クラブ・スバリズム特別編「トヨタ・ルマン挑戦の歴史」 [2018年07月07日更新]

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文責:スバルショップ三河安城 和泉店

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担当:余語

 

加藤眞が描いた、ルマン挑戦の夢。

70年代当時、日本人の海外レース挑戦は長らく「叶わぬ夢」でした。本田宗一郎が、二輪の世界グランプリに挑み、F1で勝利を挙げたものの、それだけでした。他のメーカは国内での活動に終始し、海外挑戦はサファリラリー等、散発的なものに留まっていたのです。

日本人のルマン挑戦は、たった一人の無謀な夢に始まります。チーム・サードの創設者、加藤眞です。1991年のマツダの日本車初制覇も、今年のトヨタルマン制覇も、すべては彼の無謀な挑戦に端を発します。

 

日本人、ルマン初挑戦。偉大なる歴史への、小さな一歩。

モータースポーツに只ならぬ情熱を持っていた加藤眞は、当時トヨタ自販の社員でした。父がトヨタ自販の副社長であったため、安定が約束されていた彼ですが、夢を叶えるために1972年にあっさり退職。そして、無謀にも翌1973年のルマン挑戦を企てます。

彼はトヨタの支援を期待してエンジン調達を図るも、これに失敗。加藤は石原慎太郎に必死に頼み込んで、マツダ社長松田耕平を紹介してもらい、何とか調達したのがマツダの2ローターでした。これが、1991年のマツダのルマン制覇に至る長い挑戦の始まりとなります。

迎えた、1973年のルマン。ルマンの厳しさは当然ながら相当のもので、加藤の持ち込んだシグマ・MC73は予選こそ好調だったものの、決勝はトラブルの連続。結果はたった79周でリタイヤとなります。

翌1974年は、後にマツダ・スピードを率いる大橋孝至が参画します。ドライバーも寺田陽次郎らを擁しており、マツダ色の濃いチャレンジとなります。結果は、チェッカーを受けるも義務周回数不足。無念の結果に終わります。以後、ルマンの魅力に取り憑かれたマツダスピードの面々は「メーカーからの妨害」を受けつつ、長く辛い戦いを続けていくことになります。

1975年は、加藤にとって最後のチャレンジ。加藤が持ち込んだのは、自らがチューンしたトヨタの2T-G。KKK製ターボで過給し、360psを得ていました。これが、トヨタ製エンジンの初参戦となります。結果は、エンジントラブルでリタイヤ。資金を使い果たした加藤は、このあと暫くレース界から姿を消します。

日本勢の次なるルマン挑戦は、1979年まで待たねばなりませんでした。

 

マツダと童夢、挑戦は続く。しかし、まったく歯が立たず。

1979年、マツダオート東京(後のマツダスピード)が独自のプライベータ参戦。また、林みのる率いる童夢が2台の零RLフォードで参戦。マツダは、予選不通過。童夢は2台とも決勝に進むものの、1台はオーバーヒートで序盤にリタイヤ。もう1台も、5時間でガス欠リタイヤとなりました。

1980年、マツダオート東京は欠場。一方、童夢は昨年の改良型RL80で参戦。事前にテストを重ね、万全の体制を整えていました。予選から好調で、何と4番手タイムをマーク。しかし、計測ミスを疑われて、決勝はなぜか7番手スタートとなります。決勝ではギアの入りが悪く、序盤の修理に3時間を費やしますが、その後はペースを取り戻し、246周を走って日本勢初の完走を果たします。

そして、この年初めてルマンに姿を現したのが、トムスでした。トムスは、トヨタのワークスドライバーであった舘信秀が設立したレーシングチームであり、トヨタのワークス活動の一翼を担っていました。トムスは"童夢セリカターボ"を持ち込みますが、その出来は酷いもので、ギア比がまったく合っておらず、当然のように予選落ちを喫します。

その後、童夢はトヨタグループCカー開発の主軸となり、トムスはトヨタのワークス活動を担って世界選手権を転戦することになります。

 

史上最強、ルマン無敵の6連勝を飾ったポルシェ956/962C。

1980年代のルマンは、グループCカーの時代でした。エンジン規定はすべて自由で、規定されるのは車両重量と燃費のみ。グループCは、斬新なカテゴリーでした。環境対策に本腰を入れ始めたメーカーは強い興味を持ち、続々と挑戦者が現れます。

そんな彼らを迎え撃ったのは、ポルシェでした。1980年のルマンに勝った936の水平対向6気筒ターボエンジンと、保守的なアルミモノコックのシャシーを組み合わせたのが、伝説のマシン「956」です。1982年のルマンは、956がカーナンバー順の1-2-3フィニッシュで圧勝。手のつけようのない、圧倒的な強さを見せつけます。

そして、1983年以降、この956は一般に「市販」されます。以後、世界中のレースをプライベータの956が席巻。1985年には改良型の962Cに発展し、1987年に至るまでルマン6連勝を飾り、無敵の強さを発揮します。

 

1985年:プライベータにも劣る、当時の日本メーカーの実力。

トヨタのルマン初チャレンジは、1985年。トヨタ製直4ターボを搭載した童夢製の「84C」で、翌1985年のルマンにプライベータとして参戦。結果は、童夢の1台はリタイヤしたものの、トムスの1台が12位で完走。と言っても、この年のルマンは完走が至上命題。エンジン回転数は国内レースよりも相当に落として、只々チェッカーを目指していたのでした。

この年の優勝は、ヨースト・ポルシェ956B。完全無敵のワークス・ポルシェを真っ向勝負で打ち破っての優勝でした。ヨーストは、敵となるRLRの956GTiと結託。互いのスリップストリームを使い合って、ペースと燃費を稼ぐ作戦で、見事に成功したのでした。

回転数を落として、ひたすら完走を目指すだけだったトヨタ。緻密な作戦でワークスを破ったヨースト。当時の日本メーカーのレベルは、プライベータにも劣っていたのです。

 

1986年:好景気だ!ルマンに乗り込め!!・・・全員木っ端微塵に砕け散る。

1986年、日本勢は好景気を背景に大挙してルマンに現れます。

トヨタ、日産、マツダが2台ずつを持ち込む、充実した体制を敷いていました。一方、ポルシェ勢はワークス3台とプライベータ9台がエントリー。また、ジャガーがTWR体制に移行して、いよいよ本格的に動き出します。さらに、ザウバー・メルセデスが今後の試金石とすべく、ルマンに初参戦しています。

予選は当然の如く、ポルシェが上位を占拠。TWRジャガーは5、7、14位。トヨタは、完全に不調。日産に至っては、内紛が発生。まともに走れる状況ではありませんでした。決勝は上位7位までをポルシェのマシンが独占、優勝はワークスポルシェでした。但し、ワークス2台がリタイヤする苦戦となります。

威勢の良かった日本勢は、押しなべて不調。ルマンの厳しさに、完全に打ちのめされた格好です。マツダは早々に全滅。トヨタも振るわず、2台とも完走できず。唯一の完走は日産でしたが、総合16位でトップからは83周も遅れていました。

 

1987年:レース中にリタイヤ原因を解析し、対策を立案。ECU書き換えでレースに勝ったポルシェワークス。

1987年は、予想外の問題がルマンを揺るがします。主催団体ACOが用意したガソリンが、オクタン価の低い粗悪品だったのです。この問題は当初不明だったため、ターボ勢は軒並み原因不明のエンジントラブルを頻発させます。

ワークスポルシェは序盤にリタイヤした1台のエンジンを徹底調査。残る1台のエンジン制御マップを書き換えるという荒業を披露。夜半に猛追を開始すると、上位を独占するジャガー勢をたった1台で撃破。見事優勝を果たします。

日産は欧州で事前テストを重ねるも、次々にエンジンがブロー。決勝用のエンジンまでも使い果たしてしまう大失態。何とか使える部品をかき集めますが、結果は2台ともリタイヤ。

マツダは経験を生かして、徹底した準備を敢行。事前プログラムを正確に実行する作戦。決勝では攻めに転じ、見事7位入賞を果たします。

トヨタは、屈辱的な結果。1台はガス欠でストップ。もう1台は水温上昇の末に、ターボを殺す荒業で完走を目指すも、たった4時間半でヘッドガスケットを吹き抜いてリタイヤ。またしても、悔しい結果に終わります。

 

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