スバルショップ三河安城の最新情報。春だ!4月1日だ!さよなら、富士重工。こんにちは、スバル。| 2017年4月1日更新

 
後期型WRX、登場。
photo by SUBARU
さよなら、富士重工。こんにちは、スバル。
 
2017年4月1日 富士重工業から社名変更。株式会社SUBARUが誕生。

もともとはモデル名だった、スバル。その裏に隠されたドラマとは。

1943年夏、飛行第25戦隊第2中隊のエース大竹久四郎曹長の一式戦二型(キ43-II)。部隊マークとして白色で縁取られた中隊色の赤色帯と、機体番号の下桁を垂直尾翼に描いている
By オリジナルのアップロード者は英語版ウィキペディアVuvar1さん, 2005年10月25日 (original upload date)
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一式戦闘機「隼」

4月1日を以って、富士重工業株式会社は正式にスバル株式会社に社名変更。自動車事業と航空機事業を二本柱に据えて、新たなスタートを切ります。このスバルという名称、実はモデル名であったのをご存知でしょうか。言うなれば、「レガシィ株式会社」みたいなことでしょう。

富士重工業の前身は、中島知久平がつくった中島飛行機。戦時中東洋一と言われた巨大企業でしたが、敗戦とともに12の会社にバラバラにされてしまうのでした。

スバルの名の由来は「統べる」にあります。戦後の混乱期、ドッジ不況、朝鮮特需、そして高度経済成長期。この間、旧中島飛行機の面々が巻き込まれた流転の日々、その中で掴んだ光明とは・・・。

 

バラバラになった、会社。バラバラになった、人々の心。

1946年富士産業生産許可品目
1946年富士産業生産許可品目

1945年8月15日の敗戦とともに中島飛行機はその役目を終え、8月17日には興銀の管理下に入り、名称も富士産業株式会社に変更。さらに、1946年8月には12の新会社に分割。優秀な頭脳も、貴重な知見も、人々の心も、すべてがバラバラになってしまっていました。それでも、中島飛行機に残った面々は困窮の中、残された資材で鍋やリヤカーまで作って耐えるのでした。

夢は、もう一度飛行機を作ること。しかし、それは禁じられた夢でした。GHQは生産はもちろん研究まで、航空機に関する一切の活動を禁じていたのです。

飛行機がダメなら・・・と暗中模索で手掛けた製品。それらは図らずも、12の工場のその後の運命を決定づけるのでした。

 

乗っ取られた!?別の道を歩んだ、富士精密工業。

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By baku13 - photo taken by baku13, CC 表示-継承 3.0
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たま自動車

中島飛行機の創業者中島知久平は、優秀な人材を集めるために東京に進出しています。ひとつは、帝都防衛の要衝調布基地に隣接する三鷹研究所。そして、杉並区荻窪にあった東京製作所。この2つの工場は、数キロの距離にありながら、戦後の混乱の中で大きく運命を分けることになります。

戦後、三鷹研究所は太田製作所と共に富士工業へと生まれ変わり、一方の東京製作所は独立会社富士精密工業と、それぞれ新会社として独立の道を歩み始めます。

中島同様に仕事を失った立川飛行機が、戦後の1947年に設立したのが、東京電気自動車です。商業的に一定の成功を納めていましたが、より一層の経営安定化のため石橋正二郎に出資を要請。1948年に発売した社名にちなんで、たま電気自動車に社名変更を行っています。ところが、1950年に始まった朝鮮戦争でバッテリ材料の鉛の価格が急騰し、エンジンの確保が急務となります。そこで目を付けたのが、富士精密でした。たま自動車は、富士精密にエンジン開発を依頼。これを邪魔したのが、富士精密の全株を保有する日本興業銀行でした。

興銀は自動車産業への進出へ難色を示したのです。ところが、豪腕の石橋は富士精密全株を買収。会長に就任し、経営権を掌握します。石橋は一代で築き上げた財力で、富士精密工業とその優秀な人材の双方を手に入れたのです。1952年、プリンス自動車工業(旧たま自動車)を吸収合併。その後、プリンス自動車は自動車史に数々の伝説を生み出くのですが、そこに携わったのはすべて中島飛行機出身の技師たちでした。

 

ラビットスクーターの大ヒット

ラビットスクーター
ラビットスクーター

戦後まもなく、三鷹に1台のバイクが持ち込まれます。米陸軍の空挺部隊が使用する「パウエル」というスクーターでした。日本国内の荒廃した現状を鑑みれば、個人の移動手段としてスクーターには大きな将来性がありました。すぐに試作を開始。1946年8月には、試作1号車が完成。ただ、タイヤが調達できず、爆撃機「銀河」の尾輪を流用せざるを得ませんでした。

早速製品化したスクーターは、ラビットと呼ばれ大ヒットとなります。スーパーカブより11年早く発売された、このスクーターは日本の戦後復興の足として大活躍。昭和天皇がラビットに乗る姿も写真に残されています。

三鷹と太田はラビットを通じて、自動車産業への足がかりを得ます。このラビット向けの生産設備が、富士重工業の乗用車開発の際に大きな役割を果たすことになります。

 

天才技術者、百瀬晋六の登場。すべてはこの人から始まった。

初期のスバルの車両開発を牽引した百瀬晋六
初期のスバルの車両開発を牽引した百瀬晋六

同じ頃、旧小泉工場で始まったのが、バスボディ製作でした。GHQの払い下げトラックをバラバラにしてボディを架装した急造バスは、庶民の戦後復興の足となります。

1949年には、日本初のモノコックボディ・リヤエンジンバス「ふじ号」が完成。航空機用に残されたジュラルミンを使って、リベットで組み立てられたこのバスは、まったく航空機技術を応用したもの。このバスボディを設計したのが百瀬晋六でした。

百瀬は1942年入社でしたから、航空機時代にはその実力を発揮するには至りませんでした。百瀬は自動車産業に本格進出に際して、主任設計者に抜擢。その実力を遺憾なく発揮していくのです。

水平対向エンジンも、左右対称レイアウトも、安全優先設計も、すべては百瀬の設計。後に、日本自動車殿堂入りを果たす、この天才が「スバル」を作り上げたと言って間違いありません。

 

5社の再合同により、新会社富士重工業の誕生。

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By Rob Schleiffert from Holland - T-1B Ashiya, CC 表示-継承 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=44759765
航空自衛隊中等ジェット練習機「T-1」

1952年、保安庁(後の自衛隊)初等練習機50機の調達を決定。このうち30機のライセンス生産を決定します。

再び、空へ。悲願成就を夢見て、旧中島の面々は再合同へと動き出します。1953年7月15日、東京富士産業、富士工業、富士自動車工業、大宮富士工業、宇都宮車輌の五社は航空機生産を主目的とする新会社「富士重工業株式会社」を設立。1955年4月1日には、新会社が五社を吸収合併。ここに正式に、富士重工業株式会社がスタートします。

1953年にはT-34Aのライセンス生産を受注。さらに、1955年には完全新設計の、戦後初の国産ジェット練習機を受注。敗戦以来、10年。ここに旧中島の念願は叶ったのです。

ただ、航空機産業は巨大企業の背骨を支えるような規模ではありません。もう一つ、メイン事業が必要でした。そこで経営陣が決定したのが、自動車産業への本格進出でした。

 

国産乗用車の研究をせよ!

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By Tennen-Gas - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2063637
日本初のモノコック構造バス「ふじ号」

1951年百瀬は突如本社に呼び出され、松林専務に国産乗用車の研究を命じられます。やっと、バスボディの設計が波に乗ってきたところだっただけに、百瀬は不満でした。嫌々だった百瀬は「片手間」で乗用車研究を行っていましたが、これに松林は激怒。あっという間に組織変更を行い、百瀬からバスの仕事を取り上げてしまいます。

と言っても、誰も作ったこともない乗用車。

構造さえ、よく知らないのです。当時は、多くの技術者たちが同じ悩みを抱えていました。例えば、トヨタは買ってきたクライスラーを分解して、まず国産化。これを繰り返して、見識と経験を蓄積しました。発明家の血を引く豊田喜一郎は、理論よりも経験を重視したのです。

対照的な百瀬は、まず理論から入ろうとします。そこで通ったのが、図書館でした。片っ端から資料を写真撮影して、現像。工学書からマニア向けの雑誌まで、あらゆるモノが百瀬には貴重な資料だったのです。

 

誰の差し金!?突如中止に追い込まれた、P-1計画。

試作のみに終わった「P-1」のちのスバル1500
試作のみに終わった「P-1」のちのスバル1500

研究開始から3年。昼夜兼行で開発を重ねた結果完成したのが、試作車「P-1」でした。富士精密製直4を搭載したP-1は、当時としては大型のセダンで、画期的なフルモノコック構造を採用していました。このP-1に付けられた、正式名称が「スバル1500」。旧中島5社を新会社1社が束ねるという意味を込めて、当時の社長北謙治が名付けたものでした。

ところが、10台ほどを生産したところで、計画に暗雲が立ち込めてきます。まず、富士精密がエンジン提供を拒否。次に、誰の差し金かメインバンクの興銀がP-1計画の将来性を疑問視、直ちに計画中止を求めてきたのです。

P-1は20台が制作されたものの、残念ながら計画中止決定。スバルの名は、幻に終わりました。いや、終わったはずでした・・・。

 

スバル360の誕生とともに、いつの間やら新ブランド「スバル」が誕生。

完成した増加試作車
完成した増加試作車
1958年3月3日に行われたスバル「360」発表会

P-1計画中止を公式発表した会議の席上で掲げた次の計画、それがK-10計画でした。百瀬は、K-10計画に対して詳細な技術的提案を行います。たった360ccの排気量で大人4人乗車とし、箱根の峠越えも可能という、まったく荒唐無稽で無謀な計画でした。成功を確信していたのは、百瀬たった一人。

1957年4月20日、1台の試作車がお披露目されます。後に、てんとう虫と呼ばれて広く国民に親しまれた、伝説の名車が誕生した瞬間です。

百瀬たち開発陣は血の滲むような苦闘の連続だったため、車名を考える余裕など全くありません。デザインを担当した工業デザイナーの佐々木達三が百瀬に尋ねても、いつになったら決まるのか分からないとの返答。仕方なく、スバル1500の次だから、スバル360だとうと、6連星のエンブレムとともに「SUBARU 360」というエンブレムを製作。百瀬は一応、松林の了承を得たらしいのですが、記憶があいまい。

富士重工「スバル1500」だったのが、スバル「360」となった。つまり、スバルはいつの間やらブランド名になっていたのです。

「スバル」の由来こそ思いが込められてはいるものの、ブランド名となる成り行きは技術屋天国のスバルらしい顛末といえるでしょう。

この記事をまとめていて、ふと思ったのは、富士産業の「富士」の由来です。色々文献を漁っても、何処にも記載がありません。玉音放送から、たったの2日間。厚木基地では徹底抗戦派が決起している最中ですから、まさに騒乱の真っ只中。よくよく考えられた社名ではないのかも知れません。富士産業、いったい誰がどういう思いで考えた社名なのでしょうか。

 

文責:スバルショップ三河安城和泉店 営業:余語

 
 

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