人類を宇宙へ。フォン・ブラウンとコロリョフの奇跡の生涯 その3 [2024年10月24日更新]
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フォン・ブラウンの厳しい現実と、コロリョフに差し込む光。
フォン・ブラウンとコロリョフを取り巻く、真逆の環境。
[左]ソビエト宇宙開発を牽引した、セルゲイ・コロリョフ。存在自体が国家最重要機密だったため、残された写真は数少ない。https://archive.org/details/GPN-2002-000163, Public domain, via Wikimedia Commons
[右]ナチス・ドイツでV-2の開発を成功し、米国宇宙開発を牽引したフォン・ブラウン。決して逆境にめげないこの漢が、人類を月へ導くことになる。NACA, Public domain, via Wikimedia Commons
人類を宇宙へ導いた、ヴェルナー・フォン・ブラウンとセルゲイ・パーヴロヴィチ・コロリョフ。戦後、二人の天才科学者を取り巻く環境は、何から何までが真逆でした。自由民主主義国家、アメリカ合衆国。そして、共産主義国家、ソビエト社会主義共和国連邦。自由と粛正。選択と強制。民衆の支持とスターリンの顔色。そして、灼熱の砂漠と極寒の大地。
それでも、両者に一つだけ共通していたもの。それは、如何なる不遇に見舞われようとも、必ずしや人類を宇宙へ導くという、マグマの如く心の底から沸き上がる堅固な決意でした。いつしか、宇宙へ。彼らはロマンチストとして、夢想を馳せてきたのではありません。科学的信念と技術的確信のもとに、リアリストとして着実に歩みを進めていくのです。
フォン・ブラウンが作り上げたV-2ロケットは、1942年10月3日の3回目の打ち上げで高度88kmに到達。1944年6月20日に打ち上げられた「MW 18014」は、高度176kmに達し、人類史上初めて宇宙空間へ達した人工物体となります。それは、人類科学史上誇るべき偉大な成果でした。ただ、この技術的偉業は、万雷の拍手を以て現代世界に受け入れられている訳ではありません。なぜなら、V-2ロケットがナチスの「悪行」とともに象徴的に語り継がれているからです。
たとえ後ろ指刺されても、宇宙へ辿り着くために。
フォン・ブラウンがSS(ナチス親衛隊)のメンバーであり、ミッテルヴェルケで多数のV-2ロケットと共に無数の躯が発見されたという事実は、彼の戦後の立場を屡々難しいものにしました。ユダヤコミュニティが深く浸透した米国では、そもそも元SSメンバーなぞ招かられざる客であり、その存在自体が忌むべきもの。その上、ナチス・ドイツの主要メンバーが尽く自殺していたこともあって、フォン・ブラウンは図らずも旧ナチスを象徴する存在とさえなっていたのです。
ただ、フォン・ブラウンが自らに課した使命は、大衆に迎合することでも、米国人になりきることでもなく、人類を宇宙へ導くこと。フォン・ブラウン少年が、VfRのメンバーの制止を聞かず、ドルンベルガーの誘いに乗ったのも、投降先に米国を選んだのも、元SSとしての批判に黙して耐えるのも、すべては宇宙へ一歩近付くため。この時、フォン・ブラウンは、確信していました。世界随一の超大国であり、世界唯一の核保有国であり、戦勝国たる米国ならば、必ずや潤沢な予算と理想的な開発環境が提供されるであろうと。ところが、米国だからこそ、戦勝国だからこそ、ロケット開発は停滞するのです。核独占を果たした米国は、喉から手が出るほどには、弾道ミサイルを欲してはいませんでした。フォン・ブラウンは、存外の停滞を強いられることになるのです。
安泰の地位を得たコロリョフとフォン・ブラウンの苦悩。
コリマ鉱山での強制労働を生き抜き、シャラシュカでの過酷な労働に耐え抜いたコロリョフには、漸く運が向いてきていました。1946年8月9日、軍需大臣ドミトリー・ウスチノフから、長距離弾道ミサイル開発を担う研究所NII-88第3部の主任設計者に任じられたのです。このことは、ソビエトの大型ロケット開発がすべて、コロリョフの指揮下に入ったことを示していました。コロリョフは大願成就へ向けて、大きな一歩を踏み出していたのです。
コロリョフに課せられた任務は、相変わらずV-2ロケットの「廃品回収」でしたが、彼の面前には前途洋々たる視界が開けていたことでしょう。顔にはすっかり生気が戻り、目は黒く澄んだ光を湛え、軍服が板につくほど恰幅も良くなっていました。
思うに任せない状況に悩むフォン・ブラウンに対し、厳しい環境下でも前を見据えていたコロリョフ。V-2ロケットを自ら作り上げたフォン・ブラウンに対し、これからV-2ロケットを学ぼうとしているコロリョフ。その差は、依然として歴然としていました。しかし、11年後に大願成就を果たしたのは、コロリョフの方でした。ここから、コロリョフの人生を掛けた大逆転劇が幕を開けます。戦後数年間の停滞が、スプートニクで先を越されるに至る大きな差となって現れることになるのです。
米核開発に焦りを見せない、不気味なスターリン。
トリニティ実験の成功で幕を開けた、核の時代。
50〜60年代は、核の時代。自由民主主義陣営を牽引する米国と、共産主義国家を指導するソビエト。両者は1945年2月のヤルタ会談の時点で、来る時代は米ソ対立が先鋭化するであろうことを既に認識していました。ただ、米国には確かな勝算がありました。マンハッタン計画は順調に進行し、人類が今だ目にしたことのない強力な兵器は、刻一刻と完成に近づいていたからです。
時代を制する者は、常に強者です。海を制する者が大航海時代を制し、空を制する者が第二次大戦を制しました。であるなら、究極の兵器を独占することができるのなら、疑いなく時代を制することができるはず。
1945年7月16日午前5時29分45秒、ニューメキシコ州ホワイトサンズ近郊の人々は不思議な体験をします。突如、空が昼間よりも明るく輝くと、しばらく後に窓ガラスがガタガ音を立てて揺れ始めたのです。これを唯一報じたのは、アラモゴード空軍基地のプレスリリースのみ。曰く、「遠隔地の火薬庫が爆発したが、死者・負傷者は出なかった。」
これこそ、人類が悪魔の鉾を手にした瞬間でした。トリニティ実験に成功し、マンハッタン計画が遂に結実したのです。地表への最大効果を得るため、鉄塔の高さ20mに据え付けられた史上初の原子爆弾は、悪魔の閃光を放つと、衝撃波で大地を焼き尽くします。
核開発成功に顔色ひとつ変えない、スターリンの余裕。
UK National Archives, Public domain, via Wikimedia Commons
「ガジェット」と命名されたインプロージョン方式原子爆弾は、TNT換算で約19ktという途方もない及ぶエネルギーを放出。地面に深さ3m、直径330mものクレータを形成し、トリニタイトという未見の鉱物を生成します。トリニティ実験に成功した米国は、8月6日に広島(リトルボーイ:核出力15kt)、8月9日には長崎(ファットマン:20kt)に投下。民間人を含む20万人もの無抵抗の市民を焼き尽くします。8月15日。大日本帝国が無条件降伏。この瞬間、唯一の超大国として、唯一の核保有国として、米国は不可分・不可侵の絶対的地位を手に入れるのです。
当然、この状況はスターリンにとって最悪でした。なぜなら、欧州戦線で最も多くの血を流したのは、グレートブリテン島にこもったままの英国でもなく、電撃戦であっという間に駆逐されたフランスでもなく、遥か大西洋を渡ってきた米国でもなく、偉大なスターリン同志に導かれたソビエト赤軍将兵だったからです。
しかし、当のスターリンには全く焦りはありませんでした。ソビエトには勝算があったのです。ヤルタ会談の席上、「強力な新型兵器」の開発成功を告げたハリー・トルーマンは、想定外のスターリンの反応にショックを受けます。スターリンは、顔色一つ変えなかったのです。その満ち溢れた自身の源が、世界に散らばる同志の忠誠心にあることを、トルーマンはまだ知りませんでした。
米国政府中枢を蝕んでいた、恐るべきソビエトスパイ。
鉄のカーテンで閉ざされたソビエトを世界と繋ぐもの、それはスパイでした。彼らは、すべてが全て熱心な共産主義者であり、共産革命の実現という崇高な任務に殉じる覚悟を以て情報収集・提供にあたっていました。自らの活動が世界の労働者を開放する一助になる、人類を理想社会へ導く一歩になる、彼らには堅固な確信と強靭な信念がありました。
ただ、スパイはネットワークであり、一度たりとも身元が露呈すれば、芋づる式に一網打尽となるリスクがあります。死を目前にしても、決して口を割らず、理想のために潔く自らを処分できる。そういう人物であることが求められました。
一方、1943年から1980年にかけて、米英情報機関は暗号電文を解読する「ヴェノナ計画」を極秘裏に進めていました。その報告書であるヴェノナ文書に秘められていたのは、米国民驚愕の事実でした。財務官僚、情報機関、司法、主要官庁、軍などの国家中枢に加えて、研究機関やマスコミにまでソビエトのエージェントが潜んでいたのです。ソビエトスパイは、米国の重要政策の決定プロセスに関与した他、対日参戦への世論形成に関与した形跡まで確認されました。すべてはスターリンに筒抜けであり、スターリンの思し召し通りだったのです。スターリンには、したり顔のトルーマンが随分滑稽に見えたことでしょう。
世界の裏で蠢く、ソビエトスパイの恐怖。
恐怖の二重スパイ、キム・フィルビーという男。
ソビエトNKVDの二重スパイ、キム・フィルビー。
[1], Public domain, via Wikimedia Commons
その究極的存在で知られているのが、キム・フィルビーです。英国の上流階級に生まれたフィルビーは共産主義に共鳴。知人を介してNKVDのスパイとなります。ジャーナリストとなったフィルビーは、スペイン内戦ではタイムズ紙の特派員として活動。フランコ将軍側から発信を行い、赤十字功賞を受賞します。1940年、「盟友」バージェスの紹介を受け、英国情報機関SISに入局。敵国の諜報活動を監視するMI6のセクションVに配属されます。フィルビーの評価は高く、同僚の信頼も厚いものがありました。
表の顔は、優秀な諜報員。その実は、ソビエトの二重スパイ。フィルビーは米英情報機関の中枢で暗躍します。当直の際にソビエトに関する情報をチェックし、有用な情報は駐米ソビエト大使館員に偽装したNKVD部員に手渡されました。しかし、当のソビエト側はフィルビーを全面的に信用してはいませんでした。フィルビーの情報に幾つか決定的なミスがあり、その信憑性を疑っていたのです。そこで、ソビエト側はSISのスパイに関する情報を求めますが、フィルビーが諜報員は存在しないと報告したために、ソビエト側は強い疑念を抱きます。
1945年8月、事件が起こります。在トルコのNKVD副部長コンスタンティン・ヴォルコフが金銭と引き換えに英国への亡命を申請したのです。この際、ヴォルコフは英国情報機関幹部がソビエトのスパイであるという驚愕の情報を仄めかします。
自らの理想のために犠牲を厭わない、ソビエトスパイ。
英国情報機関は、有ろう事かフィルビーに捜査を一任。フィルビーは、この危機的状況を利用して、ヴォルコフをNKVDに拉致させてモスクワに連行することを企てます。意図的にたっぷりと3週間を掛けてフィルビーがトルコに到着した時、ヴォルコフ夫妻は既に行方知れず。夫妻は、包帯でグルグル巻きにされて、輸送機で強制連行。拷問の末に、処刑されることになるのです。後に、ヴォルコフついて「厄介な作品」とフィルビーは軽蔑的に表現した、フィルビー。当然、関与が疑われる立場にありましたが、ヴォルコフの電話がソビエト側に盗聴されていたことが発覚したことで、うまく難を逃れます。
翌年、トルコに一等書記官として赴任。SISでの任務は、ソビエトの衛星国家に対する共産政権転覆工作。難民を工作員に仕立て、クーデターを起こさせるというもの。ところが、示し合わせかのように工作員は潜入直後に逮捕され、尽く処刑されます。何処かから情報が漏れているのは、明白でした。アルバニアでは約200名が捉えられ、その家族を含め数千人が処刑されることになります。
ただ、米英も指を咥えて見ていた訳ではありません。MI5は、早い段階からフィルビーを疑っており、フィルビーの学生時代からの盟友ドナルド・マクリーンがスパイであることは、ヴェノナ計画の進展により既に確実視されていました。
情報機関トップがスパイ。妻を裏切りソビエトへ亡命。
1949年9月、フィルビーは英国一等書記官として、SISの在ワシントン主席代表として、米CIAとの窓口となります。そこで知ったのは、ソビエトの暗号が既に解読されていること。そして、マクリーン夫妻の関与を決定付ける具体的な情報でした。
彼らを取り巻く状況は次第に悪化していきます。そこで、フィルビーはバージェスを使ってマクリーンに直接危険を伝えるため、素行の悪いバージェスに3回スピード違反させると、これを理由にロンドンに強制送還。状況を理解したマクリーンはSISの尋問を目前にして、突然行方をくらませます。二人は無事ソビエトへ逃げおおせたのです。当然、第三の男として関与が疑われたフィルビーは、ロンドンでMI5の尋問を受けます。1951年、これを期にフィルビーはMI6を辞し、スパイ活動も停止します。
1955年10月、NYタイムズ紙がフィルビーが第三の男であるとスクープ。これに対し、フィルビーは弁明記者会見を開き、関与を否定。「私は共産主義者であったことはない」と宣言し、無実を主張します。1956年、フィルビーはMI6に復帰しますが、強いストレスにより生活は次第に悪化。1962年末には、同僚の厳しい追求に負け、遂に自白に至ります。ところが、フィルビーは尋問の延期を要求します。1963年1月23日、妻との会食の時間に現れないフィルビーは、そのままソビエトへ亡命。7月、ソビエト当局はフィルビーの政治亡命を公式に認めます。一説には、杜撰な実態の追求を恐れたSISが、亡命を見逃したとも言われます。
ソビエトに筒抜けだった、マンハッタン計画。
マンハッタン計画の中枢で蠢くソビエトスパイ。
[左]ドイツ共産党員であったクラウス・フックスは、自らソビエトと接触。スパイとなって、マンハッタン計画の重要情報をソビエトに提供した。The National Archives UK, Public domain, via Wikimedia Commons
[右]日本で逮捕され、死刑に処されたリヒャルト・ゾルゲ。上海で尾崎秀実と知遇を得て、オルグに成功。その後、日本に活動の舞台を移し、ドイツの大使館員として働きつつスパイ活動を行ったが、1942年に逮捕されている。
米英情報機関中枢に複数のエージェントを確保しているのですから、スターリンの余裕も理解できようもの。ホワイトハウスには機密なぞ存在せず、すべてはソビエト側に筒抜けでした。そして、スターリンはこのスパイネットワークを活用して、米国の核独占を阻止してしまうのです。ただ、それは周到な画策というより、偶然が功を奏した結果でした。
ヴェノナ計画で真っ先に引っ掛かったのは、1950年に逮捕された物理学者クラウス・フックスでした。ドイツに生まれたフックスは、1932年にドイツ共産党に入党。その後、家族を伝を頼ってイギリスに逃れると、そこで物理学の博士号を得ます。1940年にドイツ国民として拘束されるも、釈放されてイギリス軍の核開発に関与。1942年にはイギリスに帰化しています。
独ソ戦勃発を知ったフックスは、イギリスの軍事研究に関する情報を提供すべく、自らソビエト側との接触を試みます。1941年8月、かのリヒャルト・ゾルゲの部下等に接触。コードネームを与えられ、正式にスパイとなります。
1943年、フックスは米国に渡ると、ロスアラモスで理論物理学者として原子爆弾及び水素爆弾の開発に関与。臨界計算の分野で、大いに貢献を果たします。ただ、その間もソビエトとの接触は継続しており、設計・製造に関する重要機密情報を流し続けます。
存外に軽い刑期で済んだ、クラウス・フックス。
1950年、フックスは遂にイギリスのMI5の捜査の網にかかります。そして、尋問の中でスパイであることを自白。3月1日、潜在的な敵に情報を提供した罪で、懲役14年に処されます。刑が存外に軽いのは、英国ではソビエトが依然同盟国に分類されていたため。英国国籍を剥奪されたフックスは1959年6月に出所すると、東ドイツに移住。核関連の研究分野で多大な功績を残します。
フックスに続いて逮捕されたのが、在米ユダヤ人のローゼンバーグ夫妻でした。夫ジュリアスは、大恐慌の最中に米国共産党に入党、1942年にNKVDのスパイとなります。陸軍通信部隊工学研究所でエンジニアとして働くも、1945年に共産党員との事実が発覚して解雇されます。ジュリアスは、近接信管やロッキードP-80の設計図面を含む何千もの有益なレポートをソビエトに提供。さらに、ロスアラモス国立研究所に勤務していた妻の弟デイヴィッド・グリーングラスをNKVDに推薦。グリーングラスを通じて得た核開発に関する機密情報をもソビエトに提供。妻エセルは、グリーングラスからの情報をタイプライターで打ち出す役目を負っていました。
1950年6月15日、グリーングラスがFBIに逮捕。間もなく、グリーングラスはローゼンバーグ夫妻の関与を告白します。そして、7月17日。ローゼンバーグ夫妻はスパイ行為の疑いで逮捕されます。
厳しい極刑に処された、ローゼンバーグ夫妻。
1950年にスパイ容疑で逮捕された、ローゼンバーグ夫妻。マンハッタン計画の重要情報をソビエトに提供し、その核開発を支援した。Roger Higgins, photographer from "New York World-Telegram and the Sun", Public domain, via Wikimedia Commons
フックスが比較的軽い刑期で済んだのに対し、ローゼンバーグ夫妻を待っていたのは、極刑との厳しい判断でした。その明暗を分けたのが、相手が米国だったこと。2月8日、米国政府高官20名は事件の取扱いについて秘密会合を行い、夫妻に厳しい判決を下すべき、との結論に至っていたのです。グリーングラスが司法取引に応じて、夫妻に関する重要な証言を行ったのに対し、夫妻は司法側からの提示を拒否。夫妻は一切の供述を拒否したまま、1951年4月5日に米国司法はスパイ活動法第2条に基づき、死刑を宣告。ソビエトの息が掛かった文化人は不当判決と一斉に意見表明を始めるも、1953年6月19日に2名に死刑が執行されます。
フックスやローゼンバーグがソビエトの原子爆弾開発にもたらした貢献は、ソビエトの科学アカデミーの成果を雲散霧消させるほどのインパクトがありました。米国に遅れること、たった4年。1949年8月29日午前7時00分、ソビエトはセミパラチンスク核実験場でRDS-1の核実験に成功。米国の核独占を打破し、史上2カ国目の核保有国に名乗りを挙げます。
このRDS-1は、長崎に投下されたインプロージョン方式プルトニウム原爆「ファットマン」と瓜二つ。ソビエトの核物理学者のみでは、RDS-1の実現は到底不可能でした。停滞していた開発を加速するには、スパイのもたらすインテリジェンスが不可欠だったのです。
共産スパイの希望の灯火が、世界を核の恐怖に晒す。
ソビエトのスパイらは、世界に共産革命の波を巻き起こすことに命を賭けていました。RDS-1の放つ狂気の閃光は、彼らには世界を解き放つ希望の灯火に見えたことでしょう。しかし、結局彼らが生み出したのは、共産革命ではなく、核の恫喝が世界を覆う闇の時代。核拡散という人類最大の負債は、この21世紀に至っても私達を苦しめ続けていることは忘れてはなりません。
そして、ここに一人風変わりなスパイが登場します。セオドア・ホールという若輩の物理学者です。若干19歳でロスアラモスに採用されるという驚くべき経歴を持つこの若者は、自ら米国共産党を訪れ、その勧めに従ってソビエト側と接触します。そして、ファットマンのインプロージョン方式に関する、詳細かつ具体的な情報を提供したのです。
ホールは不思議なことに、共産主義者ではありませんでした。ホールを突き動かした動機は、米国の核独占に対する懸念でした。米国にファシスト政権が誕生し、世界を核で恫喝することを危惧していたのです。そのため、ホールはローゼンバーグ夫妻やフックスの存在を知らず、互いに接触することはなかったとされています。それ故、本人が1990年代に自ら告白するまで、FBIの捜査網にかからなかったのです。実際には、1951年3月に当局から尋問されるも、起訴されないままでした。
スパイ活動で熱核爆弾開発に成功したソビエト。
最適解を得るのに10ヶ月を要した、衝撃波計算。
世界初の電子式デジタルコンピュータ、ENIAC。米陸軍の要求によって開発されたもので、当初は砲撃の射表作成を目的としていたが、マンハッタン計画を主導するフォン・ノイマンにより、熱核爆弾の爆縮の計算に用いられることになる。U.S. Army Photo, Public domain, via Wikimedia Commons
米国の核独占は、親愛なる米国民によっていとも容易く打ち壊され、ソビエトの核保有を機会に、世界は核戦力を以て二分されることになります。以後、米ソは競って核実験を繰り返し、地球を死の灰で覆い尽くしていくのです。
核爆弾はマッチで火を付けても炸裂しません。核分裂物質が臨界条件を満たした時、核分裂が始まり、連鎖反応が超臨界状態を作り出して、凄まじいエネルギーを発生させます。臨界量とは、核分裂物質が臨界条件を満たす最低質量。臨界量16kgのプルトニウムは、これを一塊にすれば、核分裂の連鎖反応が自然的に開始されます。
広島に投下されたリトルボーイは、ガンバレル型と呼ばれる方式。半球状のウランを間隔を置いて配置し、一方のウランを炸薬で押し出すことで、一塊にして臨界量に達せるものです。この方式は無駄が多く、リトルボーイで実際に核分裂反応を起こしたのは、1kg程度に留まりました。これに対し、より難易度が高いのがインプロージョン方式です。球体状の周囲に配置した爆薬を同時炸裂させることで、中心に置いたプルトニウムのコアを衝撃波で均一に圧縮して、超臨界状態を生み出すものです。マンハッタン計画では、フォン・ノイマンらが最適な衝撃波の計算の解を得るのに、10ヶ月を要したと言われています。
加速していく、破壊への欲望。熱核爆弾という狂気。
1952年11月1日、人類は熱核爆弾を目にすることになる。10Mtを超える凄まじい威力により、マイク実験装置が設置されたエルゲラブ島は跡形もなく消滅した。Photo courtesy of National Nuclear Security Administration / Nevada Site Office, Public domain, via Wikimedia Commons
ウラン資源に乏しいソビエトは、効率的なインプロージョン方式を早々に実現すべく、スパイからのインテリジェンスで賄おうとします。フックスやホールがもたらした、ウラン濃縮やプルトニウム分離技術、インプロージョン方式に関する情報は、RDS-1の設計に活用されて大いに開発を促進します。そして、ホールの望み通りに4年に渡った米国の核独占に終止符を打つのです。
原子爆弾を手にした米ソは、その威力を強化すべく、熱核爆弾(水素爆弾)の実現を目指します。熱核爆弾は、原子爆弾のエネルギーで三重水素を圧縮・加熱して臨界状態として、核融合反応により出力を劇的に強化するもの。インプロージョン方式を応用したテラー・ウラム型では、更に複雑な計算が不可欠です。
1952年11月1日、米国はアイビー作戦マイク実験を実施します。太平洋上のエニウェトク環礁エルゲラブ島に据えられたマイク実験装置は、燃料に液体重水素を用いたがために、冷却装置も含めると73.8tにも達する重重量物。ただ、その核出力はファットマンの500倍、TNT換算で10.4Mtに到達。島は跡形もなく消滅し、そこには直径1.9km、深さ50mのクレータが残されました。マイクは、水爆の絶望的な威力をまざまざと見せ付け、人々に世界の終末が近いことを痛感せしめたのです。
原子爆弾の1000倍にも達する熱核爆弾の威力。
遅れること9ヶ月。ソビエトは、1953年8月12日にブースト型核分裂爆弾RDS-6の実験を実施します。ただ、RDS-6はテラー・ウラム型ではなく、核融合反応が不完全な方式のため、核出力はマイクを大きく下回る400ktに過ぎませんでした。しかし、ソビエトはメガトン級熱核爆弾の実験成功と誇張したプロパガンダを展開。米国政府を震撼させるべく揺さぶりをかけます。
液体水素を用いたマイクは、到底運搬は不可能。そこで、米ソ核技術者たちは爆撃機への搭載を目指して、液体水素を水素化リチウムに置き換えることによる小型軽量化を推し進めます。1954年3月1日、米国は水素化リチウムを用いたキャッスル作戦ブラボー実験を実施します。ところが、この際6Mtと想定していた核出力が15Mtにも達したため、放射性降下物が予想を超えた範囲に降り注ぎ、第5福竜丸の他、マーシャル諸島の住民に夥しい被害を強いることとなります。
これに対し、ソビエトは1955年11月22日、初のテラー・ウラム型熱核爆弾RDS-37の実験を実施。核出力は1.6Mtに到達。米ソは、ここに熱核爆弾を自らのもとのとし、人類を壊滅へ導く、悪魔の鉾を手にすることになります。世界終末時計は為す術なく、残り2分まで針を進めるのです。
核戦争は、世界人類の破滅へのキックオフ。
ただ、核兵器は手元にあるだけでは、何ら意味を成しません。相手の喉元にナイフを突きつけるために、確実に運搬する手段が必要です。そして近い将来には、より重量の嵩む熱核爆弾を運搬する手段が不可欠となることは明らかでした。
米国は、1946年に陸軍航空軍に戦略航空軍団(SAC)をいち早く設立。核攻撃任務を独占します。当初の主力はB-29でしたが、1949年には空前絶後の巨大プロペラ爆撃機B-36ピースメーカーの配備を開始。来るべき日に備えるため、連日猛烈な訓練を実施。SACは、常時核即応体制を維持していました。
SACに命令が下る時、それは世界の終焉へのカウントダウンです。遥か北東を見据えるレーダが、ソビエト爆撃編隊の襲来を告げます。真っ先に離陸するのは、太平洋上でソビエト爆撃編隊の壊滅を期す迎撃戦闘機部隊と大量の空中給油機。そして、腹に核爆弾を抱えたB-36稼働全機が離陸を開始します。ソビエト爆撃編隊と会敵した迎撃戦闘機は、1発たりとも核爆撃を成功させぬため、悲壮な迎撃戦を展開。爆撃編隊はそれを横目に見つつ、空中給油機の支援を受けて、遥かユーラシア大陸を目指します。仇敵ソビエトを核の閃光で焼き尽くすために。しかし、彼らもまた、その多くは迎撃戦闘機の餌食になるはず。
悪魔の杖を巡って巻き起こる、米3軍の縄張り争い。
勝てども、負けども、結末は同じ。核戦争とは、そういうものです。例え、この戦闘に生き残ったとしても、大した意味はありません。家族はソビエトの核攻撃で既に焼き尽くされているでしょうし、基地は跡形もなく壊滅しているでしょうから。そして、間もなく世界に死の灰が降り注ぎ、人類は何れ絶滅することになるのです。。。
核兵器の運搬手段、それは戦略核攻撃に際して重大かつ最優先の課題でした。第二次大戦時、米国は重爆撃機によって核攻撃を行いました。ただ、核兵器の小型軽量化が進み、大型超射程ミサイルが実用化されれば、洋上艦隊からの核攻撃や、地上基地からの直接的な遠距離打撃も可能になります。空・海・陸・・・米軍では、核戦力を巡って3軍の縄張り争いが始まってしまうのです。
1947年に陸軍から晴れて独立を果たした空軍はB-36の大量配備を主張し、通常戦力の超大型空母を求める海軍と深刻な対立に陥ります。海軍上層部は空母ユナイテッド・ステーツの建造中止を巡って、公然と国防長官を批判。遂には、空軍と国防長官の汚職を匂わせる怪文書が出回る事態となります。「提督たちの反乱」と呼ばれるこの一件は、国防長官による海軍長官の解任という大事件へと発展します。
ナチスの影で、辛酸を嘗めるフォン・ブラウン。
米国には存在しないはずのドイツ人は、戦利品。
米本土に移送された、ドイツ人技術者ら。See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons
フォン・ブラウンはV-2ロケット同様、兵器開発を宇宙開発へ繋げることに賭けていました。それには、陸軍が長距離弾道ミサイル開発に着手することを決断せねばなりません。しかも、陸軍がその決断を下し、フォン・ブラウンを米国陸軍弾道ミサイル局の技術責任者に据えてもらわねばならないのです。大願成就には、気の遠くなるような数のハードルを乗り越えねばならず、奇跡のような幸運に頼らねばなりませんでした。
何しろ、フォン・ブラウンはこの時点では、米国には存在していないはずの人間でした。ペーネミュンデのメンバーが、米国陸軍中枢にいて、国家の安全保障に貢献している。この事実を米国国民が受け入れるには、まだ時間が必要だったのです。そのため、彼らの存在は秘匿されており、家族は依然ドイツで集団生活を送っていました。当時、大洋を越えれば、そこは異世界。彼らには、家族がどれだけ恋しく、どれだけ遠く感じられたことでしょう。
合衆国政府とフォン・ブラウンらの間に結ばれた「契約期間」は1年ほど。しかし、それで開放されると考えている「ドイツ人」は、誰一人いませんでした。彼らは招待されたのではなく、戦利品として連行された身分なのですから。
フォン・ブラウンを待ち受ける、大衆の支持という壁。
ただ、米国らしいのは、彼らにも幾らかの自由が認められていたことです。監視付きながらエル・パソの繁華街へ行くことが可能で、映画を楽しむこともできたのです。それは、自国民でさえも、自由はおろか命まで奪うソビエトとは全く真逆でした。
かのポルシェ博士がそうであったように、専制国家では指導者の支持があれば、何でも自由に行うことができました。コロリョフは、スターリンの顔色さえ伺っていれば、凡そ道を踏み外すことは考えられません。しかし、民主国家ではそうはいきません。大衆の支持が無くては、巨額の予算を必要とするプロジェクトを進めることはできません。特に、大統領制の国家ではそれは顕著です。実際に、途方も無い予算を吸い尽くすアポロ計画は、大衆の支持を失って中断を余儀なくされることになるのです。
人間が、宇宙を目指すとき。真っ先に準備すべきは、優秀な宇宙飛行士でも、有能な科学者・技術者でもありません。一丁目一番地は、予算です。その予算を確保せねば、ただの一歩も宇宙へ近付くことはあり得ません。大統領制の米国では、大衆の支持こそが、すべての糧となるのです。今、米国国民が何よりも恐れるのは、ソビエトの核攻撃の脅威でした。であるならば、フォン・ブラウンが大願成就を果たすのに適切なのは、核の脅威を和らげること。すなわち、弾道ミサイル開発への貢献が必要でした。
ヘルメス計画始動。米国初の本格ロケット開発。
1944年11月15日、米国陸軍兵器科とゼネラル・エレクトリックとの共同研究として、ヘルメス計画が始動します。ヘルメス計画は、地上目標と高高度航空機の双方に使用可能な長距離ミサイルの開発を目的としたもので、ロバート・ゴダードの挑戦以来途絶えていた米国ロケット開発がここに本格的にスタートすることになります。これに備えて、陸軍は1945年7月9日にホワイトサンズ試験場を設立。その7日後には、試験場北方にてトリニティ実験が実施されます。
ヘルメス計画は、ミサイルシステム及び遠隔制御装置、地上装置、射撃管制装置、ホーミング装置に関して、調査、研究、実験、設計、開発、試作をGE社に命じるものでした。当初計画されたのは、A1、A2、A3の3つのプログラムで、対空システムの実現を目指すA1、A1の無翼機・A2、射程150マイルで1000lbsの弾頭をCEP200ft以下で命中させる戦術ミサイルシステムのA3。これらのうち、実際の装備に結実したのは、後に地対空ミサイルのパイオニアであるナイキ計画に発展したA1のみ。A2、A3は研究のみに留まっています。その決断の背景にあったのが、トフトイの果敢な作戦の末に米国大陸に辿り着いたV-2ロケットでした。圧倒的なV-2ロケットの性能を前に、ヘルメス計画の主眼はV-2ロケットの調査研究へと、大きく内容を転じていくのです。
米国初の本格ロケット開発、ヘルメス計画。
ヘルメス計画、その実態はV-2ロケットの評価試験。
[左]米国ニューメキシコ州ホワイトサンズ試験場で、発射準備が進められるV-2ロケット。ドイツで回収されたV-2は、GE社のスタッフによって再整備され、発射実験に用いられた。ただ、成功率が低いことから判断する限り、ソビエトで再生産されたV-2に比較して、品質は良くなかったようである。US Navy, Public domain, via Wikimedia Commons
[右]落下したV-2ロケットから、計測機器の回収を試みる陸軍関係者。この頃の実験では、パラシュートによる回収は尽く失敗に終わった。Solar Physics Branch, NRL, Public domain, via Wikimedia Commons
1946年4月16日、陸軍ホワイトサンズ試験場から最初のV-2ロケットが打ち上げられます。ところが、発射19.5秒後にテールフィンが故障。試験は失敗に終わりますが、2回目以降は順調に飛行を重ね、2週間に1度のペースで打ち上げが行われていきます。
ただ、フォン・ブラウンと彼のチームに与えられた最初の仕事は、自らの作品たるV-2ロケットに関する資料の整理・翻訳。そして、再組み立ての支援及びヘルメス計画に従事するゼネラル・エレクトリックの技術者らを教育することでした。依然として囚われの身の彼らは、支援者であり、傍観者に過ぎなかったのです。
ナチスの作り上げたV-2は、他を圧倒する技術水準に到達していました。V-2を利用することは確かに目的達成への最短経路でしたが、それは米国科学技術の敗退を意味していたのです。米国国民の反発を考慮する限り、事はそう単純ではないのです。
1946年初め、ヘルメス計画は重要なステップを迎えます。陸海軍及び学術機関による産学協同の上層大気研究パネルが結成されたのです。上層大気研究パネルはロケット単体の研究に加えて、上層大気、太陽放射、X線天文学に関する理解を進めることを目的にしていました。これに伴い、忌まわしき報復兵器V-2ロケットは、その名も新たにV-2観測ロケットへと進化を遂げるのです。
V-2観測ロケットが、人類史上初めて地球を撮影する。
1946年10月24日、V-2ロケットは人類初の偉業を達成する。宇宙空間からの地球の撮影に成功したのだ。人類は初めて、地球の姿を見たのである。White Sands Missile Range / Applied Physics Laboratory, Public domain, via Wikimedia Commons
ペイロードは、重量2,200lbs(1,000kg)の爆発性弾頭から、凡そ1,200lbsの計装パッケージに換装。また、計測データを地面への衝突の衝撃から保護するため、降下プロセスでロケットの構造をダイナマイトで意図的に破壊し、空気抵抗で落下速度を亜音速に減じるよう設計されていました。ロケットの打ち上げ重量は28,000lbs(13,000kg)で、その重量の2/3は液体燃料。その燃料は発射後1分で大凡消費され、250kNの推力を発生。燃焼完了時には、最大加速度6G・最大速度1.5km/sに達します。到達高度は120km程度、高度35マイル(56km)以上の領域で5分間に渡る観測時間を提供しました。
V-2観測ロケットの発射施設は、試験場の最南端に設置されました。今は、「Launch Complex 33」として国指定歴史的建造物に指定されるこの発射施設は、元陸軍第一発射場。米国宇宙開発のファーストステップとして、今にその姿を留めています。
1946年10月24日、V-2観測ロケットは科学技術史に遺る偉業を達成します。白黒映画用カメラを搭載したV-2 No.13が、最大高度104.6kmに到達。人類史上初めて、宇宙から地球を撮影することに成功したのです。しかし、記念すべきこの事実は広く知られていませんし、博物館でそれを目にすることもありません。それもこれも、V-2ロケット自体が米国製ではなく、忌まわしきナチス・ドイツの成果であることが理由かも知れません。
初めて宇宙から帰ってきたのは、ショウジョウバエ。
V-2観測ロケットは、その姿勢制御にテールフィンを用いていました。そのため、宇宙空間で推力を失った場合、姿勢制御が不可能となります。そこで、サーボ機構を追加することで、姿勢変化を抑制。太陽追跡システムにより、太陽の電磁スペクトルの観測を実現。オゾン層を越える領域に於いて、非常に貴重なデータ収集の機会を提供します。なお、計測データの確実な回収のため、パラシュート回収も試みられていますが、殆どの場合失敗に終わっています。
1947年2月20日、V-2観測ロケットは再び重要なマイルストーンを達成します。地球の生命体が初めて宇宙に達したのです。記念すべき第一歩を記したのは、ショウジョウバエでした。ショウジョウバエを乗せた「ブロッサムカプセル」は、3分10秒で高度109kmに到達。ノーズコーンを分離、さらにロケット本体からの分離に成功したカプセルは、無事パラシュートを展開。ショウジョウバエを生きたまま回収することに成功します。目的は、生命体に対する高高度での宇宙線による放射線被曝の影響の調査にありました。
その後、試験は新たなステップへ進みます。1949年6月14日には、アカゲザルのアルバートIIが高度134kmに達し、宇宙に初めて到達した哺乳動物となったのです。
哀れ、人類の宇宙開発に身を捧げたアルバートII。
アルバートIIは麻酔を投与された上で、バイタルサインを測定するセンサーが取り付けられていました。アルバートIIは再突入中もその生命を維持していましたが、パラシュートが故障。哀れにも、アルバートIIはホワイトサンズの乾いた大地に叩き付けられ、自らの生命を人類の宇宙開発に献じることとなります。
ヘルメス計画に先んじる、1945年9月。陸軍兵器科とカルフォルニア工科大学は共同で、小型観測ロケット「WAC Corporal」を開発しています。胴体直径30cm、全長7.37m、重量655kgのWAC Corporalは、小型の二段ロケットでした。航空機用ロケットブースターJATOを転用した固体燃料ロケットブースターは、220kNを0.6秒発生。2段目となる本体には、燃料にフルフリルアルコール、酸化剤に発煙硝酸及びアニリンを用いるハイパーゴリック(自己着火性)型液体燃料ロケットエンジンを採用。47秒に渡って、推力6.7kNを発生させました。WACは「Without Attitude Control」の略とされ、無誘導のシンプルなロケットでしたが、ペイロードは小さいものの最高到達高度は72kmに達しました。ヘルメス計画の一環として、このWAC Corporalを流用して更なる高高度を狙ったのが、1946年7月にトフトイ大佐によって立案されたバンパー計画です。
世界初の2段式ロケット、バンパー計画。
ロシアのツィオルコフスキーが提唱した多段式ロケットの有効性を証明したバンパー計画は、ロケット開発に於いて重要なマイルストーンとなった。NASA/U.S. Army, Public domain, via Wikimedia Commons
RTV-G-4「バンパー」は、V-2観測ロケットをブースターステージに、WAC Corporalをコアステージとした2段式ロケットであり、試験用に8基が製造されました。バンパー計画の目的は、2段式ミサイルの発射技術と高速飛行時の分離の調査、高高度高速飛行時に生じる空力加熱等の調査、そして記録的な速度・高度の達成にありました。
ただ、試験は第1回から第4回まで失敗続き。2段目の分離に初めて成功したのは、1949年2月24日午後3時14分に打ち上げられた「バンパー5」でした。打ち上げから1分後、V-2は高度30km・速度1.6km/sで、WAC Corporalを無事に分離。その40秒後には、WAC Corporalは最大速度2.24km/sを達成。打ち上げ6分半後、当時世界最高高度となる400kmに達します。めでたく任務を達成したV-2は、5分後に砂漠に墜落。WAC Corporalも12分後に落下しています。
多段式ロケットは、ロシアの物理学者兼SF作家であり、「宇宙旅行の父」と慕われるコンスタンチン・ツィオルコフスキーが着想したアイデアであり、1897年に導き出した「ツィオルコフスキーの公式」に基づくものです。バンパー計画は、多段式ロケットの有効性を示すと共に、数多くの技術的知見を残すことに成功したのです。