家にいよう。特別企画 クラブ・スバリズム歴史発掘!技術的偉業10選 第7弾「名神高速道路」 [2020年04月24日更新]
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エンジニアなら知っておきたい。技術的偉業10選。
温故知新。古きを知り、新しきを知る。古きものには、様々な知見が内包されています。数多の失敗を重ね、多大な犠牲を払い、偉大な挑戦があって、モノは誕生します。しかし、その中には現代では全く見落とされてしまっているものも少なくありません。だからこそ、新しきを造る人々は、古きものを良く知る必要があるのです。
もちろん、高度に電子化されつつある現代技術と、20世紀の技術には大きな隔たりが存在します。自動車一つとって見ても、中身は全く似て非なるものへと進化を遂げています。
一方で、その本質は何も変わっていません。その本質を突き詰めて見ていく限りに於いては、技術に古いも新しいも無いのです。
ここに列挙したのは、小生が独断で選んだ、特筆すべき技術的偉業の数々です。もし、興味があれば、書籍をご購入の上で詳しく理解されることをお勧めします。
なぜ、名神高速道路が先に開通したのか?
河口湖IC出口にある「中央高速 終点 THE TERMINAL」の看板。高速道路建設史の貴重な生き証人だ。
日本の高速道路として、最初に開通した区間をご存知でしょうか。それは、名神高速道路栗東ー尼崎間です。昭和38年7月15日のことでした。さて、皆さんはこの区間が最初に開業した理由をご存知でしょうか?
そして、もう一つ。中央自動車道富士吉田線河口湖IC出口には、「中央高速 終点 THE TERMINAL」という看板が残されています。この看板が意味するものとは、一体どんなものなのでしょうか?
その理由を知るには、日本の高速道路計画全体を知る必要があります。昭和9年、ナチスドイツはアウトバーン建設計画を発表。昭和14年には重要幹線3,000kmが開通しています。これを受け、日本の内務省は昭和15年に調査を開始。昭和18年には、最高速度120km/hで結ぶ「自動車国道計画」を策定します。この計画は、弾丸道路と呼ばれ、一部で設計も行われていましたが、戦況を鑑み計画は沙汰止みとなります。
当時の日本の道路は酷い惨状でした。高速道路なぞ、夢のまた夢でした。
本州山地を縦貫する高速道路を建設すべき。
田中プランを創案した田中清一。朝日新聞社 / Public domain
戦後、高速道路計画を一人推進した人物がいました。田中清一です。実業家の田中は「田中プラン」なる国土開発計画を作成、GHQから高い評価を受けていました。
田中プランは、本州中央山地を縦貫する幹線自動車道を背骨とし、海岸へ向けて肋骨状に連絡道路を建設するもの。これにより、平野部に集中する人口や産業を、未開発の山地高原へ分散配置しつつ、農業に適した平野部では効率的な大規模農業を行う、という構想でした。明治期の井上の構想に全く合致するのは、偶然では無いでしょう。
この田中プランこそ、中央自動車道の出発点となるものです。田中は、東名高速道路より大回りとなる現ルートではなく、現リニア中央新幹線に沿ったルートを考えていました。つまり、山梨県南部を横断し、南アルプスをトンネルで抜けて、岐阜・中津川に至るルートとしたのです。
しかし、田中プランは致命的な欠陥を抱えていたのです。
国会を舞台に中央道派と東海道派は対峙。
1961年作成の中央自動車道計画線図。中央自動車道(東京ー小牧間)調査報告 土木学会誌第45巻第1号より
当時、建設省は田中案は実現不可能との考えでした。根拠は、5本計画されていた延長5kmに達する長大トンネルが、中央構造線及び糸魚川静岡構造線を貫くという、建設の難易度にありました。それ故、建設省は東海道案を強力に推進したのです。1951年、建設省は弾丸道路の調査を再開します。
対する、中央道案には新たな支援者が現れます。それは、新幹線建設計画を進めていた運輸省です。運輸省は、道路通行料を徴収するのであれば、所管は自らが担うべきと考えていたことに加え、鉄道・道路が同一ルートで提案されれば、必ずや二者択一となるだろうと懸念したのです。そこで、建設省を牽制すべく、中央道案を支持したのです。1955年6月、超党派の国会議員430名の議員立法により国土開発縦貫自動車道建設法案が提案されます。法案可決によって中央道建設を法制化し、東海道案に先んじようとしたのです。
両案は国会を巻き込み、両派は厳しく対峙します。結論に至る雰囲気は全くなく、政府は窮余の策を捻り出します。
名神高速道路は先行着手は、妥協案だった。
ワトキンス報告書に見る国道の惨状。泥濘と化して進むのもままならない。当時は、何処もこんな状況だった。
政府の妥協案は、両案の共通区間である名古屋神戸間の先行着手でした。
1956年には、米国より招聘したワトキンス調査団が、80日渡って精緻な調査を実施。その結果は、名古屋・神戸高速道路調査報告書として建設大臣に提出。この中で、「日本の道路は信じ難い程悪い。工業国にしてこれ程完全にその道路網を無視してきた国は日本の他にない。」と厳しく指摘。さらにGNPの2%まで道路整備財源を増やすべしと提言します。
1956年、日本道路公団法と道路整備特別措置法の改正法が公布。翌年には、建設大臣と運輸大臣の間で高速自動車国道の取り扱いに関する覚書を交換されます。これらにより、高速自動車国道は道路法上の道路とし、建設・管理は建設省の所管とされました。このうち、有料のものは日本道路公団に建設・管理を委ねるものの、施行命令は建設大臣が行うこととされます。
国会の結論が如何にあろうとも、施行命令を行うのは建設大臣です。東海道案の勝利はほぼ確定的でした。
建設省のシナリオ通り、東名を先行建設。
1957年6月21日、国土開発縦貫自動車道建設法案が成立します。ところが、法制化されたのは、中央自動車道のうち、小牧吹田間のみ。中央道と言っても、これは現在の名神高速道路に過ぎません。施行命令は建設大臣の権限ですから、中央道派は為す術がありませんでした。10月16日、中央自動車道西宮線小牧西宮間に施行命令が出されます。
最大の課題は、もちろん財源でした。そこで、公団は世界銀行を頼ることとします。建設省の睨んだ通り、米国から調査団を招聘したのは正解でした。ワトキンス調査団の調査報告書は世界銀行で高い評価を受けたのです。1957年中には、7,800万ドルの融資が具体化しますが、世界銀行は着工優先区間の設定や建設費削減の検討、さらに海外からの技術専門家の招聘を求めます。1958年3月17日、優先着工区間栗東尼崎間に対し、4,000万ドルの融資が締結されます。また、翌年には第二次借款として4,000万ドルが決定。これにより、全建設費の25%の調達に成功します。
クサヘル・ドルシュのグランドデザイン。
現在の新東名高速道路。道路はスムーズかつ美しいカーブを描き、広告看板は一切見当たらない。これも、ドルシュの残した遺産である。
名神高速道路建設のすべてを担ったのは、日本道路公団(現NEXCO)でした。彼らは、全く未知の道路建設に際して、ドイツ人技師クサヘル・ドルシュを招聘しています。
ドルシュは、ナチスドイツでアウトバーン設計に従事した人物であり、以後日本の高速道路建設は彼の思想を忠実に受け継いでいくことになります。
ドルシュは、高速道路は美しく景観にマッチするべきであり、高速走行に最適な設計であるべきと定めました。道路が描く上下左右のカーブは、ドライバーに一切恐怖心を与えてはならず、自動車の挙動に一番スムーズであるよう、ドルシュはすべての図面を厳しく審査をしていったのです。
日本の高速道路が、開通年次が新しいほど広くスムーズになっているのも、一切広告看板が無いのも、市街地ではなく郊外を経由するのも、意欲的かつ先進的な橋梁設計を採用するのも、すべてはドルシュの描いたグランドデザインに基づいているのです。