スバリズムレポート第1弾「事故の歴史と教訓〜技術発達の陰にある、多大な犠牲と血の教訓〜」鉄道編 [2018年03月24日更新]
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紫雲丸事故〜修学旅行中の児童の多くが犠牲に〜 >>1955年5月11日 香川県高松市女木島沖 宇高連絡船
紫雲丸事故。霧の中の全速航行。
By 未知の [Public domain], via Wikimedia Commons
紫雲丸は「死運丸」とも噂された呪われた船で、5回の事故を起こしています。この内、2回で沈没を経験し、合わせて175名もの命を奪っています。船舶においては、サルベージが可能であれば、沈没船を再就航させることは珍しいことではありません。しかし、気味の良いものではありません。国鉄五大事故に取り上げられるのは、5度目の事故です。修学旅行中の児童が逃げ遅れて多数犠牲になるという、悲劇的な事故となりました。
数多の島が点在し、潮流も激しい瀬戸内海。ここを大小様々な船舶が東西南北に行き交うので、海峡の航行には常に危険が伴います。
1955年5月11日、当日の瀬戸内海には濃霧警報が発令されていました。午前6時40分、中村正雄船長は視程400mを確認し、出航を決断します。修学旅行中の児童をたっぷり乗せた紫雲丸は、乗客781名、乗員60名で高松港を出航します。子供たちはこれから来る悲劇など知る由もありません。船内は楽しい笑い声に包まれていたことでしょう。
6時51分、霧は濃くなる一方で、視程100m低下します。逆に宇野港から高松港へ向けて航行中の第三宇高丸は、レーダー上で2,500m先に紫雲丸の姿を確認、海上衝突予防法に則り進路140度に変更。同53分、距離1,700mまで接近しますが、第三宇高丸からは紫雲丸の霧中汽笛音が左舷から聞こえたものの、目視では確認できず。第三宇高丸は回避できたものとして、全速航行を継続します。
ここまでは、宇高連絡船では日常のこと。ところが、事態はここから急変します。
突然の激突。
同56分、霧中に突如現れたのは、左舷30度100m前方に左回頭中の紫雲丸でした。船舶は急には止まれません。最早、為す術はありませんでした。 第三宇高丸船長は直ちに機関停止、左舵一杯を指示。回避を試みるも、紫雲丸右舷船尾付近に激しく衝突。
紫雲丸の右舷には大破孔が生じ、機関室へ激しく浸水が始まります。機関停止により直ちに船内は停電、消灯。乗組員は水密扉の閉鎖を試みるも、断念。急速に傾斜する船内は大混乱となります。乗客は我先にと右舷に殺到。大変気の毒なことに、体力のない児童は多数船内に取り残されてしまうのでした。
第三宇高丸は紫雲丸の沈没を予見したため、全速前進で紫雲丸を押し続けて、浸水の緩和を試みます。その間に乗客は次々に第三宇高丸に避難していきます。海上に難を逃れた乗客は、付近を通りがかった手漕ぎ船に次々救助されていきます。
子供たちと共に沈みゆく紫雲丸。
しかし、浸水は留まることを知りません。哀れ、右舷甲板に辿り着けない児童たちは次々と息絶えて行くのです。中には、救助のために引き返して犠牲になった先生もいたと言います。紫雲丸は多くの児童を遺したまま、7時2分に沈没。死者は168名に達しました。
児童の犠牲者は100名を数え、遺体収容活動は凄惨を極めたと言われています。階段付近には折り重なるように、児童の亡骸があったというのです。今日では理解し難いことですが、紫雲丸は事故後引き上げられて、修理が施されます。瀬戸丸と名を変えて、1966年まで使用され続けました。
紫雲丸事故:事故原因と教訓
事故要因:海上衝突予防法によって、船舶の右舷に緑灯、左舷には紅灯の設置が義務付けられている。互いに衝突を予見した際には紅灯が視界にある船舶に回避義務がある。また、互いに進路が交差する場合、相手船舶を右舷側に見る方に回避義務がある。対向する場合は互いの左舷側を通過する。これを鑑みれば、紫雲丸が左転ではなく右転せねばならなかった。両船ともに互いに無線連絡を取るべきとことを怠った。また、濃霧中にも関わらず、霧中汽笛のみで回避を判断し全速航行した判断は誤りであった。
教訓:危険な状況が日常化すると、正常化バイアスによって危険認識が低下する。規定違反を伴う現場判断であっても、幾度かの成功を経験すると、これが常態化・正当化してしまう。しかしそれは本来誤った取扱いであるので、いつしか重大なインシデントを引き起こすことになる。本来規則に則って、処置すべきである。
北陸トンネル火災事故〜トンネル内での火災事故が与えた教訓〜 >>1972年11月6日 福井県敦賀市 北陸本線北陸トンネル内
北陸線北陸トンネル列車火災事故。
長大トンネルでの鉄道火災という日本の鉄道史上初の事故は、犠牲者の大半が一酸化炭素中毒という前代未聞の大惨事となります。
福井県の敦賀ー今庄間は、急峻な山岳地形が海岸線まで続く厳しい地域であり、古くから難所として知られていました。北陸本線はここを海岸沿いの中腹に単線で線路を通し、25‰の勾配、4箇所のスイッチバック、12箇所のトンネルで通過していました。交通の隘路となるばかりか、雪崩や崖崩れによる不通も相次ぎ、迂回路の建設は急務でした。5年という突貫工事で建設された、延長13,870mもの長大トンネルとなった北陸トンネルは地元の大いなる期待をもって、1962年6月10日に開通したのでした。
それから10年後の1972年11月6日未明、未曾有の大惨事が発生します。
トンネル内の避難者を対向列車が救助。
By 列車のライダー (自身の仕事) [パブリックドメイン], via Wikimedia Commons
草木も眠る深夜1時40分、大阪行上り電車急行立山3号の運転士は前方にまったく予定外の赤信号を確認します。列車は、北陸トンネル内の木ノ芽信号場で停止。底知れぬ不安を感じたものの、20分後に信号が青になったため、ゆるゆると徐行で列車を進めていきます。300mほど進んだところで真っ暗闇の中に現れたのは、何とトンネル内を歩く人々。
運転士は重大事故の発生を確信、直ちに列車運行の中止を決断。2時3分、ドアを開放し避難者の救助を開始します。しかし、時間は余り残されていない様子。トンネル内に、深く煙が立ち込めて来たのです。恐るべきは、二次災害。自らの列車の乗客を巻き込む訳にはいきません。避難者はまだ多く残っていたようですが、二次災害の危険を察した運転手は立山3号の後退を決断。救助を求め、列車を呼び止める声に後ろ髪を引かれつつ、非情の判断を下ささざるを得ませんでした。運転士は立山3号を逆進させてトンネルから無事避難 、2時40分今庄駅に到着します。
火災対応の間に給電停止し、行動不能に。
避難者たちは、大阪発新潟行夜行急行きたぐに2号の乗客でした。トンネル内で発生した火災から命からがら逃れてきたのでした。
きたぐに2号は、1時14分頃敦賀側から4.6kmの地点で食堂車からの火災発生を確認。運行規定に則り、直ちに列車を緊急停止。難燃対策が不十分な10系客車は火の回りが早く、鎮火を断念。当該車両の解放を試みます。しかし、1時52分頃に火炎でトンネル天井の雨樋が溶け落ちて、架線がショート。給電が停止して、遂に列車は身動きが取れなくなってしまいます。
国鉄史上初めて長大トンネル内での火災事故。対応は後手後手に回り、救助作業は難航します。電化区間では火災は起きないとの想定で、何と消火設備は未設置。労働組合からの要求で、トンネル内の照明設備も点灯させていませんでした。何に手間取ったのか、敦賀側の消防への通報には事故発生から40分、今庄側の消防通報には1時間を要しています。
火災対応の間に給電停止し、行動不能に。
消防の救助活動も難航します。まず、4.6kmも消火ホースを伸ばすのは不可能ですし、有毒ガスからの防護を考えると長時間の滞在も厳しいという状況。為すすべなく時間ばかりが過ぎていきます。仕方なく、リスク覚悟での救援列車でのトンネル内突入を決行。逃げ遅れた人々を救助しますが、火元に辿り着く事はできませんでした。全員の救助が完了したのは、発生から半日を過ぎた14時。死者30名、負傷者714名に達する大惨事となります。死因はすべて、一酸化炭素中毒でした。
事故後、問題になったのはきたぐに2号が火災発生時に停止手配を取ったことでした。もし、そのまま走り抜けていれば、被害は少なかったのではないか、とされたのです。実は、1969年に同様の火災事故が北陸トンネルであり、この際に停止手配を取らなかった運転士は規定違反で処分されていました。このことは、きたぐに2号の判断に大きな影響を与えたとされています。
事故後、火元となった食堂車オシ17は直ちに全車使用停止。10系客車も急速に置き換えが進められ、車両の難燃対策も進行していきます。また、長大トンネルや橋梁上での緊急時の取扱規定は、可能な限り走り抜けることに変更。1988年3月のサロンエクスプレスアルカディア火災事故ではトンネル外で緊急停車させたために、人的被害を免れています。
死因は焼死ではなく、一酸化炭素中毒。
事故要因:長大トンネルに対し関心が輸送改善に集中したために、危険予知や災害対策が完全に疎かになっていた。国鉄は電化区間では火災事故は発生し得ないと考えていたため、管轄消防からの救助訓練要請を断っている。そのため、長大トンネル故の救助環境に対策が取られず、発生しうるリスクに対し運行規定を再検討することもなかった。結果、トンネル内での緊急停車という最悪の取扱を行うこととなり、30名もの命を奪うこととなった。
教訓:有効であった安全規定であっても、いつの間にか実態と乖離している可能性がある。安全規定は新たな環境に適応するために、常に継続して再検討するべきである。
信楽高原鐵道列車正面衝突事故〜安全を軽視した為に起きた、完全なる人災〜 >>1991年5月14日 滋賀県甲賀市
信楽高原鐵道列車正面衝突事故。
DD51612でWikipedia日本語版 [http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html">GFDL or http://creativecommons.org/licenses/by/3.0">CC BY 3.0], via Wikimedia Commons
1991年5月14日、信楽高原鐵道の小野谷信号場―紫香楽宮跡駅間で対向列車が正面衝突、死者42名、負傷者614名という大惨事が発生します。当初は第三セクターの稚拙な運行管理が問題かに見えたこの事故ですが、その実際はJR西日本に重大な過失があったことが明らかになります。自らの都合で安全を第二とする社風はこの事故の裁判を通じても是正されることはなく、JR西日本はJR福知山線脱線事故を起こしてしまうのです。
信楽焼で全国に名を知られる滋賀県甲賀郡信楽町で、1991年に「世界陶芸祭セラミックワールドしがらき'91」が開催されます。人口13,000人余りのこの町に、1日2万人もの人が訪れるというビッグイベント。イベント実行委員会では、想定総来場者35万人のうち、25%の9万人を信楽高原鐵道による鉄道輸送で賄う計画を立てていました。
信楽高原鐵道は不採算の国鉄信楽線を受け継いだ第三セクターで、滋賀県内のJR貴生川駅と信楽駅間14.7kmを結ぶ小さな鉄道です。通常時はたった1列車の運行ですべてを賄っていた信楽高原鐵道は、イベントに際してJR西日本からの直通臨時列車を運行する輸送計画を立てます。しかし、全線単線で行き違い設備のない同鉄道では、複数列車の運行は不可能。そこで、2億円を掛けて途中に行き違い設備(小野谷信号場)を新設。それに合わせて、運行管理形態をスタフ閉塞から特殊自動閉塞に変更し、信号機と分岐器を自動設定する自動進路制御装置も設置しました。
原因不明の信号トラブルの頻発。
準備万端整ったかに見えた信楽高原鐵道ですが、新しい運行システムはトラブル続きでした。貴生川駅の出発信号を青にできない原因不明のトラブルが4月中に2度発生。さらに、5月3日には信楽駅の出発信号を青にできないトラブルが発生していました。この際、運行を維持するため信楽高原鐵道はありえない危険な手法で運行を継続していました。これが、14日の事故に繋がります。
通常、信号故障が生じた場合は代用閉塞という手法を採ります。まず、無人の小野谷信号場へ掛員を派遣。そこで代用閉塞であることを告げた上で対向の下り列車を抑止し、信楽駅―小野谷信号場間に列車がいないことを確認。これを信楽駅に伝達して確認された上で、信楽駅から上り列車を発車させねばなりません。
ところが、5月3日はあろうことか上り列車に掛員が添乗、小野谷信号場で手動で分岐器を操作して行き違いをさせていたのです。この時の両列車は、14日に事故を起こした列車そのものだったのです。この日、下り列車は誤出発検知装置の動作によって、出発信号が赤になったため、小野谷信号場を出発しませんでした。しかし、14日は原因不明のトラブルの修理のため、誤出発検知装置が正しく動作しなかったのです。
規定違反の勝手な運行判断が事故を招く。
14日も同様に信楽駅の信号は赤のまま、変わらないトラブルが発生。信楽駅では、3日と同様添乗員を乗せて信号を無視して上り列車を出発させてしまいます。一方の小野谷信号場に差し掛かった、JR西日本からの直通臨時列車は青が現示された出発信号を確認。小野谷信号場を通過して単線区間に進入させてしまいます。完全なる連絡の不徹底と杜撰な運行規定違反が招いた悲劇でした。
事故原因究明の段階で、4月と5月の原因不明のトラブルが調査されます。ここで明らかになったのは、JR西日本と信楽高原鐵道の双方が互いに近畿運輸局に「無断」で運行システムを「勝手に」改造していたことでした。しかも、その改造は互いに通告されることもなかったのです。結果、信号システムは欠陥を抱えた状態になっていました。先の信号トラブルは故障でなく、通常動作で起こった欠陥によるものだったのです。
特にJR側が改造した部分は、通常の規定に違反して運用しないと動作しないようになっており、JR西日本はこの違反運用をマニュアル化して使用を継続。しかも、事故後このマニュアルは改ざんされて規定違反の隠蔽を図っていました。
信楽高原鐵道列車衝突事故:事故原因と教訓
事故要因:運行システムの無断改造という、余りにも安全を軽視した愚策が最大の要因。事前に3度も原因不明のトラブルがあったにも関わらず、無断改造を通知しなかったJR西日本の対応は大いに疑問が残る。本来は、人的・技術的援助を図り安全運行を支援すべきであったにも関わらず、自社の都合を信楽側に一方的に押し付けている。さらに、運行規定を無視する杜撰な臨時対応が行われた結果、事故に至った。また、信楽側は創業以来初めて経験する大量の乗客を裁くことしか手が回らず、安全に対する冷静な判断を欠いていた。
教訓:大量の業務に忙殺されることはあっても、安全だけは決して度外視してはならない。規定に則り、冷静に粛々と業務に従事せねばならない。
福知山線列車脱線転覆事故〜記憶に新しい、余りにも凄惨な鉄道事故〜 >>2005年4月25日 兵庫県尼崎市
福知山線列車脱線転覆事故。
2005年4月25日に発生した史上稀に見る重大事故は、まだ記憶に新しいところです。兵庫県尼崎市にあるJR福知山線塚口駅―尼崎駅間の右カーブで快速列車が脱線転覆し、隣接するマンションに激突。死者107名、負傷者562名という大惨事となります。
列車は、乗客の証言から完全にオーバースピードでカーブに進入したことが明らかになっており、なぜそのような事態に陥ったのが事故後の焦点となりました。
JR西日本は阪神大震災で関西の鉄道網が完全に麻痺する中、いち早く全線を復旧。国鉄時代よりも大幅に列車を増発し、特急以上に高速化した新快速によって、シェアの一気拡大に成功しました。さらに、1997年には尼崎駅と京橋駅を結ぶJR東西線が開通。アーバンネットワークと呼ぶ、近畿全県に及ぶ広大かつ複雑な高速高速鉄道ネットワークを実現します。
日勤教育に対する恐怖からパニックに。
鉄道運行には多少の不測の事態は不可避。そこで、鉄道ダイヤには余裕時分という時間の遊びが設けられています。この範囲内であれば「定刻通り」に運行が可能です。ところが、当時のJR西日本は余裕時分全廃を目指していました。ギリギリの速度で運行し、遅延しても回復運転がほぼ不可能。実態に即していない目標に対し、乗務員は尋常ではないプレッシャーに晒されていました。そのプレッシャーの原因が、後に有名になる日勤教育でした。目標を達成できない乗務員に対し、パワハラそのものというべき懲罰行為が行われていました。その内容は完全なる「職場内いじめ」であって、鬱や自殺に追い込んだ事例もありました。事故を起こした運転士は懲罰行為を過度に恐れ、完全にパニック状態に陥っていたとされています。
当日、運転士は複数回のミスを犯し、規定違反も数度犯しています。完全に運転士をパニック状態に貶めたのは、伊丹駅での72mものオーバーランでした。システムによる「停車です。」のメッセージが聞こえないのか、ブレーキ操作が過度に遅れてしまったのです。この際、車掌に対して運行司令への報告を「まけてくれへんか?」と尋ねていますが、車掌が乗客の問いかけに答えるために電話を切ってしまっています。これで、後日の日勤教育が免れ得ないと確信し、パニック状態に陥ったと推測されています。
また、JR西日本は積極的な投資による利便性の向上の陰で、同時に行うべき安全設備に対する投資を後回しにしていた実態も明らかになりました。当時、JR西日本では過密な大都市圏にも関わらず、速度照査機能が不十分な旧式の自動列車停止装置(ATS-SW)が使用されていました。事故要因には直結しないものの、JR西日本の安全に対する意識の低さが露呈したのは確かです。
福知山線脱線転覆事故:事故原因と教訓
事故要因:JR西日本は利益至上主義に陥っていた嫌いがある。現場の声を無視して運行計画を策定し、これを満たせない者に辱めを与えるという恐怖政治的な乗務員管理は糾弾されるべきである。技術の進展によって重大事故が減少傾向にある中、JR西日本のみが二度の有責事故を起こしているのは、決して偶然ではない。
教訓:安全を司る者については、技術、健康ばかりでなく、心理面についても慎重な管理が必要である。実際、欧州ではパイロットの自殺に伴う旅客機墜落事故が起きている。
石勝線特急列車脱線(火災)事故〜教訓が失われた時、再び事故は繰り返される〜 >>2011年5月27日 北海道勇払郡
石勝線特急列車脱線(火災)事故。
JR北海道で2010年代前半で繰り返された事故は、道内での鉄道輸送に対する信頼を失墜させ、その後の同社の経営を著しく阻害する要因となりました。中でも、石勝線特急列車脱線火災事故は北陸トンネル火災事故の教訓が、既に完全に風化していることを思い知らされる事故となりました。国土交通省はこの後も繰り返される事故を鑑み、JR東日本に対して保守等に関する技術支援を要請する前代未聞の事態に発展することになります。
2011年5月27日21時55分頃、石勝線清風山信号場構内を走行する釧路発札幌行スーパーあおぞら14号で、4号車に乗務する車掌が異常振動を感じて運転士に連絡。列車は第1ニニウトンネル内に緊急停止します。列車内に煙が充満し、間もなく出火。列車全体が火災に見舞われ、トンネル内で全焼。不幸中の幸いで、死者は無かったものの軽傷者79名が発生する事故となりました。
失われつつある血の教訓。
運輸安全委員会の事故調査報告書によれば、原因は4両目後方の台車からプロペラシャフトが脱落し、デフがまくらぎに衝突して乗り上げて脱線したことにあります。火災は、何らかの理由で6号車の前部燃料タンクから燃料が流出し、これが高温のエンジンに触れて出火したものと推察しています。根本原因として、車輪踏面の剥離が基準を超えているにも関わらず、これを放置。このため走行中に振動が生じ、プロペラシャフトの脱落を誘引したとしています。
JR北海道では、北の厳しい自然環境の中で長大路線を維持するため、不採算路線を含めて莫大な保線費用が必要です。にも関わらず、厳しい経営環境のために合理化や人員削減が推進された結果、慢性的な人員不足に陥っていました。その結果職場環境は悪化し、労働意欲の低下や激しい労働運動が顕在化し、安全意識が徐々に失われていったと考えられています。
安全第一で維持されてきた鉄道の安全は、今危機に晒されています。華々しい新幹線の開通と同時に、並行在来線はJRから切り離されてしまいます。こうした路線は端から不採算路線となることを宿命づけられています。また、地方の過疎化の進行により不採算路線は増加する一方です。そうした状況下でも、これまでと同様の安全を維持し続けられるのでしょうか。
日本坂トンネル火災事故〜長大トンネルで発生した火災事故〜 >>1979年7月11日 静岡県東名高速道路日本坂トンネル
日本坂トンネル火災事故。
1979年7月11日、東名高速道路日本坂トンネル下りトンネル内で発生した多重事故をきっかけとする火災事故です。死者7名、消失台数173台という、大きな被害となりました。
まず、トンネル出口近くで小さな事故が発生。これをきっかけにトンネル内で渋滞が発生します。この渋滞の発見が遅れた大型トラックAが、急ブレーキ。追走していた大型トラックBが、避けきれずにここに追突。さらに、乗用車CがトラックBに追突した後、乗用車Dは3台を避けてトラックBの側面に接触して停止。さらに後方の大型トラックFが100km/h近い速度で、事故現場手前で何とか停止した大型トラックEに激しく追突。その結果、突き飛ばされたトラックEに押された衝撃で乗用車CがトラックBの下部にめり込み、乗用車DはトラックEに後部を潰されてガソリンが漏出。ここに火が付いて、火災が発生します。
トラックBとトラックFの運転手と乗用車Cの計4名は、衝突の衝撃で即死。車内に閉じ込められた乗用車Dの3名を後続のドライバー達が救出を試みるも、火と煙が激しく近寄ることはできませんでした。
長大トンネルと火災対策。
トラックEは合成樹脂、トラックFが松脂を積載しているために火勢が強く、鎮火には65時間を要する大火災となりました。事故発生後、トンネル入口の警報で進入禁止を呼び掛けるも、車両の進入が続いてしまいます。後続のドライバーにケガ等は無かったものの、放棄された車両に次々類焼。結果、173台もの車両が消失してしまいます。
トンネルは火炎による損傷が激しく、コンクリート被覆が崩れ、支保工が熱で変形するなど大きな被害に見舞われます。事故後1週間、東名高速道路は普通。その後対面通行で仮復旧するも、本格復旧には60日を要しました。
この事故は、長大道路トンネルの防災対策に大きな影響を与えます。事故の発生を知らずに、後続車両が続々侵入して被害を大きくしたことから、トンネル入口に信号機と情報板が増設、消火設備と換気装置が改良されています。
ただ、可燃物積載のトラック全ての事故を回避することは不可能です。2008年には首都高速熊野町ジャンクション付近でタンクローリーが転覆し、炎上。5時間半の火災の結果、鋼製桁が40mに渡って変形。開通したばかりの中央環状線が1ヶ月に渡って不通となる事故が発生しています。飛騨トンネル等の長大トンネルでは、危険物積載のトラックを通行禁止として万が一の事態を防いでいます。
笹子トンネル天井板落下事故〜インフラの老朽化対策が喫緊の課題に〜 >>2012年12月2日 山梨県中央自動車道笹子トンネル
笹子トンネル天井板崩落事故
By ワタキチポヨョ (自身の仕事) [https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0">CC BY-SA 3.0 or GFDL], via Wikimedia Commons
甲州街道で山梨に至るとき、まず登るのが小仏峠。ここを過ぎると、山梨県大月市。狭隘な山間部を抜けて甲府盆地へ至るとき、通らねばならぬのが笹子峠です。1977年に開通した笹子トンネルは全長4.7kmもの長大トンネルであり、中央道でも恵那山トンネルに次ぐ長さを誇ります。ここで起きたのが、2012年12月2日に発生した笹子トンネルは天井板落下事故です。死者9名、負傷者2名という、当時最悪の道路災害となります。
笹子トンネルでは換気孔としてトンネル天井部を仕切るために、連続的にコンクリート製の天井板が設置されていました。午前8時5分頃、上り線トンネル82.6キロポスト付近で天井板の崩落が始まります。この崩落は隣接する天井版の崩落を促し、5m×1.2m、重量1.2tものコンクリート版270枚が、138mに渡って落下。同区間を走行中であった車両3台が下敷きとなり、うち2台から火災が発生します。崩落の下敷きとなった乗用車から計8名の焼死体が発見された他、トラックの中で1名の死亡が確認されました。
見過ごされてきたインフラの老朽化。
By 浅永 (自身の仕事) [http://creativecommons.org/publicdomain/zero/1.0/deed.en">CC0], via Wikimedia Commons
天井版は、トンネル上部に削孔した穴に接着剤カプセルを装填し、ここに打設したアンカーボルトに吊り下げられていました。事故後の調査によれば、設計上4tの荷重に耐えられるとされたものが、中には1.2tに耐えられないものも存在。竣工から35年という年数で激しく老朽化が進行していたにも関わらず、これを放置していました。残存箇所を緊急点検した結果、10%近くで不具合が確認されています。また、天井板1枚の落下が連続的な崩落に伝播する構造自体の不備も、同時に指摘されています。この事故を受けて、国内の高速道路で同型の天井板が全て撤去されています。
この事故における最大の教訓は、日本のインフラに対する喫緊の老朽化対策が必要とのことです。高速道路や鉄道などに限らず、インフラの多くは東京オリンピックを契機に全国で突貫工事で進められました。その多くは、充分な点検とメンテナンスで安全を維持していますが、この天井板同様に盲点となって見過ごされている箇所があるかも知れません。また、予算不足からそもそも点検が不十分な箇所も存在するはずです。早急かつ緻密な、調査が必要が求められています。