クラブ・スバリズム特別編「トヨタ・ルマン挑戦の歴史」 [2018年07月07日更新]
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1988年:史上空前の激闘、ポルシェVSジャガー。日本のワークス勢は完全に蚊帳の外。
1988年、遂にポルシェ敗北の瞬間がやってきます。黒・赤・黄のナショナルカラーをまとった、3台の962Cは、徹底的なリファインが施されていました。エンジン制御ユニットを新規開発し、緻密な燃焼制御によって圧縮比は9.5に高められ、常時700psを発揮しつつ、高燃費を実現していました。予選では、3分15秒64という驚異的なコースレコードを樹立。ジャガー勢を、気迫で圧倒します。
対するジャガーは、5台のワークスカーを投入する必勝体制。2強対決は、前代未聞の激しさとなります。序盤からスプリントばりの猛烈なペースで、レースが展開。完全なるオーバーペースが祟り、厳しい消耗戦へと発展します。最後は、2分半差でジャガーがポルシェを振り切って優勝。グランドスタンドを埋め尽くすユニオンジャックの下、歓喜のチェッカーを受けます。
トヨタは、予選ブーストを使って9位/10位からのスタート。ところが、決勝では黒煙を吐くほどの濃い空燃比。耐久性不足を鑑みて、燃料冷却でエンジンを保たせる作戦でした。当然、燃費規制のためペースは上がりません。結果は、88Cが12位完走。余りにも不甲斐ないレースに終始したのでした。それは、マツダ、日産も同じ。この年の日本勢は、全く不甲斐ない結果に終わります。
1989年:シルバーアローが復活。日本勢は、不甲斐ない結果に終わる。
1989年、猛威を奮ったのはザウバー・メルセデスでした。シルバーアローを敢えて復活させたC9が、予選1、2位を独占。ポルシェは、プライベータのみの参加となったため、対抗するのは、4台のTWRジャガーのみでした。
日産は、この年から大幅に進化。CFRP製モノコックを採用し、新開発の3.5LV8ターボを搭載したR89Cを開発。世界選手権でも上位に食い込むポテンシャルがありましたが、決勝ではエンジンの組立不良で相次いでトラブルが発生。4台全車がリタイヤに終わります。
優勝は、ザウバーメルセデス。圧倒的な強さを発揮して、そのまま1−2フィニッシュを飾っています。
マツダは、新たにメーカー主導で大幅な改良を施した、767Bを3台投入。決勝中も終始安定したペースで走行。3台とも無事完走を果たし、7、9、12位に入ります。
トヨタは、再び不甲斐ないレースに終わります。新開発の3.2LV8ターボは、まだまだ準備不足。新型89C-V2台と旧型88C1台と、計3台を持ち込みます。89C-Vは、それまでのトムスー童夢体制から、新たにTRDの独自設計に移行したもの。準備不足が祟り、セットアップに大あわら。しかし、宣伝部は予選アタックを要求。しかも、アタックは予備車だったため、タイムは無効。結局日本勢最下位からのスタートとなります。しかも、決勝は序盤で全車リタイヤ。トヨタは、毎回何を目的にルマンに来ているのか、それさえ疑わしい有様でした。
1990年:シケインが新設されて厳しさを増したルマン。存在感は増したものの、日本勢は力及ばず。
1990年、ルマン史上最大の変革の年となります。ルマン名物の全長6kmの超ロングストレート「ユノ・ディエール」が、2つのシケインで分割され、3本のストレートに生まれ変わったのです。この変更に伴って、300km/hからの減速+加速が2回追加となり、ブレーキやトランスミッション、エンジンを激しく消耗させます。世界一過酷と呼ばれてきたルマンは、更に厳しさを増したのです。
この件を巡って、ACOとFISAの調整に時間を要したため、世界選手権からは外されての開催となりました。これを受けて、ザウバー・メルセデスは不出場を発表。当時、ジャガーと打倒メルセデスを競っていた、日産勢には千載一遇の好機となります。
日産は、一大物量作戦を敢行。何と、日米欧からワークスマシンを5台、更にプライベータから2台をエントリー。記者会見では、高らかに必勝宣言。予選では、日産がたった1基の予選用エンジンを投入。マーク・ブランデルが3分27秒02で見事PPを獲得します。
ところが、1000psに達すると言われる予選用エンジンを巡って、日米欧のチーム間で内紛が勃発。遂には、米・欧で殴り合いの事態に発展します。決勝では、スタート前に1台の日産が早くもリタイヤ。更にトラブルは続き、結局残ったのは日本から参加の1台のみ。日本人トリオが、5位完走を果たします。これだけ日産勢にトラブルが頻発したのは、情報共有を意図的にしなかったため。余りにもの惨状に、日産は暫くルマンから姿を消すことになります。
マツダは、前年から100psアップを果たした4ローターを搭載した、787を2台投入。バックアップで、767Bも1台持ち込みました。しかし、結果は奮わず、20位完走。翌年の雪辱を誓います。
トヨタは、トムスが2台、あの加藤眞率いるサードが1台と、3台での参戦。日産とのポテンシャル差は如何ともし難ったものの、トムスの1台が6位入賞を果たしています。
優勝は、TWRジャガー。1−2フィニッシュでした。トップ10に日本車が2台入り、翌年への期待が高まりました。
1991年:激動の年。日産とトヨタは千載一遇の好機を自ら逃す。
1991年は、奇跡として長く語り継がれる、記念すべきルマンとなります。
この年、世界選手権はWSPCからSWCへと大変革。燃費規制は撤廃し、エンジンはF1と共通の3.5LNAに限定。車重は750kgまで削減され、レース距離は500kmに一気に短縮されます。FISAの狙いはF1の振興で、スポーツカー選手権はその犠牲にされたのです。
TWRジャガーは250kg軽いグループCではなく、250kg重いF1としてXJR-14を開発。圧倒的なスピードを発揮するXJR-14は、SWCをリードしていました。
しかし、スプリント用の新規定マシンで24時間レースの完走は不可能。新規参戦のプジョー以外のワークス・チームは、すべて旧規定のグループCカーでの参戦。それが面白くないFISAは、旧規定マシンの重量を1000kg(ポルシェのみ950kg)まで増やすという暴挙に出たのです。
この年、ザウバー・メルセデスが復帰。歴代最強の強さを見せる、C11を何と3台投入。このC11は、前年の世界選手権で数時間で全車を周回遅れにする圧倒的な強さを発揮。戦前予想では、メルセデス一強との下馬評が専らでした。
日産は、トヨタとの国内選手権の戦いでは圧倒的優勢。予選用ブーストでは1000psを優に超えるとされ、打倒メルセデスの筆頭格と目されていました。トヨタも、仕上がりは順調。ジャガーとは互角に戦えるであろうポテンシャルを備えていたのです。ところが、両者は結局ルマンには現れませんでした。正真正銘千載一遇のチャンスを逃したのです。理由は、バルブ崩壊に伴う経済的混乱と湾岸戦争に伴う政情不安。
日本勢で唯一、ルマンに現れたのが、マツダでした。マツダは、最新の787Bを2台、バックアップに787を1台を持ち込む体制。したたかなマツダは、ロータリーでの参戦が最後であるのを理由に、830kgの超軽量車重を認めさせます。これが、成功への最大の布石となるのです。
1991年:マツダ、奇跡の優勝!!ロータリーサウンドが轟いたあの日。
予選は、メルセデスが最速タイムをマーク。しかし、FISAが新規定マシンを優遇したため、1号車のC11は11番手からのスタートとなります。
決勝のスタート、飛び出したのは2台のプジョー。新規定マシンの彼らは、翌年のデータ取りが目的。序盤から盛大に飛ばすと、予定通り夜を前に店仕舞となります。状況が落ち着くと、メルセデスが盤石の1-2-3体制を構築。ジャガーがこれを追うも、ペースが上がりません。そこに割って入ったのが、55号車のマツダでした。
盤石に見えたメルセデスの無敵艦隊ですが、綻びを見せ始めます。まず、32号車メルセデスが、コースアウトで後退。次いで31号車が、ミッショントラブルで30分近くをピットに張り付きます。残ったのは、たった1台。マツダは、燃費がきついジャガーを夜半に振り切ると、更にペースアップ。完全無欠の絶対王者にプレッシャーを掛けていきます。それでも、トップとの差は2周。余程の事がない限り、メルセデスは盤石と思われました。
世紀の瞬間が訪れたのは、昼過ぎ。1号車が白煙を上げて、緊急ピットイン!ウォータポンプのブラケット破損が原因のオーバーヒートでした。55号車がグランドスタンド前を駆け抜けると、ルマンは蜂の巣を突いたような大騒ぎ。ロータリーエンジンが、初めてルマンをリードした瞬間でした。そして、午後4時。美しい4ローターサウンドは途切れることなく、チェッカーを駆け抜けたのでした。
日本車初の総合優勝。しかも、メルセデス、TWRジャガーを打ち破っての見事な初優勝でした。この勝利は、非レシプロエンジン車による最初で最後の優勝となっています。
1992年、1993年:トヨタ、遂に優勝候補となるも、悲願達成成らず。
翌1992年はエントリーが史上最少に落ち込み、史上最も寂しいルマンとなりました。メルセデスとジャガーは、1991年をもって撤退。マツダは、ジャガーの中古シャシーでの参戦となります。
話題の中心は、2大ワークスの全面対決。優勢だったのは、前年から参戦を開始した地元プジョー。名将ジャン・トッド率いるプジョー・スポールは、3台の905を投入。必勝を期していました。
そして、もう一方の雄はトヨタ。トヨタは、トニー・サウスゲートがデザインしたTS010を開発。1992年の開幕戦では、見事初優勝を飾っていました。遂に、トヨタは総合優勝を狙う体制を構築したのです。TS010を3台擁して、プジョーに挑みます。
決勝は、スタートから雨。その中、勇躍トップに立ったのは何とマツダ。その後方で、3rdカーのプジョーがトヨタのエースカーに追突!以後、トヨタは防戦一方の戦いとなります。ピットストップが早いプジョーは、上位を完全に独占。マツダは、マイナートラブルで次第に遅れていきます。優勝はプジョー。トヨタは何とか2位を獲得して体面を保ちますが、最後はミスファイアでヒヤヒヤのフィニッシュ。この後、トヨタはSWCでは1勝もできず、905の後塵を拝し続けるのです。
翌1993年、エントリーの足りないFIAはSWCを中止。グループC時代は、FIAの愚策によって終焉を迎えます。そこで、ACOは世界中から広くGTマシンをかき集めて何とかエントリーを確保。結果的に、F1に匹敵する性能を誇るワークスマシンと、プライベータのGTカーが、狭いコース内で交錯する危険なレースとなります。
選手権がないプジョーとトヨタは、徹底した事前テストを実施。たった一度の大勝負に向けて、準備万端でルマンを迎えます。しかし、絶望的なポテンシャル差は開く一方。天候に恵まれたこの年のルマンは、プジョーの天下となります。トヨタ勢は、ミッショントラブルを頻発。プジョーは、難なく1-2-3を独占する圧倒的な結果に終わります。
プジョー・スポールが開発した905は、細身のモノコックにタイトなキャビン、軽量コンパクトなV10エンジンと、ミッドに配したコンパクトな冷却系と、F1とまったく同じパッケージングを有していました。低ドラッグ、高ダウンフォースの理想的なエアロダイナミクスを持っていたのです。
一方のTS010は、旧世代マシンと同等のシルエットを持ち、フロントにラジエータを配する、古典的なレイアウトでした。空力効率が悪く、ダウンフォースを増やすには、盛大なドラッグを覚悟するしかありませんでした。
似て非なる両者には、プジョー905とトヨタTS010には絶対的なポテンシャル差があったのです。その差は如何ともし難く、遂にぞ打開できぬまま、トヨタの「夢」は木っ端微塵に打ち砕かれたのです。
1994年:加藤眞、ルマン制覇まであと50分。最大のチャンスを逃す。
翌1994年、ルマンは大変革を断行します。まず、この年限りでグループCを廃止、代わりにGTカーを選手権の主役に据えることにしたのです。ところが、ここで前代未聞の事件が発生します。
何と、ポルシェが962Cでナンバーを取得!完全なるレーシングカーであったはずの962Cが、GTカーになってしまったのです。さすがの卑怯な手法に気が引けたのか、エントリー名はダウアー・ポルシェとして「隠れワークス」としてルマンにエントリーします。
対するトヨタは、最終進化版の旧規定Cカー94C−Vを2台プライベートエントリー。サードとトラストから、1台ずつの参戦となります。但し、その性能は大幅に絞られていました。
決勝は、ポルシェとトヨタの争いとなります。基本設計が新しいトヨタが優勢で、サード・トヨタがルマンを長くリードしていきます。夜が開け、朝が来て、正午になり。。。刻々と残り時間は減っていきます。遂に、トヨタの初優勝がなるか、そう思えた午後3時過ぎ。残り、たった50分。94C−Vはグランドスタンド前でユルユルとストップ。何とか1周して修理を終えた頃には、2台のポルシェがすっかり先行。
加藤眞は、94C-Vに追撃を命じます。エディ・アーバインは2位奪還を目指してポルシェを猛追。ポルシェをパスしたのは、チェッカー寸前でした。トヨタは最大の好機を逃し、再び2位に終わります。残り、50分!もう、これ以上の悲劇は起こるまい。そう誰もが考えていました。。。