スバルショップ三河安城の最新情報。米ソ宇宙開発競争。フォン・ブラウンとコロリョフの奇跡の生涯 その6| 2025年9月25日更新

 
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先を急ぐための選択、プロステイシー・スプートニクの誕生。

オブジェクトDの致命的な遅延とティホンラヴォフの腹案。

コロリョフの望み通りに進んでいた事態は、突如暗転します。搭載する科学機器の開発に問題が発生したのみならず、R-7の比推力が計画性能(309〜310sec)より下がる見込み(304sec)となったため、計画の遅延が不可避となったのです。その結果、米国が宣言していたIGY期間中の打ち上げは不可能となり、打ち上げ予定日は1958年4月までズレ込みます。このままでは、米国が人類初の栄誉に浴するのは確実。米国に勝利するとフルシチョフの面前で啖呵を切った以上、コロリョフに失敗は絶対に許されません。

そこで、OKB-1はクレムリンに対して、遅滞するオブジェクトDを迂回し、最も単純な構成の人工衛星「プロステイシースプートニク(PS)」を先行して打ち上げることを提案します。プロステイシースプートニクは、質量:80〜100kgとし、最小限の機器のみを搭載。この構成であれば1957年4〜5月の間、つまり1年後には打ち上げ可能と、OKB-1は挑戦的なプランを提示します。

複雑なオブジェクトDを迂回して単純な衛星を先行させる「腹案」が最初に示されたのは、1956年11月のことでした。

計画遅延に嘆くコロリョフに対し、ティホンラヴォフが声を掛けます。「衛星をもう少し軽く、シンプルにしたらどうだろう?30キログラムくらいなら、もっと軽くてもいいんじゃないか?」この言葉をきっかけに誕生したのが、後に「スプートニク1号」と呼ばれ、人類史にその名を刻むことになる、小型人工衛星プロステイシースプートニクです。

科学機器を搭載しない、簡略化版人工衛星スプートニク。

スプートニク(Sputnik)とは、ロシア語で本来「付随するもの」を意味し、これが転じて「旅連れ」「同伴者」へと意味を広げた言葉でした。これを基に、人工衛星が地球に付随して旅するイメージから、ティホンラヴォフが名付けたものです。今や、スプートニクは、ロシア語で最も象徴的な言葉として知られています。一方、プロステイシーとは「最も単純な」との意味。つまり、スプートニク1号は、もともとオブジェクトDの「簡略化版」だったのです。

思い立ったが吉日。11月25日には早速、設計者にニコライ・クティルキン、軌道計算にはゲオルギー・グレチコが任じられます。なお、設計作業には、科学アカデミーが導入したばかりのコンピュータを使用、開発工程の高速化を図っています。

コロリョフは、プロステイシースプートニクの設計に際し、計画を確実に遵守させるため、期待を裏切るような外注先に依存しないこと。そして、OKB-1の選りすぐりの技術者を集め少数精鋭で開発に当たらせることを命じています。

当然ながら、科学アカデミーはこのプロステイシースプートニクのプランを歓迎しませんでした。ケルディッシュも同様で、科学観測という本来目的を果たさない小型人工衛星のアイデアに対し、反対の意を表明しますこ。のプランの早期実現を強く主張するコロリョフは、科学アカデミーの賛同が得られないと判断し、軍とクレムリンに対して計画承認の働きかけを開始します。

科学アカデミーの反対を封じ、小型人工衛星の承認を獲得。

1957年1月5日、コロリョフはIGY開幕前のプロステイシースプートニク打ち上げを、ウスティノフに対して公式に要請。2月15日、ソビエト政府はこの要請に応じ、「最も単純な地球の無指向性衛星(オブジェクトPS)の軌道への投入、軌道上での最も簡単な衛星追跡テスト、オブジェクトPSから送信される信号の受信」と題する法令を発出します。R-7が発射実験に2度成功した後の着手との条件を付けたものの、科学アカデミーの同意を得ないまま、クレムリンはコロリョフの要請にそのまま応じたのです。

コロリョフは今や、軍、クレムリン、科学アカデミーの3者をうまくコントロールして、望んだ通りに事態を動かし、計画を強力に推進していました。これこそ、チーフデザイナー・セルゲイ・コロリョフの真骨頂。優れた技術者とは、優れた図面を書く者でも、豊富なアイデアを繰り出す者ではありません。技術の価値を信じて、技術を実現に導く、行動力と実行力、そしてマネージメント力こそが、技術責任者に求められる資質なのです。コロリョフは、今最高の時を迎えつつありました。

対象的だったのは、ティホンラヴォフです。目立つことを極端に嫌い、地位や名誉に全く興味を示さず、ひたすら謙虚に職務に邁進しました。淡々としていて、自分の判断に徹底しており、反省ができる人だった、と後に伝えられています。激昂することも屡々で、気性の荒いコロリョフ。そんな人間と二人三脚で歩めるのは、ティホンラヴォフを置いて他に居なかったのかも知れません。

人類初の人工衛星に美しさと崇高さを求めたコロリョフ。

プロステイシースプートニクの設計は、ティホンラヴォフの監督の下、寸暇を惜しんで鋭意進められていました。ところが、最初の設計案をコロリョフは強く拒絶します。その設計案は、早期完成を意図した円柱形の極めてシンプルなもの。それを聞くにつけ、コロリョフは烈火の如く怒り、図面を閲覧することさえ拒否します。コロリョフの要求は、惑星のような球体でした。

コロリョフはプロステイシースプートニクに、象徴的意味を持たせたい考えていました。有史以前から畏怖の念を以て、ずっと人類は空を見上げてきました。ある者はその彼方に神の存在を信じ、ある者は死人は星となって輝くと考えていました。宇宙(そら)は、人類にとって未来永劫、常に神々しい空間であらねばならないのです。であるからこそ、そこに到達し、そこを遊弋する人類初の人工物は、極限の美しさを備えていなければならない、と考えていたのです。

コロリョフは、プロステイシースプートニクを完全なる球体とし、僅かの傷も一点の曇もない、完璧な輝きを与えることを要求。徹底的に研磨することを命じます。この完璧な輝きには、科学的な意義もありました。太陽光の反射を良くすることで、地上からの光学的追跡を容易にすることを意図していたのです。プロステイシースプートニクは「単純な衛星」であるため、テレメトリシステムを有しておらず、地上からの追跡は地上レーダ及び光学的観測というパッシブな手法に頼らざるを得なかったのです。

二重壁構造を成す球体、プロステイシースプートニク。

プロステイシースプートニクは、2個の半球で覆われた完全な球体。コロリョフは、人類初の人工衛星に「究極の美」を求めた。via Wikipedia Commons

プロステイシースプートニクは、直径580mmの球体。球体は「赤道」で2つの半球に分割され、2重の半球が重なる二重壁構造を成しています。北半球側の半球(暑さ2mm)構造体には、外側に2.4mと2.9mの2対4個のアンテナ基部、内側上部に無線送信機がブラケットを介してマウントされており、この外側に暑さ1mmの耐熱シールドが被せられます。衛星内部の大半を占拠するのは、電気源研究所開発の銀ー亜鉛電池。一方、南半球側は外殻そのものが構造体(暑さ2mm)を形成しており、北半球側の内側構造体と36本のボルトにより、密閉用のOリングを介して接合。内部には127kPa(1.3気圧)の窒素が充填されます。南半球側の内側には、フェアリングがり、その底部には冷却ファンをマウント。冷却ファンはデュアルシーケンサスイッチにより、内部温度が30℃以上で作動、20〜23℃で停止する設定。冷却風は、二重壁間を通過する際に冷やされ、無線機器及びバッテリを適切な温度に維持します。

1957年2月15日、コロリョフはリャザンスキー率いるNII-885と、無線送信機の仕様に関する協定に調印しています。この無線送信機の出力は、1W。40MHz及び20MHzの0.4secのパルス信号を発信します。なお、内部温度が50℃以上及び0℃以下、もしくは内圧が0.34kPa以下になった場合、送信される無線信号の長さが変化する設定とされていました。これら機器の電源は内蔵バッテリのみで賄われ、起動はロケット本体から分離時にリモートスイッチで行われます。

地上へ生存を伝える唯一の術、特徴的なビープ音。

A replica model of Sputnik 1 satellite.

完全なる鏡面に仕上げられた球体からは、4本のアンテナが伸びる。ここから発せられたビープ音が、世界に宇宙時代の幕開けを告げることになる。Soyuz235, Public domain, via Wikimedia Commons

北半球側から優美に長く伸びる2対4本のアンテナは、40MHzと20MHzの各周波数に対応したもの。アンテナは、ロケット本体から切り離された後、基部に設けられたスプリング機構により35°に展開します。

構造単純化と軽量化に腐心したものの、総質量は83.6kgに達しました。ただ、絶対不可欠な機器のみの搭載としため、プロステイシースプートニクは一方的な発信しかできません。地上からの指令の受信はおろか、任意の信号の発信も不可能。つまり、地上からは、アクセスも追跡も一切不可能な設計だったのです。後に、この衛星を象徴することになる特徴的なビープ音は、衛星の健全性を伝える唯一のツールでした。それでも、OKB-1は、プロステイシースプートニクに以下の科学的目的を果たすことを期待しました。

・衛星の軌道の減衰率をもとに、上空大気密度の測定

・電離層全体の電波分布特性

・衛星を軌道に乗せることに伴う理論的な計算や技術的解決策の検証

プロステイシースプートニクの設計には、科学的目的より政治的目的が強く反映されています。コロリョフが見事に演出した、無機質かつ普遍的な美しさは、私欲の一切を排する共産主義の精神を象徴するものと言えるでしょう。

徹底的に軽量化が図られた、R-7の派生型8K71PS。

A few Soviet rocket designs, one of which was used to launch Sputnik, the first artificial satellite into orbit.

R-7のロケットファミリー。一番左が、ICBMのプロトタイプ仕様。2番めが、スプートニク1号を打ち上げた8K71PS。NASA / Peter Gorin / Emmanuel Dissais, Public domain, via Wikimedia Commons

総質量83.6kgの人工衛星を打ち上げる大役は、コロリョフのもう一つの作品である、大陸間弾道ミサイルR-7「セミョルカ」に委ねられます。ただ、エンジン等の主要構造には変化はないものの、初期テスト仕様のR-7(8k71)から、8K71PS(M1-PS)へと名称が変化しています。衛星搭載に伴って、各種改修がなされた他、大胆な重量削減が図られているのです。

人工衛星を軌道上に乗せるには、第一宇宙速度:7.9km/secを超えて加速せねばなりません。これを達成するには、余剰重量を削減し、比推力を稼ぐ必要がありました。そこで、コロリョフは思い切ったリストラを行います。弾頭及び弾頭接続ケーブルは当然ながら、アビオニクスセクション(計測機器、振動監視システムを含む)や飛行制御システム(無線制御システムを含む)さえも降ろしてしまったのです。これに伴い、使用電力量が減少、バッテリ搭載量を減らすことも可能になっています。

無線制御システムを降ろしたため、飛翔制御に重要なエンジン停止命令は地上指令ではなく、ジャイロ積分器及びタービンの緊急停止指令にのみ依存します。また、飛行中の追跡も専らパッシブな方法に限定され、光学的追跡システムでは200km以下、地上レーダでも500km以下とされました。ただ、テレメトリデータの送信は可能で、リアルタイムではないものの、飛翔状態の解析は可能でした。これら重量軽減の積み重ねにより、その重量は8K71の280tから、8K71PSでは272.83tまで軽量化が図られています。

決して妥協を許さない、完璧主義者コロリョフのこだわり。

コロリョフが米国に先んじることを公約としたため、プロステイシースプートニクの開発作業は、常に時間との戦いでした。そこで、コロリョフは技術開発とコンポーネント製造を同時並行で進捗させます。

最大の難関は、美しい球体の製作でした。ハイドロプレスで整形された半球には、機器搭載用のブラケットを溶接する必要があり、これが歪みや傷発生の要因となります。しかし、コロリョフは決して妥協を許しませんでした。注意力が不十分な作業員を見つけると、「この衛星は博物館に展示するんだ!」と怒鳴りつけるなど、常に全身全霊を掛けた作業を要求したのです。

溶接品質の確保と精度向上のため、コロリョフは自動溶接の導入も検討しますが、依然として開発段階であったため、すべて手溶接を用いています。衛星の機能保持を保証するため、密閉性も完璧でなければなりません。そのため、溶接を完了した半球はX線検査を行い、品質を確保。また、ヘリウムを用いたリークチェックを実施し、すべてのシールの品質が確認されています。

試行錯誤は、工程の遅滞を招く最大要因の一つです。そこで、開発工程の手戻りを防止するため、開発段階でモックアップを作成し、搭載機器及びケーブル等の配置をモデル化し、機器配置及び熱環境の検討が実施されています。この他、ロケット本体からの衛星分離機構及びフェアリングの分離機構についても、繰り返し試験が実施されています。

 

人類初の挑戦へ。着々と準備を進めるコロリョフ

白衣と手袋の着用を義務付けた、スプートニクの最終組立。

ポドリプキで準備が進む、プロステイシースプートニクとセミョルカ。発射基地となるトゥラタムでも、準備が進められていました。サイト2の組立棟内には、極秘計画の人工衛星を取り扱うための特別区画を設置。また、ポドリプキからトゥラタムへ安全に移送するための、輸送用機器の準備も行われています。この他、トゥラタムでも衛星分離試験が実施されています。

7月24日、コロリョフはプロステイシースプートニクの最終設計図を承認。続いて、共産党中央委員会を訪問しています。この頃、立て続けにR-7の発射に失敗しており、コロリョフは共産党指導部に対して厳しい説明を強いられたものと思われます。

8月、OKB-1にてプロステイシースプートニクの最終組立を開始。当初、組立作業は組立棟のフロアで実施される予定でした。しかし、コロリョフは人工衛星を象徴的な存在と位置づけるため、作業に際して最大限の敬意を払うことを要求します。作業員は素手で触れることは許されず、白衣と手袋を着用。通常フロアでの作業は厳禁とされ、新設されたクリーンルームでの作業を厳命されたのです。不純物の混入を防ぐため、現在では至極当たり前の光景ですが、当時としては画期的なことでした。

8月31日、8K71PSは静的試験を完了し、ポドリプキでの全作業を完了。ひと足早く、トゥラタムへ向けて旅立っていきます。9月に入ると、プロステイシースプートニクの恒温室及び振動台での試験を完了。これを以て、ポドリプキでの全作業が完了します。

R-7が2度の発射試験をクリア、遂にゴーサイン発せられる。

そして、1957年9月7日。いよいよ、コロリョフ待望の瞬間が訪れます。R-7・9号機の発射試験に成功。これを以て、クレムリンが指定した条件、2回の発射成功を達成したのです。しかし、時は既にIGY期間(1957年7月1日から1958年12月31日)に突入していました。いつ、米国から一報が届いても不思議ではありません。コロリョフは、文字通り寝食を忘れて職務に邁進します。

IGYを間近に控えたソビエトは、人工衛星打ち上げに向けて情報戦を開始します。情報機関を撹乱するには、正しい情報と偽情報を混ぜて発表するのが常套手段。正しい情報の確証を得ると、隣接する偽情報も真実と勘違いさせることができるのです。

1957年6月、共産主義青年同盟の中央機関紙であるコムソモリスカヤ・プラウダ紙は、科学アカデミー総裁ネスメヤノフの手記を公開。今後数ヶ月以内に人工衛星を打ち上げることを仄めかします。ラジオ誌1957年6月号は、人工衛星から発信される無線周波数と軌道に関する情報を掲載。これらは、真実に基づいた情報でしたが、打ち上げ時期については敢えて不明確にしていました。

ベルギーに置かれた国際地球物理年本部には、科学アカデミー副総裁の証明入の声明が送られ、ここにはソビエトが直径20インチの球体を極軌道(偽情報)に打ち上げる旨が記されていました。そして、8月26日にはタス通信が、多段式大陸間弾道ミサイル発射試験に成功したことを発表します。

束の間の休みを得た、コロリョフとティホンラヴォフ。

物理学者レオニード・セドフは、対外向けに仕立てられたソビエト宇宙計画の主任技術者。つまり、偽物であった。ただ、セドフ自身が物理学者なのは本当で、爆風に関する研究で功績を残している。via Wikipedia Commons

これに続いて、モスクワ国立大学教授レオニード・セドフを委員長とする「惑星間旅行の組織と実施分野に於ける省庁間調整委員会」の設置を公表します。実のところ、これは全くのガセネタ。セドフは全く部外者であり、計画の概要すら知らされていませんでした。真実を秘匿するため、偽のチーフデザイナーに仕立てられたのです。その目的は、ソビエト宇宙探査計画及び弾道ミサイル開発計画の最高技術責任者、セルゲイ・コロリョフの存在を秘匿すること。コロリョフが西側情報機関の手によって抹殺される危険性を、共産党指導部は真剣に恐れていたのです。しかし、実際には心配は杞憂に終わります。

西側情報期間は、コロリョフに関する情報を何も掴んでいなかったばかりか、打ち上げの兆候にも何も気付いていなかったのです。ただ、国家の安全保障のためとは言え、功労者たる自分の存在が「無かったこと」にされることに、コロリョフは決して納得してはいませんでした。しかし、鉄のカーテンの中では、個人の意向など一介の塵ほどの意味を持たないのは仕方のないことでした。

世紀の瞬間まで1ヶ月を切った、9月15日。昼夜兼行で働き詰めのコロリョフとティホンラヴォフは、束の間の休息を得ます。ツィオルコフスキー博士生誕100周年を記念して、記念碑の設立式典が博士の故郷カルーガで開催され、これに参加したのです。2人が並んで写る貴重な写真は、この時のもの。いつもと違う笑顔が、2人に張り詰めた強い緊張感を示しています。

ソビエトが仕掛けた情報戦、慢心極まる米国情報機関。

翌々日、モスクワで開催された追悼イベントで、コロリョフは講演を行います。この中で、コロリョフは「近い将来、科学的な目的のため、ソビエトと米国は人工地球衛星の最初の試験を実施するだろう」と高らかに宇宙時代の開幕を宣言し、師ツィオルコフスキーの墓前に捧げます。人工衛星打ち上げが間近に迫っていることを、コロリョフ自ら仄めかしたのです。

ところが、これだけソビエトが情報を撒き散らしても、米国は自らの敗北が間近に迫っていることに気付きません。俯瞰して見れば、敗者は常に惰眠を貪っているように見えます。しかし、1957年の地球上には、米ソ両国の状況を俯瞰して見られる者など、誰一人存在しないのです。鉄のカーテンに世界は全く隔てられていたのですから。

少なくとも、米国はコロリョフの存在を知りません。知っていた事と言えば、偉大な指導者スターリンを失ったことだけでした。つまり、ソビエトはこの先衰退する一方であり、世界はますます米国の支配するものとなる。そう信じるのが当然と言うものです。

9月20日、コロリョフは自らが議長を務める特別委員会にて、人工衛星打ち上げ日の予備決定を行います。そして、23日までに報道機関向けの公式声明を作成することを要請します。24日、ティホンラヴォフから「PS-1打ち上げの可能性に関する技術報告書」を受け取ると、コロリョフは世紀の瞬間を迎えるため、トゥラタムへ向かいます。

チーフデザイナーがトゥラタムに到着。高まる緊張。

ソビエト宇宙探査計画最高技術責任者セルゲイ・パーヴロビッチ・コロリョフが到着したのは、乾燥した大地を寒風が吹き抜け、トゥラタムに秋が訪れる頃。ソビエト最大の弾道ミサイル発射基地では、世界初の宇宙ミッションへ向けて、続々と人々が集結し、着々と準備を進められていました。従事する誰しもが、この国家プロジェクトの重要性を理解しており、全身全霊・粉骨砕身・不眠不休の努力を積み上げてきました。そして、打ち上げが成功した暁には、人類史に偉大な足跡を残すであろうことを痛いほど理解しており、その双肩には凄まじいプレッシャーがのしかかっていました。

社会主義国家に於いては、人間は何処までいっても一介の歯車。歯が欠ければ、取り替えるだけのこと。このプロジェクトにて、一体どれだけの人々が犠牲になったのか、今となっては知る由もありません。しかし、極寒のソビエトで24時間365日体制で職務に邁進すれば、少なからぬ人々が過労に倒れていったことは想像に難くありません。

9月22日、8K71PSが長旅を終え、トゥラタムに到着。サイト2・組立棟で組立作業が開始されます。コアステージに4基のブースターステージがドッキングされ、その頂部にはペイロードを搭載。さらに、これを保護するフェアリングが取り付けられます。打ち上げまで、あと2週間。怖いほどに、すべての作業が順調に進んでいました。

予備実験なしで挑む、ぶっつけ本番の軌道投入ミッション。

8K71PSの打ち上げ作業は、R-7の発射試験を管轄する軍の技術試験ユニットの手に委ねられます。8K71PSは、8K71と基本的に同じもの。ただ、2回連続で成功しているとは言え、これまでの成功率は5回中2回、たった40%に過ぎません。その上、8K71PSは搭載機器が減少している分、オペレーションはシンプルになったものの、アビオニクスは極端に簡略化されており、飛翔経路・機体挙動はすべてパッシブ制御に依存せざるを得ません。つまり、打ち上げたら最後、成否は神に祈るしかないのです。

また、人工衛星を軌道に投入する場合、最低条件は衛星の接線方向の速度が第一宇宙速度7.9km/secを超えること。そして、抵抗を十分に減じるため、楕円軌道の最低高度が200km以上であること。この2条件が達成できない場合、例え打ち上げ及び分離に成功しても、スプートニクは早々に落下を開始し、一筋の流れ星となって燃え尽きるでしょう。ところが、弾道ミサイルであるR-7をこうした条件で飛行させるのは、全く初めての試み。つまりは、ぶっつけ本番でした。

コロリョフには、R-7を予行演習で飛ばす余裕はありませんでした。最大の理由は、時間です。10月5日にバルセロナで開催される国際宇宙飛行士連盟の会合の席上、米国が「惑星上空の人工衛星」という報告書を準備しているとの情報があったのです。コロリョフは、米国側が極秘のままミッションを実行し、会合の席上で突然打ち上げ成功を発表する可能性があると考えていたのです。

フォン・ブラウンの計画を封じたのは、米国自身だった。

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1956年9月20日、打ち上げを待つジュピターC RS-27。ジュピターCは、レッドストーンを改良した3段式の再突入試験機である。フォン・ブラウンが、自らの野望を叶えないよう、ペイロードには砂を詰めるよう厳命されていた。US Army, Public domain, via Wikimedia Commons

1956年9月20日、手持ちが限られるフォン・ブラウンは、PGM-11レッドストーンを3段式に改造した、ジュピターCの発射実験に成功します。ジュピターCは、1段目にレッドストーンの胴体延長型を、2段目と3段目にはシンプルな固体燃料式地対地ミサイルMGM-29サージェントをクラスターにして搭載したもの。コロリョフのR-7に比べれば、恥ずかしいほどシンプル・低予算の代物でした。しかし、フォン・ブラウンは驚くべき成果を実現して見せます。このジュピターCに39.2kgのペイロードを搭載し、最高高度1,100kmに到達。最高速度7km/secまで加速させ、ケープカナベラルから5,300km先に到達させてしまうのです。

ここから丸1年。一体なぜ米国は漫然と過ごしてきたのでしょうか。実はこの時、フォン・ブラウンは人工衛星打ち上げを「公式」に禁じられていたのです。米3軍は、弾道ミサイル開発の縄張り争いに憤怒を募らせていました。そこで、外部諮問機関に諮った上で、海軍のヴァンガード計画のみを推進し、それ以外の計画は停止することを決定。万が一、フォン・ブラウン率いる陸軍ABMAが「誤って人工衛星を打ち上げ」ることのないよう、ペイロードには「砂」を搭載することを命じる念の入れようでした。

米国が10月5日に発表を予定していたのは、宇宙探査「計画」のみ。しかし、コロリョフは、の存在フォン・ブラウンを何よりも脅威に感じていました。何しろ、自らの成果たるR-1/R-2は「二番煎じ」なのですから。

 

組立棟を出て、ゆっくりと発射台を目指すスプートニク。

打ち上げを目前に控えても、打ち上げ日は依然決定していませんでした。当初予定されていた打ち上げ日は、10月7日でした。ただ、幾つか情報が錯綜しており、9月28日時点では政府関係者は10月中旬と知らされていました。では、一体誰が、どの時点で、打ち上げ日を3日繰り上げ、10月4日に定めたのでしょうか。それは、コロリョフ自身でした。米国側の動きを見て、独断で4日の打ち上げを判断したのです。すべての判断は、コロリョフに委ねられていたのです。

10月1日、ラジオ・モスクワが、世界各地で受信可能なプロステイシースプートニクの発信周波数を発表。2日、トゥラタムで試験を監督する国家委員会が、4日の打ち上げを最終承認します。これを受けて、コロリョフは打ち上げの最終許可をクレムリンに要請。ところが、クレムリンからの肝心の返事がありません。そこで、コロリョフは独断で、4日発射を決断。人類初の宇宙ミッションへ向け、発射準備の開始を指示します。

1957年10月3日早朝、プロステイシースプートニク搭載の8K71PSは、すべての準備作業を完了し、組立棟を出発。専用構内列車に積載され、発射台へゆっくりと移動を開始します。技術者・作業員らは我が子恋しさか、見守るように歩き出します。コロリョフも、彼らと共にその環の中にありました。その胸中は如何許でしょうか。間もなく、夢見た瞬間が訪れようとしているのです。

燃料充填に問題が発生するも、準備作業は無事進行。

透き通る朝日に純白の機体を輝かせて、巨体は静かに身を起こしていきます。発射台開口部に深く身を沈めつつ、台上に直立。4本のブームが立ち上がると、8K71PSの胴体を四方からクランプ。全荷重が発射台に移され、貨車との接続を開放。サービスデッキが立ち上がると、8K71PSの据え付け作業が完了します。早速サービスコネクタが接続され、最終確認作業が開始されます。

1957年10月4日、トゥラタムは遂に運命の日を迎えます。今日、ここで歴史は生まれるのです。厳かな静寂が、荒涼たる大地にピンと張り詰めていました。モスクワ時間:5時45分(現地時間:8時45分)、準備作業のトリを飾る燃料充填作業が開始されます。R-7の主食は、常温のケロシンと極低温の液体酸素。もうもうと白煙が湧き上がり、8K71PSはビッシリと霜に覆われていきます。ここで、万事順調に進められていた準備作業に、軽度の問題が発生します。

ストラップオンブースターのブロックB充填中に、早々と充填完了を示す信号を確認。充填初期段階故に異常と判断されたため、燃料充填作業を即座に中断。大事を取って、燃料を一旦抜き取った後、燃料注入インジケータの点検を実施します。点検作業では異常は確認されず、インジケータの正常な動作が確認されたため、改めて燃料充填作業を再開。8K71PSは、253tもの大量の推進剤を飲み込んで、燃料充填作業は無事完了します。

燦然と輝く閃光と耳を劈く轟音。スプートニクリフトオフ。

8K71PSに課せられた人類初の宇宙ミッションは、小型人工衛星スプートニク1号(質量:83.6kg)の楕円軌道(遠地点:1450km、近地点:223km、軌道周期:101.5分)への投入。予備実験は一切行う余裕はなく、ぶっつけ本番のミッションとなります。

すべての準備作業が完了すると、いよいよカウントダウンが開始されます。コロリョフは、打ち上げ担当の幹部らと共に地下の発射管制塔に降り、発射の様子を見守ります。モスクワ時間:1957年10月4日22時13分(発射15分前)、サービスデッキとの接続を開放すると、これを後転させて収納。4本のブームに身を預けた8K71PSは、発射台上にて天を睨み、刻一刻と迫る点火の時を待ちます。発射22秒前、エンジン起動コマンド投入。発射19.5秒前、予備推進剤により全エンジンに点火。発射11.5秒前、ブースターステージの4基のRD-107の推力が中間段1に到達。発射8秒前、コアステージのRD-108がメインステージ推力に到達、同時にRD-107が中間段2へ到達。そして、8秒後。4基のRD-107がメインステージ推力に到達します。

モスクワ時間:22時28分34秒、ここに世紀の宇宙ミッションが幕を開けます。8K71PSは重力に打ち克ち、僅かにリフトオフ。同時にブームが四方に開傘。総推力:396.9tの強大な力が、総重量:275tの巨体をゆっくりと大地から引き剥がしていきます。耳を劈く轟音と、目を突き刺す閃光。人類初の人工衛星を載せ、8K71PSが遥か宇宙を目指して轟然と加速していきます。

宇宙時代の幕開けを告げる、宇宙から降り注ぐビープ音。

漆黒の夜空を駆け登る巨大な紅炎は爆音で大地を震わせ、東に向かってその姿を次第に小さくしていきます。ここまでミッションは、すべては順調でした。目視で観測する限り、不安な兆候は一切なく、順調に加速を継続しているように思われます。遥か高空を駆け上がる8K71PSが、その航跡を夜空に消した瞬間、コロリョフ、ティホンラヴォフらは車に飛び乗ると、スプートニク1号からの発信を聞くべく、サイト2組立棟内に設置された無線通信室へ急ぎます。

発射から、約5分。エンジン燃焼時間と姿勢制御がプログラム通りに進行していれば、8K71PSは予定通りに楕円軌道に到達したはずです。しかし、それを直接的に確認する術はありません。唯一の術が、エンジンのカットオフ信号でした。ジリジリする思いと共に、待ち侘びる技術陣。そこに、吉報が届きます。8K71PSから発せられたと思しき、エンジンカットオフ信号を受信したのです。無線通信室に陣取る技術陣は、機械式クロノグラフのカウントと信号受信時刻を比較。慎重に確認した上で、その信号が打ち上げミッションの順調な推移を示していることを結論づけます。後は、衛星からの受信を待つのみ。。。追跡局のボリソフ中尉は、今や遅しとスプートニク1号からの受信を待ち侘びています。短い沈黙の後、聞こえてきたのは無機質なビープ音。その音は、受信圏外となるまで2分間に渡って続きました。「宇宙時代の幕開けです!」高らかな宣言に、トゥラタムは一気に沸き立ちます。

テレメトリデータに刻まれた、史上初の宇宙ミッション。

その後解析されたテレメトリデータには、史上初の宇宙ミッションが克明に記録されてしていました。解析から判明したのは、ともすれば失敗に至っていた、際どい異常発生の記録でした。

モスクワ時間:1957年10月4日22時28分34秒、8K71PSリフトオフ。目標軌道からの偏差:0.3°以下、ジンバル式バーニアモータの作動角:3.6度以下。離陸はすべて正常。但し、ブロックGのRD-107の推力上昇に遅れが発生。発射6.5秒後、推力不均衡を原因にピッチ角が発生。発射8秒後、目標軌道からの偏差が1度に達する。これを修正するべく、8K71PSが軌道修正を開始。RD-108のバーニアモータのNo.2とNo.4が8°、ブロックV及びDのRD-107のNo.2とNo.4が17〜18°、テールラダーが10°で作動。しかし、ピッチ角やや増加。発射18〜20秒、ブロックGのRD-107が推力上昇が回復し、通常推力に到達。結果、目標軌道に復帰。発射16秒後。推進剤消費量を調整するSOBシステムに故障が発生。ケロシンが過剰消費となり、燃焼室圧力は目標より4%高いままで推移。

発射60〜70秒、ピッチ角:0.75°、目標軌道との偏差:1°程度。順調に目標軌道を維持しつつ、加速を継続。発射100秒後、バンク角の目標軌道からの偏差が1°に達する。RD-108のバーニアモータ作動角:3〜3.5°、RD-107のバーニアモータ作動角:6〜8°、テールラダー作動角:2〜3°程度。すべて正常範囲内。

テレメトリデータに刻まれた、予期しない異常振動の形跡。

発射116.38秒後、コアステージとブースターステージの分離シーケンス。発射116.71秒後、RD-108メインエンジン停止指令。この時点で、ブースターステージの推力が許容範囲内ながら減少していることを確認。分離シーケンスに伴う姿勢変化は、許容範囲内の0.5°以内を維持し、バーニアモータの作動角:6〜7°以内で許容範囲内。

身軽になったメインステージは、加速を継続。ピッチ及びバンク角が0.3°、目標軌道から0.6°の偏差。バーニアモータはNo.1及びNo.3が最大4°、No.2及びNo.4が最大6°作動。ここで、バーニアモータが周波数:6.5Hzで振動を開始。振動:7.5Hz、振幅:2.3°に到達した後、発射280秒後に振動を停止。発射285秒後、周波数:1.5〜1.6Hz、振幅:2°の新た振動が発生。

発射295.4秒後、SOBシステム故障に伴う燃料消費により、予定より1秒早くケロシン全量消費。センサーが燃料切れに起因するタービン過回転を感知し、エンジン停止指令を発信。液体酸素残量、375kgを残して、エンジン停止。エンジン燃焼終了時、速度:7.78km/sec、高度:228.6km、水平線に対し0°21′で飛行。コアステージは、遠地点:947km、近地点:228km、傾斜角:65.1°、軌道周期:96.2分の楕円軌道に到達。発射314.5秒後・エンジン停止19.9秒後、プログラム通りに衛星分離シーケンス開始。325.44秒後、コアステージ本体に設置された角型反射鏡展開の信号を発信。

スプートニク1号、地球を1440周し、92日後に燃え尽きる。

楕円軌道に到達した8K71PSは、発射314.5秒後にフェアリングを投棄した後、スプートニク1号を分離。晴れて自由の身となったスプートニク1号は、史上初の人工地球衛星として地球上空を周回し始めます。軌道傾斜角は傾斜角:65.1°であり、地球の自転により緯度が24°シフトするため、世界各地の上空を隈なく飛行することとなります。SOBシステムの異常により8K71PSのエンジンがプログラムより1秒早く終了したため、目標軌道より80〜90km低い軌道に投入されました。結果的に、近地点での空気抵抗が無視できないものとなり、22日後には軌道周期は53秒短くなり、最終的に大気圏に落下することとなります。

コアステージ飛行中に発生した異常振動は、無視できない異常でした。最初の振動はロケット本体のたわみに起因するもの、2度目の振動は液体推進剤の振動に起因するものと推定されています。

スプートニク1号は、搭載される銀-亜鉛電池の寿命が尽きるまで、22日間に渡って温度データを無線送信し続けます。地上で受信したビープ音は、この温度データを示すものでした。その後、スプートニク1号は地球を1440周した後、92日間の宇宙滞在を終え、翌年1月4日に大気圏に再突入して燃え尽きています。なお、役目を終えたコアステージも軌道上を周回。こちらは882回軌道を周回した後、12月2日に再突入して失われています。

 

成功の一報を誰よりも待ち侘びていた、フルシチョフ。

Nikita-Khrushchev-TIME-1958

スプートニク1号が西側に与えたショックの大きさは、ソビエトの想像を上回るものであった。Time Inc., illustration by Boris Artzybasheff. Time failed to renew the copyrights of many early issues; see wikisource:Time (magazine)., Public domain, via Wikimedia Commons

ソビエトの国営通信社タス通信は、スプートニク1号が最初の周回を終えるより前に、事前に用意されていた短信を発表します。

「研究機関と設計局の多大な努力の結果、世界初の人工地球衛星が生み出されました。」

その一報を誰よりも待ち侘びていたのは、他ならぬ最高指導者ニキータ・フルシチョフでした。記念すべき10月4日、フルシチョフは息子セルゲイを従えて、ウクライナの首都キーウにいました。フルシチョフ訪問の目的は、ドニエプル川を渡河する軍事演習の視察。ただ、それは表向きのこと。セルゲイが後に書き残したことによれば、実際の目的はジューコフの処遇。

大祖国戦争の英雄であるゲオルギー・ジューコフは、マレンコフ失脚後、フルシチョフの要請により国防大臣に就任。ハンガリー動乱を鎮圧した功績で、4個目のレーニン勲章を受賞。その後、スターリン批判に際し、モロトフ派との闘争に晒されたフルシチョフを擁護。これより、フルシチョフは中央委員会総会でモロトフ派の一掃に成功します。ところが、軍縮を巡って両者は激しく対立。これを受けて、フルシチョフは軍幹部と協議の上で、ジューコフの更迭を画策していたのです。

その日の夜、フルシチョフは、ウクライナ共産党幹部らと晩餐を共にしていました。午前0時頃、突然ドアが開くと秘書が駆け込んできます。電話を取るよう促されたフルシチョフは一旦退席すると、満面の笑みと共に戻ってきます。

興奮したフルシチョフが聞いた、宇宙からのビープ音。

「さっき、すごいことが起こったんだ。」逸る気持ちを抑え切れない様子の最高指導者は、興奮と共に一気に捲し立てます。「コロリョフから電話があり、2時間前に人工衛星を軌道に投入したと、報告があった!」

彼らは農業行政や財政政策に関する議論を深めることを望んでいたため、ウクライナの人々は何の関心も示しませんでした。フルシチョフは、余程嬉しかったのでしょう。それを知っても尚、話を止めることをしません。ロケット技術やこれに取り組んだ技術者、それら人々の功績等々、止め処無く雄弁に語り尽くしていきます。そこに再び秘書が戻ってきます。今度は、隅に置かれた短波ラジオのスイッチを入れ、チューニングを始めます。そこから聞こえてきたのは、無機質なビープ音でした。

「ビーッ、ピーッ、ピーッ、ビーッ、ピーッ、ピーッ・・・」そのビープ音は、スプートニク1号から発せられた無線信号。地平線の彼方から微かに聞こえ始めると、徐々にその音を強くし、そして再び音は遠くなっていきます。それは、スプートニク1号が宇宙から発信する、宇宙時代の幕開けを告げる喜びの歌声でした。

ひとしきりスプートニク1号のセッションを愉しんだフルシチョフは、ウクライナの人々に謝辞を述べ、部屋を後にします。もちろん、チーフデザイナーに関する事柄は、個人名を含めてすべて極秘事項であるとの注釈を付けるのは忘れませんでした。

プラウダ紙が掲載した、素っ気ない成功の一報。

その頃、トゥラタムでは技術者も軍人も全ての人が外に飛び出して、互いに喜びを噛み締め、興奮を分かち合っていました。厳しいミッションを彼らは、見事やってのけたのです。世界に誇る偉業が、人類史に燦然と輝く偉業が、今ここに達せられたのです。

翌日、コムソモリスカヤ・プラウダ紙が世紀の偉業を報じます。ところが、それは、偉業達成には程遠い実に地味な記事でした。一面には記事は載ったものの、大きな見出しもなく、興奮の素振りもない素っ気ないものだったのです。

セルゲイによれば、それはソビエト国民の自信の現れでした。ソビエト国民は、自分たちの社会主義国家が世界のすべてをリードしていると確信し、その「事実」に誇りを持っていました。寧ろ、強欲と煩悩に汚染された米国国民の堕落を哀れんでいたのです。彼らの知る処では、原子力発電所も、航空機の飛行記録も、ソビエトが先んじたもの。巷には、宇宙に関する書籍が溢れ、勉学に励む子供たちは明日にも宇宙旅行に行けると、期待に胸を弾ませていました。そんな国民から見れば、ほんの小さな一歩に過ぎない人工衛星打ち上げなど、騒ぐに値するニュースではなかったのです。

ところが、スプートニク1号はソビエト国民が想像だにせぬ衝撃となって、世界を駆け巡るのです。その反響に驚いたプラウダ紙は、9日に改めて詳報を発表。多少の興奮と溢れんばかりの賛辞に、スプートニク1号の写真を加えて、世界に発信します。

10月9日、コムソモリスカヤ・プラウダ紙の社説。

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スプートニク1号の軌道投入成功を記念して発行された、ソビエトの記念切手。via Wikipedia Commons

ソビエトは数年に渡り、地球人工衛星の研究開発を進めていた。新聞で発表されたように、ソビエトに於ける最初の人工衛星の打ち上げは、国際地球観測年の科学研究プログラムと一致するよう予定されていたものである。

科学研究期間や設計局の大規模かつ広範な作業の結果、世界初の地球人工衛星が誕生したのだ。1957年10月4日、ソビエト連邦で初の人工衛星打ち上げに成功した。予備データでは、ロケットが衛星に与えた速度は秒速約8,000m。現在、衛星は地球の周囲を楕円軌道を描きながら飛行しており、最も簡単な光学機器(双眼鏡、望遠鏡等)を使用すれば、日の出・日の入りの太陽光線中にその姿を観測することが可能である。

現在、直接観測による計算では、衛星は上空900kmを移動し、1周に要する時間は1時間35分。赤道に対する軌道傾斜角は65度となっている。1957年10月5日、モスクワ上空をモスクワ時間:夜1時46分と早朝6時42分の2回通過する予定である。10月4日にソビエト連邦で初めて打ち上げられた人工衛星のその後の動きについては、マスメディアのラジオ局で定期的に放送する予定である。

人工衛星は直径58cm、重さ83.6kgの球体です。周波数20.005MHzと40.002MHz(波長は15m及び7.5m)の電波を連続的に発信する送信機が2台搭載されている。送信機のパワーにより、多くのアマチュア無線で電波を安定受信することが可能である。

信号は約0.3秒の持続時間と同時間の休止を持つ、電話発信の形式を採用している。一方の周波数での信号発信は、もう一方の周波数での信号休止時間に行われる。

ソビエト各地に配された科学ステーションが衛星の追跡を行っており、軌道の諸要素を決定する。大気圏の薄い上層部の密度は確実には理解されていないため、現時点では衛星の滞在可能時間や大気圏高層部への再突入する一を正確に決定することは不可能である。計算の結果、衛星の速度が非常に速いため、衛星の寿命が尽きると、高度数十キロの大気圏の高層で燃え尽きることが分かっている。

ロシアでは、19世紀末に科学者ツィオルコフスキーが、ロケットによる宇宙飛行の可能性を科学的に証明した。

人類初の人工衛星打ち上げに成功したことは、世界の科学と文化の発展に多大な貢献を果たしている。こおような高高度での科学実験は、宇宙空間の特性を理解し、太陽系の惑星である地球の研究をする上で、非常に重要である。

国際地球観測年の間に、ソビエト連邦はさらに幾つかの人工衛星の打ち上げを実施する予定である。これらの人工衛星は、サイズと重量が増加し、広範囲な科学研究プログラムを実施することになる。

地球の人工衛星は、惑星間旅行への道を開くだろう。そして、恐らく我々の同時代の人々は、新しい社会主義社会の人々の自由で有意義な労働が、人類の最も大胆な夢を現実のものにするのを目撃する運命にあるのである。

スプートニク1号の屈辱がフォン・ブラウンに光を与える。

スプートニク1号打ち上げ成功のニュースは、ソビエト国内より寧ろ西側諸国にて大きく報じられます。殊に、米国国民に与えた衝撃は筆舌に尽くし難いものでした。真珠湾攻撃以来の恐怖が米国本土にもたらされると、人々はパニックに陥ったのです。当然、この一報は5日にはバルセロナに届いたため、この日発表予定だった米国の宇宙探査計画の出鼻を完全に挫くものとなります。アイゼンハワー大統領の宣言は滑稽な嘲笑の対象となり、米国のプライドは完膚なきまでに叩き割られたのです。

10月16日、政治及び科学の普及を目的とした会合に出席したソビエト科学アカデミー総裁ネスメヤノフは、初の人工衛星打ち上げに敬意を評して次のように述べています。「私たち社会主義の国の科学者にとって、この衛星の打ち上げは、人類による自然征服の新しい時代、すなわち人類生存の宇宙時代の誕生を祝うとともに、ソ連科学の勇気ある成熟を祝うという、二重の祝典なのです。」

もちろん、この衝撃のニュースは逸早く、ライバルたるフォン・ブラウンの元にもたらされます。しかし、フォン・ブラウンは少しも失望していませんでした。完膚なきまでに叩きのめされた米国人は、必ず逆転のために再び立ち上がることを知っていたからです。フォン・ブラウンは、スプートニク1号の成功を機会に、一気呵成に表舞台に躍り出て、巨大な宇宙探査計画を遂に実行に移すことになります。コロリョフがしたように、ピンチを最大のチャンスに変えてしまうのです。

 

参考文献

Russian Space Web.com News and history of astronautics in the former USSR
http://www.russianspaceweb.com/index.html

ロシア宇宙開発史 気球からヴォストークまで
富田信之著 東京大学出版会出版

KOSMONAUTIX.CZ
https://kosmonautix.cz/

国立国会図書館リサーチ・ナビ
https://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/023886748.html

COSMOS MAGAZINE
https://cosmosmagazine.com/space/how-sputnik-1-launched-the-space-age/

Культурно-исторический журнал «Наше наследие»
http://www.nasledie-rus.ru/podshivka/9712.php

RGRU
https://rg.ru/2017/10/04/rodina-sputnik.html

NASA エクスプローラー1号
https://history.nasa.gov/sputnik/expinfo.html

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