スバルショップ三河安城の最新情報。スバリズムレポート第2弾「航空機はなぜ飛ぶのか?〜飛行機が飛ぶ原理とは〜」| 2018年12月29日更新
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自動空戦フラップが効果を発揮した、紫電改。
紫電改で編成された三四三空では、自動空戦フラップの効果により、若年のパイロットも多大な戦果を挙げた。
USAAF 1946 [Public domain], via Wikimedia Commons
零戦は低翼面荷重により、敏捷なマニューバを実現していました。それでも、不足と考えた熟練パイロットは空戦中にフラップを手動で展開させて、激しいマニューバを実現していました。ただ、生死を分ける緊張感の中、冷静にフラップを作動させるのは至難の業。そこで、編み出されたのが自動空戦フラップです。
川西航空機が水上戦闘機「強風」に採用したのが最初で、その発展型の紫電改に搭載されて大きな戦果を挙げます。紫電改は、高翼面荷重で設計されていたため、零戦に比較して旋回性能が不足していました。自動空戦フラップはこれを補ったばかりか、若手パイロットの戦力向上に大きな効果を発揮したのです。
様々な主翼形状と、その意味。
次に、主翼形状を見てみましょう。
機体を上から見ると、様々な主翼形状があるのが分かります。これらは、その機体の使用環境に最適な形状として選ばれたものです。初期の航空機は単純な長方形の矩形翼。大戦初期の戦闘機は楕円翼ですが、大戦末期の爆撃機ではテーパー翼となり、戦後に開発された爆撃機は後退翼となります。超音速戦闘機は三角形の主翼(デルタ翼)を有していますが、水平尾翼があるタイプと無いタイプ、尾翼が機首にあるタイプもあります。
上記の機体は、おおよそ最高速度順に並んでいます。つまり、設計速度が高い機体は、後ろに後退した主翼を持っているということです。これを、後退翼と言います。
矩形翼から、楕円翼。そして、テーパー翼へ。
[左上]典型的な楕円翼の主翼を見せる、イギリスの第二次大戦機スピットファイア。初期の全金属製単葉機で採用された形式。
[右上]第二次大戦後期には、テーパー翼が主流となった。B-36が余りに巨大なため、B-29がまるで子供のように見える。
[左下]翼端がカットされた結果、楕円翼からテーパー翼に近付いた零式艦上戦闘機三二型。誘導抵抗が増したため、性能は芳しくなかった。
[右下]僅か1週間で設計を終え、183日後に初飛行した米国初のジェット戦闘機P-80シューティングスター。こちらも、テーパー翼。
第二次大戦中、航空機は結局音速を超えることは出来ませんでした。一つには、プロペラの問題があります。そもそも、プロペラも翼なのですから、翼端の対気速度が音速を超えられないのです。
1920年代の黎明期、航空機は布張りの複葉機で、シンプルな矩形翼が使われていました。1930年代に入り、全金属製の単葉機が実用化されると、誘導抵抗低減のために楕円翼へ進化していきます。ただ、楕円翼は生産性に難点があるため、1940年代はテーパー翼全盛期となります。テーパー翼は、構造重量と強度、揚力分布の面から理想的な翼平面形です、現在でも亜音速機では一般的に用いられています。
魔法のように、臨界マッハ数を高める後退翼の効果。
[左]世界初のジェット戦闘機、ドイツのMe262。重心位置を調整するため後退角を設けたところ、偶然に後退翼の恐るべき効果が発見された。
[右]数年差で開発された、米ソの巨大戦略爆撃機。両者の最大速度の差は200km/hにも達する。後退翼を採用したTu-95は未だに現役だが、B-36の方はたった10年で退役してしまった。
大戦中の翼の改善は抗力低減に終始し、遷音速域に近付くことは出来ませんでした。大戦末期、人類がジェットエンジンを手にしても、音速を超えるには壁があったのです。問題の根源は翼の平面形にありましたが、それが明らかになったのは戦後暫く後のことでした。
世界初のジェット戦闘機Me262は設計最終段階における重心位置の調整のため、仕方なく主翼に後退角を設けていました。これが、偶然にも亜音速域での性能改善に大きな効果があることが分かったのです。
そこで編み出されたのが、後退翼です。後退角をつけると、翼型に平行な流速は、後退角の余弦を乗じた速度まで理論上減速させることができます。逆に言えば、臨界マッハ数を高められるという訳です。後退翼の発明は、航空機の最高速度に革命的発展をもたらします。
米国が戦時中に設計した巨大爆撃機B-36ピースメーカーは、最高速度700km/h以下とされています。ところが、戦後ソビエトが1950年代に開発した大型爆撃機Tu-95は、最高速度は925km/hに達します。B-36がB-29と同様のテーパー翼なのに対し、Tu-95は強い後退角を持った長大な主翼を持っています。両者は、共に強大な出力持つプロペラ機ですが、後退翼がこれだけの性能差をもたらしたのです。
後退翼の理論は、ペーパークリップ作戦によって米国の手に渡ります。ボーイングは、1944年に始まったジェットエンジン搭載の中型戦略爆撃機の開発競争に参加していました。設計の最終段階に入った1944年5月、ドイツの航空技術者から入手したのが後退翼に関する情報でした。ボーイングは急遽設計を変更し、後退翼を導入したまったく新たな設計案を作成します。
これが、XB-47です。主翼は35度の後退翼を持った長大なテーパー翼で、翼下にはエンジンナセルを吊下していました。今日の旅客機を想像させる、極めて高い完成度を誇るB-47は制式採用となり、2032機が生産されて冷戦初期の戦略空軍の主役となります。
1947年に初飛行したB-47。ペーパークリップ作戦の情報を入手したボーイングは、急遽新設計を立案。後退翼にエンジンナセルを吊下する、現代的なスタイルを確立した。
はるか上空から地上の窓を叩き割る、衝撃波の威力。
NASAの試験機X-15の衝撃波。上がマッハ3.5、下はマッハ6。
衝撃波コーンの角度が異なるのが分かる。
音速を超える際に問題となるのは、衝撃波です。衝撃波は数十キロ離れた窓ガラスを割るほどのエネルギーがあり、それを生み出すための抵抗、造波抵抗が生じます。つまり、音速を超えると、航空機には圧力抵抗、摩擦抵抗、誘導抵抗に続く、第四の抵抗である造波抵抗が生じるのです。
物体が音速より遅いとき、音は機体の前方に伝播していきます。しかし、速度を超えると、音は機体に追い越されて前に伝わらず、後方に置いていかれます。この時、音の波面は円錐形を構成して蓄積されます。これが、ショックコーンです。円錐内部は圧力も温度も高まっており、凄まじい爆音となって地上に届きます。
軍用航空機と言えども、衝撃波がある故に超音速飛行できる空域は極めて限られています。コンコルドが超音速飛行していたのは、洋上だけでした。
存在すると信じられていた「音の壁」への、無謀な挑戦。
第二次大戦の最中、航空機の性能は急激に上昇していきます。しかし、その速度には限界がありました。音速を超えると機体が粉々に空中分解するという、「音の壁」があると当時は信じられていたのです。実際に、音速突破を試みた幾人かが、その犠牲になっていました。
臨界マッハ数を超えると、翼面で音速を超える部位が生まれ、衝撃波が生じます。造波抵抗により抗力が急増すると共に、衝撃波後方で剥離の発生に伴うバフェットが発生。操縦不能もしくは空中分解に至るのです。そんなことは当時は分かる訳もなく、音の壁と呼んで恐れていたのです。
不死身の男。すべてが伝説。それが、チャック・イェーガー。
チャック・イェーガーは、航空史における伝説的な人物です。1923年生まれのイェーガーは、1941年陸軍航空軍に兵員として入隊。航空機の整備士となります。1943年にパイロット資格を取得し、1943年11月にイギリスに派遣。P-51のパイロットとなった彼は、翌年3月4日に7回目の襲撃で、初撃墜を記録。ところがその翌日、フランス上空で早くも被撃墜。脱出に成功した彼はレジスタンスの力を借りつつピレネー山脈を超え、1ヶ月を掛けてスペインへの脱出に成功。司令部は即帰国の命を下しますが、嘆願を繰り返し、原隊復帰を果たします。
死線を潜り抜けたイェーガーは、10月12日には5機のドイツ機Bf109を撃墜。たった1日で、エースパイロットの称号を勝ち取ったのです。終戦までに、イェーガーは11.5機の撃墜を記録。なお、この中には世界初のジェット戦闘機Me262の撃墜が含まれ、世界初のジェット機撃墜を果たした人物としても名を残しています。