家にいよう。特別企画 クラブ・スバリズム歴史発掘!技術的偉業10選 第1弾「スバル 360」 [2020年04月22日更新]

スバリズム
 
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「家にいよう。」特別企画
 
    2020年4月22日 第1弾「スバル 360」

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文責:スバルショップ三河安城 和泉店

お問い合わせ:0566-92-6115

担当:余語

 

エンジニアなら知っておきたい。技術的偉業10選。

温故知新。古きを知り、新しきを知る。古きものには、様々な知見が内包されています。数多の失敗を重ね、多大な犠牲を払い、偉大な挑戦があって、モノは誕生します。しかし、その中には現代では全く見落とされてしまっているものも少なくありません。だからこそ、新しきを造る人々は、古きものを良く知る必要があるのです。

もちろん、高度に電子化されつつある現代技術と、20世紀の技術には大きな隔たりが存在します。自動車一つとって見ても、中身は全く似て非なるものへと進化を遂げています。

一方で、その本質は何も変わっていません。その本質を突き詰めて見ていく限りに於いては、技術に古いも新しいも無いのです。

ここに列挙したのは、小生が独断で選んだ、特筆すべき技術的偉業の数々です。もし、興味があれば、書籍をご購入の上で詳しく理解されることをお勧めします。

 

翼を失った技術者が味わった、地を這う屈辱。

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「てんとう虫」の名で国民に親しまれ、高度経済成長の象徴として記憶される、スバル・360。その設計は、航空工学を応用した先進的なものでした。

東洋一の航空機メーカーとして、世界に名を馳せた中島飛行機。終戦後、GHQは航空に関するすべての事業を禁止。翼を失った技術者たちは、明日の稼ぎを探して、地を這いつくばる屈辱を味わいます。

放置された資材のジュラルミンを使って、ナベや食器を作ったりもしました。自転車や農機具を作ってみたりもしました。苦労に苦労を重ねていく中で、唯一成功したのが、ラビットスクーターでした。米陸軍のスクーターを参考に造られたこのスクーターは爆発的ヒットとなり、戦後日本の庶民の足として普及していきます。

中島飛行機は、財閥解体によって12の新会社に分割。彼らは日本の再軍備に歩みを合わせ、航空機産業への再参入を夢として再合同を試みますが、新会社に合流できたのはたった5社に過ぎませんでした。

 

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幻のスバル車P-1の失敗から、K-10へ。

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初のフレームレスモノコック構造リヤエンジンバス「ふじ号」Tennen-Gas / CC BY-SA

新生富士重工業は航空事業に加え、自動車事業への参入を決断します。

全く自動車開発の経験のない彼らが初めて市販に漕ぎ着けたのが、画期的な軽乗用車「スバル・360」でした。開発を主導したのは、百瀬晋六。百瀬は帝大航空科で発動機を専攻し、昭和17年に中島へ入社。戦後は、伊勢崎でジュラルミン製のバスボデーを設計。昭和24年には、日本初のフレームレスモノコック構造リヤエンジンバス「ふじ号」の設計を行っていました。

彼らの処女作は、小型乗用車「スバル・1500(開発名:P-1)」。フルモノコック構造を採用し、1500ccの直列4気筒を搭載した意欲作で、予定価格は100万円ほど。しかし、商業的成功が見込めないため、メインバンクの反対で計画は頓挫していました。

このP-1に代わって計画されたのが、軽自動車開発計画構想「K-10」でした。百瀬が目指したのは、庶民のための国民車。しかも、庶民が買える、大人4人乗車が可能な軽乗用車でした。

 

大人4人乗車の軽自動車という無謀な挑戦。

それは全く前代未聞、画期的な挑戦でした。しかし、当時の軽自動車はたった360cc。自動車工学の先人たちは、声を揃えて「無謀な挑戦」だと百瀬に忠告します。しかし、百瀬は頑として信念を曲げませんでした。

当時の自動車は、頑丈なラダーシャシーにボデーを架装したもの。ムダも多く、重量も過大でした。複雑な構造解析が不可能だったからです。

百瀬は航空工学を応用した、バスボデーと同様にフルモノコック構造の導入を考えていました。高度な構造解析が必要ですが、革新的な軽量構造を実現できるため、百瀬は成功への確信があったのです。

外板には0.6mmというペラペラの鉄板を採用しつつ、ボディ全体を3次曲面で包み込むことで、最低限の強度を確保。天井にはFRP、リヤウィンドウをアクリル用いるなど、複合材料を応用した革新的な軽量化を実現しています。

そう、スバル・360は自動車工学ではなく、航空工学を応用して造られたクルマなのです。

 

無謀な挑戦を現実に。万事徹底した軽量化。

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もちろん、ペラペラの外板だけでは必要な強度は確保できません。そこで、床板には1.6mmの鋼板を採用。中央を凸型にプレスすることで、バックボーンフレームとしました。

ただ、それでも目標重量には達しませんでした。そこで、百瀬は、技術者に各部品を粘土で造らせることにしました。

百瀬が指摘した余分な箇所を、カッターで丹念に削らせます。パラパラと落ちた削り粉を集めては、計量。こんな地道な軽量化作業を繰り返し、軽量化を進めていったのです。

エンジンは、ラビットスクータ用エンジンの生産設備を流用して製造される、2サイクル直列2気筒360cc。冷却問題と信頼性確保に悩まされつつも、彼らは漸く満足するエンジンを造り上げます。ちなみに、エンジン屋の本拠は東京・三鷹。これに対し、試験は群馬・太田。彼らは改良のたびに、90kmもの道程をスクータで通ったと言います。

 

トラブルを克服して、赤城山を駆け登れ。

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試作車のテストは、トラブルの連続でした。信頼性はもちろん、性能も不足。トラブルは、特にエンジンに集中します。スタータ、オルターネータなどの補機類のトラブル。クラッチ摩耗、オーバーヒートなどの耐久性の問題。クランクのボルト脱落など品質の問題。何より最大の課題は、カーボンの蓄積でした。2,000kmも走ると、排気ポートが閉塞してしまうのです。エンジン開発責任者の菊池庄司は、自らの進退を覚悟していました。この問題は、あるオイルメーカーからの提案で解決に至ります。添加剤を導入したのです。

厳しい走行試験を繰り返した彼らは、赤城山にある一杯清水と呼ばれる急勾配の征服を目指します。麓からは1100mに達する高低差。ここを大人4人乗車で克服できなければ、日本中何処でも安心して走れることはできない、と考えたのです。

予想した通り、挑戦は失敗続きでした。オーバーヒート、焼付き等々。その度にエンジンを下ろして、改良を加えていきました。

 

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