMCが予備調査を完了し、結論と勧告を提示した1951年2月。トフトイ大佐は、ペイロード要件の変更を突如通告します。当初想定の弾頭重量1.3tでは熱核弾頭の実現は不可能なため、ペイロードは最低でも3.1t必要だとしたのです。ペイロードの増加は、射程延長の涙ぐましい努力を全く無にします。射程800kmの中距離弾道ミサイルはすっかり陰も形もなく、射程185kmの短距離弾道ミサイルになってしまうのでした。
当時の参謀本部研究開発部次席補佐官特殊兵器担当のスタンリー・R・ミケルセン准将は次のように述べています。
「このミサイルの開発で重要なことは、スピードである。つまり、既存の部品を可能な限り使用し、最短時間で戦術的かつ実用的なミサイルを実現する技術的アプローチでなければならない。」
開発計画の加速を指示。ケラー加速プログラムの承認。
1951年2月、国防長官室誘導ミサイル部長カウフマン・トゥーマ・ケラーが、レッドストーン工廠を訪問。陸軍のミサイル開発計画に関してブリーフィングを実施。予算受領から最初の発射試験まで20ヶ月とし、計画の優先順位を「1A」に、最初の4基の製造と飛行試験の費用を1,800万ドルとすることとし、最終的に100基の生産を目指すことで、OGMCと合意に至ります。
3月15日、陸軍長官フランク・ペースJrはケラーに対し、研究開発計画の加速を指示。1954年9月までに製造される75基の試験機のうち、OGMCで1〜24号機の最終組立を提案。1〜12号機の部品30%を内製とするも、それ以外の部品は民間へ委託。最初の発射試験は1953年1月に予定され、月産:2機・24機をOGMCにて生産。その後、民間企業でのパイロット生産(月産:2基)を開始し、1954年8月からは月産:15基の本格生産へ移行します。この計画に要する予算は、総額で7655万ドルに達しました。
4月13日、計画全体の速度が問題視され、新たに「ケラー加速プログラム」が承認されます。12号機の生産完了を1953年5月に前倒しすると共に、必要な補助装置を提供する支援プログラムを開始し、計画全体の加速を指示します。これは、早期に開発を完了することで、早期に信頼性を確立することを目的にしていました。
1951年5月1日、ヘルメスC1計画が正式にスタート。
1951年5月1日、OGMCはヘルメスC1計画の開始を支援するための予算250万ドルを受領。ここにプログラムは予備調査段階を終了し、正式なキックオフを果たします。発射試験まで20ヶ月、スケジュールはここにカウントダウンを開始します。
1951年7月10日、ヘルメスC1計画の研究開発段階の全責任を、正式にレッドストーン工廠へ移譲します。そして8月16日、OGMCが弾頭を除く研究開発プログラムに主要な責任を負うことが正式に認められます。囚われのドイツ人が、米国戦術核兵器開発を正式に担うことになったのです。ただ、ドイツ人技術者が米国の秘密計画に関与しているという噂は既に公然のものとなっており、ホワイトハウスは厳しい批判に晒されることになります。
OGMCでは、パイロット生産(1〜12号機)段階に於ける製造プログラムを3段階に分けて計画していました。プログラムが次の段階に進むに応じて、OGMCの関与と責任が低下していく仕組みです。ロット1(〜4号機)ではOGMCが主契約者であり、30%の部品製造のみが民間に委託され、最終組立まで責任を負います。ロット2(〜8号機)では、OGMCの関与が低下。ロット3(〜12号機)では主要コンポーネント生産の外部委託を開始し、主契約者となる民間企業を選定を終えるというものでした。
試験機生産プログラムと試験プログラムの策定。
1951年10月、部品の開発・製造に必要なリードタイムが、プログラム全体のスケジュールを脅かす危険性が明らかになります。
そこで、部品単体で中小企業に委託するのではなく、予備設計を完了した段階でコンポーネント単位で大企業に一括委託することを決定。これに伴い、製造プログラムのロット1とロット2が統合されることとなります。ただ、最終組立作業はOGMC自らが実施する予定でした。そのため、依然としてOGMCが主契約者としての役割と責任を担うことには変わりありませんでした。
OGMCは、3段階に分けて製造される12機の試験機に、各段階ごとに異なる試験目的を設定します。1953年1月までに飛行試験を実施する予定だったロット1では、推進システム、推力制御システム、主要構造の試験、低離陸加速度での動作評価、エンジン停止から弾頭分離までのロール制御システムの評価を実施。ロット2では、弾頭分離試験、弾頭の空間位置監視、大気圏降下中の弾頭の操縦性、空力加熱と応力評価。ロット3では、ミサイルシステムの信頼性と慣性誘導装置(追尾、空間位置制御、終末誘導)の試験に加えて、発射手順及び人員訓練の検討を実施することを計画します。
信頼性確立を求めて膨れ上がる開発プログラム。
戦術ミサイルは、高度な軍事的要求を理由に極めて正確で信頼性の高い兵器システムである必要があるため、OGMCは大規模な検査・試験プログラムを計画します。OGMC及び民間企業に於いて、開発・製造・組立の各段階での部品の検査・試験を実施し、組立を終えた機体で静止燃焼試験により、各コンポーネントの品質・性能を確認。その後、ミサイルは部分的に分解・再調整され、発射準備がなされた後、最終機能試験を実施します。微に入り細に入る品質管理体制の実現を目指したのです。
複雑なシステムで高い信頼性を実現するには、部品単体、サブアセンブリ、コンポーネント、完成機体と各段階での検査・試験は必須です。また、問題が発生した際に速やかに原因を特定するためには、それらを正確に記録した書類を保存・管理する必要もあります。当然、それは開発・製造プログラムだけに留まらず、発射準備、支援機材、管理体制を含めた全ての過程に於いて、定められた「戒律」を厳密に遂行せねばなりません。その結果、設備・施設・人員を含めて雪だるま式にその規模を拡大し、プログラムは恐ろしい程に複雑さを増していくのです。ただ、この努力は決して無駄にはなりませんでした。OGMCが信頼性と正確性を高度に確立したからこそ、フォン・ブラウンは夢への扉の前に立つチャンスを得ることができたのですから。
開発プログラムの加速を期して、協力企業を選定。
1951年12月、機体の予備設計を完了したOGMCは、試験用測定装置の追加に伴う計画の遅れを回避するため、試験機12機を内製とする計画を改め、部品生産の早期民間委託を提案します。これに興味を示したケンタッキー州ルイビルのレイノルズ・メタル社を機体生産の製作業者に指定、翌年7月18日に契約を締結します。同社は、機体部品の開発・設計・改設計・製造・組立に必要な全てのサービス・労働力・資材・施設の提供に同意。機体コンポーネントの製作への協力を開始します。
レイノルズ・メタル社は、レッドストーン工廠に近いアラバマ州シェフィールドの施設を使用したため、緊密な協力関係を実現することが可能でした。OGMCは、早速機体部品の改設計を依頼。中央部胴体で22.86cmの延長、後部胴体で10.16cmの短縮が図られた他、NAA75-110 A-4搭載に伴う後部胴体の修正が成されています。
1951年12月、OGMCは誘導制御装置の大凡の設計と施策を完了。この協力企業として、フォード・インストゥルメント社と契約します。飛行試験が差し迫る中、ST-80誘導装置の開発が依然完了しておらず、当面の飛行試験はLEV-3自動操縦装置を使用して実施することとします。これによって、早期に飛行試験の開始が可能になり、推進システム、構造体、弾頭分離システム、その他サブシステムの適合性評価が実現します。