スバルショップ三河安城の最新情報。STIが新型BRZ・GT300を公開。Super GTの裏側に迫ってみました。| 2020年12月24日更新

 
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SUBARU BRZ GT300 2021年仕様が初公開。新型が速いからと言って、勝てないのがSuper GT。

STIは12月17日、自身のSNS上で「NEW BRZ GT300 始動」と銘打って、Super GTの2021年シーズンに参戦するGT300車両を公開しました。写真はフロント・サイド・リヤの3枚のみで、技術的詳細こそ無いものの、次世代マシンの概要を大凡窺い知ることができます。

これまで、BRZ・GT300はストレートスピードの不足に悩んできました。その原因は、骨董品のEJ20ターボにあるのは間違いありませんが、現状の予算では新開発エンジンなぞ、夢のまた夢。そこで、2021年仕様ではドラッグ削減をテーマに開発が進められている様子。フロントフェンダーはコブ状に前方に突き出していますが、これは最高速度を重視するルマン仕様で見られる処置。ボディサイド、リヤも空力付加物は最低限とされて、ドラッグ削減に細心の注意を払っていることが分かります。

ベースとなるのは、米国では発表済みの次期BRZ。エンジンが2.4LNAエンジンに換装された、次世代モデルです。ならば、ポテンシャルアップ間違いなし。スバルファンの皆さんの期待も多いに高まっていることでしょう。よし!新型BRZになったからには、来年は勝てるッ!!・・・・という訳でもないのが、Super GTの複雑な処。

今回は、そのSuper GTの複雑さの所以とBRZ・GT300の置かれた境遇について解説していきましょう。

 

3つのレースシリーズの手痛い失敗=教訓を元に、運営されるSuper GT。

コロナ禍により異例のシーズンとなった、2020年のSuper GT。最高峰のGT500を制したのは、ホンダ・NSX。今年、ベースモデルのミッドシップレイアウトから、フロントミッドシップレイアウトに変更するという、大英断の大手術を敢行した上での劇的な逆転勝利でした。何より悔しいのは、トヨタでしょう。今年鳴り物入りで登場させた、ニューマシンGRスープラの大群。ドラッグを徹底削減する新しいコンセプトで、開発を強力に推進。その甲斐あって、各マシンが遺憾なくポテンシャルを発揮。最終戦の段階では、最も優勢に思われていました。

ところが彼らを待ち受けていたのは、ファイナルラップの最終コーナーでガス欠・ストップという、悲劇的な結末でした。かくして、今年のタイトルはホンダ・NSXの手に渡ったのです。

果て、ホンダはなぜエンジンをフロントに移し変えたのでしょうか?そもそも、そんな大胆な改造が何故許されるのでしょうか?

そこには、Super GTの苦闘の歴史が詰まっています。Super GTの前身となる全日本GT選手権が誕生したのは、1993年のこと。それまで開催されていた、JSPC(全日本スポーツプロトタイプカー選手権)とJTC(全日本ツーリングカー選手権)に代わるシリーズとして、JTCC(全日本ツーリングカーチャンピオンシップ)に先駆けてスタートしたものです。実は、Super GTはこの3つの選手権の手痛い教訓を元に、維持・運営されてきたのです。そして、そこにこそSuper GTの複雑さの所以があるのです。

1980年代後半、JSPCとJTCは興隆の絶頂にありました。飛び交うバブルマネーに勢いを得て、スポンサーは引く手数多。自動車メーカーも欧州車に、追いつけ追い越せと予算も潤沢でした。短くも華々しい時代。それが、この頃の日本のモータースポーツでした。しかし、バブルは一時の夢。泡と消えれば、残るのは厳しい現実。。。JSPCとJTCは、相次いで崩壊し、日本のモータースポーツは危機的状況を迎えることになるのです。

 

バブル崩壊と日産の圧倒的優勢がもたらした、日本一豪華なレースシリーズJSPCの崩壊。


JSPCの事の始まりは、1982年のWEC(世界耐久選手権)。井の中の蛙に過ぎなかった日本のモータースポーツは、その事実を痛いほど思い知らされます。ペリー艦隊の如く襲来した2台のグループCカー「ポルシェ・956」が、凄まじいスピードで富士を駆け抜けたのです。日本勢は恥ずかしいほど歯が立たず、トヨタ、日産のプライドは木っ端微塵に砕かれます。

翌1983年、打倒ポルシェ!を合言葉にスタートしたのが、JSPC。好調な景気を背景に、トヨタ、日産の日本勢は予算に糸目も付けずグループCカーの開発を始めますが、セミワークスのポルシェはおろか、国内プライベータにさえ歯が立ちません。彼らは、まず国内でポルシェを打倒。次に、世界選手権。そして最終目標を、ルマン制覇に置いていました。

漸く日産が国内タイトルを奪取したのが、1990年。この年、日産は総力を挙げて世界に挑むも、チーム内の主導権争いに終止する杜撰ぶりで計画は大失敗。翌年、トヨタと日産は景気後退により、世界選手権参戦を停止。この1991年のルマンを制したのは、伏兵マツダでした。

1991年、バブル崩壊による景気後退はいよいよ深刻に。プライベータは、蜘蛛の子を散らすように去っていきます。結果、グリッド上はワークスが6〜7台を占め、合計でも10台前後という、寂しいレースとなります。たった10台が1000kmも走るレースを誰が見に来るのでしょう。観客は、どんどん減っていきました。そして、何よりも深刻だったのは、日産の圧倒的優勢です。優に1000psを超える予選ブースト、決勝を楽に走り切る高燃費。この時、日産の技術はトヨタを完全に圧倒していました。スタート前から結果が明らかでは、ファンが興味を失うのも無理はありません。

時を前後して、FISAはグループCの技術規定改正を強行。日産はこれに反発して、世界選手権から撤退。トヨタはこれを機にルマン制覇を目指します。ところが、新規定はものの3年で崩壊。世界選手権SWCは、1992年限りで終了。これに歩調を合わせ、JSPCも1992年限りで終焉を迎えることになります。

 

常に観客は超満員。大成功のJTCを終了させた、国際規定への準拠という最大の失敗。


一方の雄JTCは多数の観客を動員するなど高い人気を誇り、最後となる1993年の最終戦に至るまで、興行としては充分に成功していました。その人気の中心にあったのが、奇跡の復活を遂げたスカイライン・GT-Rでした。70年代、ハコスカを見て育った少年たちが、かつての夢を再現とばかりに、サーキットに押し寄せたのです。

JTCを争うのは、グループA規定の車両たち。現在でも様々に変遷しつつも、WRCで維持されている車両規定です。JTCでは、排気量2.5L以上をクラス1、2.5L以下をクラス2、1.6L以下をクラス3と、3クラスに分類。各カテゴリーで熱い戦いが展開されていました。サーキットでも、ラリーでも、同じベース車両で2つの選手権を戦えるとあって、グループAには確かな未来があるはずでした。ところが、サーキットでは早々にグループAは衰退してしまいます。その原因となったのが、圧倒的過ぎるGT-Rのポテンシャルでした。

そもそも、BNR32型スカイライン・GT-Rは、グループAで世界を席巻することを目的に開発された車両。2.6Lという中途半端な排気量自体が、グループA規定で計算上最も有利な数値を逆算して決められたもの。その速さと信頼性は、完全に他を圧倒しており、GT-Rにあらずんば、クラス1にあらず。と言わんばかりに、世界を次々に席巻していきます。その結果、フォード・シエラやトヨタ・スープラなど、ライバルは次々に駆逐されていきます。振り返って見れば、クラス1にはGT-Rしか居なかったのです。

だったら、勝てるマシンを開発すれば良い。確かに、そうです。ところが、グループAは所詮グループA。WRCは別として、サーキットでは国内選手権レベルのカテゴリー。そのためにゼロからマシンを開発できるメーカーなど、他には居なかったのです。

こうして、欧州では早々にグループAシリーズは衰退し、新たなカテゴリー・クラス2へと移行していきます。ところが、世界のグループAが終焉を迎えても、JTCは相変わらず爆発的人気を集めていました。どのレースも超満員。クラス3のレビンvsシビックの対決も高い人気を集めていました。

ただ、国際規定への準拠は既定路線。JSPCの終了から1年後の1993年。JTCは鈴鳴の観客に見送られつつ、その幕を閉じたのです。

 

白熱したレース展開が、技術開発競争の激化を招く。参戦費用の高騰により崩壊したJTCC。


1994年、JTCの後継カテゴリーとして、世界的に盛り上がりを見せていたクラス2の選手権がスタートします。これが、JTCCです。

クラス2は、一風変わった車両規定が特徴でした。ベースとなるのは2L以下のセダン。日本で言えば、完全なる「親父グルマ」です。常日頃は全く冴えないセダンたちが、ワークスの手によって鮮やかに生まれ変わり、スタードライバーを乗せてガチガチのバトルを繰り広げる。それが、JTCCの魅力でした。

本場は、英国BTCC。ここでは、数々のワークスが熱い戦いを繰り広げていました。トヨタ、ニッサン、ホンダ、BMW、フォード、ルノー、プジョー、オペル、ボルボ、アウディ、アルファロメオと、のべ11ものメーカーが参戦していたのですから、その激闘ぶりが窺い知ることができます。レースは、当時としては珍しい2ヒート制。30分程度の超スプリントレースを2回戦います。エントリーが20台以上ある中でワークスマシンが争うのですから、そのバトルたるや激闘そのもの。バンパーをぶつけるのは朝飯前。吹っ飛ばされるのは、ボーっとしてる奴が悪い、と言わんばかりのレースが繰り広げられたのです。

ただ、こうしたバトルは日本ではマッチしませんでした。本気で戦う余り、ドライバー同士の関係が深刻になってしまったのです。熱くなりすぎるガイジンドライバーは批判の的となり、ピットでの殴り合いも多発しました。

JTCCを崩壊に追い込んだのは、それではありません。本気になったホンダの恐ろしさでした。当初、ホンダはグループA仕様のEG6・シビックをベースに、2.0L化したセダンを投入。が、これがパッとしません。その低迷ぶりは、ホンダを刺激します。当時のホンダには、四輪・二輪で世界を極めたプライドがあり、トヨタ、日産の後塵を拝する訳にはいかなかったのです。1996年、ホンダは童夢と共同開発したアコードを投入。これが圧倒的ポテンシャルを発揮。これを機会に、日産、トヨタの開発費用は一気に高騰します。

アコードの強さの秘密は、低い車高と広い車幅にありました。そこで、トヨタと日産は性能の均一化を図るべく、フェンダーの加工の自由化を求めます。ところが、これは日本独自の規定。世界交流を求めて導入したクラス2が、いつの間にか国内独自規定になってしまったのです。また、欧州でも開発費用は高騰。彼の地では、本気になったアウディが問題になっていました。こうして、BTCCも次第に衰退の途を辿っていきます。

1998年、JTCCはTTCCとあだ名されることになります。ホンダと日産が撤退。エントリーがトヨタのみとなったからです。こうして、JTCCはたった5年で幕を閉じてしまうのです。

 

1993年3月28日、ひっそりと始まった全日本GT選手権。エントリーは、たった2台!!


1993年3月28日、全日本GT選手権はひっそりと開店の日を迎えます。この日、誰が今日の盛り上がりを想像したでしょうか。当日のエントリーは、日産が「恩義」で製作した2台のワークスカーのみ。これではレースが不成立となるので、JSPCのサポートレースだったJSSを混走させることで、何とか体面を維持しただけのもの。日産の「ワークスカー」は、1台がBNR32のGT-R。もう一台は、S13のシルビア。グループAベースに、GTマシン風のウイングとバンパーを取り付けただけの、本当に不格好な急造マシンでした。この2台のマシンが、後にGT500とGT300へと発展していくことになるのです。

1993年シーズンは全9戦予定のうち、開催できたのはたった4戦。その全てに優勝したのは、GT-Rでした。当然といえば、当然。前代未聞と言われたJSPCの最終戦よりも、さらに寂しい開幕戦。お先真っ暗。それが、全日本GT選手権の始まりでした。

翌1994年、JTCの終焉を機会に、全日本GT選手権は漸くまともなエントリーを得て、華やかな第一歩を記します。ただ、まだまだノンビリとした時代。第3戦富士では、あの近藤真彦氏が962Cで優勝するなど、現在のガチガチのレースとは少し趣の違う風情がありました。

全日本GT選手権の魅力は、様々なマシンを気の向くままに改造・開発が出来る点にありました。ベースは、本当に何でも許されたのです。それは、日本のレーシングガレージにとって貴重な仕事でした。それを理由に、スポンサーからより多くの活動資金を引き出すことができたからです。

これを可能にしたのは、性能調整です。JSPC、JTC、JTCCを衰退に追い込んだのは、特定のマシンの常勝化。資金・技術に勝るマシンが一方的に勝利を重ねれば、ファンが離れていくのは必定。しかし、メーカーやスポンサーは投じた予算の分、結果を独占したいのは当然です。一方で、結果の独占はカテゴリーを衰退させますから、栄華は結局一時のもの。全日本GT選手権を運営するGTA(GTアソシエーション)は、この考えをワークスにも徹底させることで、カテゴリーの衰退を防いだのです。

GTAは、GT500のエントリーを徐々にトヨタ、日産、ホンダの3ワークスマシンに絞っていくことで、GT300との差別化を徹底すると共に、性能調整の厳格化を図っていきます。一方、GT300はプライベータのためのカテゴリーとして、マシンのバラエティ確保と性能均一化を第一に選手権の均衡を図っていきました。

そのため、各マシンのポテンシャルは、オーガナイザー側がスペックや前年度実績を元に独断で決定。勝利したマシンには、どんどんウェイトハンデが加算され、ポテンシャルは削られていくレギュレーションとしました。こうして、各マシンのポテンシャルは均一化が図られ、どのマシンが勝つか分からない。現在のSuper GTが作り上げられていったのです。

 

二度の危機を乗り越え、レーシングエンターテイメントという新しいジャンルを確立した、全日本GT選手権。


また、GTAはTV放送にも工夫を加えました。GT500とGT300を、あたかも全く別のレースであるように、各々別の週に放映したのです。つまり、TVの前のファンは、1つのレースを2つの「別のレース」として愉しむことができます。これにより、ワークスが多いGT500のみならず、プライベータのみのGT300にも脚光を当てることができ、両カテゴリーを上手く活性化させることができたのです。GT300では、現在に至るまで数多くのエントリーを集めています。それは、性能の均一化は当然ながら、TV露出が多いためにスポンサーを獲得しやすいという理由があるのを忘れてはいけません。

ここまで見て分かる通り、全日本GT選手権と現在のSuper GTは、F1のような純粋なコンペティションではありません。それは、モータースポーツというより、レーシングエンターテイメントと呼ぶ方が適切です。彼らが目的としているのは、サーキットを訪れるファン、そしてTVを見るファンを、心から楽しませること。喜ばせるべきは、大金を投じたメーカーではないのです。全てのエントラントは、エンターテイメントを作り上げるための演者に過ぎない。それが、彼らのレース哲学なのです。

けれど、その哲学は全てのエントラントの同意が無くては、維持できません。誰かがこの均衡を破ろうとすれば、いとも容易く選手権は崩壊してしまうからです。

全日本GT選手権は、今まで2度大きなピンチを迎えています。

1度目は、1996年。後にルマンを制する郷和道が、BMWワークスを引っ提げて、マクラーレンF1-GTRでGT500に挑んできたのです。黒船来襲の騒ぎに、全日本GT選手権は「拒否」の姿勢で臨みます。それは、トヨタ、日産の既得権益を守るための戦略でもありました。あり得ない程の性能調整を課されたにも関わらず、圧倒的な速さでレースを席巻するマクラーレン。これに挑んだのは、エリック・コマスの駆るトヨタ・スープラ。しかし、遂に打倒は果たせず、シリーズタイトルはマクラーレンの手に。そこで彼らが選んだのが、郷和道をシリーズ表彰式に招待しない、という前代未聞の仕打ちでした。。。

2度目は、翌1997年。JTCCを崩壊に追い込んだホンダ+童夢がNSXを擁し、本気で全日本GT選手権に挑んできたのです。当時の童夢は、飛ぶ鳥を落とす勢い。大規模風洞を所有する彼らは、空力開発で世界に伍するレベルにありました。そんな彼らが、全日本GT選手権に現れたら。。。かと言って、「外車」の様にむべなく追い返す訳にもいきません。そこで彼らが選んだのは、選手権の趣旨を理解させ、同じ穴のムジナにしてしまうことでした。

選手権が均一化すれば、トヨタ、日産、ホンダの各メーカーに均等なチャンスがあります。それは、彼らが次年度の活動予算を確保するのに、大変重要な「言い訳」となります。逆に、選手権側としては何としても、レースの体裁を維持するのに3メーカーの協力は欠かせません。絶妙なバランスを維持しているからこそ、レーシングエンターテイメントが堅持されているのです。

 

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