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ピュアスポーツのベンチマーク、プジョー・205Rally。ピュアスポーツを極めた、ホンダ・TypeR。
[左]ピュアスポーツホットハッチという、新たなジャンルを築き上げたプジョー・205Rally。Spanish Coches, CC BY 2.0, via Wikimedia Commons
[右]徹底的に軽量化に加えて、NAエンジンを極限まで磨き上げた、初代インテグラTypeR。Vtecyoo, Public domain, via Wikimedia Commons
か細く狭いトルクバンドを絶妙に使い切り、荷重移動を理解した精巧なコーナリングワークで、ワイディングをヒラヒラと軽快に駆け抜ける。例え、エアコンが無くとも、ラジオが無くとも、軽量化のためならなば、性能向上のためならば、一切の苦痛も厭わない。それこそが、ピュアスポーツの真髄です。
こうしたモデルには米国人は一切興味を示しませんでしたが、存外に日本人の情熱に火を点けるのです。1985年にラリーベース車として誕生したプジョー「205・Rally」は、当時世界最高と称えられたハンドリングを有する、生粋のピュアスポーツでもありました。エアコンさえ搭載しておらず、徹底した軽量化が成されていたのです。1991年には「106・Rally」がこれに続き、ピュアスポーツホットハッチの新たな基準を打ち立てます。
このピュアスポーツの基準をさらに高めたのが、90年代に絶大な支持を得た、ホンダの「TypeR」シリーズです。1995年にはインテグラに、1997年にはシビックに追加設定され、絶大な人気を獲得します。しかも、その価格は今から考えれば、バーゲンセールというべきもの。研ぎ澄まされた日本刀の如き、純粋無垢な性能追求の姿勢が、多くの人の心を掴んだのです。最初に誕生したNSX・TypeRこそ、レースを前提としたクラブスポーツとして位置づけられていましたが、インテグラ以降は公道ユースを目的とする純粋なピュアスポーツとして誕生しています。
ただ、1990年代はWRC黄金期。その影響が、ピュアスポーツの存在を大きく変えてしまうのです。70年代からコツコツとオフロードイベントに出場していたトヨタは、1980年代に本格参戦を開始。カルロス・サインツの駆るセリカは、絶対王者ランチアに伍す白熱の闘いを繰り広げます。この活躍に押され、スバル、三菱、日産、マツダが、次々にWRC挑戦の検討を始めます。
WRCを目指せ!次々に現れるホモロゲーションモデルが、スポーツカーを性能至上主義へ。
危険な性能を誇ったグループBは、1986年に死亡事故が続発。FIAはWRCから急遽これを排除し、改造範囲が狭いグループAで争うことを決定します。当初、グループAはベース車が5,000台以上販売されることを義務付けていましたが、1992年にこれが2,500台に緩和されると、元気旺盛な日本メーカーは刺激的なターボエンジンに換装したホモロゲーションモデルを次々に発売します。「セリカ・GT-FOUR RC」「インプレッサ・WRX STi」「ランサー・エボリューション」「パルサー・GTI-R」「ファミリア・GTR」が相次いで誕生。手頃な価格で卓越した性能を持ち、かつベース車同等の実用性を有するこれらのモデルは、一気に人気を集めます。
特に、インプレッサとランエボは二大巨頭。毎年進化を遂げながら販売台数を伸ばしていくと、旧モデルが安価で市場に出回り、さらに市場を拡大していきます。ところが、GT-R並の性能を誇る4ドアセダンの台頭は、ピュアスポーツカーの存在を一気にかき消してしまいます。日本のスポーツカー市場が、極端な性能至上主義に陥ってしまったのです。
速くなけりゃ、スポーツカーじゃない。特に、雑誌の特集企画で人気を集めた、筑波サーキットでのタイムアタックがその傾向をさらに強めてしまいます。スポーツカーたるもの、当然高性能であるべし。そんな空気感が、不思議と全体を支配していったのです。
結果的に、本来クラブスポーツに分類されるマツダ・ロードスターを残して、ピュアスポーツカーはすべて姿を消してしまいます。その傾向はさらなる悲劇を生みます。性能向上に伴って、価格も急激に上昇。これに伴って、販売台数が激減したのです。こうして、スポーツカー市場全体が縮小し、ほとんどのメーカーが撤退を余儀なくされます。
一方、2000年代に急速に人気を加速させたのが、ドリフトでした。エビスサーキットが自ら聖地に名乗りを上げ、競技として確立させると、人気は世界に伝播。彼らがベースに選んだのが、90年代製国産FRスポーツモデルの数々。JDMと呼ばれるジャンルが米国に確立されると、日本製中古スポーツカーの価格はジリジリと上昇し始めます。
欧州プレミアムブランドが乱発するドーピングモデルにより、欧州も性能至上主義へ。
1990年代末、手軽な欧州スポーツカーが次々に姿を消していきます。そこには、理由がありました。リスク細分型自動車保険によって、2ドアモデルは贅沢かつ危険とみなされるため、保険料が非常に高く設定されているのです。欧州ピュアスポーツが軒並みハッチバックモデルとなっているのは、この規制を掻い潜るためです。
1990年代、日本メーカーが始めたのが、ニュルブルクリンクでのタイムアタック。1980年代に初めてブリヂストンが居を構え、これに倣って日本メーカーがニュル詣でを始めると、各々ラップタイムを計測。これを性能指標として、標榜し始めたのです。すると、欧州メーカーもこぞってこれに参加。こうして、日本のスポーツカー市場同様に、欧州もラップタイム至上主義に陥っていきます。この流れは、当然にして高価格化を誘発。スポーツカーは、あっとう言う間に贅沢品に様変わりしてしまいます。
2000年代に入ると、新興地域の急激な経済発展によって、新たな富裕層が誕生します。彼らが我先に飛び付いたのが、欧州プレミアムブランドでした。彼らにとって、自動車とは所有こそがステイタス。そんな彼らを満足させるには、豪華・豪奢な仕立てと、目の覚めるようなスペックが不可欠でした。
プレミアムブランドは、最上級モデルとしてドーピングモデルを次々に乱発。スポーツカー市場は、あっとう言う間に弩級のパフォーマンスを持つドーピングモデルに占拠されてしまいます。これにより、ハイパフォーマンスモデル=高級という、最悪のセオリーが生まれてしまいます。
スポーツカーブランドもこの流れに抗うことは出来ません。名門スポーツカーメーカーは、豪華・高性能路線へ一気に転換し、新たな飛躍を遂げていきます。フェラーリなどは、この20年でその価格は倍近くに上昇。それでも販売台数は伸び続けているのです。そんな彼らをさらに勇気付けたのが、ビンテージモデルの価格高騰でした。彼らは純正レストアにも着手。メーカーが手掛けたレストアカーは、天文学的価格で取引されるようになります。
その陰で息絶えていったのが、90年代まで辛くも生き延びてきた貴重なピュアスポーツブランドでした。こうして、スポーツカーは高性能だから、当然にして贅沢品・高級品。という、厄介な図式が成立してしまうことになります。
そもそも、レーシングドライブとスポーツドライビングは根本的に違う。ピュアスポーツはシンプルがベスト。
そもそも、スポーツドライビングとレーシングドライブは、根本的に異なるものです。スポーツドライビングは気ままなランニングであり、レーシングドライブはきっちりイーブンペースをキープするペースラン。つまり、楽しいのがスポーツドライビングで、苦しいのがレーシングドライブ。似て全く非なる両者。ですから、クルマの仕立ても全く違ってきます。
タイムを稼ぐのなら、リヤのグリップをとにかく稼がねばなりません。なぜなら、ラップタイムはコーナリングスピードではなく、アクセルを踏んだ時間で決まるからです。しっかりブレーキングして、フロントに荷重を掛けてターンインし、いち早くアクセルを踏んで、アンダー気味で加速していく。それが、レーシングドライブの基本です。
よって、パワーは多ければ多いほど良く、これに呼応してタイヤを可能な限り太くしてグリップを稼ぎ、足回りは弱アンダー傾向でセットアップしていかねばなりません。
一方、スポーツドライビングは、コーナリングを愉しむのが信条。よって、フロントとリヤのグリップバランスが重要です。コーナリングしながら、タイヤの限界を感じつつ、踊るようにコーナーを駆け抜けていく。そこに、最高の興奮と快感があるのです。
もし、エンジン出力が過剰だと、ドライバーが恐怖を感じてしまうため、コーナリングを愉しむのは不可能。タイヤもグリップをある程度に留めないと、グリップ限界を味わうことは出来なくなってしまいます。足回りは、若干オーバー傾向にして、テールスライドコントロールを楽しめるほうが、より濃く限界を味わえるでしょう。
本来、スポーツドライビングを志向するのなら、高性能である必要はサラサラないのです。過剰な性能は、ドライバー心理を圧迫するため、寧ろ邪魔でさえあるのです。つまり、スポーツドライビングを愉しむためのスポーツカー、つまりピュアスポーツは高価格となる必然性は、全く無いのです。
ピュアスポーツの金字塔であるプジョー・106Rallyは、ベースモデルより寧ろ安価でした。エンジン・ミッションも同じで、エアコンもオーディオもパワーウインドウも無いのですから、当然です。ピュアスポーツは、本来これで良いのです。良いはずなのですが。。。
目的から、手段に成り下がる自動車。ピュアスポーツの救世主は、豊田家の四代目御曹司。
スポーツカーがハイパフォーマンスの贅沢品に成り代わってしまった、2000年代。ここに、ピュアスポーツの救世主が現れます。それは、全くスポーツカーとはまったく無縁と思われた出自の男。豊田章男氏です。
彼の人生を変えたのが、師匠・成瀬弘でした。メカニックとして青年時代を過ごした成瀬は、モータースポーツシーンで様々な経験を積み重ねた後、300人のテストドライバーの頂点に立つマスターテストドライバーとして、長らくその重責を担っていました。しかし、80年代のトヨタでは、テストドライバーという職業はずっと閑職でした。エンジニアはボディ剛性の重要性さえ理解せず、彼らの金言は意味さえ解されぬまま、尽く退けられ続けていたのです。しかし、成瀬は諦めることなく、自らの腕を磨き続けます。ニュルブルクリンクなど、成瀬は海外でも多くの経験を積み重ねていきました。
そんな成瀬に豊田が出会ったのは、2002年に米国から帰国した直後のこと。「運転のことも分からない人に、クルマのことをああだこうだと言われたくない」と言い放った成瀬に、豊田は即座に弟子入りを決めます。成瀬がそうであったように、豊田は徹底的に努力を重ね、ドライバーとして大きく成長を遂げていきます。
ところが、2010年6月23日、今なお謎に包まれた事故で成瀬は急逝。その場所は、ニュルブルクリンクに至る公道上でした。成瀬の遺志を受け継いだ豊田は、モータースポーツとスポーツカーの発展に心血を注ぎます。自ら、モリゾーと称してラリーやレースに挑戦。今は、マスターテストドライバーとして、後輩たちに数多くの金言を与えています。
そんな豊田が最も憂慮していたのが、自動車文化の衰退による若者のクルマ離れです。2000年代、日本の自動車市場の主役はミニバンと軽トールワゴン。走りの愉しさなど欠片もなく、実用性一辺倒のクルマです。日本人は、クルマ「を」愉しむことよりも、クルマ「で」愉しむことを選ぶようになったのです。かつて憧れの存在だった自動車は、「目的」ではなく、「手段」に成り下がってしまっていたのです。
トヨタが選んだ、自動車産業衰退の流れを吹き飛ばす最高の特効薬は、ピュアスポーツだった。
当然、こんな時代にスポーツカーなど売れるはずもなく、ファンからの前評判が幾ら高くとも、モデルライフ中盤には地を這うような販売台数に落ち込み、そのままモデル廃止に至る。そんな流れが繰り返されていきます。NSX、80系スープラやS2000などは、その典型例。こうして、日本市場からスポーツカーが消え去っていきました。
しかし、若年層がクルマへの興味を失えば、自動車産業の将来的な衰退は間違いありません。自動車取得価格は年々低下し、遂にはシェアリングへ至ることでしょう。そうなれば、日本はGDPの10%をまるまる失うこととなり、500万人に達する自動車産業に従事する人々は皆仕事を失うことになります。自動車の復権、自動車文化の振興は、喫緊の課題でした。最高の特効薬としてトヨタが選んだのが、ピュアスポーツでした。クルマを味わい、クルマを愛で、クルマを愉しむ。誰でも買えるピュアスポーツは、自動車文化を自ら体現する最適素材なのです。
2007年、トヨタは安価なスポーツカーの市場投入を決断。次いで、資本提携先のスバル製水平対向エンジンを搭載するFRスポーツカーの企画が、着々と煮詰められていきます。こうして、2012年に誕生したのが、初代86/BRZです。世界中から万雷の喝采を浴びて登場するや否や、一大ムーブメントを巻き起こします。アフターパーツ/チューニング業界、モータースポーツ業界、中古車業界など、その影響は様々に波及し、少なくない若年層が自らオーナーとなることを選びました。トヨタの狙いは成功したのです。
スポーツカーは、高級贅沢品ではない。ピュアスポーツこそ、真のスポーツカーである。かつては当たり前だったピュアスポーツの定義は、世代を越えてしっかりと受け継がれています。
BRZ/86が、ピュアスポーツ復権の救世主となる。それは、自動車文化を未来へつなぐ伝道師。
2009年には、豊田章男は社長に就任。自らの意思と行動を以て、86/BRZを自動車文化の伝道師に位置づけていきます。自らハンドルを握ってラリーイベントに参加すると、トヨタ自らラリーシリーズを主催。ニュルブルクリンク24時間やS耐など、様々なサーキットイベントにドライバー・モリゾーとして登場。積極的な行動力で、モータースポーツに新たな活力を与えています。
86/BRZが何より偉大なのは、JAF公認のレースイベントやラリーにナンバー付きのまま、簡単に出場できることです。オーナーは、自らのガレージを出て、たっぷり1日レースを楽しんで、そのまま帰路につく。これまで、決して不可能だと思えたことが、日本でようやく実現したのです。
自動車文化を発展させるのに、最も大事なのはF1やWRCで勝つことではありません、如何にファンを増やし、自分も参加したいと思う人を増やせるか、そして実際に参加する人をどれだけ増やせるか、です。草の根があってこそ、花が開くのですから。86/BRZは、その点に於いて真に偉大な足跡を残しているのです。
ここで何より特筆したいのが、レースベース車両。まるで106Rallyの精神を受け継いだかの如く、装備はシンプルで価格も手頃。まさしく、ピュアスポーツそのものと言えるでしょう。
もし、豊田章男がトヨタ社長では無かったら、86/BRZが無かったら。。。日本の自動車文化はもっと早くに衰退を始め、日本のモータースポーツはとうに壊滅していたことでしょう。そして何より、大切にずっと維持されてきたピュアスポーツの命脈が絶たれていたことでしょう。
2021年夏、86/BRZは2代目にフルモデルチェンジを敢行します。世界広しと言えど、誰でも買えるピュアスポーツは、この86/BRZ以外にありません。このモデルが、世界にピュアスポーツを復権させる開拓者となることを願ってやみません。