第58回クラブ・スバリズム開催予告:「チャック・イェーガー〜最速の男の生涯〜その2」 [2021年03月28日更新]
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九死に一生を得たイェーガー、フランスの秘密レジスタンス組織マキの支援を得る。
フランスのレジスタンス組織「マキ」の肖像。イェーガーは、彼らに助けられ、彼らを助けた。
Donald I. Grant, Department of National Defence, Public domain, via Wikimedia Commons, Public domain, via Wikimedia Commons
パラシュートが舞い降りたのは、雑木林。イェーガーは、冷静に状況把握に努めます。体は冷え切り、心は恐怖に苛まれ、幾つか負傷があるようでした。しかし、イェーガーは少しも焦っていませんでした。森の中で生き残る術を知っていたからです。しかし、イェーガーの本当の危機はここからでした。フランスはナチス・ドイツの勢力圏。ヴィシー政権の官警から逃れ、ドイツ兵の哨戒からも逃れなければ、命は無いも同然でした。
イェーガーが生き残る唯一の術は、ピレネー山脈を越え、中立国スペインに逃れること。ここボルドーからは、約200km。絶望する必要はありませんでした。ただ、その日の夜は最悪でした。冷たい雨が体を冷やし、殆ど寝ることもできません。イェーガーは拳銃を握りしめ、いつ来るとも限らない追手に耳を澄ましていました。
漸く朝が来ます。空気が冷え切る寒い朝でした。疲れ切ったイェーガーが見つけたのは、フランス人の木こり。恐怖に駆られたイェーガーはタックルを見舞うと、眼前に拳銃を突きつけます。イェーガーは、英語でまくし立てますが、基本的な意味が理解できたのは幸いでした。木こりは、すぐに老人を連れて戻ってきます。
「米国人、友人が来たぞ。出て来い!」その老人は叫びます。ガイドを申し出た老人は、一旦農家の納屋に連れていきます。ドイツ兵が去ると、イェーガーを農家に案内します。そこは、英語を話す中年女性の家で、食事と治療を提供してくれました。彼らは、ドイツの支配に抵抗するレジスタンス「マキ」の支援者たちでした。
近くの干し草小屋で1週間ほど過ごすと、イェーガーには民間人の服装が提供され、フランス人医師とともに自転車で移動を開始します。事前に偽の身分証明書が渡されており、ドイツ兵の哨戒に止められると、それを使って難を逃れました。2人はネラックという村に辿り着きます。
早春の雪中行軍。ピレネー山脈を越え、中立国スペインへ脱出せよ。
1944年、チャック・イェーガー大尉。
USAF, Public domain, via Wikimedia Commons
次に匿われたのは、ガブリエルというフランス人が所有する農家。ガブリエルはこの地域のマキの長。一度は深い森の中に案内され、そこで黒いベレー帽を被り重武装する男たちに出会っています。彼らの破壊活動は全て夜陰に乗じて行われました。橋や道路、列車を破壊し、ドイツ兵の活動を妨害したのです。そんな彼らに対し、イェーガーは父の仕事で学んだプラスチック製爆薬の導火線の取扱い方法を伝授します。この時点で、イェーガーは立派なマキの支援者でした。これは危険な徴候でした。イェーガーはジュネーブ条約の保護対象ではなくなっていたのです。ゲシュタポに捕らわれれば、処刑される可能性すらありました。
イェーガーが難を逃れるには、国境に泰然と横たわる全長430km・幅100kmの巨大な山塊ピレネーを越えねばなりません。彼らの安全は、専ら天候が左右します。麓はすっかり春でも、ピレネーは依然雪の中。3月23日、3人の米国人らと共にイェーガーは、いよいよ登攀を開始します。彼らの最大の敵は、身を切る寒さと膝まで積もった重たい雪。彼らは10分毎に小休止を繰り返しつつ、一歩一歩着実に歩みを進めていきます。
歩き続けること、丸4日。彼らは無人の小屋へ辿り着きます。ぐっしょりと濡れた靴下を脱ぐと、小屋の外に干しておきました。安住の場所は、正に天国でした。彼らは忽ちにして、眠りに落ちていきます。そんな彼らの安寧を吹き飛ばしたのは、突然の銃声でした。靴下を見つけたドイツの哨戒兵が、小屋目掛けて発砲してきたのです。彼らは一目散に飛び起きると、丸太のシュートを見付け、一気に斜面を駆け下ります。何とか追手に逃れた彼らは、そのまま池に突っ込みます。状況は想像以上に深刻でした。
バットという米国人が酷い怪我を負っていたのです。銃弾が足の大部分を切断し、意識は既にありません。イェーガーはナイフで腱を切断し、速やかに止血を図ります。置いていけば、彼の命が失われるのは明らかでした。イェーガーは彼を連れ、再び果てのない登山を再開します。寒さと飢えは限界に達し、仲間を担ぐ全身は激痛に見舞われ、恐ろしいほどの眠気が彼らを襲います。どれだけ歩いたでしょうか。彼らは、いつの間にか山頂に辿り着いていました。夢にまで見た遥かピレネーの頂き、スペイン国境でした。
空の借りは、空で返す。アイゼンハワー元帥に直接嘆願し、再び最前線へ。
ロンドン市街に着弾するV-1ロケット。
U.S. Air Force, Public domain, via Wikimedia Commons
米国の領事は、パイロットの身柄引渡しの見返りにガソリンを提供することで交渉を進めます。イェーガーはそこに6週間「抑留」された後、6人の米国人と共にジブラルタル経由で無事イギリスに引き渡されます。
死線の果てに得た命。並のパイロットならば、大西洋を渡り祖国への凱旋を果たすでしょう。日本では許されぬ自由が、米国にはあったのです。そして、その自由は国家が望むことでもありました。イェーガーはマキのことを知り過ぎていたのです。当時の規定では、レジスタンスの保護を受けたパイロットは、その活動の秘密を保護するため、戦線復帰は許されていませんでした。捕虜となれば、自白を強要される可能性があったからです。
当初、イェーガーは1日も早く家に帰って、グレニスと新しい家庭を築くつもりでした。しかし、空の借りは、空にて返す。そんな強い意志が、イェーガーを部隊復帰へと突き動かしていきます。繰り返しの陳情が通らないことを知ると、最高司令官ドワイト・D・アイゼンハワー元帥に直接嘆願を願い出ます。
アイゼンハワーは、ロンドンにいました。その日、イェーガーはホテルの窓から、1機のV-1が数ブロック先に着弾にする光景を目にします。運だけが生死を分ける戦場という日常。そして、次のV-1が落ちたのは、ホテルの部屋のデッキでした。運良く不発だったため、アイゼンハワーとの面会は予定通り行われました。
再び、彼を天命が待っていました。6月6日、ノルマンディー上陸作戦決行。これを機会にマキは公然の組織となったため、イェーガーを米国に返す理由は消滅したのです。再び機上の人となったのは、1944年8月のことでした。
自らの成すべき任務を知り、勇敢に最前線に立ち続ける。イェーガーの行動は、真に愛国心に溢れていました。ただ、イェーガーの行動を快く思わない者が居たのも事実です。イェーガーは、アイゼンハワーを始め、たくさんの人々を魅了し、数多の寵愛を受けます。しかし、それと同じくらいイェーガーを疎んじ、足を引っ張ろうとする者もいたのです。
遂に、天賦の才を発揮するイェーガー。11.5機を撃墜し、ダブルエースに。
イェーガーの愛機、P-51D-15「グラマラス・グレンIII」(44-14888)。
U.S. Air Force, Public domain, via Wikimedia Commons
新たな愛機はP-51C「グラマラス・グレニスII」は短命に終わります。間髪を入れず、P-51Dに機種更新を行うこととなったからです。新たに「グラマラス・グレニスII」を名乗ったのが、P-51D-5(B6-Y/44-13897)。ただ、この機体も別のパイロットが搭乗時に撃墜されてしまいます。代わって、「グラマラス・グレニスIII」を名乗ったのが、P-51D-15(44-14888)です。
死線を越えたイェーガーは、天賦の才を遺憾なく発揮します。並外れた視力を持ったイェーガーは、激しい空戦を生き抜く狡猾さ、持ち前の高い集中力、戦闘機パイロットとしての闘争心により、次々に敵機を屠っていったのです。
9月13日12時45分、ドイツ・カッセル南方でBf109を1機を共同撃墜。10月12日11時30分、ドイツ・シュタインフーデ湖からハーノバー近郊にてBf109を5機撃墜。1日で5機以上を撃墜する「Ace in a day」を達成。11月6日11時00分、ドイツ・アッセン東方で、Me262ジェット戦闘機2機を撃破、1機を撃墜。11月27日13時10分、ドイツ・マドゲンブルク南西にてFw190を4機撃墜。
注目すべきは、ジェット戦闘機Me262の初撃墜が含まれていること。イェーガーは世界で初めてジェット戦闘機を撃墜したパイロットなのです。たった11ヶ月(実稼働は6ヶ月弱)の期間に、計64回・270時間のミッションをこなし、撃墜11機、共同撃墜1機を記録。Ace in a day、Me262の初撃墜など、目覚ましい戦果を挙げるイェーガーは、357FGでも一躍注目の的となります。10月24日には2階級特進、大尉に任官されます。
363FS最後のミッションは、1945年1月15日。イェーガーは、16機撃墜のトップエース、クレランス・"バド"・アンダーソンと共に、ナチス・ドイツの支配から開放されたボルドー上空を飛行。レイストンに帰投すると、輸送機に乗って祖国アメリカに無事帰還を果たします。
357FGは、1943年11月末に欧州戦線に投入され、1945年4月25日までに313回のミッションを終了。撃墜は約600機。これに対し、損失はP-51が計128機。戦死45名、事故死13名、行方不明15名、捕虜54名、抑留3名。357FGは、1946年までにドイツに移動。ここで357FGは閉隊、その任務の全てを終えています。
ハムリンに一番近い基地、ライト・フィールド。イェーガーは、運命に導かれていく。
成功作とはならなかった、ベルP-59Aエアラコメット。
SDASM Archives, Public domain, via Wikimedia Commons
無事帰国を果たしたイェーガーを待っていたのは、最愛の人グレニス・ディックハウス。彼らは、晴れて結婚。そして、テキサス州ペリン・フィールドに赴任します。イェーガーの新たな任務は、T-6テキサンの教官でした。
戦後、陸軍航空軍は戦闘中に撃墜されて逃亡・捕虜になった者に対し、任官地を選ぶ自由が特別に与えました。イェーガーは自ら名乗り出ると、陸軍航空の研究開発の中心地ライト・フィールドを新たな赴任先に選びます。その理由は、妊娠したグレニスが両親とともにハムリンで暮らすため、一番近い基地を選んだだけのこと。しかし、この選択がイェーガーの運命を決することとなります。
この時点で、イェーガーは撃墜11.5機という輝かしい経歴を持つ優秀な戦闘機パイロットでした。しかし、人事担当者が着目したのは、イェーガーが空軍の専門コードを持つ整備士官だったことです。その頃、飛行試験師団の戦闘機部門が整備士官の募集を行っており、ちょうど打って付けの人材だったのです。イェーガーには、ライト・フィールドで副整備士官という役職が与えられます。
イェーガーの任務は、テストパイロットが飛行試験を行う前に、機体のすべてのシステムが機能することを確認するために、整備を終えた機体を飛行させることでした。任務の性格上、イェーガーは大型機から小型機まであらゆる航空機を経験することができました。それは大変素晴らしい経験となると共に、新たな才能が引き出されるキッカケとなります。
米国初のジェット戦闘機P-59エアラコメット。イェーガーにも、搭乗する機会を与えられます。この時、欧州戦線でのMe262との空戦の経験を基に、イェーガーは驚くべき精度でP-59の飛行データを収集。これを持ち帰って、正確にデータ化し、直感的に問題点を洗い出したのです。
ライト・フィールドに所属する25名のテストパイロットは、ほぼ全員が工学の学位保有者でした。彼らには実戦経験は全くありませんでしたから、模擬空戦で適うものは一人もいませんでした。そんな中で、たった一人だけイェーガーに本気で模擬空戦を挑んできた、若いパイロットがいました。ロバート・アンダーソン・"ボブ"・フーバー中尉でした。
イェーガーの類まれな才能を見出した男。テストパイロットの父、アルバート・ボイド大佐。
ボイド大佐が記録飛行に挑んだ、特別仕様の試験機P-80R(44-85200)。
テストパイロットというものは、度を越した図太い神経と沈着冷静な判断力を常に失わないがために、緊張というものを知りません。また、相当な自信家でなければ、試験機を正確にコントロールこともできません。自分こそが最高のパイロットである。そう信じる人物のみが、テストパイロットになるチャンスを得られるのです。
イェーガーとフーバーは共に天才的な素養を備えていましたが、自慢できるような学歴ではありません。つまり、両者は似た者同士でした。しかし、大きな違いが一つだけありました。イェーガーは偉大なるダブルエースでしたが、フーバーは出撃してただ逃げ帰って来ただけの男でした。若く生意気で粗野な二人は、ある人物によって才能を見出されることになります。
当時、陸軍航空軍の飛行試験部門を率いていたのが、アルバート・G・ボイド大佐でした。米国テストパイロットの父と称されるボイド大佐は、航空機の開発に多大な貢献を果たした、航空史上傑出した人物です。ボイド大佐は、テストパイロットの定義を根本から書き換えています。テストパイロットはサイエンティストであり、エンジニアであるべき、としたのです。実戦経験など全く不要で、飛行中に発生する様々な事象を完全に理解する能力こそ必要、としたのです。
テストパイロットの仕事とは、事前に綿密に計画された試験プログラムの全てを完璧に実行してデータを収集し、それを地上に持ち帰ってデータ化することにあります。ですから、自らの感性・感覚に基づき我流で操縦することは、絶対に許されません。いつ如何なる状況であっても、試験プログラムを正確無比に淡々と消化せねばならないのです。それは、機体が不穏な兆候を示していても同じこと。その兆候の先に生じる挙動を経験・記憶し、地上に確実に持ち帰って、それを航空工学の理解に基づいて正確にデータ化せねばならないからです。優れた戦闘機パイロットは、優れたテストパイロットではないのです。
音速の壁をぶち破れ!ボイド大佐に課せられた、世紀のプロジェクト。
イェーガーの傑出した才能を誰よりも見出していたのは、このボイド大佐でした。
ボイド大佐はこの時、「音速の壁(sound barrier)」を打ち破る野心的なプロジェクトを率い、これを成功に導く重責を課せられていました。ボイド大佐はこのプロジェクトに相応しい、優秀なテストパイロットを探さねばならなかったのです。通常なら、経験と知見のあるベテランを選ぶ処でしょう。しかし、ボイド大佐の決断は全く逆だったのです。
イェーガーとフーバーは可能性に溢れていました。しかし、如何せん頭脳がイマイチでした。工学的知見が彼らには無かったのです。そこで、彼らに加えてもう一人。頭脳となり、彼らを諭し導く、頼もしいチームメイトが必要とされます。
1946年1月、イェーガーとフーバーの2名はフーバー大佐の命により、テストパイロットスクールに入校します。並の精神力ならば、そのレベルの高さに尻尾を巻いて逃げ出したことでしょう。カリキュラムは、工学系大学卒の人間でも苦しむ、最高難度のものだったからです。彼らはここで、収集した飛行データを計算してグラフやチャートにまとめる、テストパイロットの基礎を徹底的に叩き込まれます。2人が高度なカリキュラムに必死に喰らいつく中、ひとりの優秀なクラスメートと出会います。彼こそが、3人目の男。ジャッキー・リンウッド・"ジャック"・リドリー大尉です。イェーガー、フーバー、リドリーの3人は、空軍の音速突破計画で運命を共にすることになります。