スバリズムレポート第1弾「事故の歴史と教訓〜技術発達の陰にある、多大な犠牲と血の教訓〜」鉄道編 [2018年03月24日更新]
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事故の歴史と教訓 〜技術発達の陰にある、多大な犠牲と血の教訓〜
By Nils Fretwurst (自身の仕事) [パブリックドメイン], via Wikimedia Commons
技術発達の陰にある、多大な犠牲と血の教訓。
自動車に限らず、華やかな技術史の影にある悲惨な事故の数々。事故を望む者など誰もいません。しかし、ほんの些細な綻びが容易く重大な事態を招くのです。 痛ましい記憶の数々は、「血の教訓」として各業界で連綿と引き継がれてきました。しかし、その鎖も今や途切れつつあります。安全神話という幻の中で、漫然と育った世代にとって、重大事故は「対岸の火事」でしかないのです。
今回は、凄惨な事故の歴史を学ぶとともに、未来への教訓として引き継ぐキッカケとしたいと考えています。それぞれの事故の詳細を見ていくとともに、事故要因とその背景を通して教訓を学んでいきましょう。
繰り返されてきた鉄道事故の数々。
2本のレール上を高速で走行する鉄道は、信号の取扱や連絡の不徹底が一度でも起きると、重大な事故に直結します。自動車のように、自由な回避行動が取れないためです。その為、鉄道事故は往々にして凄惨を極めます。日本の鉄道史を振り返ると数限りない事故が起こり、おびただしい命が失われてきました。尼崎の事故は記憶に新しいところでしょう。
肥薩線列車退行事故〜物資不足が原因で、多くの復員兵が犠牲に〜 >>1945年8月22日 鹿児島県・宮崎県県境付近
復員兵が犠牲になった、肥薩線列車退行事故。
終戦直後に起きたこの事故が凄惨さを際だたせるのは、死傷者の多くが死線を生き抜いて祖国に辿り着いた復員兵だったことです。あと少しで家族に会える。そんな願いも叶わず、悲しき血潮が2本のレールを真っ赤に染めていったのです。
1945年8月22日、肥薩線吉松駅ー真幸(まさき)駅間の山神第二トンネルをD51型蒸気機関車牽引+後補機の上り列車が走行していました。列車は、貨車と客車を連結した混合列車で、這々の体で登坂中でした。列車は復員兵で超満員、人々は屋根まで溢れていました。故郷に帰る復員兵の期待とは裏腹に列車の足は余りに遅く、きつい坂に苦しく喘いでいます。遂に、先頭の本務機関車がトンネルを出たところで、列車は力尽きてしまいました。しかし、後方の客車は未だにトンネルの中。煤煙の暑さと息苦しさから逃れようと、復員兵たちはたまらず列車から降りて、トンネル内を歩き出します。
そんな事を梅雨とも知らず、本務機は後補機をトンネル外に出すべく、列車を後退させてしまったのです。後補機の乗員が呼吸困難で呼びかけもできないまま、逃れる場のない復員兵たちは暗闇の中で列車に次々に轢かれていくのです。この事故で49名が死亡、50名以上が負傷しました。
肥薩線列車退行事故:事故原因と教訓
事故要因:熱量が低い粗悪な石炭、整備不足の機関車、復員兵で超満員という悪条件が重なって、登坂力が不足。単線トンネルゆえに退避場所がなく、照明もない中、後補機の乗員が煤煙で指示を出せない状況が重なって発生したもの。
教訓:本務機と後補機で後退時の汽笛合図を事前に示し合わせてあれば、無断で後退することはなかったはず。危険を扱う現場においては、想定される緊急事態についてより深く検討することが肝要。また、無応答の取扱について深い検討が必要と思われる。
国鉄五大事故〜悲惨な事故が、鉄道の安全の礎となった〜 >>1951年〜1963年 日本各地
2000名もの命が失われた、国鉄五大事故。
By 未知の (毎日新聞社「写真昭和30年史」1955年P180) [Public domain], via Wikimedia Commons
戦後の物資・人材不足により、数々の凄惨な事故が起きています。その一方、下山事件や三鷹事件などのようなイデオロギー闘争の結果引き起こされた事故が起きています。大戦後、GHQは身分制度を廃し、特権階級から権力を奪い、米国主導の民主主義政府の確立を画策します。一方、これに反発する共産主義者たちは労働者革命を目指して闘争を開始。国鉄には多数の労働組合が設立され、各々が自ら標榜する理想を攻撃的に志向したが為に、安全運行という業務の根幹さえ蔑ろにされました。意図的と思われる軌道破壊が繰り返され、複数の脱線事故が発生しています。そして、驚くことに誰一人として罰せられないまま、こうしたテロは歴史の闇に葬り去られています。
桜木町事故〜群衆の見守る中、猛火に包まれた木造車両〜 >>1951年4月24日 神奈川県横浜市 京浜東北線桜木町駅構内
車両構造が救出を阻んだ、桜木町事故。
By 毎日新聞 [パブリックドメイン], via Wikimedia Commons
衆目の面前で為すすべなく、106名もの尊い命が焼け落ちた桜木町事故。戦後の資材不足を象徴する悲劇的な事故として今に伝わります。
戦後復興の足として、大量に量産された戦時設計の63系電車。物資不足で難燃性はまったく考慮されず、屋根上や室内に引き通し線が露出するという簡易な設計でした。この事故以前にも、発煙・発火事故を起こしていましたが、復興最優先のさなかにあって対策が取られることはありませんでした。
火曜日の午後、2人の女子高生が階段を駆け上がっていました。間に合うかな?そう思って駆け込むと、1人は間に合ったものの、1人はざんねん置いてけぼり・・・。ドア越しに手を降って、またね。そう言って別れた2人。それが、生き別れとなってしまうとは、その時思いもしなかったのです。
1951年4月24日午後1時45分、京浜東北線桜木町駅構内に赤羽発桜木町行き下り第1271B電車が差し掛かると、作業ミスで垂れ下がった架線に接触。架線が絡まったパンタグラフは、屋根に接触して短絡。激しい火花を上げます。可燃塗料で塗られた屋根が、瞬く間に炎上。木造車体の先頭車が、激しく燃え上がります。
乗客は、たちまちパニックに陥ります。乗客たちは3段窓からの脱出を試みますが、中段固定のこの窓からは逃げることは叶いません。側扉の開放を試みますが、消防団員はおろか乗務員さえも非常用ドアコックの位置も分からず途方に暮れる始末。車間の貫通扉は内開きで、殺到する乗客の圧力で開けることはできませんでした。為すすべない乗客は、たくさんの群衆に見守られながら、猛火に次々と命を落としていったのです。
桜木町事故:事故原因と教訓
事故要因:架線が垂れ下がったのは、作業員が誤ってスパナを落下させたのが原因。上り線は列車をとめる手配をしたものの、下り列車にはしなかった。桜木町駅構内で上り線に転線する当該列車は停止指示が無く、問題の区間に進入させてしまった。また、本来はブレーカが作動するはずであるが、事故前に発生した火災復旧のためにブレーカが取り外されており、送電が停止しなかった。
教訓:如何なる状況下であれ内圧で開放不能となるような設計は回避すべきで、内外双方から緊急時に強制開放できなくてはならない。また、その手段が広く一般にも理解されなければ意味がない。通常運行を最優先にするがために、安全回路まで一時的に無効にすることはあってはならない。
三河島事故〜安全対策の非常ドアコックが招いた悲劇〜 >>1962年5月3日 東京都荒川区 常磐線三河島駅構内
非常用ドアコックが招いた大惨事、三河島事故。
By 未知の [Public domain], via Wikimedia Commons
桜木町事故を受けて、国鉄は全車両に非常用ドアコックを設置します。これにより、乗客は自らの判断で車両からの脱出が可能となりました。しかし、この非常用ドアコックが新たな事故を引き起こしてしまうとは、想像だにしなかったでしょう。
1962年5月3日午後9時36分、常磐線三河島駅東方350mで、常磐線下り本線へ侵入する下り287貨物列車が赤信号を見落としてオーバーラン。そして、脱線。先頭の機関車と2両目の貨車が下り本線側に傾斜しつつ、安全側線上に停車します。
同時刻、4分遅れで三河島駅を発車した上野発取手行き下り2117H電車が、貨物列車に40km/hで衝突。先頭2両が脱線し、今度は上り本線側に傾斜して停車します。この時点で、怪我人はまだ25名ほどでした。乗客たちは非常用ドアコックを操作して、ドアを開放。火災の危険から逃れるために、線路上を駅に向かって避難を開始します。この時、現場至近の信号扱所の掛員が事故報告と現場確認に勤しむ余り、上り本線の停止手配が疎かになっていました。
同42分、上野行き上り2000H電車が現場へ到達。気が付いた時には遅く、線路上に避難していた乗客を次々に跳ね飛ばしながら、下り電車の先頭車に激突。下り電車の先頭車は完全に粉砕し、2〜4両目以降は高架下に転落しました。乗員乗客合計160名以上が死亡、296名が負傷する大惨事となりました。
三河島事故:事故原因と教訓
事故要因:第一は、287貨物列車の信号冒進。信号冒進時に自動停止する装置がないため、脱線に至った。下り電車の衝突は脱線後1分以内であり停止手配は不可能だったと思われる。最大の課題は上り電車の衝突で、現場到着まで5分の余裕があったにも関わらず停止手配が間に合わなかった。列車停止の手配を運転指令に直接依頼できるよう指示系統が構築されておらず、手配に時間を要したのが原因。
教訓:危ないと感じれば、直ちにすべての運行・運用を停止すべき。安全確認はその後で良い。そして、その停止権限を、肩書の上下に関わらずすべての掛員に付与すべきである。
鶴見事故〜為す術無く、一瞬のうちに奪われた命〜 >>1963年11月9日 神奈川県川崎市 東海道本線鶴見ー新子安間
高速走行中の三重事故となった鶴見事故。
鶴見事故が起きた1963年11月9日は、458名が死亡した三井三池炭鉱炭塵爆発が起きた日でもあり、後に血塗られた土曜日と呼ばれる事となります。ケネディ大統領がダラスで暗殺されるのは、さらに2週間後のことでした。
この日の午後9時40分、東海道本線と並行する品鶴線を走行中の下り2365貨物列車が鶴見駅ー新子安駅間で、後部3両目が突如脱線し、架線柱に衝突。並走する東海道本線上り本線を塞いで停車。そこへ横須賀線上り2000S電車と下り東京発逗子行2113S電車がほぼ同時に進入。上り列車が90km/hで貨車と激突。先頭車は下り線方向に弾き出され、減速通過中の下り列車の4両目を串刺しにした後、5両目の車体も半分以上削り取ったところでやっと停車。2両とも全く原型を留めないほどに粉砕された他、上り先頭車も大破。死者161名、重軽傷者120名を出す大惨事となります。
鶴見事故:事故原因と教訓
事故原因:貨車の脱線現象は後の研究の結果、競合脱線と呼ばれる複合要因による脱線と結論付けられた。競合脱線は、2000年に発生した日比谷線中目黒駅脱線衝突事故でも起きており、現在でも完全解決には至っていない。
対向列車の停止手配については、過密なダイヤで運行される日本の鉄道ではほぼ対策は不可能。絶対に脱線しないよう、整備と環境改善を継続する他無い。
3つの重大鉄道事故。
桜木町事故は、疲弊した戦後日本で起きた悲劇でした。63系に欠陥があっても改善にまで手が回らない、当時の国鉄は困窮、疲弊していました。
桜木町事故を受けて、国鉄は事故の翌日には非常用ドアコック位置を知らせるガリ版刷りの張り紙表記するのですが、これが仇となって三河島事故は大惨事となってしまうのです。そして、どうにも対策のしようのない鶴見事故・・・。
3件の痛ましい事故を受けて、日本の鉄道は「安全最優先」の運行体制へと変貌を遂げていきます。新幹線が世界の誇る安全神話を創り上げてきたのも、安全最優先という慎重な経営が行われてきたからに他なりません。
しかし、危険意識というものは時間とともに薄れてしまうものなのです。
洞爺丸事故〜台風予測の誤りが、最大の海難事故を招く〜 >>1954年9月26日 北海道北斗市沖 青函連絡船
日本最悪の海難、洞爺丸事故。
By 言及なし [パブリックドメイン or パブリックドメイン], via Wikimedia Commons
洞爺丸事故は、1954年9月26日に発生した台風15号(洞爺丸台風)による海難事故であり、死者・行方不明者1,155人という日本海難史上最悪の惨事となります。当時、津軽海峡は海で隔てられていて、ここを海路で結んでいました。これが、青函連絡船です。貨物輸送を鉄道に依存していた時代ですから、津軽海峡を渡る貨車は船の甲板に固定して運ぶ航送で運ばれていました。人間は、上野発の夜行で青森に降りるとそのまま連絡船に乗り換え、函館に渡っていたのです。昭和55年を例にとると、上野19時50分発の特急ゆうづる1号では翌朝5時3分に青森着。そこで同25分発の3便に乗ると、函館港着は9時15分。函館まで13時間25分、40年前には半日以上を要して北の大地へ渡っていたのです。今なら、2時間少しで飛行機で行けるのですから、隔世の感があります。
1954年9月18日にカロリン諸島付近で発生した熱帯低気圧は、21日には台風15号となります。一旦勢力を落とすも、23日に勢力を回復。25日9時には975mbへと発達しながら、台湾沖で北東へ向きを変えて加速しながら日本列島へ接近します。26日、大隅半島に上陸。この時点では965mb、最大風速40mとなっていました。80km/hという稀に見る速度で北東へ進み、中国地方から日本海に出ると、さらに速度上げて津軽海峡に接近します。
日本最悪の海難、洞爺丸事故。
この台風が珍しかったのは、この時点でさらに発達したことです。北海道西岸に接近した21時には、956mbまで発達していたのです。前例のない速度と、前例のない勢力の推移。この台風15号は、気象判断に絶対の自信を持っていた青函連絡船洞爺丸船長近藤平市の判断を、完全に狂わせてしまうのです。
9月26日15時頃、函館港に洞爺丸を接岸させていた近藤船長は、船尾の可動橋が停電で動かなくなったために、出航が台風接近に間に合わないと判断して4便の欠航を決断。予報では17時頃に台風15号は渡島(おしま)半島を通過し、津軽海峡に最接近するとされていました。その頃には、函館港では土砂降りの後に風雨が収まって晴れ間が覗き始めます。台風の目だと思われましたが、それが誤りでした。これは閉塞前線の通過に伴うもので、台風本体はまだ通過していなかったのです。15時に19.4mに達した風も、18時には13.7mと、徐々に弱まってきていました。17時40分、台風は過ぎ去ったと判断した近藤船長は18時30分の出航を決断します。
18時39分、近藤平市船長は洞爺丸は乗員乗客1,331名を乗せて青森へ向けて出航します。しかし、出航後間もなく洞爺丸は南南西の激しい風に晒されてしまうのです。
誰もが台風の目だと考えたのは、これは閉塞前線の通過に伴うもの。再発達した台風15号は、津軽海峡を完全なる地獄に変えるのです。
出航は間違いだった・・・。
By 朝日新聞社 (「アサヒグラフ」1955年6月1日号) [パブリックドメイン], via Wikimedia Commons
自身の判断の誤りに気がついた近藤船長は、仮泊するために投錨を決断。19時01分、函館港防波堤灯台付近で投錨します。しかし、57m/sに達する南西からの暴風と猛烈な波浪で、洞爺丸は遂に走錨を始めてしまいます。走錨とは、錨が嵐で流されて引きずられてしまう現象です。この時点で、船は既にアンコントローラブルに陥っていたのです。
構造上水密が不完全であった車両甲板から、浸水も始まります。22時5分、浸水のため両舷機関停止。以後、操船も排水も不可能となります。同12分、近藤船長は沈没を回避する最終手段として、七重浜への座礁を決断。同15分、旅客に救命胴衣着用を指示。同26分、洞爺丸は水深12.4mの海底に着底に成功します。しかし、激しい波浪は安寧を許してはくれませんでした。打ち付ける並の勢いに負けて、船体は傾斜を増していきます。同39分、SOSを発信。同43分、船体を支えていた左舷錨錯が切断。キールが海底に刺さった所に大波を受けて、ついに船体は横倒しになります。22時45分、右舷側に135度傾斜して沈没。生存者は、たった159名のみでした。
この日、同じ時間に4隻の青函連絡船が沈没。合計1,430人にのぼる命が失われます。この国鉄史上最大の悲劇は、青函トンネルの建設を一気に推進させることになるのです。
洞爺丸事故:事故原因と教訓
事故要因:台風15号の類を見ない進路により予報と観測に誤りが生じ、気象判断にミスが生じてしまった。実際に気象庁は台風15号の進路解析に2ヶ月要しており、台風15号がオホーツク海上の高気圧に阻まれて40km/hまで急減速させていたことがこの時明らかになっている。近藤船長の判断を一方的に責めることはできない。しかし、同時に函館港にいた羊蹄丸は悪化する天候を予感して、出航を「意気地がなかった」ため見合わせ助かっているのも事実である。当時、函館湾内は走錨する多数の船舶で混乱を極めており、停泊中の4隻も沈没している。この事から、湾内に留まっても結果は変わらなかったと思われる。ただ、乗客を降ろして被害を最小限に留めることは可能であった。
教訓:気象判断は常に慎重に大げさに行うべきであるし、長たるものは「意気地なし」であるべきである。また、定時運行・通常運用がプレッシャーとなって、安全判断を狂わせることはあってはならない。