スバルショップ三河安城の最新情報。家にいよう。特別企画 クラブ・スバリズム歴史発掘!技術的偉業10選 第7弾「名神高速道路」| 2020年4月24日更新
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国道さえまともじゃない時代の高速道路建設。
名神高速道路は、栗東尼崎間を第一期工事区間とし、一宮栗東間を第二期工事区間に定め、いよいよ建設工事に着手されます。発注に際しては、当時の標準的な発注額の4〜5倍に達する大規模な工区割とし、大胆に機械化施工を導入します。ところが、当時は国道でさえ殆ど未舗装という時代。120km/h走行を可能にする平滑・高精度な道路舗装などという技術は存在しませんでした。
そこで、米国から招聘した土質・舗装の専門家であるポール・ソレデンガーの指導を仰ぎます。まず、先行して山科工区を試験工区として施工。ここで確立された共通仕様書や施工管理方式を、他の工区で採用させることとしました。
土盛り区間では、含水比に厳しい制限が課されたため、降雨では作業は中断。幾度も土を曝気乾燥させて、転圧作業を実施します。しかし、不合格となればやり直しです。1〜1.5mも掘り返さねばなりませんでした。
東海道新幹線よりも1年早く名神高速が開通。
完成に至った山科工区。土木学会誌第47巻第8号より
1961年春、山科工区4.3kmが完成。国産車両走行テストが実施されます。130日間に渡る試験で、国産自動車が高速道路に耐えうるか徹底的な検証が行われます。ところが、結果は惨憺たるもの。まもとに耐えられる国産自動車は無く、あらゆるトラブルが頻発したのです。この結果は公表されませんでしたが、各メーカーが貴重な知見として対策に当たったと言います。
日本初の高速道路とあって、あらゆるものが検討の対象となりました。著名な公団ゴシックもその一つです。看板がグリーンに定められたのは、青の反射材をハロゲンランプで照射すると緑色に光るためで、これに昼間の色調を合わせたためです。文字は、視認性に優れた特殊フォントとし、白地に黒文字では実際より細く見えるため、白文字が選ばれています。
1963年7月15日、名神高速道路京都南ICにて、盛大な開通式が執り行われます。翌16日午前0時、料金所のゲートが一斉開放。遂に、日本にも高速道路時代が到来します。
中央高速本線富士吉田インターチェンジ。
左上の計画図に、東海道案と争った中央道案を見ることができる。これは、青木の決断により、右上の諏訪ルートへと変更され、建設に着手された。国土交通省報告書より
世にも珍しい高速道路。人々は物見遊山で訪れます。路肩でお弁当を広げて食べたり、記念撮影をしたり。逆走も少なくありませんでした。車両故障も頻発しますが、非常電話が無い時代ゆえ、故障車は巡回するパトロール隊に発見されるまで、ひたすら待たねばなりませんでした。
大津サービスエリアの開業は2ヶ月遅れとなり、その1ヶ月後には「修理所」も開設されています。
名神高速が開業しても、東京名古屋間のルートの議論は膠着し、依然結論に至りません。建設省は一計を案じ、両案を共に法制化させつつ、東名高速道路全線のみ施行命令を出したのです。
一方、中央高速道路の施行命令は東京富士吉田間のみでした。本来、中央高速道路本線は富士吉田から西進し、南アルプスを貫通し、伊那谷に至る計画でした。しかし、建設省が建設の難易度を懸念し、施行命令を敢えて保留したのです。先の看板は、この由緒を語る生き証人なのです。
高速の称号さえ奪われた中央道の悲哀。
この時点では、東名高速静岡県区間にA〜C案の3つが存在していたことが分かる。土木学会誌第46巻第11号より
両案の争いに決着が着いたのは、1962年12月8日のこと。中央道派議員のトップである青木参議院議員が建設省を訪問します。青木は視察先のアルプス山中のトンネル建設現場で、長大トンネル掘削の難しさを痛感。幹線自動車道として不可欠な速達性を放棄し、現実的な諏訪ルートへの変更を承認したのです。
青木の決断によって、中央道はめでたく全線着工の運びとなります。ところが、諏訪ルートは大きく回り道となるうえ、山岳区間が多く最高速度が制限されたため、速達性を失いました。この結果、中央高速道路は「高速」の名を返上。以後、中央自動車道と呼ばれる事になります。
中央道の全線開通は、それから10年後の1973年11月27日のこと。最後に残されたのは、長大な恵那山トンネルでした。もし、中央道を唯一の幹線道路として建設していたら、その開通は大いに遅れ、日本の物流は混迷したことでしょう。