人類を宇宙へ。フォン・ブラウンとコロリョフの奇跡の生涯 その2 [2024年09月09日更新]

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文責:スバルショップ三河安城 和泉店

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担当:余語

 

ドイツ領内で開始された、ソビエトンの弾道ミサイル研究。

ペーネミュンデに残されていたのは、僅かな資料・資材のみ。

1945年4月に開始された戦利品旅団による接収活動は、当初機材回収に主眼を置いていました。しかし、次第にV-2ロケットの部品捜索、そして技術者・専門家の捜索へと活動範囲を拡大。さらには、ドイツ人・ソビエト人技術者の共同による、ドイツ領内へのソビエト管轄の研究所設置へと発展していくことになります。

1945年6月から7月にかけ、アンドレイ・ソロコフ将軍が率いる接収部隊がドイツに渡ります。ソロコフの部隊に課せられたのは、5月5日に陥落したペーネミュンデの調査でした。先述の通り、主要な人員・機材・資料は西へ移送済みで、接収部隊が到着した時には、ペーネミュンデは既にもぬけの殻。ただ、時間の限られた撤退作戦で、確実な証拠隠滅を図るのは当然不可能とあって、その場に残されているものも少なくありませんでした。彼らは、ペーネミュンデでV-2ロケットの複数の貴重な部品を発見した他、重要な資材・機材の収集に成功します。また、当地に残っていた技術者もおり、彼らはペーネミュンデに関する貴重な情報を赤軍に提供しています。ただ、それは米国の得たものに比べれば、微々たるものでした。

ペーネミュンデには他の部隊も訪れており、このメンバーにはコロリョフも含まれていました。

ソビエトの占領地域が拡大するにつれ、労働組合将校の業務も順次拡大していきます。ただ、ヤルタ会談での決議事項に背く米軍の意図的な前進と駐留によって、その成果は芳しいものとはなりません。ソビエト指導部は、次第に焦りを募らせていくことになります。

V-2の発射拠点、レへステンに派遣されたグルシュコ。

V-2ロケットの発射拠点が置かれたレへステンは、手付かずのまま残されていたがために、戦利品旅団が発見した中では大変貴重な施設の一つとなります。理由は不明ながら、米国はレへステンを無傷のまま引き渡していたのです。

1945年7月15日、レへステンにバレンティン・グルシュコが派遣されます。グルシュコは、軍用機用離陸補助ロケットシステムの設計局であるOKB-SDのメンバーと共に、レへステンで調査を実施。その後、ドイツ人の手を借りて、早々に静止燃焼試験用試験設備を復旧を図っています。グルシュコの報告によれば、9月6日までにエンジンの静止燃焼試験を再開した、とされます。レへステンは1947年1月に閉鎖されるまで、ソビエトの貴重な開発拠点の一つとして維持された後、1948年の初めに機密保持のために爆破処分。なお、レへステンから引き継がれた試験関連構造物は、モスクワ北部のザゴルスクの試験センターで再活用されることになります。

ただ、たった2ヶ月で損傷した試験設備を復旧するだけでなく、燃焼試験まで実施したというのは、さすがに真実ではないでしょう。もし、それが事実ならば、ソビエトはもっと早い段階でV-2の再生産を開始できたはずであり、レへステンをわざわざ破壊処分とする妥当性がありません。ソビエトでは指導部(つまり、スターリン)に気に入られるために、事実の誇張は決して珍しくありません。グルシュコの報告も、そうしたものの一つと考えるべきでしょう。

ブライヒェローデに開設された、ラーベ研究所。

フォン・ブラウンらメンバーが最後に本拠を置いていたブライヒェローデは、ドイツに於けるソビエトの一大研究拠点となります。1945年6月30日の米軍撤退に合わせ、ソビエト赤軍が進駐。チェルトックらは、フォン・ブラウンが使っていた邸宅を拠点とし、12名のドイツ人とともに飛行制御システムの修復を担うこととなります。

進駐から数日後、ここにロケットの設計・製造を目的として、ラーベ研究所が開設されます。これに合わせ、当面数十名のドイツ人技術者が確保されたものの、ロケットに直接携わった経験のある者は殆どいませんでした。これにより、V-2に関与した経験のある技術者を確保することが、チェルトックの当面の課題となります。

1945年8月、GAU・グズネツォフ将軍がラーベ研究所を訪れ、ここが自らの管理下にあることを宣言します。チェルトックは同意せざるを得なかったものの、代わりにグズネツォフは公式に援助することを約束します。続いて訪れたのは、ロケット技術に興味を持っていたガイドゥコフで、共産党中央委員会でロケットへの取り組みを拡大するキッカケとなります。これら上級将校の相次ぐ訪問の結果、NII-1に対して追加の人員を派遣するよう要請が成されます。

NII-1のメンバーに課されたのは、ドイツでのV-2再生産。

1945年8月8日、NII-1研究所のメンバーが個別に共産党中央委員会に呼び出されます。彼らは、そこで省庁間委員会のメンバーになっていたことと、自分たちが翌日にはベルリンに向けて出発せねばならないことを知ります。彼らに課せられた任務は、V-2の完全な設計図の復元と、ドイツ内でのミサイル実験生産ラインの立ち上げにありました。ソビエトは、V-2の技術を吸収するのではなく、そのままデッドコピーすることを目指していたのです。

任務が資料収集から、現地生産へと一気に規模を拡大したことで、より大規模な研究施設が必要となります。NII-1のメンバーは当初ラーベ研究所に入ったものの、その後ミッテルヴェルケの全施設に加えて、ベルリンにあった対空ミサイルの開発センターまで管轄するようになります。労働組合将校同様の身なりを与えられ、ソビエトへ派遣されたロケット技術者は総勢284名に達します。ソビエトは、米国に遅れを取りつつも、ドイツ各所で精力的に捜査・捜索を実施。貴重な情報を収集しつつありました。

しかし、大量の技術者を送り込んでもなお、V-2ロケットの複雑な設計に苦労していました。目標はV-2の再生産です。技術を理解するだけで不十分で、まったく同じ物を生産しなければならないのです。問題は、依然として山積していました。中でも難解だったのは、ラーベ研究所で取り組んでいた飛行制御システムです。重要文書は失われており、利用可能な現物も不足していたのです。

これを受け、ドイツのソビエト占領地域では、ペーネミュンデ退役軍人に対する公募キャンペーンが実施されます。在独ソビエト軍政府(SVAG)のトップであり、ソビエト赤軍元帥のゲオルギー・ジューコフは部下に対し、1945年8月31日までに優秀なドイツ人専門家の雇用に関する提案を行い、10月末までにドイツ人に対する補償制度を策定することを命じます。その募集プログラムは、共産政権とは似つかわしからぬ、ニンジンをぶら下げるというもの。ソビエト支配下のライプチヒのラジオ局は、良い賃金と身の安全約束すると放送。極度に困窮していたドイツ人労働者たちは、自発的にこのプログラムに参加したのでした。

ソビエト最大の成果。ドイツ人技術者グレトルップの獲得。

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ソビエトを選択した数少ないドイツ人技術者の一人、ヘルムート・グレトルップ。彼は、ソビエト当局から特別待遇を受けており、ドイツ人を代表して待遇改善を要求した他、ストライキも辞さぬ覚悟で賃金交渉を行ったりもしている。ロケット開発では大きな足跡を残しており、グレトルップなくして決してスプートニクはあり得ない。Ursula Gröttrup, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons

 

1945年8月初め、ジューコフはSVAG第026号「ソビエト産業によるドイツ技術利用作業の組織化について」という命令に署名しています。これは、近い将来3,000人に達すると予測されたドイツ人技術者を、各産業に特化した研究組織を設立した上で、組織化するというもの。ドイツ人の技術を吸収するのではなく、ドイツ人をそのままソビエトで働かせるという点に於いて、米国のペーパークリップ作戦とまったく同じ目的を持つものでした。

よりハイレベルの技術者の獲得を課されていたチェルトックは、西側国家から人を獲得する秘密作戦を立案します。9月中旬、チェルトックは漸く大きな成果を得ます。V-2ロケットの飛行制御システム開発に尽力したヘルムート・グレトルップがソビエト占領地域に戻り、ラーベ研究所に加わったのです。チェルトックは、総本山たるフォン・ブラウンを米国占領地域から獲得すべく、人員を派遣します。ところが、すぐに身元がバレて米軍に捕らえられてしまったため、早々に諦めざるを得ませんでした。

フォン・ブラウンの下で働くことを好まなかったとされるグレトルップを迎えるべく、チェルトックはラーベ研究所内に「グレトルップ研究所」を設立し、特別な高待遇で歓迎します。グレトルップの最初の任務は、ペーネミュンデ工学史に関する報告書の作成でした。これは1946年半ばに完成し、ペーネミュンデでの作業と、最初の長距離弾道ミサイルの開発過程で解決しなければならなかった技術的問題について、最も完全で客観的な記述として、ソビエトに無二の価値を与えるものとなります。

この他、グレトルップはV-2ロケットに関与した民間企業の地理的情報を提供した他、ソビエト圏外のかつての仲間とも連絡を取っていました。これに応じたのが、航空力学専門家のハンス・ツァイゼや発射作戦の専門家であるフリンツ・フィバッハで、彼らが英国からソビエトに渡ったことで、ソビエトの体制は一気に充実することとなります。

コロリョフの進言により、ノルトハウゼン研究所が開設。

1945年8月、NII-1の技術者であるワシリー・ミシンがチェコスロバキアに派遣されています。ミシンは、専門家グループを率いて、V-2ロケットの下請け企業を調査することを命じられていたのです。ミシンはプラハで、チェコ軍が管理する技術資料の存在を知ります。ソビエト指導部を通じてチェコ当局に圧力をかけ、技術資料をモスクワに輸送します。ところが、11月初旬に到着した技術資料は未だ不十分であり、図面等が不足していることも判明します。11月後半、ミシンは再びベルリンに呼び戻され、そこでコロリョフと初めて会うことになります。その後、ミシンはコロリョフの下で20年の長きに渡って務めを果たすこととなります。

ミシンはラーベ研究所に設置された計算論理局の責任者となり、ドイツ人を雇用してV-2ロケットの技術的特性及び飛行特性の数値的解析を試みます。

1946年の初め、コロリョフはミッテルヴェルケに移動し、ドイツ領内でV-2ロケットの発射実験を行うヴィストレル作戦の準備を開始していました。そこで、ミシンに対し、詳細な軌道計算や照準アルゴリズムの開発、飛行軌道に於ける各パラメータの測定方法について、依頼を行っています。ただ、ソビエト指導部は機密保持を理由に、最終的に作戦の中止を命じることとなります。

1946年2月、ガイドゥコフとコロリョフはモスクワに呼ばれ、マレンコフに対して研究の進捗状況を報告しています。クレムリンでプレゼンを行ったコロリョフは、「ロケット開発をドイツに集中させる」ことを強く要望します。これを受けて決定されたのが、ドイツ内に大規模な研究施設を設置すること。ミッテルヴェルケに一帯を管轄下に置く、ノルトハウゼン研究所の開設が決定されたのです。ガイドゥコフは所長に、主任設計者にはコロリョフが任じられます。

ドイツ領内で10基ほどのV-2を再生産。以後、活動はソビエトへ。

ノルトハウゼン研究所は、V-2ロケットに関するあらゆる技術側面をカバーすることを目的としていました。1946年前半、ノルトハウゼン研究所はラーベ研究所を含む4拠点に拡大し、その最盛期を迎えます。ミシン率いる第1工場は計算論理局と収集した技術資料の翻訳を、グルシュコ率いる第2工場はエンジンの組立を担う他、この他実験組立を行う第3工場、飛行制御システムを扱う第4工場が設置されます。最盛期となる1946年10月には、ソビエト専門家733名に加え、5,000~7,000名のドイツ人がノルトハウゼン研究所で働いていました。

これら大量のドイツ人技術者を率いていたのがグレトルップであり、コロリョフはその全権を担っていました。1938年にNKVDにより逮捕され、一旦は地獄を見たコロリョフ。苦節8年、コロリョフは国家を牽引するロケット技術者の地位を得たのです。

1945~1946年にかけて、ソビエトはドイツ領内でV-2ロケット生産ラインの再構築を図っています。ここで再生産されたのは、約10基。一説には、その他25基程度が新たに製造されたとも言われています。ただ、機密保持の観点からみて、ドイツ領内での研究開発作業は決して理想的とは言えません。1946年8月初旬、コロリョフはミシンに帰国を指示。ドイツで再生産されたスペアパーツをソビエトに送ると、新たにポドリプキのNII-88での再生産の準備を命じます。

1947年初め、ソビエトはドイツ領内にあったロケット技術に関するすべての機材・資材・資料等を引き上げ、ソビエト領内へ移送します。2月末、コロリョフは最後のソビエト側技術者として、ドイツを出国。ソビエトに多大な成果をもたらしたノルトハウゼン研究所は、ここに短い歴史に終止符を打つことになります。

翌年、ミッテルベルケは爆破処分とされます。忌まわしき記憶とともにミッテルバウ=ドーラは、ドイツ統合まで暫し眠りに就くこととなるのです。

 

ペーパークリップ作戦と対を成す、ソビエトのオソアヴィアヒム作戦。

たった6日間で、ドイツ人科学者・家族約6000名を移送。

1946年5月7日、NKVD安全保障政策の責任者イワン・セロフは、ロケット開発に従事するドイツ人が多過ぎることに対する懸念を抱いていました。勿論、これは技術継承という側面から見れば、大変重要な作業には違いありません。ただ、ドイツ人には多くの自由が与えられていたため、機密保持の観点から大きな懸念があったのです。それだけではありません。一連の試みが、解体したはずの軍事力の再建と見做され、米英から査察を要求される可能性があったのです。

そこで決定されたのが、ドイツ人の強制移送です。4月17日、ソビエト連邦大臣ソビエト連邦政令874-366号を発効。航空産業省に対し、1,400人のドイツ人技術者と3,500人のその家族をソビエトに移送する計画を、極秘裏に立案することを命じます。

1946年8月24日、在ドイツ行政機関(SVAG)の副司令官となっていたセロフは、ロケット技術を所管する最高幹部であるマレンコフに手紙を送り、ドイツ人移送の政府決定を求めます。その結果、ドイツ人の逃亡を封じるため、10月15~20日のたった6日間にソビエト占領地域で一斉に強制送還を行うことを決定。SVAG司令官ソロコフスキーは、兵員、鉄道施設、貨車、燃料、食料を準備を命じ、内務大臣クルグロフは移送列車の警備部隊を提供します。

オソアヴィアヒム作戦と名付けられたこの一大移送作戦は、家族を含めると総勢6,000~7,000名に達する大規模なものとなります。

ユダヤ人の如く、ソビエトへ移送されるドイツ人の哀れ。

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ロシア南部にある発射試験場カプースチン・ヤールで牽引される、ソビエト初の弾道ミサイル・R-1。R-1はV-2のデッドコピーであり、ソユーズロケットの始祖にあたる。Mil.ru, CC BY 4.0 , via Wikimedia Commons

 

1946年10月22日、その日は突然やってきました。数日前から多数の旅客列車が準備されており、早朝兵士を伴ったNKVD署員がドイツ人専門家の家を一斉に訪れます。それは、決して断ることの出来ぬ、拉致行為に他なりません。兵士らは、家具・家財道具を積み出し、駅へ輸送していきます。

ドイツ人にとって、その光景は強制収容所へ送られるユダヤ人の姿そのものでした。グレトルップの妻イルムガルトは、次のように回想しています。

「つい先日まで、私たちの実験ステーションの再建を、丁寧な笑顔で説得してくれた将校たちと同じではないか。彼らの笑顔は相変わらず友好的だった。私たちよりもはるかに広くてきれいなアパート、何の制約もない生活、素晴らしい国、素晴らしい都市、素晴らしい人々の中での生活など、いくつかの約束もしてくれた。彼らが約束できなかったのは、いつ自分の国を再び見るかということだけだった...。一瞬でも自由になりたくて、裏口から出ようとしたことがあった。不可能だった。」

ただ、ドイツ人の蛮行と違ったのは、ちゃんとカビていない食料が配給され、キッチンで調理された温かい食事が供されたことでした。

 

文責:スバルショップ三河安城和泉店 営業:余語

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