第58回クラブ・スバリズム開催予告:「チャック・イェーガー〜最速の男の生涯〜その2」 [2021年03月28日更新]
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2021年4月25日は、クラブ・スバリズム:「チャック・イェーガー〜最速の男の生涯〜その2」
2020年12月7日、チャールズ・"チャック"・イェーガーが97歳でこの世を去りました。その名は、航空史上に燦然と輝く伝説です。1947年10月14日、世界では初めて友人超音速飛行に成功。真に勇敢な空軍テストパイロットとして、数々の記録を打ち立てています。
しかし、チャック・イェーガーの記録は、飛行試験だけに留まりません。欧州戦線で11.5機の撃墜を記録したダブルエースであると共に、1944年10月12日には1日で5機を撃墜する"Ace in a day"を成し遂げます。また、11月6日には、Me262ジェット戦闘機2機を撃破、1機を撃墜。これは、史上初のジェット戦闘機の撃墜記録として知られています。
彼は勇敢であるだけでなく、常に冷静に自身をコントロールする異常なまでの強いメンタリティを備えていました。また、少年時代に培った驚異的な視力と身体能力と、学生時代に培った機械への強い興味と理解。彼は、テストパイロットに最も適した「正しい資質(Right Stuff)」を備えていたのです。だからこそ、幾度もの死線を潜り抜け、数々の偉業を成し遂げることができたのです。
1983年の映画「Right Sutff」では主役として描かれ、生涯飛行時間は18,000時間・340もの機種に搭乗したというチャック・イェーガー。今回のスバリズムでは、その類まれな人生に迫ります。
今回は、特別に第1弾をダイジェストでお届けします。奇跡的なチャック・イェーガーの人生の足跡を、是非ご堪能ください。
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番外編
家にいよう。特別企画 クラブ・スバリズム技術的偉業10選
第1弾のおさらい。大自然のど真ん中で生まれた、チャールズ・イェーガー。
イェーガーが青年期を過ごしたウェストバージニア州ハムリン。マイラに比べれば、大都会だった。
Tim Kiser (w:User:Malepheasant), CC BY-SA 2.5, via Wikimedia Commons
チャールズ・エルウッド・"チャック"・イェーガーは、1923年2月13日にウェストバージニア州リンカーン郡マイラに、父アルバートと母スージーの次男として生まれます。マイラは、アルパチア山脈の麓に位置する川沿いの小さな集落。幼少期のイェーガーは好奇心旺盛。自らの経験を通して、大自然で生き抜く術を身に付けていきます。6歳の頃にはライフルでウサギを仕留め、射撃の腕もどんどん上達していきました。優れた視力と類まれな心身のコントロール。イェーガーの素養は、射撃に向いていたのです。
5歳のとき、アルバートは天然ガス田採掘の仕事を得て、数マイル先の小さな町ハムリンに引っ越します。イェーガーの強い興味を惹いたのが、父が仕事で用いる機械の数々。数学的能力に長け、飽くなき好奇心を持ち、そのうえ手先が器用。10代のうちには、ピックアップトラックのエンジンをオーバーホールするまで腕を上げます。並外れた成長は、明らかに天性のものでした。
高校での成績は平凡なもの。彼の興味は勉強よりも、専ら狩猟や釣りにあったからです。高校卒業は、1941年6月。イェーガーが、軍隊への道を歩んだのは時節柄極自然なことでした。9月、陸軍航空軍団(AAC)のリクルータにスカウトされて、入隊を決意します。
凄まじいストレスでも集中力を維持する、イェーガーの特殊な能力。そして、空を飛ぶ喜び。
イェーガーが初めて体験した空の世界。このAT-11(同型機)の後席で、酷い目に遭う。
US Air Force photo, Public domain, via Wikimedia Commons
1941年9月12日、陸軍航空軍に兵士として入隊し、航空機の整備士となります。基礎訓練を受けるうちに、航空機と自動車のエンジンに類似性があることに気付き、メキメキと腕を上げていきます。
初配属先は、カルフォニア州モフェットフィールド。T-6テキサン練習機の整備を担当すると、遺憾なく実力を発揮。早々にクルーチーフを任されたイェーガーですが、彼の生涯初飛行は散々なものでした。、1941年12月、ビーチクラフトAT-11カンザン双発練習機の後部座席に乗り込んだイェーガーの目は、グルグルと廻り始めます。気分は最悪、機内で何度も嘔吐する羽目となったのです。
1942年、陸軍はパイロット志願の規定から20才以上・2年製大学以上という制限を撤廃、高校卒業以上に変更します。ここに、イェーガーがパイロットになる道が開かれます。早速、航空学生に応募したイェーガーですが、パイロットに興味なぞなく、30ドルの安月給が5倍にするのが目的でした。しかし、狩猟で鍛えた抜群の視力と運動神経はパイロットに高い適性があると判断され、1942年7月にイェーガー伍長は見事航空学生に選ばれます。
「飛ぶ喜び、スピード感と爽快感。。。喜びのために叫びたくなるほど幸せな気分にさせてくれる。」何よりイェーガーを魅了したのは、空を飛ぶことの素晴らしさでした。
飛行機酔いを強力な意志と精神力で克服すると、次第に潜在能力が引き出されていきます。飛行時間が15時間に達し、独りで空に出る頃には、クラス一番のパイロットに成長しました。イェーガーは数多の学生の中でも、特に際立つ能力を備えてたのです。それは、凄まじいストレス下でも集中力を維持する、不思議な能力でした。イェーガーは、何に遭遇しようとも全く動じない、驚異的な精神力と冷静さを備えていたのです。
最愛の人、グレニス・ディックハウスとの出会い。死と隣り合わせのパイロットという職務。
イェーガーが基本訓練に取り組んだ、BT-13バリアント練習機(同型機)。
USAF, Public domain, via Wikimedia Commons
カルフォニア州へメットで初等パイロット訓練を終えると、ガードナーフィールドでバルティBT-13バリアント練習機での基本訓練に進み、アリゾナ州ルークフィールドでの高等訓練をパス。1943年3月10日、イェーガーは准尉として、念願のウイングマークを獲得します。パイロットとしての初配属先は、ネバダ州トノパ射爆場の第357戦闘航空群第363戦闘飛行隊。使用機材はベルP-39エアコブラでした。
363FSの30数名のパイロットらは、砂漠上空の訓練空域で何時間もかけては空戦訓練、爆撃訓練に明け暮れます。不安定な飛行特性のP-39に多くのパイロットが苦労する中、イェーガーは印象的な成長を遂げていきます。
ただ、パイロットは危険な職業。ほんの一時の判断ミスや技術の欠如が、死に直結します。357FGでは半年で13名が殉職。勿論、これは当時としても異常なもので、司令官はクビ寸前でした。ただ、イェーガーは殉職した仲間達を真に悼むことはせず、冷静に考えていました。パイロットにとって、生き残ることこそが真の能力。実戦となれば、「弱き者」が真っ先に屠られるからです。
1943年6月、訓練で移動したカルフォルニア州オロビルでは、刺激的な出会いが彼を待っていました。生涯の伴侶、グレニス・ディックハウスです。初めてグレニスに出会ったのは、USO(米国慰問協会)のオフィス。ところが、対応に現れたグレニスは、見るからに不機嫌。ところが、イェーガーは、そんな彼女に一目惚れ。9月にワイオミング州キャスパーに出発する際、漸く彼女の写真をゲットすることに成功し、二人は手紙を書く約束をするのでした。
グレニス・ディックハウスは、後に誰もが知る有名人となります。イェーガーは、自らの愛機にすべて「グラマラス・グレニス」の名を描き込んだからです。
いよいよ、欧州戦線へ。愛機グラマラス・グレンとともに初陣に挑む、イェーガー。
最初の愛機は、P-39エアラコブラ(同型機)。難しい機体をイェーガーは乗りこなした。
イェーガーは出撃を目前に、運命の地を訪れます。オハイオ州ライト・フィールドは、ライト兄弟の兄の名を戴く陸軍航空軍の試験飛行のメッカ。イェーガーは、そこで改良型プロペラを装備したP-39の試験を任じられたのです。ただ、この時のイェーガーは意気軒昂な戦闘機パイロット。まさか、この土地、この仕事に、生涯の全てを賭けることになろうとは、想像だにせぬことでした。
出撃を目前に控えたイェーガーは、キャスパーの基地病院に入院を余儀なくされます。1943年10月23日、400mphで飛行中にP-39のエンジンが突然爆発。どうにか脱出には成功したものの、イェーガーは背中を骨折してしまったのです。グレニスとのデートはフイとなり、イェーガーは失意のまま戦地へと旅立つのでした。
11月23日、357FGはP-39を本国に残し、クィーン・エリザベスに乗り込みます。目指すは同盟国側最後の砦、ナチス・ドイツの猛攻に晒されるイギリス。部隊は、サフォーク州イプスウィッチ近郊のレイドンウッド基地に移動します。配属先は、第8空軍。1943年12月、363FSは早速P-51Bマスタングへの機種転換訓練を開始します。
1944年2月、363FSはP-51Bとともに独本土爆撃を敢行する爆撃機部隊を護衛する戦闘機部隊の最前線基地、北海沿岸のレイストンに移動します。課せられた任務は、ナチス・ドイツ勢力圏を爆撃するB-17やB-24の護衛でした。
イェーガーは、自らの愛機に名を授けます。その名は「グラマラス・グレニス(43-6763)」。妻の名を愛機に冠し、その愛を固く誓ったのです。以後、「グラマラス・グレニス」は、イェーガーのトレードマークとなります。
1944年2月、イェーガーは遂に初陣に臨みます。しかし、戦地は運だけが生死を分ける、残酷な世界。若きパイロットは、その恐怖を初陣で身を以て知るのです。後に、イェーガー自身、初陣が死ぬほど怖かったことを認めています。
8回目の出撃で初撃墜を記録。その翌日に撃墜され、敵地のど真ん中に飛び降りる。
イェーガーらの任務は、ドイツ行きの爆撃編隊を護衛することにあった。
Unknown authorUnknown author, Public domain, via Wikimedia Commons
3月4日、8回目の出撃。イェーガーは、早くもBf109の初撃墜を記録します。ベルリンを昼間爆撃するB-17の護衛任務に就くイェーガーは、13時05分にメッサーシュミットBf190をカッセル南東空域で撃墜。14時15分には、ビッテンベルグ上空でハインケルHe111爆撃機を撃破。たった1ヶ月で、1機撃墜・1機撃破という大戦果を挙げます。若き頃に培った、ハンターとしての素質。冷静な判断力と優れた視力、そして素早い反射神経と身体のコントロール。イェーガーは自らに正しい資質が備わっていることに気付きます。
しかし、大戦果の翌日1944年3月5日。意気軒昂なイェーガーは、人生最大の危機に叩き落とされるのです。B-24爆撃機の護衛任務で、イェーガーは編隊の「しんがり」4番機として戦線に加わります。この4番機は、最も技量に劣る者が務めるのが定め。編隊空戦では、真っ先に狙われる格好の餌食のポジションなのです。
フランス・ボルドーの爆撃地点まで、あと50mileという時。3機のFw190が、後方から襲いかかります。彼らが狙うのは、当然4番機のグラマラス・グレニス。攻撃回避を試みる間もなく、敵弾が鮮やかに貫いていきます。エンジンは炎を拭き上げ、制御ケーブルは切断。機体は制御不能に陥ります。ラダーペダルを蹴飛ばしてスナップロールを試みるも、高度18,000feetで機体を放棄。イェーガーは自らの生存を賭け、我が身を宙に投げ出すしかありませんでした。
イェーガーは恐怖と戦いながら、自由落下に身を委ねます。それは生への執着でした。パラシュートにぶら下がるパイロットは、敵の格好の餌食なのです。8,000feetまで降下すると、リップコードを引いてパラシュートを展開します。ところが、それを1機の血に飢えたFw190が待ち構えていました。眼前に迫り来る、Fw190。死を覚悟したその時、突如一塊の火の玉となってFw190は爆散します。P-51が、後方から狙撃したのです。