人類を宇宙へ。フォン・ブラウンとコロリョフの奇跡の生涯 その1 [2024年08月18日更新]
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フォン・ブラウンが生み出した狂気の兵器、V-2ロケット。
世界を驚愕させた、ナチス・ドイツの技術力。
ロンドン東部ライムハウスに着弾した、V-2の残骸。ドイツ本国から約200km先の目標を直接打撃できるV-2は、欧州各地に痛ましい被害をもたらした。from Wikipedia
人類科学技術の光と影。燦然と輝く栄光の影に隠された、ドス黒く塗り潰された暗黒の歴史。ナチス・ドイツが、作り上げた報復兵器V-1、V-2は人類史上画期的な技術を現実のものとし、兵器として新たな時代を切り開くことになります。
飛行爆弾V-1は、パルスジェットエンジンを搭載する亜音速巡航ミサイルでした。200km以上を飛行して、目標上空に達すると爆発ボルトを作動させると共に、エンジンを停止。急降下して着弾。弾頭を炸裂させます。誘導システムは、ジャイロスコープと磁気コンパス、高度計で構成され、ノーズに設けられたプロペラの回転数で飛行距離を積算していました。日本が「有人」誘導装置として未来ある若者を無駄死にさせている頃、ドイツは精度の高い「無人」誘導装置を実現していたのです。V-1は、BGM-109トマホークに代表される長距離巡航ミサイルの始祖です。
V-2ロケットは、大型の液体燃料ロケットエンジンを搭載する弾道ミサイルでした。遥か宇宙空間にまで上昇した後、エンジンを停止したV-2は弾道飛行し、超音速で落下して目標に到達します。V-2は、ICBM(大陸間弾道ミサイル)の始祖ですが、この時点では通常弾頭しかなく、その威力は限定的でした。しかし、人類が核兵器を手にした時、その意味を根本から変えることになります。
宇宙ロケット、それは戦略核ミサイルの双子の兄弟。
科学技術は諸刃の剣。人々に希望と幸福をもたらすこともありますが、逆に人々に殺戮と絶望をもたらすこともできます。フォン・ブラウンにA-4を造らしめた目的は、明確に後者でした。如何なる純粋な動機が心中に秘められようとも、現実に9,000人もの人々が業火に焼かれ殺されたのは、厳然たる事実です。A-4は、報復兵器V-2として遺憾なく目的を達したのです。
A-4は、2人の子供の母親でもあります。一人は、檜舞台で脚光を浴びる、平和と希望の象徴たる宇宙ロケット。しかし、宇宙ロケットはあくまで次男。長男は、破滅の時まで息を潜めて待ち続ける、人類の対立と殺戮の象徴たる戦略核ミサイルなのです。2人の子供は、正に科学技術の光と陰。しかし、2人は合わせ鏡でもあります。戦略核ミサイルの誕生なくして、宇宙ロケットは生まれませんでした。宇宙ロケットの技術の殆どは、戦略核ミサイルの技術を応用して誕生したものだからです。
フォン・ブラウンの奇跡的な偉業によって開発された、液体燃料ロケットA-4。その構想に着手したのは、1936年夏のこと。フォン・ブラウンとリーデルは、推力245kNのエンジンを前提として、より大型のロケットの検討を開始します。ドルンベルガーは、フォン・ブラウンらに対し、ペイロード1t、航続距離280km(命中誤差3~5km)、大型車両で搬送可能なことを求めます。
ターボポンプを採用した、A-4の先進的設計。
ところが、1936年7月のA-3の実験が芳しくない結果に終わったため、A-4計画は延期を余儀なくされます。ただ、フォンブラウンは前進を続け、1937年にはA-4の要求性能を決定。エンジン技術者ヴァルター・ティールが、A-3のエンジンを再設計。これをA-5に搭載して試験が繰り返し実施されます。1938年から翌年にかけて、A-4の設計・製造が発注されます。
A-4は、推進剤に75%エタノール・25%水混合物(B-Stoff)、酸化剤に液体酸素(A-Stoff)を使用。25%の水には、気化潜熱により燃焼室の冷却材として作用すると共に、体積膨張によって推力を増大させた他、燃焼を安定させる効果がありました。このエンジンについて特筆すべきは、ターボポンプを採用したことです。
A-3までは、エンジンに窒素ガスの圧力で加圧して、燃焼剤・酸化剤を燃焼室に送り込む、加圧圧送式を採用していました。ただ、より大型のA-4では長い燃焼時間が必要となるため、液体窒素タンクを大型化せねばなりません。無駄な重量は1gでも削減せねばならないロケットでは、これは非現実的でした。そこで、採用されたのがターボポンプです。ターボポンプ式液体燃料ロケットを1930年代に開発したことは、驚異的な事実です。ターボポンプはそれ程難易度が高いのものだからです。
最高到達高度:80km、人類史上初めて宇宙空間へ到達。
1942年10月3日に発射試験が実施された、A-4・4号機であるV-4は最高到達高度:85〜90kmに達した。当時は、高度:80kmにカーマンラインが設定されていたため、世界で初めて宇宙へ達した人工物体として記録された。1935年にゴダードが、やっと2.3kmまで達したことを考えると、恐ろしい程の技術的飛躍である。from Wikipedia
1942年10月3日、人類初の大型ロケットA-4が打ち上げ実験に成功します。多少軌道制御に問題があったものの、A-4は高度:84.5kmに到達。この瞬間、人類の文明はついに宇宙空間に達します。そう、宇宙への第一歩は、破壊への一歩だったのです。
ドルンベルガーはペーネミュンデで、この日高らかに宣言するのです。
「1942年10月3日、この日は、輸送における新しい時代、すなわち宇宙旅行の最初の日です・・・。」と。
ただ、実験段階を迎えたA-4は依然として前途多難で、夥しい失敗の山を築き上げていたのです。その無様な失敗を耳にしたものは、誰しもが成功するとは信じていませんでした。かのヒトラーも、その一人でした。
1942年2月25日に完成した初号機(V-1)は、タンクに燃料注入後、発射台から2m滑り落ちて、フィンを破損。修理したものの、3月18日の地上試験に失敗し、スクラップ。2号機V-2は、5月15日に英国の偵察機に巨体を晒した後、20日の地上試験で損傷。6月13日に打ち上げられるも、打ち上げ直後にロールレートジャイロが故障。ロケットは進路を失ってひっくり返り、36秒の燃焼の後、エンジンが故障。54秒でテレメトリが停止し、1.3km離れたバルト海上に落下、爆発。失敗に終わります。
悪魔の誘い、ナチス親衛隊隊長ヒムラーが視察に訪れる。
緊張した面持ちで、陸軍将校と言葉を交わすフォン・ブラウン。ペーネミュンデに於ける先進的な研究開発は、決戦兵器を求めるハインリヒ・ヒムラーの注目する処となる。ドルンベルガーの決死の抵抗も実らず、フォン・ブラウンのプロジェクトはSSの管轄下に置かれ、研究開発はすべて中止し、早期大量生産を課せられることとなる。from Wikipedia
A-4は、1942年に9機が製造され、早々に試験を実施。翌1943年には、何と35機の打ち上げ試験を実施しています。すさまじいペースで試験が繰り返され、その技術的信頼性を高めるべく研究が進められていくことになります。
その最中、ペーネミュンデを恐怖に陥れる「予告」が届けられます。親衛隊(SS)隊長ハインリヒ・ヒムラーが視察を通告してきたのです。ヒムラーは、世界に比類なき研究成果を誇るA-4計画が、自らの眼鏡に叶うほど偉大なものならば、親衛隊の強権の元で陸軍からその権利を強奪しようと目論んでいたのです。
幸か不幸か、ヒムラーの謁見を受けた打ち上げ実験は失敗に終わります。A-4は高度20~30mで制御を失い、ペーネミュンデ西部にある飛行爆弾(後のV1)の研究施設に飛び込み、駐機された幾つかの航空機を破壊したのです。
これを見たヒムラーは、フォン・ブラウンにこう述べています。
「この実験は、たった今、私にとってのあらゆる疑念をも取り去ってくれた。私は地上兵器の生産を進んで命令することにしようと思う。」
ヒムラーの毒牙にかかる、フォン・ブラウン。
ペーネミュンデの鉄道施設に落下し、無残な残骸を晒すA-4。技術的難易度が極めて高いA-4ゆえに、発射試験の殆どは失敗に終わった。それでも、フォン・ブラウンは着実な前進を図ることで、徐々に信頼性を改善。遂には、戦力化にまで漕ぎ着けることになる。from Wikipedia
フォン・ブラウンは別の問題点を指摘することで、A-4計画からヒムラーの注意を背けようとします。相次いで失敗に終わる打ち上げ試験を例に取り、A-4をミサイルとして実用化するには、途方もない開発と試験が必要であることを強調したのです。
ドルンベルガーとフォン・ブラウンが抱いていたのは、実に牧歌的希望でした。自分たちの研究が成果を挙げるには、まだ時間が掛かる。そうすれば、地上の破壊行為に加担することなく、戦争が先に集結するだろう。出来ることなら、自分たちの研究開発の成果が、兵器ではなく、未来ある宇宙開発に貢献するものであって欲しい。「宇宙旅行の最初の日」とした10月3日のドルンベルガー宣言は、彼なりの信念だったのです。しかし、それは希望というより、儚い夢でした。
間もなく、SSの幹部がペーネミュンデを次々に視察に訪れるようになります。そして、ヒムラーはフォン・ブラウンに断れない餌を差し出すことで、陸軍から引き剥がしにかかります。それは、少尉に相当する名誉SSの授与。それを拒絶することは、国家への反逆と同義であり、恐らく逮捕は免れないであろうことは、誰しもが知る所でした。1943年6月28日には、早々と少佐相当にまで昇進させられてしまうのです。
ヒムラーは、フォン・ブラウンを試していたのです。SSのモットーは忠誠こそ我が名誉、それに「SSメンバー」が反すれば逮捕は当然。結局、形だけの服従も実を結ばず、1944年3月にはヒムラーの命により、ゲシュタポの牢獄に勾留されてしまうのです。
ヒムラーが造ったこの世の地獄、ミッテルヴェルケ。
米陸軍航空軍第305爆撃隊のB-17が、ペーネミュンデを爆撃中。捕虜であるポーランド人守衛から情報を得た、連合国軍は早々にペーネミュンデに大規模攻撃をかけている。これを受け、ヒトラーは地下施設への移転を指示。その全権を担ったのは、ヒムラーだった。from 米国航空博物館
ドルンベルガーは必死にヒトラーを説得。何とか。2週間後にフォン・ブラウンを開放することに成功します。それでも、相手はヒムラー。当然というべきか、ドルンベルガーとフォン・ブラウンの抵抗虚しく、A-4はヒムラーの支配から逃れる術はありません。ヒムラーによるV-2の支配。それは、ロケット技術がすべて、破壊と殺戮に使用されることを意味していました。そして、これこそが、最大の悲劇を生むことになるのです。
2号機が英国偵察機に姿を晒したことで、連合軍はA-4計画の脅威を正しく認識していました。その目論見を断つべく、1943年8月17日夜、連合軍の大爆撃機編隊がペーネミュンデを襲います。爆撃機600機が、1500tもの弾薬・焼夷弾を投下。対空砲と夜間戦闘機がこれに抗い、47機を撃墜するも、居住区への被害が大きく、735人が死亡します。
A-4計画が連合軍に露見していることを知ったヒトラーは、直ちに地下施設に移転することを命じます。その全権を与えたのは、やはりヒムラーでした。ただ、幸いにもヒムラーが掌握したのは、A-4計画のうち、大量生産と軍事使用に関するものだけ。研究開発の権限は、彼らの元に残されたのです。
戦況芳しくないSSは、早期戦力化、早期大量生産を要求。試験に於いて、A4が未だ確実な成果を挙げていないのに関わらず、直ちに大量生産を開始することを命じたのです。これにより、新たに建設されたV-2量産施設。それが、ミッテルヴェルケ。またの名を、ミッテルバウ・ドーラ。それは工場という名の地獄そのものでした。
世界初の短距離弾道ミサイル、V-2ロケットの技術。
全長:14m、最大重量:12.8tの巨体を、320km先へ飛ばす。
全長:14m、最大重量:12.8tに達するV-2は、非弾頭分離式の単段式短距離弾道ミサイルであり、先端部分に975kgの弾頭を搭載していた。その巨体の殆どは推進剤タンクで占められているが、タンクケーシングは外皮を兼ねておらず、荷重負担もしない設計である。from Wikipedia
A-4は、全長14m、直径1.65m、空虚重量4,539kg・最大重量12,800kgに達する大型液体燃料ロケット。現在の分類上では、短距離弾道ミサイルに相当します。
燃焼剤として75%エタノール/25%水の混合物(B-Stoff)を3,710kg、酸化剤として液体酸素(A-Stoff)を4,900kgを搭載。混合比は、0.85:1.0。燃焼時間は約65秒で、ロケットを最大速度1,341m/secまで加速させ、最大到達高度:83~93km、射程:320~360kmを可能にする設計でした。
タービンと同軸上に2つのコンプレッサを有するターボポンプは、出力580hp。触媒(Z-Stoff:過マンガン酸ナトリウム66%・水34%)を22kg、過酸化水素(T-Stoff)を175kg搭載。両者を反応させて得られる385℃・3.2MPaの過熱蒸気により、タービンを3,800rpmで駆動します。燃焼剤は2.3MPaまで圧縮され、質量流量58kg/secで1,224個のポートから、酸化剤は1.75MPa・72kg/secで2,160個のポートから噴射され、燃焼室に供給されます。燃焼室温度は約2,700℃で、B-Stoffにより再生冷却とフィルム冷却が行われます。燃焼剤に含まれる25%の水が燃焼温度を抑制し、燃焼室の冷却を容易にしていました。
過酸化水素駆動のターボポンプで、最大推力:222kNを発揮。
[左]エンジン燃焼室本体。[右上]ターボポンプ。[右下]グラファイト製ジェットベーン。V-2の飛躍的性能を実現するカギは、エンジンにあった。中でも、燃焼室圧力を格段に向上させるターボポンプは画期的で、米国では何と戦後1950年代に至るまで実現できないほど、難易度の高い技術だった。from 国立航空宇宙博物館、Wikipedia
ターボポンプの威力は偉大で、エンジン点火直後の重力による燃料供給では推力3tに過ぎませんが、ターボポンプにより地上付近で推力:222kN、真空中では最大:258kNに達します。排気ガス温度は2,820℃に達し、ノズルにより最大2,000m/sec(高度6,550ft)まで加速されました。
ペイロードは、975kg。そのうち、738kgが電気接触信管によるアマトール60/40の爆薬。再突入時の空力加熱により爆発する可能性があるため、分厚いグラスウール層で保護されていました。ただ、それでも暴発の危険を排除するには不十分でした。
機体の制御は、シーメンス製LEV-3誘導装置により行われます。LEV-3は2個のジャイロスコープと加速度計を組み合わせたもので、これをアナログコンピュータで演算し、電気油圧サーボモータを介して、テールフィンに設けられた4つの方向舵と、ノズル出口に設けられた4つのグラファイト製ベーンを制御します。LEV-3は、方位角を8つの操舵翼面で制御するものの、距離は単純にエンジンの燃焼時間で制御されました。エンジン停止の際は、ウォーターハンマーの問題を回避するため、ターボポンプへの過酸化水素供給を停止することで推力を8tに減じた後、燃焼が停止されました。
9,000人以上を死に至らしめた、V-2の威力と命中精度。
V-2の技術の中でも特筆すべきは、優れた誘導システムである。LEV-3慣性誘導システムは、高度:80kmから大気圏再突入する巨体を正確に誘導し、約200km先の目標へ正確に到達させる能力を有していた。from 米国航空博物館
連合軍側に向けて発射されたV-2のうち、約20%は無線誘導を用いたものでした。これは、シーメンスのフリードリッヒ・キルヒシュタイン博士が開発したもので、A-4が中継する地上信号によって速度を測定するドップラー追跡システムと組み合わせ、A-4のエンジン停止指示を無線制御することで、命中精度を高めるものでした。
忌むべき報復兵器V-2は、痛ましい強制労働により全5,200発が製造されています。1944年9月から翌年3月までに約3,172発を発射。攻撃目標は、英国・ロンドンやベルギー・アントワープが中心でした。アントワープだけでも、1,736人が死亡、4,500人が負傷。ロンドンでは、2,754人が死亡、6,523人が負傷しています。
その攻撃目的を達するのに、無線誘導は大きな力を発揮しました。これに抗するため、英国諜報機関は工作員を介して、虚偽の命中報告を伝達することで、ターゲットをズラすことを計画します。通常、長距離砲撃の際は観測機を飛ばし、着弾点を修正することで、命中精度を高めます。この計画はこれを逆手に取り、逆に着弾点を不要に修正させることで、被害を減じようというものでした。作戦は殊の外成功し、ロンドンを狙ったV-2の半分以上が16~32kmオーバーシュートしています。
V-2の発射プロセス:移動式発射台への据え付けと推進剤充填。
V-2は、発射準備に時間を要するため、移動式発射台を用いた。巨大なV-2及び推進剤等は、鉄道によって発射地近傍まで運ばれた後、メイラーワーゲンと呼ばれる専用トレーラに積み直されて、発射地まで輸送。水平を期すため慎重に設置された発射台上で垂直に引き上げた後、燃料充填など発射準備を進めることになる。from Wikipedia
通常、V-2はその存在を秘匿するため、通常樹木が生茂ったエリアから発射されました。ミッテルヴェルケで生産されたA-4は鉄道で運ばれ、発射地点近くでクレーンによってトラックに積み替えられます。発射地点から数キロ離れた場所に設けられたフィールドストアで、A-4の先端に別途運ばれた弾頭が取り付けられ、ロケットはV-2へと変貌を遂げます。
V-2は移動式クレーンで吊り上げられ、メイラーワーゲンと呼ばれるトレーラーに積載、クランプで固定されます。トラクタに牽引されたメイラーワーゲンは、いよいよ発射地点に到着。発射台に向けて、後方から押し込まれます。V-2は発射台の上で、メイラーワーゲンのアームに載せられたまま、慎重に垂直に立ち上げられていきます。何よりも重要なのは、発射角度。そのため、慎重に測量がなされ、調整が施されます。そして、グラファイト製の4枚の制御ベーンが取り付けられます。
一方、燃焼剤・酸化剤、過酸化水素、触媒は、それぞれ鉄道で運ばれ、専用のタンクローリー車に移されます。補給部隊は液体酸素が気化せぬよう迅速に発射地点に移動。メイラーワーゲンは、各種燃料補給用配管・圧送用ポンプを備えており、燃焼剤、液体酸素、過酸化水素、触媒と順番に充填されていきます。
V-2の発射プロセス:発射準備完了、総員退避。そして、発射。
充填が完了すると、補給部隊は安全距離まで直ちに退避。メイラーワーゲンのアームが降ろされると、トラクタに牽引されて発射地点を離脱します。発射部隊のメンバーは、事前に準備されたストリップレンチに退避します。発射制御車両は、発射台から100~150m離れた場所に掘られた保護トレンチ内に準備されています。
発射制御車両のハッチを閉め、発射部隊は安全を確保します。発射司令は、発射担当に準備完了を確認。準備完了の回答を得ると、司令は打ち上げ1分前を宣言します。発射担当が小さなペダルを踏み込み、重力で燃焼室への推進剤の供給を開始し、推進剤に点火。発射台上のV-2は、推力1.5~2.5tで燃焼を開始します。
そして、カウントゼロ。発射司令は最後の命令、「ハウプトストゥフェ!」を宣告。これに呼応し、発射担当がラウンチスイッチを押します。これにより、過酸化水素と触媒が反応を開始し、ターボポンプが作動。燃焼室に大量の推進剤が押し込まれ、最大推力:25tが発揮されます。発射台を解き放たれた、V-2はゆっくりと上昇を開始。凄まじい轟音と、鮮やかな黄色の炎を曳いたV-2は、ターゲットに向けてゆっくりと向きを変えると、遥か彼方へと飛び去っていくのです。
ミッテルバウ・ドーラ強制収容所、12,000名が犠牲になったV-2の製造拠点。
2本のトンネルと横坑で構成される、秘密地下工場。
ミッテルヴェルケ、ドイツ語で中央工場を意味するこの場所は、V1、V2及び航空機の生産を目的とした地下工場であった。山塊に2本のトンネルが建設され、双方を結ぶ横坑に生産設備が設置された。生産にあたったのはミッテルバウ=ドーラ強制収容所の収容者であり、労働の実態は常軌を逸した過酷なものだった。from Wikipedia
ドイツ中部テューリンゲン州にあるコーンシュタインという丘陵地に、3kmに達する2本のトンネルが掘削されました。2本のトンネルは、40本にも及ぶ横坑(ギャラリー:長さ250m)で結ばれており、そこから網の目のように作業場が設けられていました。
ミッテルヴェルケと呼ばれたこの工廠、別の名をミッテルバウ・ドーラ強制収容所といいます。そこで生産に従事していたのは、生産を監督する約3,000人の民間人と、生産に従事する約5,000人の強制収容所の収容者でした。
その労働環境は、常軌を逸した過酷なものでした。収容者たちは飢餓、病気、虐待、過労など様々な理由で、次々に命を落としていったのです。陽の光から隔絶されたトンネルの中は、忌むべき狂気に満ち溢れていました。
1,800発/月という当初の生産計画は、1943年11月には900発/月まで削減されます。それとて、技術に劣る収容者たちでは達成不可能でした。実際に、少なくないロケットが不良品として完成しています。但し、これは収容者の決死の妨害工作によるもの。事態が露見すると関係者は徹底的炙り出され、約200名が絞首刑に処せられています。
1945年4月11日に連合軍に降伏するまでの間、5,200発のV-2が生産されるに際し、12,000人もの収容者が犠牲となりました。それはV-2の爆撃による犠牲者9,000人を上回るものです。
1発のV-2につき、攻撃で1.7人、製造で2.3人が命を落とす狂気。
V-2の生産に従事する、強制収容所の囚人。ミッテルバウ=ドーラ強制収容所で犠牲になった収容者の数は定かではないが、一説には12,000名にも達したという。常軌を逸していたのは遺体の処理で、集団埋葬もすることなく、トンネル内にそのまま打ち捨ててあったという。from Wikipedia
人を殺すために、人を殺す。1発のV-2につき、攻撃により1.7人が犠牲になり、強制労働で2.3人が命を落とす。戦争は人類の奥底に眠る狂気を炙り出します。ミッテルヴェルケに集められた収容者は、ドイツ占領下にあったソビエト、ポーランド、フランスで政治的な理由により囚われた人々でした。彼らが尊い死の刻を迎えても、遺骸を弔う者は誰もいません。用済みの廃材の如く、トンネル内の至る処に、打ち捨てられていったのです。
V-2が描き出した惨劇は、世にも悍ましいものでした。落下点に集う人々は、愛する人に別れを告げることもできず、一瞬のうちに業火に身を砕かれます。ただ、その弾頭が通常弾頭のみに留まったことは、不幸中の幸いでした。もし、そこに化学兵器や放射性物質が詰め込まれていれば、犠牲者は数十倍に膨れ上がり、更なる悲劇が歴史に刻み込まれていたはずだからです。
技術的側面だけ捉えれば、V-2は偉業に違いありません。フォン・ブラウンという天才がいたからこそ成し遂げられた、技術的奇跡でした。しかし、フォン・ブラウンがいたからこそ、生み出された悲劇とも言えます。
大戦が終結したとき、V-2は忌まわしき記憶と共に、燦然たる輝きを以て、新たなる時代を切り拓いていくことになるのです。
V-2の落ち武者狩りに狩り出される、囚人コロリョフ。
1945年5月2日、ベルリン陥落。以降、ドイツ軍は組織的な抵抗を停止していく。事前合意に基づき、ソビエト赤軍がミッテルヴェルケに進駐したとき、現物も、資材も、資料も、人員もすべて消えており、文字通りもぬけの殻になっていた。from Wikipedia
1941年6月22日、独ソ不可侵条約を一方的に破棄したドイツはバルバロッサ作戦を発動し、ソビエトへ侵攻。電撃戦を展開し、9月には一気呵成にモスクワ攻略を開始します。ところが、ソビエトに神風が吹きます。例年より速い冬がドイツ軍の足を止めたのです。補給線が延び切ったドイツ軍は一気に劣勢となり、ソビエト赤軍派一気に巻き返しを図ります。ところが、ここで戦線は膠着状態となるも、赤軍は1944年以降に猛反攻に転じるのです。1945年2月2日、赤軍は一気にベルリンまで70kmに迫ります。4月16日、ベルリン総攻撃を開始。30日にヒトラーが自死を選び、5月2日にベルリンは遂に陥落します。
この赤軍の反抗に付き従っていたのが、労働組合将校。彼らに課せられた任務は、勢力下に落ちたドイツ領内から価値ある機械・設備・資料を探し出し、接収すること。1945年2月21日、国家防衛委員会(GKO)の政令により、トロフィー旅団が公式に活動を開始。早速、工業設備、資材の搬出を始めます。
4月23日、ロケットを専門に扱う最初の部隊がモスクワを出発します。彼らが狙いを定めていたのは、フォン・ブラウンの歴史的傑作A-4。部隊には、数十人の技術専門家が同行しており、そのメンバーには囚人セルゲイ・コロリョフも名を連ねていました。
アンドレイ・ソロコフ将軍が率いる接収部隊に課せられたのは、ナチス・ドイツのロケット研究開発施設の調査。ところが、調査とは表向きのこと。実際には、V-2ロケット本体、部品、燃料、生産設備、図面、資料は当然ながら、V-2に関係する研究者、担当者、担当武官、生産に従事する者、そして彼らの家族に至るまで、すべてが接収の対象でした。
5月5日、ロケット開発の中枢ペーネミュンデが陥落。早速、ソロコフの部隊は施設の調査を開始します。しかし、時すでに遅し。彼らがペーネミュンデに到着した時、そこはもぬけの殻。目ぼしいものは、すっかり姿を消していたのです。「盗まれた」のか、はたまた「処分された」のか。。。
同盟関係にある英米との事前協定によれば、ペーネミュンデ、ミッテルヴェルケの何れもソビエトの駐留地域内。誰がどう考えても、接収の権利はソビエトにあるはず。ならば、どうして・・・?