スバルショップ三河安城の最新情報。鳥肌モノのモータースポーツシーン。ベスト7選。| 2018年3月5日更新
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神がかりとしか思えない、鳥肌モノのモータースポーツシーン。ベスト7選。
今回は、小生がもっとも感動したモータースポーツのベストシーンをご紹介します。
小生が、モータースポーツを見始めたのは1990年頃。バブル華やかなりし時代、鮮やかなマシンが夢を乗せて駆け抜けていました。ドライバーの腕一つで台風の目にもなれた時代、ドライバーもライダーも正真正銘のヒーローでした。
今のように規制で雁字搦めではなく、技術屋のアイデア一つでF1でも勝てた、最後の時代でした。今や昔、F1は予定調和のショーでしかなく、緻密なシミュレーションの延長線上に過ぎません。奇想天外な奇跡を目にするチャンスは、もう殆どないのかも知れません。
星の数ほどレースを見ても、感動に打ち震えたレースは決して多くありません。小生の独断と偏見ですから、皆さんはまた違うレースをご存知かも知れません。そんな時は、ぜひご来店を。長らく、モータースポーツ談義で語らいましょう。
1.1992年 F1 モナコGP
永遠に語り継がれる伝説のレース。1992年モナコGPもその一つでしょう。
当時地上最強のウィリアムズ・ルノーFW14Bを駆る、ナイジェル・マンセル。ホンダV12に四苦八苦のマクラーレンMP4-6を駆るアイルトン・セナ。2人の天才が、伝統のモナコGPで激闘を繰り広げます。
既に見飽きたマンセルのトップ独走劇。が、ラスト7周、マンセルはタイヤトラブルで突如ピットイン!セナは、マンセルからトップを奪取します。7秒後方から怒りに満ちた激走で、みるみる肉薄するマンセル。遂に、テールtoノーズの息を呑む激闘が開始されます。しかし、ここはモナコ。パスするのは至難の業。マンセルは、右へ左へノーズを捩じ込まんばかりに突っ込み、全てのコーナーで激しいプレッシャーを掛けます。タイヤが限界が迎え、ズルズルと滑り始めたセナは、カウンターを当てながら必死の防戦。
ラスト2周、セナが見せたヌーベルシケインへのブレーキングは、正に神業。MP4-6はリヤをスライドさせながら、横を向きで進入。フルカウンターでシケインに突入したマシンを、セナは強引に捻じ伏せます。マンセルに隙を与えぬまま。。。
優勝は、セナ。その差はたった0.2秒。これぞ、F1!これぞ、モナコGP!!
2.1992年 ルマン24時間レース
1991年のルマンに勝利したマツダは、翌年もSWCに参戦。車両規定によりロータリーが参戦不可となった為、「TWRジャガーXJR-14」を走らせることに。MXR-01と名を変えたこのマシン、シャシーはTWR、エンジンはジャッドV10と「何処がマツダなのか」全く意味不明。パワー不足は深刻で、プジョーとトヨタの2強とは全く蚊帳の外で、同じカテゴリーとは思えない程の「遅さ」でした。
迎えたルマン決勝は、スタートから酷い雨。リードするプジョーの後方は、ウォータースクリーンで視界ゼロ。危険なレース序盤、フォルカー・バイドラーが駆るマツダMXR-01は、前を行く6台のマシンを次々にパス!パワーハンデは帳消しとなる豪雨の中、MXR-01は水を得た魚の如くゴボウ抜きにていきます。ユノディエールでは容易く抜き返されても、シケインのブレーキングでは有り得ないツッコミでまた抜き返す。その気迫は凄まじく、トップのプジョーはラインを譲るしかありませんでした。
その走りには訳がありました。突発性難聴による頭痛が深刻で、引退を決意していたのです。結果は、4位。バイドラーはこの年を以って引退し、レース界から完全に姿を消します。最後のルマンは、F1を確約していた彼の一世一代の輝きだったのです。
3.1993年 F1 ドニントンパーク
孤高の天才、アイルトン・セナによる奇跡の1周。それが、1993年のドニントンパークでのオープニングラップ。
アラン・プロストが駆るウィリアムズFW15C。その強さは、圧倒的。前年のFW-14Bが速過ぎる余り、投入を自粛して1年熟成したと聞けば、その強さは想像できようもの。一方、セナは逆境の最中。ホンダ撤退により、プライベータ仕様のフォードV8とあって、闘争意欲は失われていました。
迎えた、第3戦ヨーロッパGP決勝。レースは、セナが得意とする雨。しかし、ホイールスピンが酷く、スタートでシューマッハとベンドリンガーに先行され、5位まで転落。ところが、ここから「不可思議」な1周が始まります。早速、2コーナーでインからシューマッハを軽々とパス。続く、3コーナーではアウトからベンドリンガーをパス!続けざまに、6コーナーでデイモン・ヒルのFW15Cをあっさりとパス。残るはプロスト、只1台のみ。
彼だけ、路面はドライなのでしょうか?冷えたタイヤに全員が苦労する中、一人だけ全く違うペースで駆け抜けていきます。そして、ヘアピンへの進入。激しく突っ込んでいくセナは、右に左にマシンを揺すりながらギリギリのブレーキング。プロストは為す術なく、インを明け渡してしまうのです。
たった1周で、4人をゴボウ抜き。非力なエンジンでいとも容易く駆け抜ける、そのドライビングは奇跡以外の何物でもありません。
4.1993年 WGP 250cc FIMGP
この年の春、若井伸之が不慮の事故で突然の他界。キャンピングカーで一緒に戦ってきた日本の若者たちは、涙にくれながら第4戦ヘレスを駆け抜けます。原田哲也は、250ccクラスで男泣きの優勝。先輩を失った悲しみを乗り超えた原田は、ランキング2位で最終戦に臨みます。
しかし、ヤマハTZ250Mを駆る原田がタイトルを獲得するには、自らの優勝とライバルのカピロッシが4位以下というのが条件。誰の目にも、原田のタイトル獲得は不可能。そう思われていました。
スタートでは、9番手まで後退。カピロッシは、原田にピタリと付けます。序盤はアプリリアが優勢。ところが、トップを走るジャン・フィリップ・ルジアが8周目に転倒。トップ集団はカピロッシ、ビアッジ、ロンボニのホンダ勢と、レッジャーニのアプリリア、そしてヤマハの原田の5台で膠着状態に入ります。
レース中盤、タイヤを温存してきた原田が動きます。まずは、カピロッシをパスし、徐々に順位を上げていきます。原田に抜かれた焦りで、カピロッシはコースアウト!原田はビアッジ、レジアーニを抜いて、ラスト3周でトップを奪取。そのまま逃げ切って、原田が見事優勝。カピロッシは、何と5位に沈みます。1993年の250ccは、奇跡の逆転劇で原田が制したのでした。
テレビ大阪の千歳屋アナウンサーの名台詞「31番の原田哲也ッ!若井伸之と走っていますッ!!」を聞く度に、今もあの時の熱い思いが蘇ります。
5.1994年 WGP 500cc 日本GP
世界GPは日本人には憧れの場所。中でも、頂点に君臨する500ccクラスは、雲の上の存在。80年代末以降、綺羅星のような天才たちが異次元の走りを魅せていました。バイクは、日本製。でも、それをマトモに走らせる日本人は只の一人も存在しませんでした。そう、存在しないはずでした。
阿部典史、人呼んで「ノリック」。1992年の国内500ccクラスを全戦全勝という、この若きライダーはヘルメットから長髪をなびかせながら、驚くべきパフォーマンスを発揮。そして、ようやくスポット参戦した1994年の鈴鹿で、世界デビューを果たすのです。
型落ちのNSR500を駆るノリックは、スタートからトップ集団でギリギリの鍔迫り合い展開。一歩も譲らぬ熱く激しいライディングで堂々と渡り合うと、シュワンツ、ドゥーハンを次々とパス!何と、ノリックはトップに躍り出るのです!レース終盤、次第にグリップを失っていったNSRは、フロントからコントロールを失って激しく転倒。鈴鹿の束の間の熱狂は、1コーナーの砂塵の中で消えていきます。
ダイナミックかつワイルドなライディングスタイルと、人懐っこく優しい笑顔で多くのファンに愛されたノリック。2007年、突然の交通事故でこの世を去っています。
6.1994年 ルマン24時間レース
残り38分、ゆるゆるとピット出口に停まってしまった、トップ走行中のサードトヨタ94C-V。ジェフ・クロスノフは諦める訳にはいきませんでした。リヤに潜り込むと、ギアを自ら5速に叩き込みます。ルーフには、1994年のイモラに散ったローランド・ラッツェンバーガーの名前・・・。彼らにとって、ルマンは弔い合戦でもあったのです。
慎重に発進させると、13.6km先のピットに急ぎます。原因は、シフトリンケージの折損。18分を要して修理を終えると、ライバルのポルシェ2台は遥か先行。ピットでは、マウロ・マルティニが見守ります。
フィニッシュを任されたのはラッツェンの代役、エディ・アーバイン。友人であり、ライバルであった亡き友のため、アーバインは渾身の追撃を開始。速度差が100km/h以上に達する周回遅れの隙間をぬって、恐ろしいほど狭いオールドコースをスモークをあげながら、テールスライドさせつつ、スッ飛んでいく94C-V。最後の1周、グランドスタンド前でパスした、2位のダウアー・ポルシェ。グランドスタンドは大歓声に包まれます。
1年後、カナダ・トロントで1台のマシンが宙に舞い上がり、ポールに激しく叩き付けられます。バラバラになったマシンの中で、息絶えたのはクロスノフ。享年31歳。その年、盟友マルティニはフォーミュラから引退します。