家にいよう。特別企画 クラブ・スバリズム歴史発掘!技術的偉業10選 第10弾「上越新幹線中山トンネル」 [2020年04月25日更新]
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上下一体となって難工事に立ち向かう。
当初、薬液注入は数m毎に高圧注入していました。この場合、脆弱な割れ目に薬液が集中し、満遍なく行き渡りません。そこで、数十cmおきに低圧でじっくり注入を行う新工法を採用しています。中山トンネルでは困難に直面する度に、あらゆる技術が検討され、逐次投入されていったのです。
鉄建公団は、前例のない立坑建設に際して、炭鉱に技術者を派遣して経験を積ませていました。しかし、炭鉱は数億年以上前の完全に固結した安定した地層を掘削するため、トンネル掘削のように異常出水の可能性は低いのです。炭鉱での経験は、トンネル施工には全く不十分でした。
中山トンネルでは、発注元と施工業者(=お客様+業者)という主従関係ではなく、鉄建公団とゼネコンが上下一体となって、度重なる難関を克服していったのです。新工法の採用にはリスクが伴います。しかし、その責任を鉄建公団が負うことにより、ゼネコン側は後顧の憂いなく、難関突破に全力投球できたのです。
膨張性地山に対抗すべく、日本で初めてNATM工法を採用。
[上]当時最新のNATM工法と、[下]在来工法(矢板工法)の比較。国鉄技術1980年9月号より
1973年1月に着工した名胡桃工区は、唯一計画通りに進み、1976年7月末に新潟側坑口から1,640mの掘削を無事完了しています。
隣接する中山工区では、膨圧と坑内の温度上昇に悩まされていました。側壁導坑先進工法を採用したものの、膨圧により断面が縮小。縫い返しを幾度も繰り返していました。1975年7月以降、1年間全く前進不能となります。
この対策として試行されたのが、日本で始めてとなるNATM工法でした。当時は、不良地山に対抗する特殊工法として採用されたものですが、以後NATMは山岳トンネルの標準工法として広く採用されていくことになります。
中山工区はNATMが功を奏し、1981年12月に当初計画の2,800mよりも長い4,600mの掘削を完了しています。
中山トンネルの最大の難関は、八木沢層と呼ばれる未固結凝灰角礫岩でした。八木沢層は20気圧に達する地下水を含んでおり、凄まじい異常出水を度々発生させていたのです。
四方木工区の大出水と1回目のルート変更。
八木沢層の突破するには、綿密な水平ボーリングによる地質調査と、薬液注入によって湧水を止める以外ありません。しかし、健闘むなしく遂に大規模出水が起きてしまうのです。
1度目の出水事故は、四方木工区で1979年3月18日に発生しました。異常出水が起こったのは、本坑に先回りして側方から薬液注入を行うための迂回坑でした。徐々に激しくなっていく湧水を止めるべく、補強作業を実施しますが、為す術無く80t/minに達し、坑内は瞬く間に浸水。補強作業のため投入されていた51名の作業員は脱出を図りますが、電源がショートして動けなくなったエレベータに閉じ込められます。辛うじて電源復旧が成り、危機一髪脱出に成功したものの、四方木工区は完全に水没してしまいます。
この事故を受けて、これ以上の前進は不可能と判断。八木沢層通過区間を780mから500m短縮する、1度目のルート変更が決定します。しかし、この時点では速度制限の必要はありませんでした。
四方木・高山工区が水没。2回目のルート変更。
2度に渡って発生した大規模出水は、良好岩体の閃緑ひん岩から、八木沢層に達した処で発生している。「二度あることは三度ある」とならぬよう、徹底的な薬液注入を地表面から実施した。
ところが、隣接の高山工区で2回目の異常出水に見舞われてしまうのです。
1980年3月8日、八木沢層近くで40t/minの大出水。翌日、二次崩壊によって110t/minまで増加し、四方木・高山両工区は完全に水没します。復旧間もない頃に起きた異常出水のショックは大きく、国鉄は遂に1982年春の開業延期を決断します。そして、R=1500mのカーブ挿入により、八木沢層通過区間は140mまで減じる、2度目のルート変更を決断することになります。1981年1月7日、公団総裁にルート変更を上申。1月30日、無事承認されます。
八木沢層突破に向けて、地上から徹底的な薬液注入が実施されます。日本全国からボーリングマシンが100台以上、全国の技術者のうち90%がこの中山トンネルに招集されたのです。夜を徹して薬液注入作業を敢行する姿から「中山銀座」と呼ばれました。ビット先端が地下360mの水没する坑内に達すると、薬液注入を開始。出水に見舞われた切羽を閉塞していきます。ところが、地表から確認はできません。閉塞は、注入圧の上昇で判断しました。
東北新幹線に5ヶ月遅れての開業。
国鉄は、東北新幹線と同時開業を求めていました。しかし、希望は敢えなく八木沢層の前に打ち砕かれたのです。1981年8月、上越新幹線の同時開業を諦め、1982年11月の開業とすることを発表します。これは国鉄総裁の最終決断であり、これ以上の遅滞は決して許されませんでした。
排水による水位変化と揚水量の相互関係から閉塞完了と判断。本格排水を開始すると共に、未掘削区間にも丁寧な薬液注入を実施。1980年8月、水没から5ヶ月を要して排水終了、11月には復旧作業も完了。残る掘削作業は、急ピッチで進められていきます。1981年7月27日には、遂に迂回坑が貫通。これを以て、工区が水没する危険性は排除されました。続く12月23日には、本坑も貫通しています。軌道敷設、電気工事を半年で終え、7月には試運転を開始。1982年11月15日、上越新幹線はようやく開業を迎えます。
開業以来、既に38年。苦闘の日々の思い出は昔日の面影となって色褪せても、中山トンネルが残した知見は未来永劫色褪せることはないでしょう。