人類を宇宙へ。フォン・ブラウンとコロリョフの奇跡の生涯 その3 [2024年10月24日更新]
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漸く得た仕事は、2段式巡航ミサイル・ヘルメスII。
バンパー計画へ参加できなかった、フォン・ブラウン。
バンパー計画での打ち上げに向けて準備が進められる、V2ロケット。WACコーポラルが装着すべく、頭頂部が改造されている。ただ、この計画へのドイツ人の関与は限定的なものとなった。彼らは依然として、「危険な存在」だったからである。See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons
ただ、偉大なマイルストーンを達成したバンパー計画には、ペーネミュンデのメンバーの関与は許可されませんでした。彼らは、依然として「役に立つ情報提供者」に過ぎなかったからです。
フォートブリスに来て約1年を経ても、フォン・ブラウンはV-2を見守るだけの歯痒い日々を過ごしていました。提案は尽く退けられ、不遇の日々が続いたのです。しかし、如何なる瞬間でさえも、フォン・ブラウンは時間を無駄にすることはありませんでした。なぜなら、彼の脳内シミュレーションでは、月へロケットが飛んだのは遥か昔日のことで、今や周回軌道上には宇宙ステーションが泰然と遊弋し、月面基地建設の準備を粛々と進めていたのですから。もちろん、これは夢想などという楽観的なものではなく、概念設計に於ける重要なプロセスでした。
「ペーネミュンデでは我々は甘やかされていたが、ここでは小銭を数えていた。」現実は思うに任せないもの。フォン・ブラウンは、当時をこう述懐しています。ドイツに於けるフォン・ブラウンは、国家最高の研究機関ペーネミュンデの最高技術責任者でした。ところが、フォートブリスでは若干26歳の陸軍少佐ジム・ハミルの下に置かれる身分。自由はおろか、権限さえも不十分でした。
フォン・ブラウン、漸く初めての仕事を確保する。
フォン・ブラウンは、ペーネミュンデのメンバーのリーダーとして、その家族を養うだけの十分な仕事を是が非でも必要としていました。そして、遂に微かな光が差し込みます。フォン・ブラウンの元に漸くまともな「仕事」がやってくるのです。
弾道ミサイルの射程の延長は、絶対的かつ喫緊の課題でした。ミサイル部隊は、リスクの高い最前線ではなく、後方の安全圏内に配置されます。ところが、V-2ロケットの最大射程は300kmほど。敵根拠地を叩くには、1000km以上の射程は必須でした。
1946年4月、フォートブリス兵器研究開発部サブオフィスとゼネラル・エレクトリックの間で、有翼巡航ミサイル「ヘルメスB」に関する400万ドルの契約が締結されています。このプログラムがフォン・ブラウンの元に持ち込まれたのには、理由がありました。フォン・ブラウンは、ペーネミュンデ時代に有翼巡航ミサイルの設計案を既に具体化していたのです。
「A9」と呼ばれていた設計案は、既存のA4に有翼の2段目を追加、ラムジェット推進によって超音速で巡航。射程を2500kmまで延長するものでした。ラムジェットエンジンはエアブリードエンジンの一種で、超音速の空気の流れを亜音速に減速させ、動圧を静圧に変換。これにより圧縮した空気に燃料を噴射、連続燃焼によって推力を得るものです。
1段目にV-2、2段目はラムジェット推進。
ヘルメス計画は、秘密裏に実行されたプロジェクトであった。このヘルメスIIは、フォン・ブラウンのチームが戦後初めて関与したプログラムで、ペーネミュンデで計画された「A-9」に基づくものであった。 from White Sands Missile Range Museum
A9は低い軌道で発射され、ロケットエンジンで超音速へ加速。1段目を切り離した後に、ラムジェットエンジンに点火、2段目は超音速巡航へ移行し、敵地深くへ着弾させて打撃を与えます。これが、フォン・ブラウンが描いていた構想。ヘルメスBと呼ばれた設計案は、これを完全に踏襲するものでした。
ヘルメスBは、V-2観測ロケットにラムジェットエンジン推進の2段目を追加。5000lbsのペイロードを、最大速度2.6km/sまで加速させて、射程2400kmを得る計画でした。1段目は基本的にV-2ロケットのままながら、ペイロードを撤去。さらに、アルコールタンク頂部を凹ませて、2段目の尾部を収納するよう設計を変更。ペーネミュンデのメンバーがコメットと呼んでいた2段目は、全長5.44m、直径1.29m、全備重量2563kg。クサビ状の断面を持つ長方形(全幅5.44mm)の大きな主翼を一対装備し、この翼内にラムジェットエンジンを収納。ラムジェットエンジンの燃料は二硫化炭素で、最大搭載量は634kg。計画推力は13kN、最大燃焼時間は400秒を想定。操縦翼面は機首に設けられた小さなカナードで、ジャイロスコープによる非常に精巧な誘導装置により、突風、推力の非対称性、地球の自転の補償が可能でした。
真逆の南へ向い、メキシコ領内に突入するブリスゼロ。
ヘルメスIIと名称変更されたこのプログラムに従事したのは、フォン・ブラウン以下約40名のチーム。1945年12月10日にエンジン設計が開始され、1946年1月11日はバーンズ少将に設計案を提示。本格的な設計作業を開始します。本格的な試験の前段階として、「ブリスゼロ」と呼ばれるテストミサイルの発射を、1947年5月29日に行うこととします。
打ち上げ責任者はフォン・ブラウンの盟友、エルンスト・シュタインホフ。試験計画では、ブリスゼロはピッチ角7度でほぼ真北に飛行。ホワイトサンズ試験場を縦断し、落着予定地点は場内北辺に設定されました。5月29日午後、最初の発射実験を試みますが、V-2の推力が規定値まで上昇せず、発射試験は一旦中止。問題が修正されたため、その日の夜に再度発射が試みられます。
午後7時30分、ブリスゼロはホワイトサンズの夜空を轟音と閃光で震わせて、垂直上昇を開始。ところが、早くも問題発生。発射4秒後、作動するはずのピッチ制御プログラムが作動しません。中止コマンドを送信して試験を即刻中止すべきですが、シュタインホフはを決断を躊躇います。発射46秒後、燃焼終了を間近に控えたブリスゼロは、最大速度マッハ3、最大高度79kmに到達。すると、ここで最大の問題が発生します。計画とは逆に、南進を開始したのです。これではメキシコ領内に突入してしまいます。
ロズウェル事件は、ブリスゼロを隠蔽する偽装工作?
パスポートを持たないブリスゼロは、勇敢にも国境を越えてメキシコ上空を突進。エルパソ市街を縦断すると、76kmを飛行して、フアレス郊外の岩山に激突します。そこに残されたのは、直径9m、深さ7.6mの巨大クレーター。異常飛行の原因は、ジャイロスコープの故障に伴う誤誘導と結論付けられます。かのロズウェル事件が起きたのは、この年の7月のことでした。
ドイツ人がフォートブリスで「報復兵器V-2」の発射試験に従事しているという事実は、米国国民には決して知られてはならない極秘事項でした。何しろ、このV-2自体が英国、ロシアを欺いて奪取した曰く付きの鹵獲品なのです。当然、この事は英露政府中枢では把握していたでしょうが、大っぴらにニュースで報じられるような事があれば、国際問題に発展しかねません。
中でも、ゲームチェンジャーとなり得る超音速巡航ミサイル・ヘルメスIIの存在は、最高機密に相当しました。そのため、ラムジェットエンジンを筆頭に、その詳細は完全に秘匿されねばなりません。1947年5月29日に、メキシコの大地に突き刺さったのがV-2であることは、自ずと明らかになります。しかし、ブリスゼロ自体が痕跡を残さず完全に粉砕されたため、残骸からプログラムを推定するのが不可能となったのは、不幸中の幸いであったと言えるでしょう。
失敗に終わったヘルメスIIと優秀な慣性誘導装置。
ブリスゼロには、他にも目撃者がいました。煌々とした航跡を輝かせたブリスゼロを、多くの陸軍関係者が目撃していたのです。基地司令官ジョン・L・ホーマー少将は、エルパソの北西で小さな爆発を見たことを報告。ちょっとした騒ぎとなります。以後、ホワイトサンズの発射試験では、より厳格な射程の安全手順が設定されることとなります。
ヘルメスIIは、当初予定されていた7月31日と10月2日の発射試験は取りやめとなり、1949年1月3日、10月6日、1950年11月9日の計3回の発射を試みています。これら発射試験の詳細は不明ですが、十分な成果を得ることはなかったようです。巨大な主翼は、ラムジェットエンジンのインテークダクト内の圧力測定を目的としたダミーとされ、発射試験でエンジン点火が試みられることもありませんでした。また、3回に渡ってヘルメスIIに関連する発射試験が実施されています。これは、円筒形のGE製ラムジェットダクトの実大レプリカを搭載したものでした。
結果的には、失敗に終わったヘルメスII。皮肉なことに、その最大の成果は誘導装置でした。「フォートブリスのメンバー」が完成させた、優秀な慣性誘導ジャイロスコーププラットフォームは、後にサターンVに搭載され、人類を月に導くことになるのです。
フォン・ブラウン、新天地レッドストーンへ。
家族の米国への招聘と、フォン・ブラウンの結婚。
1947年2月、一時帰国が許されたフォン・ブラウンは、妻帯者となって戻ってきた。フォン・ブラウンはここ米国で過程を築き、米国人として世界に貢献していくことになる。 US Army.Wikifreund at de.wikipedia, Public domain, via Wikimedia Commons
ドイツ人技術者は1949年以降、V-2ロケットの発射には携わっていません。その理由は、2つ存在します。ひとつは、ペーパークリップ作戦の戦利品たるドイツ人技術者を、正式に米国移民として受け入れたこと。もうひとつは、彼らがフォートブリスを既に離れていたこと。元ペーネミュンデの技術者たちは、新天地レッドストーンで新たなプログラムに向けて作業を開始していたのです。
1946年12月8日は、彼らにとって忘れ難い喜びの一日となります。ドイツのキャンプ・オーバーキャストで集団生活を強いられていた彼らの家族を、米国に招聘することで決定。その第一陣が、フォートブリスに到着したのです。翌年には、家族全員が米国に到着。彼らの士気は大いに高まります。
1947年2月末、フォートブリスで事件が起こります。突如、フォン・ブラウンが行方知れずとなったのです。ただ、その理由はすぐに皆が知ることになります。数日後、フォン・ブラウンうら若き女性を伴って、満面の笑みと共に戻ってきたからです。フォン・ブラウンの愛妻マリアは、母方のいとこ。新郎35歳、新婦18歳という組み合わせでした。戦火と混乱の中で生き分けれになった家族と念願の再開を果たした、ペーネミュンデのメンバー。灼熱の砂漠の大地で、新たに人生を再スタートさせることになるのです。
一旦メキシコへ渡り、米国に戻り、正式移民となる。
ところが、依然として彼らは囚われの身。行動は常に監視されており、事実上の軟禁状態に置かれたままでした。ただ、自由と人権を重んじる自由主義経済の盟主であるならば、ドイツ人をいつまでも「Prisoner of Peace」に軟禁しておく訳にはいきません。1947年、米国の大地を踏んだドイツ人の子供たち。まず、彼らの公立学校への通学が許可されるようになります。次いで、大人たちの自動車免許取得を許可。イエローストーン国立公園やコロラド、カルフォルニアなど、様々な土地への旅行が彼らの新たな楽しみとなります。彼らを束縛していた人権に関する制限は、徐々に緩和されつつありました。
そして、1948年初め、陸軍は彼らに米国市民権を与えるべく、準備を開始します。そもそも、ペーネミュンデのメンバーは、正式な入国手続を経ていません。つまり、彼らはずっと不法入国者だったのです。そこで、1949年の暮れから、正式に市民権を得るための作業が開始されます。彼らは、順番がやって来ると、エルパソとフアレスを隔てるリオ・グランデ橋を渡って、メキシコへ入ります。そこで、米国領事館へ出向き、移民のビザを得ると、踵を返して再び橋を渡ります。そうして、検問所で移民としての正式な入国手続を行うのです。1950年春までに、この儀式を完了。ペーネミュンデのメンバーは、晴れて「移民」となったのです。
後に、レッドストーンへと結実するヘルメスC1。
1961年5月5日、マーキュリー・レッドストーン打ち上げ。米海軍のテストパイロットだったアラン・シェパードは、米国人初、世界で2人目の宇宙飛行士となる。NASA, Public domain, via Wikimedia Commons
ヘルメス計画に於いて、V-2観測ロケットは67発が打ち上げられています。しかし、その大半は失敗でした。そもそも、ミッテルヴェルケから移送された部品で完全に組み立てられたのは、たった2基に過ぎず、その部品の多くは修理・オーバーホールを必要とした他、ジャイロを中心に新たに生産すべき部品もありました。V-2観測ロケットは、900kgという当時としては別格のペイロードを誇る唯一無二の存在でした。しかし、研究開発目的とは言え、その信頼性は憂慮すべきレベルに達しており、これに代わる高い信頼性を持つ新型ロケットの開発は必須でした。
ヘルメス計画には、ヘルメスC1と呼ばれる長距離弾道ミサイル開発計画が存在していました。当初は、1段目に合計出力267Nを発生する2基×3組のクラスターロケット、2段目に最大1分間燃焼可能な出力44kNのロケットエンジンを搭載し、目標へ到達する3段目は450kgのペイロードを搭載可能とする、総重量113tの3段式ロケットを想定していました。後に、レッドストーンとして結実することになる短距離弾道ミサイル開発計画は、フォン・ブラウンが夢を実現する第一歩となります。フォン・ブラウンは、漸く宇宙へ向けて前進を始めようとしていました。
コロリョフの初仕事。ソビエトのお家芸・デッドコピー。
NII-88第3部の主任設計者に任じられた、コロリョフ。
パイプを咥え、執務に望むスターリン。レーニン亡き後、スターリンは絶対的権力を確立。ソビエトを、米国と並ぶ超大国へと押し上げていく。 [1] [2], Public domain, via Wikimedia Commons
一方、NII-88第3部の主任設計者に任じられ、漸く安泰の地位を得たセルゲイ・コロリョフ。ただ、事はそう簡単ではありません。ソビエトでは、何から何までー自らの命でさえもースターリンの胸三寸なのですから。反論は死を意味し、異論は破滅を意味します。それでも、心に深く刻んだ決心をコロリョフは揺がせにすることはありませんでした。
1946年5月13日、スターリン直々の署名によって設立された、NII-88。その本拠が置かれたのが、カリーニングラード(現在地名とは異なる)。ボリシェビキの革命家ミハイル・カリーニンに因んだこの街は、その昔ポドリプキと呼ばれた別荘地で、1928年に大砲工場が建設されると、そこで働く労働者の集落が発展して街を形成したものです。
ロシアでは、時々刻々と都市名が変化します。それは、政治に翻弄され続けるロシア民衆の悲しき歴史の縮図。ロシア第二の都市サンクトペテルブルク。聖ペテロの街を意味するその名は、ピョートル1世に因んだもの。1914年、第一次大戦に際してドイツ語読みの地名は、ロシア語読みのペトログラードに変更されます。1924年、ソビエト建国の父ウラジミール・レーニンに因み、レニングラードに再改称。時代は下って、1991年ソビエト崩壊。住民投票によって、その名は再びサンクトペテルブルクに復され、現在に至ります。都市名の流転は、歴史と運命の流転でもあります。
コロリョフに課せられたのは、V-2ロケットの複製。
NII-88は、3つのセクションで構成されます。第1部は、実験工場。第2部は、材料、航空力学、燃料、エンジン、燃焼、制御、テレメトリなど各種専門分野の研究セクション。そして、コロリョフ率いる第3部が、各種ミサイルの設計を司る特別設計局でした。NII-88に課せられたのは、それはV-2ロケットのレプリカを生産すること。それは、スターリン直々の命でした。
スターリンがデッドコピーを厳命した背景には、Tu-4の成功体験がありました。Tu-4は、ソビエト初の長距離侵攻重爆撃機であり、初の核爆撃機としてソビエトの安全保証に多大な貢献を果たします。ところが、このTu-4、実はB-29の完全なレプリカです。
第二次大戦下、戦略爆撃機B-29の圧倒的な戦果を聞き及んだスターリンは、レンドリース法に基づいた供与を再三再四要求します。これに対し、米国は戦略兵器の機密漏洩を理由に要請を拒絶。1944年8月20日、中華民国国内へ展開した第20軍のB-29は、八幡製鉄所に対する3度目の爆撃を敢行しますが、61機出撃したB-29のうち14機を喪失。そのうちの1機が、シベリア・ハバロフスクに不時着し、搭乗員1名がソビエトによって抑留されます。米国政府は、同盟国のソビエトによる敵対的行為を激しく非難。イラン国境で搭乗員の身柄を引き渡したものの、その代償として機体はそのままソビエトが接収しまうのです。
私たちは、あなたに厳しい制限を課します。。。
1945年、グアム島で発進に備えるB-29群。日本人にとって忌まわしきB-29は3,970機が生産され、対日攻撃に圧倒的な力を発揮。また、最大9tにも達するペイロードは、4.4tにも達する原子爆弾の搭載を可能にした。 United States Air Force, Public domain, via Wikimedia Commons
スターリンはパイプを吸いつつ、書斎をゆったり散歩していました。全員が席に着いて尚、数分間歩き続けた後、静かに尋ねます。
「ツポレフ同志、アメリカのB-29をよくご存じですか?」
「はい、同志スターリン」立ち上がって応じたツポレフに対し、スターリンは座るようジェスチャーで促し、再度尋ねます。
「それで、どうですか、よい機体だと思いますか?」
「はい、同志スターリン。速度600km/h、最高高度12,000m。その高度では対空砲火は効果がなく、大量の防御火器によって機体周囲に弾幕を張ることが可能です。ですから、B-29は空飛ぶ要塞と呼ばれます。そして、最大6トンという非常に大きな爆弾を搭載することができます。」
スターリンは、長いテーブルを歩きながら、考え込むように繰り返した。そして、振り向いた。
「だから、同志たちよ、同じ特性の航空機が必要なのだ。そして、私たちはあなたにそれを依頼したいのです。やりますか?」
「はい、同志スターリン。」
「私たちは、あなたに厳しい期限を課します。1947年の中頃には、最初の飛行機が完成し、航空パレードに参加することが望ましい。そして、認可の問題については、同志の諸君、諸君が必要な製品を各省に直接注文する権利を持つような政令の草案を作成することです。十分な権限が与えられます。これで宜しいですか?」
修理跡も製造ミスも再現したTu-4に見る、ソビエトの狂気。
ソビエトがB-29をデッドコピーして誕生した、初の戦略爆撃機Tu-4。スパイからの情報を得て、核戦力を手にしたソビエト。真っ先に欲したのは、核戦力の投射手段であった。スターリンは、常に結果だけを求める。それ故、手段、プロセス、動機は問わない。実利的なこの手法は、宇宙開発で米国に先んじる上で、大きな効果を発揮することになる。 Public domain, via Wikimedia Commons
スターリンは接収した機体(42-6365)を「完全にコピー」することを命じます。これは、リバースエンジニアリングと呼ばれる手法で、部品1個に至るまで徹底的に分解し、全部品を完全に計測・調査・解析し、図面を作成。これを再生産し、1機丸ごとコピーするというもの。B-29ほどの巨大機となれば、部品の数は数千数万に達します。しかも、ヤード・ポンド法を用いる米国に対して、ロシアはメートル法。これを全て換算せねばなりません。最大の問題となったのが、外板パネルでした。米国規格の板厚の薄板を用意するのは、現実不可能。誰しもが、B-29を「参考」に別の機体を開発する方が、ラクだと思うはずです。しかし、スターリンの命令は絶対でした。ソビエトの科学者たちは私見を捨てて、徹底的かつ厳密なコピーを試みます。アンドレイ・ツポレフ以下、900の工場・研究機関の関与により、約1年で設計作業が完了。105,000もの図面が作成されます。
一説には、被弾した穴とそれを塞ぐパッチまでコピーしたとか、製造時のミスで開けられた小さなドリル穴まで再現したとか、ソビエトでは禁じられていた灰皿のカップホルダーを再現したとか、様々な逸話が残されています。また、米国の国籍マークを忠実に再現すべきか、赤星にすべきか判断に迷ったため、NKVD長官でスターリンの腹心、ベリヤに判断を仰いだとも言われています。
想像だにせぬ完コピで、西側はパニックに陥る。
勿論、誰も冗談半分にそんな事をしたのではありません。ツポレフ自身、反国家活動容疑で逮捕された経験がありましたし、弟子コロリョフの無実を訴え、強制労働から開放した経験もありました。スターリンの恐ろしさは、誰よりも身に沁みて知っていたことでしょう。偶然か、天命か。弟子コロリョフが、師ツポレフと全く同じ目に遭うのですから、運命とは皮肉なものです。
部品そのものではなく、研究・開発・設計・生産・材料に至るまで、ありとあらゆる「コピー」をたった2年で実現するという、ツポレフらの決死の努力は、見事結実の時を迎えます。1947年5月19日、Tu-4は見事に初飛行に成功したのです。直ちに量産が命じられ、1949年には大規模生産が開始されます。そして、ツポレフがスターリン同志に誓った通り、1947年8月3日に大々的に催されたツシノ航空ショーにて、Tu-4は大々的にその勇姿を示します。1機、2機、3機、、、この時点では西側のウォッチャーは冷静でした。なぜなら、3機のB-29がソビエトの手に落ちたことを知っていたからです。しかし、4機目のTu-4が現れた時、西側はパニックに陥ります。ソビエトがB-29のデッドコピーに本当に成功するとは、誰も信じていなかったからです。
Tu-4は、1951年10月18日にソビエト初の原子爆弾投下実験に参加。核爆撃機として、西側を恐怖に陥れることになります。
オソアヴィアヒム作戦により、ドイツ人技術者を移送。
NII-88のコロリョフと、NII-456のグルシュコ。
コロリョフが、ドイツに来て早1年。ただひたすらにスターリン同志に忠実に、「完全なV-2ロケット」捜索に汗を流してきました。結果的にそれは見付からず、全ては徒労に終わります。しかし、努力の甲斐あってか、状況は徐々に好転を始めるのです。
1946年8月9日、軍需工業人民委員ドミトリー・ウスチノフによって、コロリョフはNII-88の処女作(つまり、V-2のレプリカ)の設計主任に任じられます。ただ、忌まわしきライバル、ヴァレンティン・グルシュコも順調にステップアップを遂げていた事は、コロリョフにとって好まざることでした。グルシュコは、ロケットエンジン実験設計局NII-456の責任者に任じられていたのです。二人は、互いに憎悪を募らせつつ、ソビエトの宇宙開発を共に牽引していくことになります。
設計主任に任じられたコロリョフですが、その元に寄せられる相談は、技術的なものより生活面に関するものが多く、それはずっと深刻でした。当時、ソビエトは第二次大戦による多大な犠牲と、スターリンによる大粛清の影響により、極端な物資不足に見舞われていました。工場には机さえなく、雨漏りも酷く、冬は外よりも寒い有様でした。また、配給は微々たるもので、医療品の不足も深刻でした。コロリョフは毎週木曜日を相談日とし、労を厭わず、困窮する部下の世話に奔走します。
グロドミリャ島に幽閉されたドイツ人科学者たち。
1946年10月22日、オソアヴィアヒム作戦が発動。2,200名ものドイツ人技術者とその家族、総勢約7,000名は、NKVDに突如身柄を拘束されます。それは、V-2ロケットに関する研究・調査がドイツ人によってドイツで行われることを、クレムリンが懸念したことに端を発します。ドイツ人はソビエト領内に強制送致され、囚われの身となります。非人道的な扱いを考えれば、ソビエト国内での待遇は随分恵まれたものでした。ドイツ人技術者には立派な住居をあてがわれただけでなく、ソビエト人技術者の2〜3倍の給与が支払われ、食料も十分に配給されたからです。それは、赤貧に耐えるソビエトの人々に対して申し訳なくなるほどの待遇でした。
ヘルムート・グレトルップら170名のドイツ人科学者は、セリゲル湖に浮かぶグロドミリャ島に収容されます。外界から隔絶された島は、強制連行したドイツ人を働かせるには格好の場所。1946年末までに、ここにNII-88の支所が開設されます。施設の周囲は鉄条網で囲われており、常に女性兵士によって警護されていました。
ドイツで鹵獲及び再生産したV-2の部品を次々にポドリプキに運び込む一方で、ドイツ人の支援の下でV-2再生産の準備が進められていきます。ソビエトは、V-2の遺産を独占した米国を尻目に、凄まじいスピードで計画を進めていくのです。
ノルトハウゼンからの移送品は、半分以上が欠損。
ドイツ人をグロドミリャ島に幽閉したのは、ポドリプキのプロジェクトから彼らを隔離することが理由の一つでした。ドイツ人はソビエトにとって仇敵であり、忌むべき憎悪の対象。その彼らに自らの命運を託す兵器開発の主導権を与えることは、決してあり得ません。端から、クレムリンはドイツ人を計画に深く関与させるつもりはなく、彼らを単なる情報源としてのみ考えていたのです。
1946年前半、ドイツに開設されたノルトハウゼン研究所。コロリョフらはドイツ人と共に、図面も資料もない中、血の滲むような努力の末に、約30基分のV-2ロケットの部品の再生産に漕ぎ着けます。ところが、それら辛苦の結晶をポドリプキに運び込んでみると、幾つかの部品が不足していることが判明します。そればかりか、せっかくの生産設備は致命的な損傷を受けており、資料・図面も欠損していました。結局、最終的に組み上げることが出来たのは、たった半分に過ぎなかったのです。
この状況こそ、ソビエトの限界を示しています。ノルトハウゼンで準備され、列車で運び込まれた折角の生産設備は、屋根付きの保管設備が不足していたという理由で、誰の許可もないまま雪中に降ろされ、そのまま野ざらしにされていたのです。また、貴重な資料や図面が不足していたのは、競合する省庁によって「横取り」されたのが理由でした。
ソビエト製V-2の発射試験に成功するソビエト。
V-2発射まで、残された時間はたった6ヶ月。
人々を恐怖のどん底に陥れた、スターリン。しかし、グレトルップは勇敢でした。1947年4月末、スターリン政権下で史上唯一と言われるストライキを決行します。その結果は、恐るべきもの。何と、ソビエト当局は要求に応じ、待遇改善と昇給に応じたのです。ただ、当局はグレトルップが協力に応じない場合、ウラル地域に引っ越さねばならない、と警告することも忘れていませんでした。
一方、設立されたばかりのNII-88は、依然混乱の渦中にありました。にも関わらず、赤軍砲兵司令官ニコライ・ヴォロノフは1947年3月13日、高らかに宣言します。
「現在、ドイツにはドイツの部品で組み立てたV-2ミサイルが30基あり、発射できる状態になっている。ジェット技術における若い人材のこの分野の訓練と知識を試し、生産を組織し、我々の条件下でこの技術のさらなる開発を加速するために、V-2の発射が早急に必要である。」
7月26日、ソビエト閣僚会議によって、1947年9月〜10月の間にV-2ミサイルの実験的発射の実施を行うことが命じられます。これに先立つ6月3日、ソビエト閣僚会議とボリシェビキ全連邦共産党中央委員会は、カプースチン・ヤールを新しいミサイル発射場に指定。8月20日には、カプースチン・ヤールに技術者たちが第一歩を記します。
恐ろしい速度で進展するソビエトのロケット開発。
カプースチン・ヤールは、ヴォルガ川下流の都市ボルゴグラード(当時、スターリングラード)の東方約100km。何もない荒野一帯が試験場に指定されていました。準備は急ピッチで進められ、発射実験が予定される10月までに、コンクリート製テストベンチ、バンカー、そして発射台、組立棟を相次いで建設。さらには、ロケット搬入を目的に、スターリングラードと結ぶ鉄道線と高速道路が建設されました。当然ながら住居その他は後回しで、発射試験に立ち会う技術者らは、寒風吹きすさぶ大地をバラックで耐え忍ばねばなりませんでした。10月1日、発射試験準備が完了したことが報告されます。
NII-88設立から、たった14ヶ月。試験計画承認から、たった2ヶ月。ソビエトの弾道ミサイル開発計画は、恐ろしい速度で進展していました。スターリンの命令は絶対です。目標を達成できなければ、そこに待つのは、明確に「死」でした。使命感も、達成感も、誠実さも不要なのです。計画を支配していたのは、一人ひとりの生存への欲求に違いありません。
1947年10月17日、V-2ロケットの燃焼試験が実施されます。燃料補給にトラブルがあったものの、計画は順調に進行。すっかり夜の帳が降りた21時、翌日の発射実験を見据えて、発射場へ向けて新たに1基のV-2(010T)が引き出されていきます。
コロリョフの夢が、今第一歩を踏み出す。
1947年10月18日は、ソビエト宇宙開発が産声を挙げた瞬間として、永遠に記録されるでしょう。10時47分、カプースチン・ヤールの大地に轟音を轟かせた010Tは、まばゆい閃光と共に天高く空を突き抜けていきます。この時、コロリョフの胸中に去来するものは、何だったのでしょう。今、自らの掌中に宇宙空間へ達するロケットがある。夢にまで見た瞬間が、遂に訪れたのです。
010Tは、予定された飛行経路を大きく反れたものの、遠く207kmを飛行。大気圏再突入時に機体が崩壊し、着弾地点は目標範囲から30kmずれていたものの、試験は概ね所定の成果を収めたと評価されます。
以降、打ち上げ試験は矢継ぎ早に実施されていきます。10月20日、04T打ち上げ。飛行は順調だったものの、着弾地点を大きく逸脱。10月23日、08T打ち上げ。これは弾頭の故障が原因で失敗。そして、今時計画で最大の成功となる、4回目が10月28日に実施されます。03Tは、見事目標地点から4kmの場所に着弾。試験は当初目標を達成し、成功に漕ぎ着けます。実験成功の一報を耳にしたウスチノフは、すべてのドイツ人技術者に15,000ルーブルという大したボーナスと、上等なウォッカを贈呈することを命じます。実験を見守るコロリョフは満面の笑みを湛えて、これを歓迎したと伝えられています。
常に結果に忠実だった、スターリンの指示。
恐るるべきは、その打ち上げペースです。11月13日までに打ち上げられた19Nに至るまで、たった26日間のうちに、11基ものV-2が発射されているのです。加えて、ヘルメス計画に比すれば、概してその成功率は高く、11回中7回の打ち上げに成功しています。機体番号に「T」が付与されたものはポドリプキ製、「N」が付与されたものはノルトハウゼン製を示しており、01T、03T、04T、06T、08T、010Tの6基と、14N、19N、21N、22N、30Nの5基が、それぞれ発射試験に供されています。
この頃、ライバルたる米国はミッテルヴェルケで独占したV-2の発射を繰り替えてしました。これに対し、ソビエトはV-2を1基たりとも丸ごと鹵獲することは叶わず、不本意にも再生産を迫られます。ところが、怪我の功名あって、ソビエトはロケットの生産能力をいち早く実現できたのです。コロリョフは、机上で温めてきた構想を実現すべく、期待に胸高鳴らせていたことでしょう。
ところが、スターリンの指示は、コロリョフの期待を裏切るものでした。Tu-4同様に、レプリカの生産及び戦力化を命じたのです。スターリンの指示は、常に結果に忠実でした。目的は弾道ミサイルを早期に戦力化すること。ソビエト製のロケットを開発することではないのです。ただ、このアプローチこそが、宇宙へいち早く到達せしめることになるのです。
V-2から、デッドコピーR-1、オリジナルのR-2へ。
R-1、R-2、R-3を全て平行開発するソビエトの狂気。
R-1と命名された、ソビエトの処女作。それは、コロリョフの手によるV-2の完全なレプリカでした。R-1は、基本的な設計は古典的なV-2そのままでしたが、エンジンを新たに準備する必要がありました。1948年4月14日、政令「R1およびR2ミサイルの製造、R-3の設計に関する法令」が発行。グルシュコ及びOKB-456に対し、V-2用エンジンのレプリカ・RD-100の開発が命じられます。
政令でも分かる通り、コロリョフはR-1に並行してR-2の開発を進めており、既にR-3の設計にも着手していました。R-3の設計目標は、射程3,000km・ペイロード3,000kg。1949年8月29日のソビエト初の核実験より1年半も前に、世界初となる核弾頭搭載の大陸間弾道ミサイルとして設計が進められていたのです。ソビエトが強力に推進した弾道ミサイル開発は、後にスプートニク・ショックとして米国を震撼させ、ミサイル・ギャップ論争で多大な財政負担を強いることになります。
コロリョフは、弾道ミサイルの自力開発に十分な確信があり、R-1というプロセスは無駄に思えていました。ある時、プライベートなブリーフィングで、コロリョフはスターリンにR-1の是非について直接尋ねています。その時の答えは、スターリンらしく明確でした。「あくまでも、R-1を完了させねばならない。」コロリョフは疑問を挟んだ事を、心底恐怖したことでしょう。
7回中2回の成功で、計画成功と判断されたR-1。
1948年9月11日、R-1の静的燃焼試験が実施されます。そして、9月17日。初の「ソビエト製」弾道ミサイルR-1は、初打ち上げの日を迎えます。ところが、カプースチン・ヤールから打ち上げられたR-1は目標地点から258.2km反れた、つまり、たった11.8kmしか飛ばなかったため、実験は失敗と判断されます。
10月10日、2回目に打ち上げられたR-1が、20×20kmの正方形に指定された目標領域への着弾に成功。その後、7回の打ち上げ試験が実施され、全てのの飛行が正常に行われます。ただ、目標領域への着弾に成功したのは2回目の実験のみ。ところが、R-1は所定の目的を達し、計画は成功を収めたと評価されます。
先の4月14日の政令により、実験の成功以前にR-1の生産着手は既に決定事項でした。ただ、発射試験に供されたR-1は、すべてポドリプキのNII-88で生産されたもの。NII-88はあくまで研究施設ですから、実戦配備を実現するには、大量生産が可能な工場施設に生産を割り当てる必要があります。ところが、その決定はベリヤによって引き延ばされ、1951年6月1日になって漸くSKB-586が生産工場に指定されます。そのため、初期のR-1には多くのNII-88製の部品が含まれることになります。
壮大な目標に溺れる米国と、常に現実的なソビエト。
V-2そのままのR-1は、発射準備に20台の支援車両が必要で、エチルアルコール、液体酸素、過酸化水素の供給を含め、その準備が整うには6時間もの膨大な時間が必要でした。さらに、燃料を満たした状態を維持するのは、15分が限界でした。
これ加えて、大きな問題となると考えられたのが、エチルアルコールの備蓄でした。ロシアでは砲兵部隊が燃料で勝手に酒宴を開くため、エチルアルコールの備蓄が困難になると考えられたのです。実際、1970年以降に実戦配備されたマッハ3の迎撃戦闘機MiG-25では、冷却用にエタノール300Lを搭載していたものの、整備長が退屈凌ぎに飲んでいたため、水とすり替えていた事実が明らかになっています。本来、軍備品の私的利用は軍法会議案件。今も昔も、ロシア人の気質と言うべきでしょう。
さて、R-1の実験は、純粋に弾道ミサイルとして実施されています。その成否はすべて、命中精度を以て評価されました。戦域弾道ミサイルにとって重要なのは、ミッション成功率と命中率。次世代ロケットに関する科学的知見や高層大気のデータではありません。壮大な目標を描く米国と異なり、ソビエトは常に現実的なのです。あれやこれやと着手して、片っ端からペーパープランに終わったヘルメス計画とは、実に対照的です。この差は、後の宇宙開発競争に於いて、大いに意味を持つことになります。
コロリョフの前に立ちはだかる、グレトルップの壁。
R-1に並行して開発に着手していたR-2は、2倍の射程を実現するとともに、放射性弾頭(汚い爆弾)の搭載を想定していました。R-2を実現するカギとなったのが、グルシュコが開発を進めたRD-101でした。グルシュコは、それまでの75%アルコールではなく、96%アルコールを用いることで、RD-100の推力を30%増強。1948年から翌年にかけて実施された試験で、37tの推力を得ることに成功していました。コロリョフは、R-1の設計を維持しつつ、推力増強で目標を達成しようとしていました。
1947年5月22日、グレトルップらドイツ人234名に対し、射程600kmの弾道ミサイルG-1の設計任務を付与しています。クレムリンは、コロリョフのチームをドイツ人と競わせることで、より高い成長曲線を実現しようとしていました。
ドイツ人がまとめ上げたG-1の設計案は、コロリョフを窮地に陥れることになります。幾つかの点で明らかにR-2より優れていたからです。推進剤タンクを機体構造と一体化、機体全体をジュラルミン合金製とすることで、構造重量は3.17tから1.87tまで軽量化。弾頭は別体化されており、本体と分離が可能でした。さらに、命中精度を向上させるため、無線制御による燃焼終了が可能でした。これにより、R-2の最大射程270kmを大きく上回る最大射程600kmを実現。さらに、命中精度も劇的に改善されるはずでした。
R-2=G-1? グレトルップに完敗したコロリョフ。
国家委員会は、1948年12月の設計評価でG-1が優れた設計であることを確認します。この意思決定に脅威を感じたコロリョフは、いち早くロビー活動を開始。コロリョフは、G-1の生産には高度な製造技術が必要なため、時期尚早だと説いて回ります。加えて、R-2にG-1の設計上の優位点を追加することで、失地回復を図ったのです。幸いこれが認められ、R-2の生産が決議され、コロリョフは漸く首を繋ぐことができたのです。ただ、この判断はドイツ人にとって驚くべきものでした。旧式の設計そのままのR-2に、先進的かつ将来の発展性まで考慮されたG-1が負けたのですから。ただ、全ては折込済みのこと。設計のチャンスを与えられたドイツ人は、想定どおりに優れた設計を完成させ、それをロシア人が有り難く頂戴した、という訳です。
改設計を終えたR-2は結局、ほぼG-1でした。推進剤タンクをアルミ合金製機体構造と一体化した応力外皮構造を導入することで、大幅な軽量化を達成。さらに、弾頭は別体化され、燃焼終了時に切り離す設計を採用。また、G-1で提案された無線制御による燃焼終了を実現。さらに、R-1から流用された制御装置に加え、ジャイロスコープが苦手とする平行移動を伴う起動の乱れを修正する無線誘導補正装置が加えられていました。これにより、射程が倍になったにも関わらず、R-1同等の命中精度が確保されました。
米国に先んじて、射程600kmを実現したR-2。
一方、グルシュコの手によるRD-101は、優れた技術水準に達していました。RD-100に比して30%近く軽量化。さらに、ターボポンプの高回転化と92%エチルアルコール化により、チャンバー内圧力を高めることで、推力364.9kNを達成。これにより、射程600kmを実現していたのです。
R-2の発射試験は、カプースチン・ヤールで1949年9月に開始され、6回中2回の試験で成功と認められます。その後、1951年7月にかけて、計30発が発射され、24発が成功。続いて、1952年までの試験が継続され、14回中12回で成功するに至ります。試験結果を受けて、1951年11月27日には早くもR-2は正式配備が決定。11月30日、ウスチノフが大規模生産を命じます。
1953年には、放射性物質で満たされた弾頭がテストされています。これは、放射性の液体を爆発によって噴霧することで、放射性の雨を降らせるという危険なものでした。1957年12月6日には、ソビエトと中国の軍事技術協力の一環として、2基のR-2が生産ライセンスに必要となる生産ライセンスと完全な資料と共に引き渡されています。このR-2は、後に短距離弾道ミサイル・東風1として少数が実戦配備に就くこととなります。
ダシに過ぎなかった、幽閉されたドイツ人技術者たち。
グレトルップが生み出す、新たな設計案G-2。
実機での研究は許されず、狭いグロドミリャ島での研究のみが許されていた、グレトルップらドイツ人のチーム。彼らは不遇にめげることなく、果敢にG-2の設計に着手します。当然、G-2もまたペーパープランに終わることになるのですが、その設計は後のR-7及びソユーズの技術的原点となる重要な技術的可能性を含んだものとなります。このG-2にはR-6という秘密開発コードと、R-12という表向きの呼称が付与されます。グレトルップらは、10種類以上の設計案を展開。それらは、すべて技術的解決策を検討すべく、詳細に研究されました。
世界初の中距離弾道ミサイルを目指したG-2は、極めて高度な設計目標を掲げていました。ペイロードは1,000kgで、2段式ロケットと着脱式弾頭により、2,500kmの射程を実現しようとしていたのです。設計案の一つ、R-12Aでは、1段目はG-1用エンジン3基をクラスターとして、推力1,000kNを確保。V-2のようなフィンではなく、ジンバルによって方向安定性を確保。2段目にも同型エンジン1基を採用することで、エンジンの共通化を図っていました。機体は、速度及び重心位置に関係なく、優れた空力的安定を与える円錐型を採用。また、後部推進剤タンクと前部酸化剤タンクは隔壁を共用する設計とし、更なる軽量化が進められていました。
クレムリンに忠誠を誓うグレトルップのG-4。
1949年4月9日、ウスチノフは自らグロドミリャ島を訪問。グレトルップらに新たな計画G-4(R-14)が与えます。それは、ソビエト初の原子爆弾を西ヨーロッパに送り届ける運搬手段となる、射程3,000km、弾頭重量3,000kgを実現する中距離弾道ミサイルでした。グレトルップらは、多段式やクラスターなど様々なプランを検討した後、速やかに1段式のスリムな円筒形胴体を持つ設計案をまとめます。G-4は単段式ロケットで、円筒形胴体を有していました。液体酸素タンクは前方に配置され、先端には直径1.4mの弾頭(再突入体)が搭載されます。この弾頭には、迎撃の可能性を減じるため、高速で落下する鋭い形状が採用されていました。円筒形胴体と鋭い再突入体は、以後ソビエト製ロケットの伝統として引き継がれていくことになります。
グルシュコはドイツ人のエンジン開発に協力し、新たに高圧円筒形燃焼室を採用する試作エンジンED-140を開発します。推力62kN・燃焼室圧力6MPaを実現するサブスケール試験機が製作され、1949年夏から翌年4月にかけて燃焼試験が実施されます。
グレトルップは、クレムリンが自分たちを必要としていると信じて疑いませんでした。ただ、ドイツ人には全く同じ計画がコロリョフにも与えられていることは知らされていませんでした。クレムリンにとって、ドイツ人は所詮「ダシ」に過ぎなかったのです。
急速に悪化するグレトルップ島のドイツ人の待遇。
幸いなことに、ドイツ人に対する処遇は好ましいままに終わります。それは、大粛清が続くスターリン政権下では奇跡的な事実として記録されるでしょう。大粛清では、共産主義を学ぶべくソビエトに渡った外国人学生までもが、その犠牲となっているのですから。
1950年4月、ポドリプキでの会議の招待状は、G-4を検討すべく招集されたにも関わらず、グレトルップの元に届きませんでした。彼らの処遇は急速に悪化の兆しを見せ始め、この年の後半には食糧事情が悪化。グロドミリャ島には、次々にロシア人技術者が送り込まれてきます。全てを理解したグレトルップは、自分を「歩く辞書」に例えて、屈辱に耐えるしかありませんでした。
既にこの時、ウスチノフはグロドミリャ島での研究作業の中止を決定していました。8月13日には、ドイツ人技術者の雇用に関する政令を発行し、彼らの本国送還に関して法的条件を整えます。
1950年までにG-4計画の終了が、ドイツ人に伝えられます。士気は一気に低下し、状況は絶望的でした。NII-88はドイツ人に幾つか研究テーマを与えますが、それは既に補完的な作業に過ぎませんでした。グレトルップが人知れず描いていた、G-4なら人工衛星を実現できるとの夢は、完全に潰えたのです。失望がグレトルップを蝕み、深酒が病を呼び込みます。
役立たずに終わったグロドミリャ島のドイツ人たち。
1950年12月、長期保管が難しい液体酸素の代替品の研究を命じられます。強力な酸化剤であり、人体に高度な危険性を有する硝酸は、代替案の一つでした。ところが、健康被害を憂慮したグレトルップは、硝酸に関する研究への協力を拒否します。多くのドイツ人技術者もグレトルップに同意したものの、共産党に恭順の意を示したヨハネス・ヨッホら5名はモスクワに召喚されていきました。
この頃になると、最早ドイツ人はその立場を失っていました。ただ、彼らは幸運でした。クレムリンは彼らをウラル地方ではなく、東ドイツへ送還することを決定したからです。1951年6月3日、20人のドイツ人が東ドイツへ向け出発。翌年6月15日、幹部技術者20人を除くドイツ人に対し、5日以内にソビエトを離れるよう通告します。最後まで残ったグレトルップは、1953年11月28日に囚われの地を離れ、久方ぶりに祖国の土を踏むことになります。
グレトルップらドイツ人の研究が、ソビエトのロケット開発に多大な貢献を果たしたことは、広く知られていません。それは、ソビエトが意図的に事実を隠蔽したからです。ソビエトにとって、宇宙開発の父はセルゲイ・コロリョフただ一人でなければならない。ヘルムート・グレトルップなる人物は、グロドミリャ島で研究に従事したものの、大した業績を残すことなくドイツに返された「使えない人物」に過ぎないのです。
でも、ソビエトでは簡単な話です。不都合ならば、歴史を書き変えれば良いのですから。