スバルのヒストリー外伝「プリンス自動車〜消えるべくして消えた、スバルの兄弟〜」 [2018年08月08日更新]
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2020年12月26日 スバル
プリンス自動車の歴史。〜消えた唯一の大手自動車メーカー〜
日本の自動車産業が、やっと第一歩を踏み出そうとする頃、燦然と輝く光とともに瞬く間に歴史の波間に消えていった幻。それがプリンス自動車です。富士重工と唯一血を分けた兄弟分の自動車メーカーであり、日本のロケット技術を支えた唯一の企業でもありました。
プリンス自動車はなぜ誕生し、なぜ消えていかねばならなかったのか。今回は、プリンス自動車の儚い歴史とその後を辿っていきましょう。
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スバル・ヒストリー・シリーズ
番外編
中島飛行機の東京進出。〜中島飛行機東京製作所〜
中島飛行機東京製作所
国土地理院地図・空中写真閲覧サービスより。[左]:1941年撮影の中島飛行機東京製作所。[右]:1948年撮影の姿。工場敷地が拡張されている。
大正12年9月1日の関東大震災で、帝都東京の鉄道は完全に麻痺。その際、「太田の工場だけではだめだ。東京に工場を持つべき。」との議論が中島飛行機内部に持ち上がります。一方で、知久平は優秀な人材を確保するためにも東京進出は必須、とも考えていました。
今でこそ高級住宅地で知られる杉並区ですが、街道筋でもないので、戦前は全くのどかな農村風景。辺り一面が名産練馬大根の畑だった所に、地元の熱心な誘致が実って、発動機の研究開発および生産拠点として1925年に東京製作所が完成。まずは、フランス・ロレーヌ社のW型エンジン(右写真)のライセンス生産でスタートします。
従業員の住宅も建ち並び、のどかな荻窪の街は一気に賑やかになっていくのでした。
若手にチャンスを。新進気鋭の中島の社風。
翌1926年、知久平は発動機の自主開発着手を宣言。設計主任を命じたのは同年春に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業したばかりの田中正利でした。
中島飛行機はその後も年齢の上下を廃し、優秀な若手技術者にどんどんチャンスを与えていきます。若き設計主任は、既存概念に縛られずひたすら先進性に富んだ概念設計に挑み、ベテラン技術者たちが知見活かして図面に落とし込んでいきます。何よりも特筆すべきは、社内に肩書きで呼び合う習わしが無かったことです。上司部下分け隔てなく自由闊達な議論をさせるのが、知久平の考えでした。
強大なライバルである三菱だけでなく、世界の先駆者たちに追いつき、そして追いこす。知久平は、技術者たちを束縛したくなかったのです。
新山春雄、後にプリンス自動車を率いる男。
翌1927年入社してきたのが、新山春雄です。後にプリンス自動車を率い、自動車技術会第7代会長を務めた人物です。スポーツ好きの個性的な技術者であり、帝国大学工学部造兵科出身でした。
設計ではなく研究課長として「理屈よりも実践」「現地現物主義」で発動機開発を支え、とくにキャブレターのオーソリティで知られていました。軍からの信頼も厚く、海軍航空隊のパイロットであった源田実をもってして「新山さんが試験してOKのエンジンならいつでも飛ぶよ」と言わしめたほどでした。同1927年入社の東大機械卒の伊地知壮一が設計課長と並んで、剛の伊地知、柔の新山と言われた屈指の名コンビでしたが、伊地知は終戦直後に亡くなっています。
新山が入社する際に知久平と面接があり、その際に「いま会社は今後どうなるか見当がついていないので大学出はあまり欲しくない。飛行機の将来は分からないので、10年後には課長になれるだろう、20年で部長だな、と思っているなら入社を止めなさい。もう一日よく考えて再度明日来なさい」と言われたといいます。新山は翌日に「是非入れてください」と即答。めでたく、採用となりました。
驚かされたのは、その初任給でした。当時一般的な大卒初任給は60~70円でしたが、新山と伊地知は100円、同期の早稲田出身者は95円でした。もっとも、東大航空卒は105円とさらに高給だったのですが、その後大卒の給料が統制され、1936年に入った中川(東大機械卒)は75円になってしまいました。
中川良一、「技術の日産」その原点。
若かりし頃の中川良一。
By 中川良一 [Public domain], via Wikimedia Commons
今回のプリンス自動車の特集にあたって、その主役たるは中川良一です。中川は、石橋正二郎の元で技術担当部長として全権を与えられていたからです。師たる新山とともに戦後の混乱期を乗り切り、航空機開発への未練を断ち切った中川は、プリンス自動車を日本屈指の自動車技術力集団へと育て上げていくのです。
1913年、中川良一は鉄道官僚中川正左の長男として生まれます。東京帝大工学部機械工学科を卒業した中川は、1936年に中島飛行機へ入社。中川はご多分に漏れず、早速零戦や一式戦に広く使われた名機「栄」の高出力タイプ、栄21型の設計主任を任じられています。当時、空冷では1000馬力が限界とされていたのを、2速過給器でその壁を打破。離昇馬力1150hpを実現しました。
「私の経験でも私の計画したフリーハンドに近い図面を、直ぐに理解して信じ難いようなスピードで、組立図面や部品図面にしてしまうのだ。このようないわゆる書き手が揃っていることがこの会社、このグループを支えているのである。」
「これらの人々は設計だけでなく、機械、仕上げ、熱処理、組み立て、検査、運転、実験などあらゆる部門におり、我々の画くかなりあぶなかしい図面を立派に工程化して一人前のエンジンに作り上げ、飛行機にのせられるようにして行くのだ。私が図面を出して各部門を回って歩いて見ていると、各部門から『これはこんな風にするんだ。でないとうまくまわらないよ』などという注意が沢山あった。」
「太平洋戦争に突入した時に我々は直前に噂は聞いていたものの、全面戦争に突入したと聞いた時に一同愕然且つ暗たんとしたものである。というのは海軍機用としてハワイ攻撃に参加した主力の"栄"やその他"光"などの海軍向けエンジンは僅かに小さな荻窪工場で作っていたこと、戦争前にカーチスライトの技師が生産指導に来所していてその能力を熟知していたこと、太平洋決戦機として海軍が試作を指示した"誉"は指示後僅か一年半でまだ海軍の耐久も終っていなかったこと、協力工場のレベルの低いことなどで、全く勝ち目のないことが分かっていたからである。緒戦の奇襲勝利後は、半年後のミッドウェーの惨敗以後、全くの一方的なものとなってしまったわけである。」
「結局このような集団が身を挺して働いたが報いられることはなかった。」
「終戦後にこれらの経験は、富士精密(プリンス自動車)から日産自動車、富士重工業(スバル)、あるいはかなりの人達が揺籃期に入った本田技研その他多数の内燃機関に関係する機械工業に受けつがれ、日本の高度成長に貢献していることは喜ばしいことである。」
太平洋決戦機、2000ps級発動機「誉」。
海外列強の強力発動機に対抗すべく開発された「誉」。
作者 Hahifuheho [CC0], ウィキメディア・コモンズより
「栄」が制式化された1939年、中川は更なる高出力化を探っていました。その頃100オクタンの燃料が登場し、1シリンダー当たり100馬力だせば、栄でも1,500馬力は可能と考えていました。その時、設計課長の小谷から「いっそ18気筒にしたらどうだ?」とのアドバイスを受け、複列18気筒を構想します。
「寿」(9気筒)を複列にしては外形が大き過ぎるし、冷却も不可能。そこで、「栄」と同じ外形の9気筒単列を構想し、それを2列並べて、合理的な給排気管の引き回し、点火栓の位置、整備姓を考えた案を練り上げます。前後列の間隔を50mm拡大すれば可能と判断し、外形は「栄」より30mm大きくなっただけでした。 剛性確保と小型化を狙って、敢えて薄肉の鋳鉄・鋼製のクランクケースを採用。このエンジンをNBAと呼び、1,800~2,000馬力のエンジンとして提案します。
当初は、実現性を巡って議論が沸騰したものの、1940年9月に試作命令が出され、翌1941年6月第一次耐久試験完了という、前例の無い超速日程が示されました。6月末日には試作機による300時間の耐久試験が完了。離昇で1,800馬力を達成し、続く21型では2,000馬力の高性能を発揮し、直ちに玉成のための各種の試験に全力を傾注します。軍は1942年9月早々に制式採用として「誉」(ハ-45)と命名され、直ちに量産体制に取り掛かり、1943年から慌ただしく量産に入ります。
太平洋戦争に突入すると、設計の前提である100オクタン燃料の入手困難となります。代用された91~88オクタンでは異常燃焼が発生してシリンダー温度が異常過昇をおこしたり、また主ベアリングのケルメットの材質不良による故障なども発生し、生産だけはどんどん進む中で、それらの緊急対策に追われるようになっていきます。
「誉」は、生産上の品質確保がなされ、またきちんと整備された増加試作エンジンによる飛行試験では最高の性能を発揮し、関係者から素晴らしい出来栄えと絶賛・その試作エンジンを搭載した各新鋭機は素晴らしい性能を発揮します。軍の試験官は「よくも、こんな素晴らしい飛行機を作ってくれて有難う」と涙を流して喜んでいたと言います。
ところが部隊配備されると、その期待に大きく反して信頼性に乏しく、優れた整備兵の居る部隊ではかろうじて活躍したものの、総じて設計性能を十分に発揮せずに終わってしまいます。現場での実態を考慮せずにギリギリの限界設計を行ったことが、燃料の質や加工精度の低下に対し全く余裕が無く、性能を発揮できず稼働率も低く、その後の新型機の運用に大きな齟齬をきたす結果となった。そして戦後の米国での評価試験においても「遅すぎた良いエンジン」との評価でしかなかった悲運のエンジンとなります。
終戦と、富士精密工業の誕生。
太田や呑龍などと比較すれば、荻窪への空襲は苛烈なものではありませんでした。それでも、目標を外れた投弾が周囲に痛ましい被害を与えています。1945年8月15日、終戦。GHQが到着するまで間に、書類の全焼却、全従業員の解雇、退去が決定されます。工場内に残った中島飛行機の社員は、たった45人のみでした。
中島飛行機が富士産業と改称したのに伴って、富士産業荻窪工場となります。新山春雄が工場長に就任。散り散りなった面々は、新山を頼って戻ってきます。1946年10月には従業員は間接含め1086名に達していました。労働組合による復職運動で、中島飛行機時代の社員が大幅に復職しました。
しかし、経営状況は殊に厳しく、給料は週払いのうえ、生活に困窮する者が優先されました。敷地内から金目のものを探しては、現金を捻出する有様でした。
世界のメーカーと覇を競い、全身全霊を掛けて激烈な業務に没頭した日々は、ここに完全に無に帰したのです。荻窪に残された面々には、望みを絶たれた航空産業への未練よりも、まず日々を生き抜く稼ぎを考えねばなりませんでした。
製品は残存品を転用したものばかり。漁船のエンジンを手掛けたものの、商売が下手で売れず仕舞い。朝鮮特需の頃には、米軍払い下げのトラックをヘッセルマン式に改造する開発も行いました。
1950年8月、財閥解体によって富士産業は12社の新会社に分割。1950年5月31日には、荻窪工場と浜松工場は企業再建整備法に基づき合併して、富士精密工業として再出発しました。荻窪工場には、終戦時は補機工場、治具工場、第2研究部、実験部が残されていました。
荻窪では映写機を、浜松ではリズムというブランドでミシンを製造・販売。特にミシンは好調で、荻窪でも追加生産を行った他、輸出も行われました。しかし、農耕用ディーゼルエンジンが、クレームで返却されて工場内に山積みになるなど、富士精密は明らかに決め手に欠いていました。
戦後の混乱。〜飛行機を奪われた男たちの苦悶と苦闘〜
飛行機への未練と日本の再軍備。
GHQは、航空に関する一切の研究さえも禁じたが為に、技術者たちは戦後散り散りになって、日銭を稼ぐ苦しい日々を過ごしていました。共通していたのは、飛行機に対する未練でした。
中川によれば、その思いの強さは自身の年代を境に違うと言います。
「われわれ以降に航空に入ってきた人は、本当の意味で航空を経験したとはいえないかもしれません。」
自身が設計した航空機が実戦投入を経て、洗練していく過程を経験していない。深入りをしていなければ、転身も躊躇なくできるはず、というのです。富士精密の技術責任者の立場にあった中川は「航空は一日たりとも忘れたことがない」日々を過ごしていました。
機械産業の最先端たる航空産業は、技術者たちの憧れでした。自らの才で空を切り裂き、人類の未来を築いていったのです。ホコリにまみれて地面を這いずり回る自動車など、自分の仕事ではない、とバカにする者も多くいました。
東西冷戦体制が確立すると、米ソは世界各地で厳しく対峙。世界情勢は、一気に緊迫の度を増していきます。GHQは当初、日本を未来永劫貧乏な農業国とするつもりでしたが、中ソへの防波堤として自立した西側国家に仕立てようと占領政策を転換します。非軍事国家の方針を破棄し、再軍備を求めます。
1952年、日本の再軍備へ向けて遂に航空産業が解禁されます。旧中島の面々は、一気に再合同へと動き出します。しかし、旧中島内部でも本格的な航空戦力の保持までの規模となるのか、確信を持てずにいました。合同した新会社を支えるほど、日本の航空産業に需要があるか、全く未知数だったのです。
しかし、比較的年齢が高い経営首脳の面々にとって「航空機生産は悲願」でした。その一方、若手幹部は企業の存続を第一として、冷静に考えていました。
旧中島再合同へ参加できない、富士精密。
日本初の純国産ジェット機「橘花」。モノクロ写真に彩色。
1952年4月、旧中島の大宮富士工業は通産省にジェットエンジンJO1の開発申請を提出。プロジェクトを率いたのは、渋谷巌でした。中川の1年後輩の渋谷は、知久平に自動車産業への一時的な就業を勧められます。しかし、魅力を感じられない自動車を良しせず、選んだのは浪人暮らしでした。1949年から東北大学の教授を務めた後、求められて航空の道に戻ってきていました。ただ、野心的なこのプロジェクトを成功に導くには、再合同が不可欠でした。
この再合同への動きへ、富士精密は参加できませんでした。石橋正二郎に経営権を握られていたからです。それでも、中川はジェットエンジン研究を目的としたAJ委員会を設置。大宮富士工業と連携しつつ、燃焼技術を中心にJO1の開発に積極的に参加します。
1953年7月、通産省は富士重工、富士精密、石川島重工、新三菱重工の4社共同で、日本ジェットエンジン株式会社を設立します。中川は、NJEの実現へ中心となって奔走します。ただ、日本のジェットエンジン技術は余りに心許ないレベルに留まっていました。米国は1944年1月には、初飛行に成功。終戦までに実用化に漕ぎ着けていました。これに対し、日本では橘花がたった一度16分だけ飛んだのみ。その差は、歴然としていました。
以来、8年。同年、米国では既に世界初の実用超音速戦闘機が初飛行。現在の旅客機の原型となるジェットエンジン爆撃機B-47は、既に500機近く量産が進行。エンジンを製造するGEやP&Wでは、1万人以上の人々がその事業に従事していました。
戦後初の国産ジェットエンジンの誕生。しかし、、、。
商業面では、完全なる失敗に終わった「J3」。
By Tataroko [Public domain], from Wikimedia Commons
中川は、日本のジェットエンジン産業に疑いの目を持っていました。航空需要が明らかに少ない日本は、その販路を海外に求めねばなりません。となると、GEやP&W、ロールスロイスといった巨大メーカーと対峙せねばならないのです。勝ち目があるとは、思えませんでした。経営の重責を担っていた中川は、もう夢に一途邁進できる程身軽ではなくなっていたのです。
XJ3と名付けられた機体の国産ジェットエンジンの設計は順調に進行します。1956年6月末には試作1号機が完成。ところが、11月に始まった試運転では故障・破壊が頻発します。機体の方は、富士重工で順調に進行。1957年にはジェット練習機T1F1が完成してしまいます。仕方なく、J3の搭載はロット3まで延期とされ、代用として英ブリストル製エンジンを搭載することとなります。
ここで問題が生じます。ブリストル製から国産に切り替えるには、性能か価格での優位性を理由とせねばなりません。ところが、性能は言うにおよばず、価格も開発費を見込めば高額となります。そのため、J3は購入価格を低く設定されます。トドのつまり、造るだけ赤字という訳です。この時点で、新たに加わった川崎重工を含めた5社で、J3の製造権を協議。結局、4社はジェットエンジンから手を引き、石川島がJ3を引き取ることで合意に至ります。役割を終えたNJEは、解散となります。
技術者集団の弱み。〜あっという間に経営権を奪われる〜
プリンス自動車の息の根を止めた男。石橋正二郎の登場。
1949年、石橋正二郎は東京電機自動車という設立間もない自動車メーカーに出資しています。この会社、実は立川飛行機を追われた技術者たちが中心となって設立した企業でした。1924年、石川島重工業を中心に石川島飛行機製作所を設立。1936年には、立川飛行機に改称しています。赤とんぼと呼ばれ親しまれた九五式一型練習機など、数多くの航空機を手掛けました。
終戦後、工場はGHQに接収。従業員は試作工場の2500名を残して、すべて解雇となります。その後の事業展開について意見を違えた、試作工場長の外山保は200名を率いて独立。1947年6月に新たに東京電気自動車を設立します。
電気自動車は、売れるには売れたものの資金繰りに苦労する毎日。そこで、頼ったのが画商であった義父の鈴木里一郎でした。その鈴木が紹介したのが、誰であろう石橋正二郎でした。ブリヂストンを率いる事業家として、一代で財を築き上げた豪腕経営者として知られていました。石橋は、かねてより自動車産業に強い将来性を感じていましたから、出資に合意。石橋が400万円を出資。鈴木を含めその他を合わせ、資本金700万円に増強されました。社名はたま電気自動車と改名。社長に鈴木、石橋は会長に就任します。
いともたやすく経営権を奪取。しかし、口は出すが、金は出さない。
朝鮮戦争で鉛が欠乏。失敗に終わった電気自動車「たま」。
By baku13 (photo taken by baku13)
[GFDL, CC-BY-SA-3.0 or CC BY-SA 2.1 jp], via Wikimedia Commons
たま電気自動車の経営は順調で、1950年4月には資本金は1500万円まで増資されています。ところが、1950年の朝鮮戦争がたま電気自動車の運命を一気に変えてしまいます。外山は石油の欠乏によって、電気自動車の時代が来ると確信していましたが、事実は違いました。GHQは石油を安価で放出する一方で、必須の鉛の価格が急騰。電気自動車の未来は、一気に閉ざされてしまったのです。
そこで、たま電気自動車はガソリン自動車へと大転換を図ります。機体生産のみを行ってきた面々ばかりだった彼らですから、エンジンの自力開発はそもそも不可能。エンジンを外部から調達することになります。そこで選ばれたのが、富士精密工業荻窪工場だったのです。
石橋は、エンジン調達にあたって富士精密の経営状態を調査させています。その結果判明したのは、出資の大半が日本興業銀行である事。その上、持株整理委員会の勧告によって、直近の放出が求められていることでした。石橋は、速やかに興銀の持ち株すべてを額面で買収。石橋は、世界に名だたる有能な技術者たちをいともたやすく自らの腹の元に収めたのです。
1951年4月30日の臨時株主総会にて、役員の大半をブリヂストン系の人間で占拠。石橋は会長に就任し、名実ともに富士精密を自らの物とします。この時点では、売上の半分以上はミシンで占められていました。ここから、富士精密は自動車メーカーへと一気に大転換を図っていくのです。
しかし、石橋は富士精密の経営権を掌握したものの、容易に資金援助はしませんでした。となれば、自ら銀行等に出資を願って、設備投資費を調達せねばなりません。しかし、富士精密には有能な技術者は居ても、経営を学んだ人間は居ませんでしたから、富士精密は常に困窮していました。
たま自動車との協業を開始。前途多難な、自動車メーカーへの第一歩。
華々しいデビューを飾ったプリンス・セダンだが、前途は多難だった。
作者 当摩節夫(著者) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
富士精密では、たま電気自動車との提携に向けて、新型エンジンの開発を開始します。
いくら有能な富士精密の技術人とはいえ、自動車エンジンの見識がまったく持ち合わせていませんでした。そこで、新山専務は中島時代の経験から、見本エンジンそっくりに造ることを指示します。そこで選ばれたのが、石橋が戦前に輸入していたプジョー202でした。排気量1.2L直列4気筒OHVの古臭いエンジンではあったものの、富士精密側はこれを受け入れ、1.5Lまで拡大した新エンジンFG4A-10型を開発します。
ところが、このエンジンはたま自動車にはまったく不評でした。不具合が多発したのです。それには理由がありました。富士精密が本当に貧乏だった為に信用がなく、二流三流の専門業者しか協力を得られなかったのです。
外注の鋳物は余りにも寸法精度が悪いうえ、鋳物砂の焼付が多く、各部に残留して不具合の原因となりました。生産設備も旧態依然としていましたが、決して増強されることはありませんでした。それが原因で性能を低下させ、さらに不具合を増加させました。それでも、劣悪な製造精度は熟練工の仕上げ加工に頼って回避するなど、何とか量産に漕ぎ着けます。
1952年3月にプリンス・セダンが発売されます。たま自動車初のガソリン自動車でした。そのネーミングは、立太子の礼にちなんだものでした。ところが、このプリンス・セダンを導入したタクシー業界から、耐久性不足の不評を買うことになります。何しろ、2月15日に試作車が完成したばかりだったのです。余りに無謀な計画でした。
たま自動車を吸収合併し、新生プリンス自動車が誕生。
タクシーで大量採用されたプリンス・セダン。トラブル対応に追われることになる。
By 桂木洋二 [Public domain], via Wikimedia Commons
1953年、トヨタがコロナを発売。いすゞや日野も、海外メーカー車のノックダウン生産を開始。国産車のレベルは、一気に引き揚げられます。通産省は、国産自動車による性能コンテストを実施します。その結果は、出力はまずまずだったものの、摩擦損失と重量に劣るというものでした。
そこで、富士精密は性能向上を目指して、FG4A-20型を開発。1955年2月に発表します。圧縮比をプジョーと同じ6.8まで引き上げた他、ブロックを8kg軽量化、ピストンの摩擦損失減少を図ってピストンリングを4→3本に減らすなど、意欲的な改良が行われていました。
新山はこの改良方針に反対だったようです。第一の課題であった、信頼性向上が何もなされていなかったからです。FG4A-20は大失敗でした。ピストン破損、ブロック割れなど致命的なトラブルが続発します。1956年秋に急ぎ生産をFG4A-30に切替え、不具合解消と性能向上を図ります。
1953年4月、石橋は世界ゴム会議へ出席の折、世界各国の自動車産業を視察。経営の近代化の必要性を痛感した石橋は、帰国後に富士精密工業とたま自動車工業の合併を決定します。1954年9月30日のことでした。存続会社は、富士精密工業。しかし、経営の主導権を握ったのは当然BS側でした。ドライブトレインの不具合に悩まされてきた、たま自動車の面々にとっては、まったく納得し難い合併だったでしょう。
新生富士精密では、旧たま、旧中島、BS、そしてBSのメインバンク住友銀行と四つ巴の主導権争いが行われていきます。まとまるものもまとまらず、経営会議は常に喧嘩腰。無謀な大風呂敷を広げたがる外山、航空の夢を捨てきれない富士精密の面々、成果を焦るBS、鐚一文ムダを嫌う住友。目指す所も、考える事も違う上に、牽引するカリスマも不在。富士精密の運命は、既にこの時点で決していたのかも知れません。
1954年2月には、東京営業所を母体にプリンス自販を設立。販売を目的とするこの会社が、後々に遺恨を残すことになります。
宇宙産業への進出と、自分へのけじめ。〜中川良一の決断〜
糸川英夫とペンシルロケット。
[Public domain], via Wikimedia Commons
夢よ、もう一度。空よりも高く、宇宙を目指せ。
そんな頃、中川は同門の1年先輩である糸川英夫と会っています。糸川は1941年に中島を辞し、東京帝大第二工学部の教授へと転身。戦後、航空の道を絶たれた糸川は、自殺志願者となるほど思い詰めていました。1953年には渡米、翌年日本へ変えると、ロケットを自らの新たな道と定め、研究を開始します。かの著名なペンシルロケットの始まりです。
糸川と中川は様々に語り合う中で、将来宇宙を飛ぶロケット旅客機を実現すべきとの意見で一致。1954年、富士精密は東大生産技術研究所への技術支援を開始します。近い将来の誘導ミサイルの受注を目指すこととなります。
この時点で、富士精密で航空産業が売上高に占める割合は0.5%に過ぎません。現実的に考えれば、自動車産業に専念すべきでした。たま自動車と合併した富士精密は、トヨタと日産を追撃する体制を整えつつあったのです。その一方、国家の繁栄を考えれば、次世代産業たる航空宇宙産業に従事することは、自らの責務でした。
想像の上を行く、米国航空産業の発展。
1955年1月8日、中川は防衛庁の嘱託として3ヶ月半の欧米視察旅行に出発します。表向きの目的は、欧米の航空宇宙産業をつぶさに観察し、フィードバックすることにありました。しかし、中川は自らの迷いに決着をつける時が来たことを確信していました。
数多の人々に見送られて、中川は機上の人となります。羽田を飛ったダグラスDC6Bは、優雅に上空を駆け抜けます。その速度は、零戦よりも速いことに中川は大いに感心します。たった数年で、航空技術は驚速の進歩を遂げていたのです。ハワイ経由で、かつての敵国本土に足を踏み入れます。
2番目に訪れたエアロジェットは、当時世界随一のロケットエンジンメーカーでした。この頃既に、推力200t級のエンジンが試作段階にあることを知らされます。糸川と進めていたペンシルロケットは直径1.8cm、長さ23cm。実験は10m飛行したのち、土嚢に刺さって終了というささやかなものでしたから、中川はその進歩の速さに驚かされます。それと同時に、ロケットエンジンに大きな可能性を感じたのでした。
急速に発展する欧米の自動車産業。そして、衰退する欧州の航空産業。
VWのヴォルフスブルク工場。中川は先進的な自動車工場に衝撃を受ける。
By Photo: Andreas Praefcke (Self-published work
by AndreasPraefcke) [CC BY 3.0 or GFDL], via Wikimedia Commons
特に興味を引いたのは、欧米の先進的な巨大自動車工場の数々でした。当時のトヨタが日産100台に満たないのに対し、日産1000台を超える自動車を日夜生産し続けるその威容は、中川には衝撃でした。しかし、「設備内容には吾々が理解しえない何物もないではないかと。」記しており、基本に忠実であれば日本でも将来必ず実現可能であるとの確信も得ていました。また、VWやフィアットなど敗戦国家にありながら先進的な生産設備を実現していることに、大いに勇気づけられています。
中川が何より衝撃を受けたのは、対照的な航空産業の現状でした。ドイツ、イタリアの航空産業は既に壊滅的な状態であり、将来をまったく見通せない窮地に追い込まれていました。他方、米国の航空産業は圧倒的であり、さらなる発展は間違いないようでした。
中川は、欧州の航空産業に将来の日本の姿を重ね合わせていました。帰国した中川は、宇宙産業であれば多少の可能性を見いだせるとし、富士精密の航空産業における方針を決します。ただ、自らは航空産業から一切身を引く決心をしたのでした。
宇宙産業への進出と、自分へのけじめ。〜中川良一の決断〜
小川秀彦がプリンス自販社長に就任。
ブリヂストン本社にて。一番右が、外山保。中央左が、石橋正二郎。
By 田中次郎 [Public domain], via Wikimedia Commons
1958年1月31日、富士精密系の常務取締役であった天瀬は夜中の電話で叩き起こされます。内容は、石橋会長が突如プリンス自販への異動を命じたので、翌日から自販に出社せよ、というものでした。ワンマンここに極まる、理不尽な人事でした。天瀬は、前年自販へ転じていた外山と入れ替わりで自販の専務に就任します。慣れない販売業務に苦労しつつも、天瀬はそれまでの月販500台を1500台へ引き上げることに成功。さらに、天瀬は3ヶ月を掛けて、100億円を要する長期計画を策定します。しかし、この計画は日の目を見ることはありませんでした。それは、またしても石橋が専決した人事が原因でした。
1959年、石橋は住友銀行の堀田頭取の意を受けて、悪名高き男を役員に迎い入れます。小川秀彦、トヨタに最大の屈辱を与えた男です。
1950年、ドッジ不況で苦境に喘ぐトヨタは、メインバンク三行に緊急融資を依頼。しかし、当時住友銀行名古屋支店長だった小川は、トヨタに対し「機屋に貸せても、鍛冶屋には貸せない」と言い放ったのです。そして、融資はおろか、逆に融資金を回収。メインバンクの取引停止により、トヨタの信用は失墜。破綻寸前まで追い詰められます。結局、日銀名古屋支店長高梨の主導によって緊急融資は行われたものの、引き換えに豊田喜一郎は家訓で禁じられた人員整理を断行。責任を取って辞任した喜一郎でしたが、心労が祟り急逝してしまったのです。
石橋は、販売力強化のため運転資金の増強が必須となることを見据えて、取引銀行との関係強化の道を選んだと推察されます。鼻持ちならないこの男は、プリンス自販の社長に就任。早速、横柄な態度で周囲の顰蹙を買うのですが、石橋の威を借る小川に逆らう者は誰もいませんでした。
四つ巴の主導権争いにより、常に混乱する経営。
国土地理院地図・空中写真閲覧サービスより。造成中の村山新工場、1961年撮影。
プリンス自工に戻った外山は、1957年にこれまた壮大な5カ年計画を策定します。旧態依然とした設備を刷新し、国際競争に伍する最新技術を導入するためのものでした。総額250億円という莫大な資金調達を必要とする計画のメインに据えられたのは、40万坪に及ぶ巨大な村山新工場の建設でした。
小川は、この5カ年計画に強行に反対。外山と会議の席上で厳しく対峙します。結局は、石橋の「土地だけでも買ってしまおう」という鶴の一声で会議は決します。5カ年計画は、石橋によって無事承認。早速、担当役員は資金調達に奔走します。資金調達に目処が付くと、今度はこの計画を誰が実行するのか、で役員会は大揉めとなります。富士精密系とたま自動車系の主導権争いです。村山新工場の建設工事でも問題が起こる度に、主導権争いを目的とした責任追及が行われました。
プリンス自動車は、ここから日産への吸収合併へ向けて坂を転がり落ちていくのです。
プリンスが売れると、タイヤが売れない。本業の邪魔だった。
オール自動車メーカーを目指してプリンスを手中に収めた石橋は、ジレンマを抱えていました。トヨタや日産が、競合メーカーのグループ会社のタイヤを装着するのを嫌がるのは当然です。プリンスのクルマが売れるほどに、プリンスの存在がブリヂストンタイヤ販売の足かせとなっていきます。石橋は、ブリヂストンの販売サイドから厳しい突き上げを喰らいます。
プリンスが2代目グロリアのフルモデルチェンジに失敗し、第1回日本グランプリで大惨敗を喫すると、石橋は完全に興味を失ってしまいます。パトロンを失ったプリンスは、最早身売りする以外に道は残されていませんでした。
石橋が小川を役員に受け入れたのは、実はプリンスの売却へ向けた布石だったのです。つまり、1959年の時点で住友の堀田頭取とは既に話が付いていたのです。
ワンマン経営も、小川秀彦も、すべてはプリンス売却への布石だった。
石橋の承認を得るべく、全身メッキだらけで登場した2代目グロリア。当然、鳴かず飛ばずだった。
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技術者ばかりのプリンス自動車の面々には、売れるクルマを造るという認識は一切ありませんでした。世界に伍し、いつかこれを凌駕する自動車が作れれば、必ず売れるに違いないと、安易に考えていたのです。そんな彼らがまとめ上げた、2代目グロリアは石橋から見れば駄作でした。デザインは古臭くシンプルで素っ気ないもので、消費者の購買意欲をまったく刺激しないものでした。石橋は烈火の如く怒り、販売中止を命じます。
期待の新型車は、メッキモールの厚化粧をまとって何とか石橋の承認を得て、発売に漕ぎ着けます。しかし、予想通りに販売は苦戦の連続で、徐々に在庫が膨らんでいきます。
そんな折に、石橋が呼び出したのが外山でした。石橋は、自販への転出を命じます。5カ年計画をぶち上げて巨額投資を決めたのは、他ならぬ外山でした。責任をとって自分で売ってこい、という事です。外山は執拗に抵抗を試みたものの、すべての当ては外れます。1963年4月、外山は自販の副社長に就任します。外山は慣れない販売業務の改善に邁進します。ところが、1963年8月29日に再び不可解な人事異動が発令します。
新たに自販に転出したのは、誰であろう新山春雄でした。販売の経験が無い新山の異動は、まったく異様でした。石橋は、プリンスの幕引きを新山に託したのです。極秘の合併話は、すでに進捗していたのです。
1965年5月31日、プリンス自動車の名が抹消された日。
1965年5月31日午後3時、日本自動車史からひとつのメーカーの名前が永久に抹消されます。東京丸の内パレスホテルにて、住友銀行堀田頭取、日本興業銀行中山頭取を立会人に、石橋会長、小川社長、日産自動車川又社長出席のもと、合併調印式が行われます。合併比率は、だいたい日産1:プリンス2。実態上は、完全な吸収合併でした。
石橋は1963年5月の第1回日本グランプリでの大惨敗に失望し、とっくにプリンスへの興味は失っていました。それ以降、ずっと身売り先を探していたのが実情でした。当初は、住友系の東洋工業(現:マツダ)へ持ちかけるものの、松田恒次はこれを固辞。次に頼ったトヨタは、小川秀彦が出禁だったために頓挫。結局、行き着く先は日産しかなかったのです。
この合併発表は、課長級以上のみは午後5時なって知らさせましたが、社員たちは自宅のニュースで知らされる始末でした。富士精密系とたま自動車双方の取締役にとっても、誰もが寝耳に水の発表でした。
この事実を事前に知っていたのが、石橋と小川のみだったと聞けば、プリンスの晩年が茶番であったことは容易に想像が付きます。小川は全社員に対し、3ヶ月前から秘密裏に交渉していた旨を伝えていますが、これは事実ではありません。商才ある経営者が不在なばかりに、豪腕経営者に振り回されたプリンス自動車。悲運の自動車メーカーとして、今にその名を知られています。