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米ソ宇宙開発競争第2弾。V-2を奪取せよ。米ソの極秘作戦。
1960年代、人類はたった2人の天才に導かれていました。母国ドイツを捨て、米国に新天地を求めたヴェルナー・フォン・ブラウン。そして、フォン・ブラウンの「遺産」を受け継ぎ、これを昇華させたセルゲイ・コロリョフ。しかし、コロリョフの存在は極秘であり、両者が相見えることは一度として無く、フォン・ブラウンがコロリョフの存在を知ったのは、その死後のこととでした。
1950年代が航空の時代であるなら、1960年代は宇宙の時代でした。しかし、その背景に渦巻くものは、東西のイデオロギー対立でした。この事実は、決して忘れるべきではありません。1960年代の宇宙開発競争は、宇宙を見上げる全人類的希望に基づくものではなく、地上で蠢く主義者たちのイデオロギー闘争の一端でしかなかったのです。そして、そのロケットはICBMそのもので、ペイロードを核弾頭からカプセルに付け替えただけのものでした。人類の希望たる宇宙飛行士とて、東西冷戦の前にはプロパガンダに好都合な宣伝道具でしかなかったのです。
1945年5月8日、ドイツ全面降伏。欧州戦線決着せり。
1941年6月22日、独ソ戦勃発。厳冬に阻まれるドイツ軍。
1941年6月22日、ドイツ軍は独ソ不可侵条約を一方的に破棄して、ソビエトに侵攻。電撃戦を展開し、モスクワ寸前へ迫った。Gdr at the English-language Wikipedia, CC BY-SA 3.0
1941年6月22日、ドイツ軍はバルバロッサ作戦を発動、独ソ不可侵条約を破ってソビエトに侵攻。電撃戦を展開し、破竹の進撃を開始します。ドイツ軍は、僅か3ヶ月後の9月には怒涛の勢いを以て遥かモスクワに迫ります。ところが、早過ぎる冬の到来により戦況は一気に暗転。補給線を絶たれ、物資に困窮するドイツ軍は、進撃を停止。これ以上の損害を懸念した軍指導部は撤退を進言するも、ヒトラーはこれを拒否。彼らを更迭した上で、自ら陸軍総司令官となって反抗を厳命。戦線の死守を命じます。退路を絶たれたドイツ軍は必死に抵抗し、辛うじて戦線を維持したまま、戦線を膠着状態に持ち込むことに成功します。
一方、ソビエトは大規模な焦土作戦と疎開を行い、ドイツ軍に鹵獲の機会を与えず、補給を妨害。さらに、ドイツ占領地内にパルチザンを組織し、破壊工作を行うなど後方攪乱を実施します。奇跡的な反抗に気を良くしたスターリンは、赤軍参謀本部の反対を押し切って、1942年に全戦線での総反撃を命じます。ところが、赤軍は未だ回復の途上にあり、反撃は沙汰止みとなって反抗作戦は逆に失敗に終わります。ただ、電撃戦で欧州大陸を席巻したドイツ軍の威光は、今や昔。ドイツ軍は欧州各地で敗走を始めます。
1944年、状況は一気に動きます。6月6日Dデー、西側連合国がノルマンディー上陸作戦を敢行したのです。
1944年6月22日、バルバロッサ作戦発動。ソビエト赤軍の反撃。
1944年6月22日、スターリンはバグラチオン作戦を発動。6月6日の米英によるノルマンディー上陸作戦に呼応し、ソビエト赤軍は一気に反抗。ドイツ軍は、一方的な敗走を余儀なくされる。Drawn by GdrModified by Zocky, Mahahahaneapneap, Julieta39, Claude Zygiel, CC BY-SA 3.0
北フランスに上陸した200万人の連合国軍は、一気にフランスを奪還。続いて、バルバロッサ作戦からちょうど3年後の6月22日、赤軍がこれに呼応して、バグラチオン作戦を発動。ドイツ軍の正面戦力の6倍を以てして、電撃戦を展開。ドイツ軍を一気に駆逐。挟撃されたドイツ軍は絶望的な二正面作戦とせざるを得ず、敗走もままならぬまま、一方的に撃破されていきます。ロシア領内からドイツ軍は早々駆逐され、東部戦線は崩壊。開戦前の状態にまで一気に押し戻されます。最早、ドイツ軍にを押し戻す力は残されておらず、ドイツ中央軍集団は事実上壊滅に追い込まれます。
赤軍がベルリンまであと70kmに迫った、1945年2月。その4日~11日かけて、英米ソ首脳によるヤルタ会談が行われます。欧州戦線に於ける焦点は、ドイツの分割統治と東ヨーロッパの戦後処理でした。ただそれは表向きのこと。真に決すべきは、来る世界の主導権。ドイツは米・英・仏・ソの4カ国により、軍政による分割統治とすることとされます。ところが、ポーランドを巡って、米ソが対立。在英のポーランド亡命政府に呼応して、ポーランド軍によりワルシャワ蜂起が起こるも、ソビエトがこの支援を拒否した事実を米英は強く非難。さらに、カティンの森事件が発覚すると、米ソの対立は決定的になります。
1945年5月8日、ドイツ全面降伏。米ソ収奪合戦の火蓋が落とされる。
ヤルタ会談で決した、連合軍のドイツ占領予定地域。西側のポーランドを巡って、東西の対立は決定的なものとなる。User:52 Pickup, CC BY-SA 2.5
4月16日、赤軍がベルリン総攻撃を開始。30日に、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーが夫人のエヴァ・ブラウンと共に地下壕の一室で自殺。ここに情勢は一気に急転、ナチス・ドイツは組織的抵抗を停止。5月2日、遂にベルリンが陥落。5月7日、カール・デーニッツ元帥は降伏を決断。翌8日に、降伏文書に批准。午後11時1分に休戦が発効します。
戦後対立が決定的であった米ソの焦点は、既にドイツ1カ国になく、戦後世界の主導権争いに移行していました。両者はイデオロギーの面で決定的に対立しており、互いにその存在と成立を許容できるものではありませんでした。何れ、全面衝突の時が訪れるであろうと、両者は確信していたのです。第二次大戦が集結するより前に、米ソは早くも第三次大戦を考えていたのです。
その時に必要なものは、何か。一つは、核でした。マンハッタン計画の成功により、広島・長崎への原子爆弾投下に成功した米国は、この時点で唯一の核保有国でした。その次に、必要とされるもの。それは、その核を相手の首都に確実に叩きつけるための手段。つまり、長距離打撃を可能にする唯一の技術。それこそが、ドイツが唯一保有するロケット技術でした。
ここに、戦後世界の主導権を巡って、米ソによるドイツ収奪作戦の火蓋が切って落とされるのです。
ドイツに残されたV-2を奪取せよ。熾烈な米ソ収奪合戦。
ソビエト占領地域に居座り続ける米軍、その目的は何か。
ペーネミュンデで発射試験に供される、A-4ロケット。このA-4が弾頭を搭載し兵器となったとき、それは報復兵器V-2となる。Deutsches Museum Archiv, Public domain, via Wikimedia Commons
米英仏ソによるドイツ支配地域の境界線は、ヤルタ会談により予め決していました。ところが、5月8日の時点で、米軍はその境界線を200マイルも越えて東側に進出。戦争終結後2ヶ月に渡って、ソビエト占領予定地域に居座り続けます。漸く撤退したのは、撤退期限ギリギリの7月1日。実は、この時点で米ソ収奪作戦の趨勢は既に決していたのです。しかし、その重要な事実にスターリンは全く気付いていませんでした。米国の手により、ミッテルヴェルケは既にもぬけの殻となっていたのです。
遡ること3ヶ月前の4月11日、米英両軍はミッテルヴェルケを陥落させると、強制収容所を開放。そこで彼らを待っていたのは、常軌を逸した夥しい躯の数々と、手付かずのまま残されたV-2ロケット約100基分の部品・資材でした。米国は、それら全てを我が物とすべく、「戦利品」秘密移送作戦を開始するのです。
世紀の輸送作戦を見事に成功に導いたのが、ホルガー・N・トフトイ大佐でした。トフトイは、米国陸軍空軍の欧州陸軍兵器技術情報部(AOTI)のチーフであり、鹵獲された兵器を評価することを任務としていました。その目的は、ドイツの高度な軍事技術を対日戦線に役立てることにありました。
ソビエトからV-2・100基を奪い取れ!米国の極秘作戦。
「ドイツのV-2ミサイルを使うことで、我々の設計者は何年もの研究と何百万ドルものお金を節約することができる。我々は、12年間にわたるドイツの集中的な研究から利益を得て、戦争の技術に革命をもたらす兵器を開発する上で、何をすべきでないか、何をすべきかという実践的な知識を得ることができる。」と、トフトイはその価値を強調しています。
そのトフトイに課せられた任務が、約100基のV-2と、それに関連する技術文書、マニュアル、工作機械、予備部品を可能な限り入手し、それを米本土のニューメキシコ州ホワイトサンズへ輸送するという、「スペシャルミッションV-2」でした。
ただ、V-2ロケットを求めていたのは、ソビエトも、英国も同様でした。つまり、トフトイはソビエトはおろか、英国までも出し抜かねばなりませんでした。イデオロギーで対立するソビエトは別としても、同盟関係にある英国を裏切ったことが露見すれば、深刻な外交問題に発展する可能性があります。特に厄介だったのは、米英で交わされていた紳士協定でした。ドイツ軍の最新兵器を捕獲した場合、米英で1:1で分け合うこととし、もし1つしか発見されない場合には英国に引き渡すことになっていたのです。トフトイに課せられた任務は、これを完全に無視するものだったのです。
ミッテルヴェルケ、またの名をミッテルバウ=ドーラ。
連合軍が撮影した、ノルトハウゼン周辺の航空写真。点線で囲まれた区域を結んで2本のトンネルがあり、これを結ぶ無数の横坑に生産設備が設置されていた。http://fotoarchiv.dora.de/detail/3780, Public domain, via Wikimedia Commons
トフトイは、英国陸軍第21軍、米国陸軍第12軍及び第6軍に随行する3部隊に、トフトイが個人的に指示した任務を遂行する独立部隊を加えた計4個の捜索部隊を編成。機動的な対応を可能にしていました。各部隊には、クルマ、カメラ、ラジオ、書類作成用機材・備品が用意され、発見したものを識別してタグ付けし、記録する資格を与えた人材も配備していました。
そして、4月11日。米国第3機甲師団戦闘司令部B(CCB)がノルトハウゼンに到着。直ちに、ミッテルヴェルケ一帯の捜索を開始します。CCBの情報将校ウィリアム・カスティルに任されたのは、既に無人と化していたV-2ロケットの組み立てラインの視察でした。
連合軍は、地下要塞ミッテルヴェルケは爆撃の効果が低いと判断。4月3~4日に鉄道施設等の周辺施設に猛爆撃を敢行。甚大な被害を受けたドイツ軍は施設を放棄し、撤退を決定。ミッテルバウ収容所の囚人たちはSSにより死の行進を強制され、ベルゲンベンゼン強制収容所に移されます。一方、V兵器に関する13tに及ぶ研究文書は、4日中にはゲオルグ・フリードリヒ鉱山へ移送されています。
ドイツ軍は余程混乱していたと見えて、ミッテルバウでの悪行を隠蔽するための破壊工作をせぬまま、数多の囚人たちの躯と膨大なV-2ロケットの部品・資材・工作機械を、全くそのままに敗走していました。
夥しい遺体と100基のV-2。。。そのまま敗走したドイツ軍。
トンネル内に一歩踏み込んだカスティルを待っていたのは、「まるで魔法の洞窟にいるようだ」と表現するほどの圧倒的な光景でした。誰一人いない地下要塞には、膨大なV-2ロケットの部品が、整然と並べられたまま残されていたのです。但し、その足元には夥しい数の死体が折り重なっていたため、多くの兵士がPTSDに苦しむことになります。
発見の第一報を受けたトフトイは、約80マイル南西にいたAOTIチーム(ジェームス・ハミル少佐指揮:技術担当ウィリアム・ブロムリー少佐、特別顧問MIT電子工学ルイス・ウッドラフ教授)を、直ちに現地に派遣します。
彼らはそこで、貴重なV-2ロケットの他に、ヘンシェルHs117シュメッターリング地対空ミサイルのほぼ完成品、ヘンシェルHs298空対空ミサイルの誘導制御ユニット、誘導ミサイル追跡用の精密光学機器、ヴァッサーファル遠隔操縦式地対空ロケットの誘導ユニットの他、膨大な技術文書を発見します。ただ、V-2に関する技術文書は、なぜか発見できませんでした。
それでも、押収された物品が膨大な量に及んだため、ブロムリーらに課せられた仕事は膨大なものとなります。彼らは、発見された全てを整理、記録した上で、これをベルギーのアントワープ港まで運び、そこから米本土まで輸送せねばならないのです。
英国・ソビエトの将校の目の前で、堂々とV-2を貨車に積載。
連合軍の進駐を許した、ミッテルヴェルケ。ドイツ軍が移送したのは、強制収容所の収容者(歩ける者)のみで、まともな命令系統を既に失っていたのか、軍事機密を放置したまま敗走していた。See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons
ところが、トフトイらには肝心のロケットに関する十分な知識がありませんでした。加えて、それらを示すだけの十分な資料も存在しませんでした。そのため、発見された物品だけで完全なV-2ロケットが完成し、それが本当に機能し得るのか、彼らには確信が無かったのです。ただ、100基もの完全なV-2ロケットなぞ、此処を除いて世界の何処にも存在しないことは確かでした。
ノルトハウゼンの鉄道車両基地でも、凡そ50基のV-2ロケットが発見されていましたが、こちらは効果的な爆撃の成果が確認され、しっかり破壊されていました。トフトイらは、取り敢えず目に付くものを運ぶしか無かったのです。何よりトフトイの極秘任務を阻んだのは、作戦の価値を理解しない不愛想な現地司令官でした。彼らはその緊急性を理解せず、漫然と対応したのです。
トフトイは、10tのセミトレーラー2台を手配しますが、有ろう事か1台が故障。そこに到着したのが、ロバート・B・ステーバー少佐が指揮する別働隊。彼らはノルトハウゼンに駐留していた第71兵器重整備中隊を説得し、2.5tトラック6台を何とか借り出すことに成功します。そして、彼らは同じ目的でミッテルヴェルケを訪れている英国・ソビエトの将校の眼の前で、24時間体制で膨大な戦利品を貨車に積み込むと、何食わぬ顔で列車を西へ送り出したのです。
ソビエトからの視察要求!?残るは、あと5日。。。
坑内に整然と並ぶ、至宝のV-2のロケットエンジン。敗軍の将として、決してあってはならぬ情景である。See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons
26日、ステーバーを恐怖に陥れる申し入れがありました。ソビエト赤軍の将校がミッテルヴェルケの視察を要求してきたのです。米国人たちは、もう開き直るしかありませんでした。ここはソビエトの占領予定地域。彼らを拒むだけの真っ当な理由は何処にもありません。何しろ、自分たちがやっていることは、間違いなく「泥棒」なのですから。見られてしまったからには、後は早々に仕事を終えてズラかるのみ。残された日数は、あと5日。兎に角、作業を急がねばなりませんでした。
トフトイの指揮する特務任務部隊は、5月22日に40両編成の貨物列車第1便を出発させると、9日間のうちに、のべ341両の貨車にV-2ロケットの部品・書類を積み込み、ノルトハウゼンからエアフルトを経由して、米軍軍事鉄道システムによりアントワープに運ぶことに成功します。あとは、船積みして出向してしまえば、コッチのもの。任務完了まで、あと少しでした。しかし、そこに最大のピンチが訪れるのです。
如何に戦火の残る混乱下と言えども、これ程大掛かりな移送作戦に気付かぬ訳がありません。遂に、ルパンさながらの盗難劇に気付いた者が現れたのです。それは、エアフルトにいた英国の諜報部員でした。
英国からの抗議を無視し、米本土へ旅立つ100基のV-2。
アートワープへ貨物列車で運ばれる、米軍が接収したV-2。
英国側は、先述の紳士協定に違反する米国の泥棒行為を抗議します。ところが、この諜報部員がご丁寧にも正式な手続きを踏むことを選んだため、その申し立てが連合軍最高司令官ドワイト・D・アイゼンハワーに届いた頃には、時すでに遅し。輸送船は既に出港した後でした。ただ、ミッテルヴェルケを完全にもぬけの殻にした訳ではありません。ハミルには、ミッテルベルケがソビエト占領予定地域となることを知らされていなかったのです。その結果、少なくない部品がソビエトの手に落ちることになります。
V-2ロケットを積んだ16隻の輸送船は、Uボートが消えて静穏を取り戻した大西洋を渡り、遥かニューオリンズを目指します。米国は、同盟国英国の正当な抗議を完全無視したのです。英国は、大いに抗議しますが、もう後の祭りでした。
トフトイが求めていたのは、モノだけではありません。それらを開発した科学者・技術者をも手に入れようとしていました。しかし、ミッテルヴェルケの何処にもその姿はありません。なぜなら、彼らは既に立ち去った後だったのです。ナチス・ドイツ親衛隊大将ハンス・カムラーは、連合軍の侵攻に備えてV-2ロケット開発に従事する技術者たちをドイツの南端オーバーアマガウの兵舎へ移していたました。それは、連合軍が押し寄せる数日前という、ギリギリの決断でした。
フォン・ブラウンは何処だ!オーバーキャスト作戦。
V-2の資料と、関与したドイツ人技術者を捜索せよ!
その頃、兵器局研究開発部ロケット課のステーバーは、V-2ロケットの製造に関与した専門家を探し出し、尋問する業務を指揮していました。ステーバーは4月30日にノルトハウゼンに入ると、小規模研究所の調査を開始します。5月12日、カール・オットー・フライシャーを発見。これを手掛かりに、ミッテルベルケの技術者との接触を図ります。14日、ペーネミュンデのロケットエンジン及び構造設計部門の責任者であったヴァルター・リーデルを発見。ステーバーは、彼らを含め40人ほどの技術者を米本土を移送することを働きかけます。
ただ、肝心の資料が行方不明のままでした。それらは4月初旬、ディーター・フーツェルによって極秘のうちにある場所に隠されていました。資料は意図的に隠蔽されていたのです。
14tに及ぶV-2ロケットに関する膨大な極秘資料を秘匿したのは、誰あろうフォン・ブラウン自身の指示でした。自暴自棄に陥ったカムラーによって、焼却処分とされることを恐れていたのです。フォン・ブラウンは、それら「価値ある資料」が米国に自分たちの身の安全を保証させる「安全のパスポート」となるはずだと考えたのです。
フォン・ブラウンが隠した資料を探し出せ!鉱山発掘大作戦。
5月20日、ステーバーはフライシャーを騙し、それがゲオルグ・フリードリヒ鉱山の廃坑に隠されていることを白状させます。その地域は英国の占領予定地域であり、米国の撤退期限まであと1週間しかありません。
彼らは分厚い封印に穴を穿つべく、24時間体制で作業を続けます。ところが、そこに英国の査察チームが米国人による泥棒騒ぎの調査に訪れます。担当者が咄嗟に思い付いた言い訳は、天然資源の調査をしているため、ドイツ人鉱山労働者の手を借りて、サンプルの鉄鉱石を箱詰めしている、というものでした。膨大な資料は、ノルトハウゼンまで運び出されると、パリを経由して、米本土へ無事旅立っていきます。
100基に及ぶV-2ロケット部品・資材、14tに及ぶV-2ロケットに関する技術資料。数十人に及ぶV-2ロケットに関与した科学者・技術者たち。既に、米国はV-2ロケットを再生産するだけの陣容を手にしていました。ただ、それだけでは発展は望めません。V-2を超えるロケットを開発するには、総本山を手中に収める必要がありました。フォン・ブラウン、その人です。しかし、米国は幸運でした。彼は自らの意思で米国を頼ってきたからです。
フォン・ブラウン絶体絶命!?カムラーの極秘命令と間近に迫る敵。
カムラーの命により、オーバーアマガウへ移動したミッテルヴェルケの科学者たち。ところが、彼らは自らの戦後の処遇を巡って、意見が対立します。そして、4月14日。フォン・ブラウンらのグループは、オーバーバイエルンのヴァイルハイムへ移動。翌日には、オーバーヨッホに移ることになります。
ミッテルヴェルケを捨てたフォン・ブラウン。その腕には、痛々しいギブス。フォン・ブラウンは、交通事故で重傷を負っていたのです。ところが、肝心のギブスが緩んだため、ゾントホーフェンの個人病院を目指します。ただ、そこに迫るフランス軍。ドルンベルガーは、急ぎフォン・ブラウンをアルプスのリゾート地・オーバーヨッホに連れて行きます。
ペーネミュンデを主導した面々が滞在したのは、ホテル「ハウズ・インゲブルク」。ここで彼らは、大戦最後の日々を最高の天気と、贅沢な食事に恵まれつつ過します。ただ、その心中は穏やかではありませんでした。軍事機密そのものである彼らはSS(ナチス親衛隊)の監視下にあり、機密漏洩を恐れたSSにより、全員が銃殺に処されるという噂があったからです。
オーバーヨッホ峠を挟んだ向こうは、チロル地方ロイト。既に、そこは連合軍の支配下。敵は間近に迫っていました。
ヒトラー死亡。捕虜か死か。判断を迫られるフォン・ブラウン。
ドイツ人として汚辱に塗れて捕虜となるか、ナチス支持者として忠誠を誓って命を断つか。現に、ヒトラーも、カムラーも、ヒムラーまでもが服毒自殺を遂げているのです。熱烈なSSメンバーなら、間違いなく後者を選ぶのでしょう。しかし、当のフォン・ブラウンには、悲壮な決意など微塵もありませんでした。SSのメンバーとなったのは、それが強制であったから。一度は、ヒムラーの要請を拒否して、ゲシュタポに逮捕されているのです。忠誠心なぞ、あるはずもありません。
フォン・ブラウンがクンマースドルフに行く決意をしたのは、「月へ辿り着く」という悲願成就への最短ルートだと考えたからです。同士が集うVfR(宇宙旅行協会)は最初のステップでしたが、資金に困窮し研究は遅々として進みませんでした。しかし、陸軍は世界最高の施設・設備・人員・立場・権限、望みうる全てを与えてくれました。フォン・ブラウンは、軍に利用されたのではなく、軍を利用していたのです。しかも、本当に幸運なことに、上司たるドルンベルガーも全く同じ夢を抱いていました。
1945年5月2日。フォン・ブラウンらは「ヒトラーの死」の報に接します。誰しもが母国の敗北を確信し、軍が組織を崩壊させていく中、彼らは身の処遇を考えねばなりませんでした。
フォン・ブラウンを獲得するのは、米国かソビエトか!?
ドイツの至宝ヴェルナー・フォン・ブラウンの選択は、米国への投降であった。弟マグヌス・フォン・ブラウンが、米陸軍伍長フレデリック・シュナイカートと言葉を交わす。ヴェルナーの左手は、痛々しくギプスで固定されている。U.S. Army, Public domain, via Wikimedia Commons
フォン・ブラウンらが命運のすべてを託したのが、ヴェルナーの弟で自身もロケット技術者であったマグナス・フォン・ブラウンでした。5月2日、兄の命を受けたマグナスが自転車に飛び乗ると、オーバーヨッホ峠を越えて、連合国軍支配下のロイトを目指します。
この時、この瞬間。マグナスは確かに世界の鍵を握っていました。マグナスがドイツ軍兵士に拘束されていたら、、、頭の固い指揮官にあしらわれていたら、、、ソビエト赤軍の将校に出会ってしまったら。。。世の趨勢は大いに違っていたことでしょう。
マグナスはロイトで米国側と接触し、ペーネミュンデの面々の投降と、その身分と安全の確保を図るつもりでした。そして、願わくば、自分たちの研究を続けることを望んだのです。反共産主義者だったフォン・ブラウンにとって、ソビエトに移送されることは決してあり得ないこと。しかし、赤軍は既にベルリンを掌握しており、時間は殆ど残されていませんでした。
マグナスは、米陸軍第44歩兵師団の兵士を見つけると、片言の英語で話しかけます。「私の名前はマグヌス・フォン・ブラウンです。私はマグヌス・フォン・ブラウンです。私の兄はV-2を発明しました。私たちは降伏したいのです。」
自由の国アメリカを選んだ、天才科学者フォン・ブラウン。
フォン・ブラウンらドイツ人技術者は、米軍に投降。米国は労せずして、天才科学者を手に入れたことになる。手前左でタバコを吸うのが、ヴァルター・ドルンベルガー。後方には、米軍兵士の姿が見える。National Archives at College Park, Public domain, via Wikimedia Commons
接触を受けた米国人は、直ちにマグナスの交渉の真の価値を理解します。マグナスの言うフォン・ブラウンという人物にどれほど価値があるか、ペーネミュンデに如何なる科学者たちが関わっていたのか、米国側は既に知っていたのです。
フォンブラウンは、降伏後に報道陣に次のように語っています。「我々は新しい戦争手段を生み出したことを知っていた。そして、どの国に、どの戦勝国に、我々のこの頭脳を喜んで託すかという問題は、何よりも道徳的な決断であった。私たちは、ドイツが経験したような紛争を世界が再び経験しないことを望んでおり、唯物論の法則ではなく、キリスト教と人間性に導かれた人々にこのような武器を明け渡すことによってのみ、世界に対するそのような保証が最も良く確保されると感じていた。」
彼らがフォン・ブラウンの価値を知り得たのには、ブラック・リストという極秘情報が関わっていました。
1945年3月、ポーランド人の実験助手はボン大学のトイレで妙なものを見つけます。それは、細かく千切られた紙片。そこにはビッシリと人物名が記載されており、トイレに流そうと思ったものの、きちんと流れなかったものと見えました。
なぜ!?トイレで発見された、ドイツ人科学者の極秘リスト。
オーゼンベルク・リストと呼ばれるそのリストは、国家に資するであろう科学者・技術者を国防研究団体がまとめたものでした。そのリストに名のある者は、直ちに兵役を解かれ、ペーネミュンデを始めとした研究施設に送り込まれたのです。
どうして、そんなものがそこにあったのか?それは、誰にも分かりません。しかし、ナチス・ドイツにとっては古い情報でも、英米にとっては大変価値ある情報だったのです。
この情報はMI6を通して、米国諜報機関の手に渡ります。これを手にしたのが、かのステーバー少佐。彼は、尋問すべき科学者のリストとして、これをまとめ直します。このリストに与えられた秘匿コード名が「ブラック・リスト」であり、その筆頭にあったのが誰あろうヴェルナー・フォン・ブラウンでした。米国がこの情報を英国MI6経由の情報で得ていたというは、誇り高き大英帝国にとっては皮肉な事実でしょう。戦後、わざわざ英国を選ぶ者は殆どおらず、その大半が米国に渡り、帰化してしまうのですから。
5月3日のフォン・ブラウンらの投降により、状況は一変します。ペーネミュンデの主要メンバーが、自ら投降を申し出てきたのですから。棚からぼた餅とは、まさにこのことでしょう。
フォン・ブラウンは利用する価値がある。米国の戦略的判断。
5月22日、ステーバーは国防総省本部のジョエル・ホームズ大佐に緊急外電を発信。ブラック・リストのメンバー・家族を太平洋戦争遂行に重要な意味がある存在であり、直ちに米国に避難させるべきである、と報告します。
米国は、フォン・ブラウンの「進言」により、彼らを単なる情報源として尋問を行うだけでなく、そのまま米本土で研究に従事させることに価値があることに気が付いたのです。
米国は当時、ナチス・ドイツの存在に理解を示していた国家、スペインやアルゼンチン、エジプトなどに科学者たちが移住し、ファシズムのために研究を続けることを懸念していました。しかし、何よりも恐れていたのは、スターリンの手先となること。つまり、ソビエトの手に落ちた科学者が共産主義者に手を貸し、世界が共産ドミノに飲み込まれることでした。
第二次大戦の終結。それは、軍事的全体主義であるファシズムの敗北を意味していました。来るべき時代、身分制度・階級社会は崩壊し、民が国を治める時代となるであろうことは疑いようがありませんでした。しかし、そこには民主主義と共産主義という全く相対する国家制度が存在しており、両者は表向き連合国として共闘していたものの、その裏では対立は決定的なものとなっていたのです。
ブルジョアに搾取される労働者が志す、全階級闘争。
嗚呼、偉大なるスターリン同志!世界のプロレタリアートは、ソビエトの発展に歓喜した。しかし、その裏では大粛清という大量虐殺行為が日常的に行われ、これにより指導体制は維持する恐怖政治に過ぎなかった。つまり、ソビエトの成功は見せかけに過ぎなかったのだ。See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons
大戦以前、多くの国家では身分制度が形骸化しつつも実質的に残存し、役を成していました。石川啄木の「働けどはたらけどなお、わがくらし楽にならざり」は、当時の労働者の置かれた境遇を良く象徴しています。確かに、与えられた自由はある。しかし、血反吐が出るほど働けども、賃金は微微とも増えず。その一方で、働かずとも、贅沢を謳歌するブルジョアの子女たち。労働者階級から見れば、我利我利亡者が金脈に群がって、市民の労働を搾取しているように見えたことでしょう。それは、格差社会ではなく、明らかな階級社会でした。
だからこそ、全階級闘争でブルジョアを打倒し、労働者が国を支配すべしという共産主義は、一つの理想的国家制度であると当時は理解されていたのです。しかし、政界・財界は密着して運命共同体を形成し、労働者階級の異論を許さない。ならばと、世の不浄を訴えるべく組合を作れば、共産主義者と看做され、尋問という名の拷問が待っていました。市民に与えられた自由は、言わば毒りんごでした。
一方、国家を支配する政界・財界にとって、天地をひっくり返す共産主義は脅威でした。私有財産を放棄し、共同富裕の信念の下で、私欲・私心を捨てて、国家の興隆に心血を注ぐ。支配階級が想像したのは、仏・露王室の辿った破滅的な最期でしょう。
労働者の労働者による理想郷、ソビエトの見せかけ。
国家を牛耳る支配階級が、我を失って恐れる。格差が天文学的に拡大していた戦前の世界に於いては、共産主義は実に妥当な「革命」だったのです。そこに突如出現したのが、ファシズムでした。
ファシズムに於いては、身分制度は意味を失います。全ては、国家の軍事的覇権のためにあるべし。如何なる出生でも、国家に忠誠を誓い、よく学びよく働けば、立身出世が可能。志願兵となった若者たちは、私心を捨てて任務に一途邁進しました。その結果、民族浄化などという常軌を逸した所業に身を窶していくことになるのです。
しかし、ファシズムは今、完全に打倒されました。国家に忠誠を誓った若者たちは、夥しい血を流し、戦線に散華していきました。生き残った者も、戦犯に問われ、処刑された者も少なくありません。すべては無駄死でした。そうした時代に生きていた人々には、ナチス・ドイツを打ち破った米国とソビエトには均等な未来と可能性があるように見えたことでしょう。なぜなら、スターリンは全てを隠蔽し、西側に対し意図的に情報操作を行っていたからです。
当時の人々には、ソビエトには自由と情熱があり、理想的な平和社会を謳歌しているように見えていたのです。
フォン・ブラウンがスターリンの手に落ちたら。。。人類の悪夢。
レーニンは、スターリンを指導者とすることを否定していた。しかし、それは現実となった。スターリンは、トロツキーを筆頭とする正敵を尽く消し去り、歯向かうと「思しき者」を極刑に処した。この瞬間、共産主義の理想郷は消え去り、全体主義・恐怖政治が社会主義と同義になったのである。
出生の如何を問わず、真に能力のある者が、国家を率いる。レーニン以来の純粋な共産主義が、強力な指導者ヨシフ・スターリンによって、さらに革命的進化を果たしている。そう信じることができた・・・否。そう信じることができるよう情報操作されていたのです。そして、それこそが当時は「真実」に違いありませんでした。
だからこそ、共産主義国家と民主主義国家、そのどちらに身を置くことが、勝ち馬に乗ることになるのか。当時の人々にとっては、真に究極の選択だったのです。北朝鮮帰国事業などという信じ難い所業が、日本政府主導によって行われることになるのも、当時は無理からぬことでした。
今日では、誰しもが国家支配の現実的な有り様が、牧歌的な民主資本主義であろうと理解しています。しかし、それは共産主義の末路を知る「神の視点」にいるから言えること。当時を生きる人々には、そうでは無かったことは忘れてはなりません。
フォン・ブラウンの選択は、世界を平和に導く、真に正しいものとなりました。もし、ソビエトに身柄を押さえられていたら。。。ソビエトはICBMする唯一の超大国として、世界を支配していたかも知れません。それは、想像だにせぬ恐怖の世界だったことでしょう。
フォン・ブラウン、米本土へ。新天地で目指すものとは。
敗戦の屈辱を知らない、二人のドイツ人捕虜。
ドイツ軍は既に組織の体を成しておらず、フォン・ブラウンら7名は事もなげに峠を越えて、シャットワルド近くの米軍駐屯地に到着。米軍に対し、降伏・投降の意思を示します。そこで、彼らは、米国情報機関の尋問を受けることになります。
ナチス・ドイツの最高研究機関ペーネミュンデの技術責任者フォン・ブラウン。そして、ペーネミュンデの技術武官のトップ、ドルンベルガー。そうした肩書を持った人物ならば、戦犯扱いが常識。特に、戦犯国で兵器開発に従事していたとなれば、尚更です。しかし、眼の前にいる男たちは、自らが「戦犯」であるとは露程も感じていないようでした。
中でも、長身の金髪碧眼の若造は特に際立っていました。その表情は自信と確信に満ち溢れており、何ら悪びれる事も、臆することも無く、泰然としているのです。そこにあったのは、敗北の屈辱感ではなく、明らかな開放感と使命感でした。
多くの人々は、罪の意識があれば、自らの後の処遇を気にして、都合が悪いことはひた隠しにするはずです。しかし、フォン・ブラウンはロケット技術に関すること、計画に関すること、宇宙に関することなど、何ら包み隠すことなく雄弁と語り尽くしていきました。そして、居合わせた記者にこうも言ったのです。「あと2年あれば、V-2はおそらくドイツに勝利をもたらしただろう。」と。
米国への恭順こそが、宇宙へのパスポートになる。
[左]米国へ投降し安心したのか、笑顔を見せるフォン・ブラウン。Bram Wisman / Anefo, CC0, via Wikimedia Commons
[右]英国で収監中のドルンベルガー。Bundesarchiv, Bild 146-1980-009-33 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 DE
フォン・ブラウンにとって、ペーネミュンデで兵器開発に従事することは、宇宙へのステップの一つに過ぎませんでした。だからこそ、ドルンベルガーはA-4が初めて発射実験に成功したことを記念して、次のようにと宣言したのです。「1942年10月3日、この日は、輸送における新しい時代、すなわち宇宙旅行の最初の日です・・・。」
「まさか、戦犯扱いされるとは思わなかった。」と後に述懐するフォン・ブラウンは、こうも語っています。「我々はV-2を持っていたが、君たちは持っていなかった。だから当然、すべてを知りたがった。それは明白だった。」フォン・ブラウンは、米国にとって自分たちの存在そのものが、他に比べようの無いほどの値打ちがあることを確信していたのです。まさか、戦犯として扱って戦争裁判に掛けるはずもなく、米国に恭順することこそが「未来へのパスポート」になると。。
フォン・ブラウンの印象は、米国人に寧ろ好意的に作用しました。僅か数日で米国陸軍将校たちとの友情を勝ち取ると、彼らはフォン・ブラウンの同僚120名を含め、優秀な「ミサイル専門家」として登用することを決めてしまいます。若干30歳の若者がペーネミュンデのメンバーをあっという間に魅了したように、33歳のフォン・ブラウンは米国人をものの数日で魅力したのです。
戦犯として、英国で刑に服するドルンベルガー。
一方、軍人であるドルンベルガーの扱いは、全く異なるものとなります。身柄は米軍によって拘束され、8月に英軍に捕虜として引き渡されると、戦争犯罪者として刑を宣告されます。英国はドルンベルガーを技術者ではなく、戦犯として考えていたのです。その背景には、ハンス・カムラーが未だ行方不明のままだったことも影響していました。ロンドンへのV-2ロケットによる無差別爆撃に対する責任を、すべてドルンベルガーに負わせるつもりだったのです。米国側は、優秀なミサイル専門家であるドルンベルガーの釈放を強く要求しますが、1947年7月までウェールズの収容所に勾留されることとなります。その後、ドルンベルガーは米国へ渡り、フォン・ブラウンらと共に新天地で新たな人生を歩むこととなります。
ドルンベルガーは、英国での尋問の中で興味深い供述をしています。それは、ソビエトの魔の手が自身のすぐそこまで迫っていたことを示すものでした。
「私がアメリカ人と一緒にいた時に、ロシア人が私の元エンジニアの一人を送ってきて、ロシア人に代わって申し出があると言ってきたんだ。私たちはペーネミュンデに戻り、ロシアにある並行工場と一緒に再建することになったのですが、彼らはアメリカ人が提示していた金額の2倍を支払うと言ってきたのです。さらに、家族も一緒に移動させることができる、などと言ってきた。私たちはそれをきっぱりと断った。その後、ヴィッツェンハウゼンという町で、彼らはヴェルナー・フォン・ブラウン博士のような我々の主要人物を誘拐しようとした。夜、制服を着たイギリス兵として現れたのですが、ここがアメリカ軍管区だとは知らなかったのでしょう。どういうわけか、ちゃんとした通行証を手に入れていたのだが、アメリカ側はすぐに気づいて追い返した。これがロシア人のやり方、本物の誘拐だ。」
V-2をソビエトに渡すな!フォン・ブラウンの協力。
1945年6月17日、フォン・ブラウンはそれまでのガルミッシュ=パルテンキルヒェンから、ヘッセン州北部のヴィッツェンハウゼンへ移されます。その間、ナチス・ドイツのミサイル開発計画について、米国の各機関から複数の尋問を受けています。
ナチス・ドイツの研究施設はザクセン州、テューリンゲン州に集中しており、それらは偶然にもソビエト占領地域に位置していました。ヤルタ会談での合意内容をそのまま鵜呑みにすれば、科学者も施設・設備・資料も全てはソビエトが接収することになります。ただ、それではナチス・ドイツの研究成果の殆どがソビエトの手に渡ってしまいます。
そこで、フォン・ブラウンはペーネミュンデのメンバーが「西へ逃れる」ために支援することに同意。さらに、ソビエトに決して引き渡してはならない部品・機器・設備等を選定することを支援します。ただ、その身柄はドルンベルガーらと共に、依然として厳重な監視下に置かれていました。
1945年6月22日、米国は科学者及びその家族の「避難作戦」を実行に移します。当然、それは科学者の身の安全を確保するための人道的なものではなく、ソビエトがドイツの恩恵に浴すことを拒絶するための、大々的な「誘拐作戦」と言えるものでした。
1945年6月22日、ドイツ人技術者を西へ移送せよ。
「軍事政権の命令により、ビッターフェルトの町の広場で明日の正午1300時間(1945年6月22日金曜日)に持ち運べるだけの荷物を家族と一緒に報告する必要があります。冬服を持参する必要はありません。家族の書類や宝石など、持ち運びに便利な持ち物を持っていく必要があります。最寄りの鉄道駅まで自動車で移動します。そこから西に移動します。この手紙の持ち主にあなたの家族構成を教えてください。」
ただ、本来米国にはこの地域に於ける軍政権が無いという事実には留意すべきです。少なくとも、ヤルタ会談に於いてこの地域の軍政権がソビエトにあることに米国は同意しているのですから、その許可を得ぬままに人員・物資・資材等を運び出すことは、如何なる主張があるにせよ、重大な条約違反であるとの批判は免れないでしょう。
ひたひたと忍び寄るソビエトの魔の手から逃れるため、ペーネミュンデのメンバー及び家族は西へ移送されます。その収容先は、バイエルン州ランツフートの住宅団地でした。この団地は、いつしか「キャンプ・オーバーキャスト」と呼ばれるようになります。ただ、その名が知られることは、少々困ったことでした。極秘の作成計画オーバーキャスト作戦の存在が白日の下に晒される可能性があったからです。
徹底して行われた、連合国側の技術者尋問。
1945年2月、連合国遠征軍最高司令部(SHAEF)は、6月までに約2,000名で特殊部隊T-Forceを設立します。その目的は、ナチス・ドイツの科学技術のあらゆる成果を調査することにありました。V-2ロケットやジェット機、ロケット機に留まらず、暗号装置や航空医学分野に至るまで、5,000に及ぶターゲットがリストアップされていました。4月下旬以降、ドイツ人科学者の身柄を確保するようになると、T-Forceは彼らを専門に管理・尋問する部隊を設立します。敵人員搾取課という物騒な看板を掲げた部隊は、まずパリに拠点を置き、その後はフランクフルト郊外へ前進。クランスベルク城に本拠を移し、そこに拘置所を設置します。
ドイツ人科学者は近代的な施設ではなく、研究には不釣り合いな田舎の村に運ばれました。そして、敵人員搾取課の本拠にて、専門に対応する各機関から都度尋問を受けることになります。その勾留は、長い者で数ヶ月に達しました。「すべての関心のある機関が、彼らからすべての望ましい情報が得られたことに満足した後にのみ」その身柄が開放されたのです。
当初、その目的は尋問による情報収集に限られていました。彼ら自身を活用するより、その研究成果を活用することのみが考慮されていたのです。ところが、フォン・ブラウンの投降が状況を一変させることになります。
米国独自の極秘計画、オーバーキャスト作戦。
7月6日付の統合参謀本部発の極秘文書に基づき、7月20日に「対日戦争の短縮と戦後の軍事研究を支援する」ための極秘作戦が実行に移されます。それが、オーバーキャスト作戦です。統合参謀本部に統合諜報対象局が新たに設置され、オーバーキャスト作戦に関する直接的な責任が与えられます。
オーバーキャスト作戦は、尋問ではなく、勧誘を目的としていました。ブラック・リストに記載された科学者を米本土へ招聘し、ソビエトへの技術流出を防ぎつつ、研究に従事させるのことが目的でした。それ故、対象はV-2ロケットに留まらず、核技術に関連する物理学者や、合成燃料開発に関連する化学者など、多岐に渡っていました。
このオーバーキャスト作戦で、V-2ロケットに関連する技術者の斡旋を行ったのが、トフトイでした。米陸軍のミサイル研究開発部門の責任者であったトフトイは、フォン・ブラウンの協力の下、彼のグループから100名程度を選ぶこととなっていました。結局リストアップされたのは127名で、彼らに対して提示されたのは1年契約でした。彼らは家族の面倒を看てもらうことを条件に、これに応じたると、早速バートキッシンゲンのヴィッテルスバッハーホフホテルに一時的に収容されます。
1945年9月、フォン・ブラウン、新天地米本土へ。
米本土へ渡った、ドイツ人技術者たち。米国にとって、彼らの獲得は値千金の成果となる。ただ、戦後の記憶も生々しい1940年代。彼らを「米国人」として働かせることは、まだ米国市民には受け入れ難いことであった。Für den Autor, siehe, Public domain, via Wikimedia Commons
1945年8月、対日戦線が終戦を迎えるも、オーバーキャスト作戦は継続されます。9月、オーバーキャスト作戦の最初の「獲物」として米本土に渡ったのが、ヴェルナー・フォン・ブラウン、エーリッヒ・W・ノイベルト、テオドール・A・ポッペル、アウグスト・シュルツ、エーバーハルト・F・M・リース、ヴィルヘルム・ユンゲルト、ヴァルター・シュヴィデッツキーの7名でした。
7人のドイツ人は、ヴィッツェンハウゼンからパリへ移され、そこから米本土へ移送されます。彼らは9月20日、ボストン港ロングアイランドにあるフォートストロングに到着。そこから辿り着いた先が、メリーランド州アバディーン性能試験場。真っ先に彼らに課せられたのは、膨大な資料の整理と英語への翻訳でした。
その後、彼らが引っ越したのは、テキサス州にあるフォート・ブリス陸軍基地。米国陸軍で2番目に広大な演習場であり、その面積は何と4,400k㎡に及びます。戦時中は最大1,350人を収容する捕虜収容所が設置されていました。ここに新たに、ドイツ人科学者ための研究開発拠点が設置されたのです。そして、激動の1945年が終わる頃、マグナスを含む残り100名以上の科学者たちが、フォート・ブリスに到着します。一方、100基のV-2ロケットはニューメキシコ州にあるホワイトサンズ試験場に運び込まれていました。
情報漏えいを恐れ、ペーパークリップ作戦へ名称変更。
一方、ドイツに残された科学者の家族らは、引き続きキャンプ・オーバーキャストに収容され続けます。科学者らが米本土で家族に再会できたのは、1947年になってからのことでした。そして、1945年11月には、収容所名からの漏洩を恐れ、作戦名はペーパークリップ作戦へ名称を変更されることになります。
ただ、この時点ではホワイトハウスはペーパークリップ作戦を「公式」には承認していませんでした。依然として作戦は極秘であり、フォート・ブリスのドイツ人の存在は米国国民には秘匿されたままだったのです。しかし、ペーパークリップ作戦の規模は拡大し続けます。到底、当初予定の350名では十分ではなく、たった1年の契約期間では満足する結果を得られないのは明らかでした。結局、科学者の多くは米国に帰化することとなり、動員された総数は科学者約1,800人、その家族は約3,700人にも及んだのです。
時の大統領ハリー・S・トルーマンが、公式文書に署名したのは1946年9月13日のこと。そして10月24日、ペーパークリップ作戦はここに正式に発効されます。ただ、作戦に対する米国国民の反応は、好ましくないものでした。なぜなら、彼らドイツ人の中にSSのメンバーも含まれた他、ホロコーストに関与していたと疑われる人物も含まれていたからです。
アインシュタインから届いた、大統領宛の抗議文書。
1946年12月30日、かのアルバート・アインシュタインはナチス研究者の帰化に対する抗議の手紙を送っています。確かに、ドイツ人科学者は超大国米国の維持・発展に不可欠であったとしても、ユダヤ人にとっては忌むべき戦争犯罪者であることには違いありません。彼ら戦争犯罪者に対し、ホワイトハウスが非常に寛容に対応したことは、米国国民の中で物議を醸すことになります。
特に、その筆頭であるフォン・ブラウンがSSのメンバーであったことは、作戦の印象にひどくマイナスに作用しました。ただ、フォン・ブラウン幸運だったのは、かのヒムラーに逆らってゲシュタポに逮捕された経歴があることでした。フォン・ブラウンは、この事実を以てして、ナチスに積極的に関与したことはなく、強制的に関わりを持たされたと発言することが許されたのです。ただ、ミッテルヴェルケの惨状を目の当たりにしても、何ら否定的見解を示さぬまま増産に尽力したことは、後々まで人生に暗い影を落とすことになります。
人類の宇宙科学史に於いて、フォン・ブラウンが歴史的偉人に名を連ねていない理由は、まさにこの「忌むべき過去」にあります。フォン・ブラウンは、その経緯が如何にせよ、紛うことなきのSSの元メンバーであり、間接的であるにせよ、ホロコーストに関わっていたのは事実なのです。それは、科学界に多く名を連ねるユダヤの人々にとって、決して許し難いことだったのです。
この後、フォン・ブラウンはNASAのロケット開発を牽引し、屈辱的なスプートニク・ショックからの失地回復を成し遂げ、果ては人類初の有人月面着陸へと導くことになります。NASAに於いて、これ程までの偉業を成し遂げた人物は、フォン・ブラウンの他にいません。にも関わらず、依然としてフォン・ブラウンの名を冠したNASAの施設は存在しません。やはり、NASAにとっても、フォン・ブラウンの過去は「消し去りたい黒歴史」なのです。
決して薄れることのない、ユダヤ人の処罰感情。
アポロ宇宙船を打ち上げた、サターンVロケットの模型を手にするアーサー・ルドルフ。彼は、「チーム・フォン・ブラウン」の幹部技術者であり、最重要メンバーの一人だった。しかし、訴追に伴う司法取引に応じた結果、米国市民権を失い、ドイツへ帰国せざるを得なくなる。Public domain, via Wikimedia Commons
米国に渡ったフォン・ブラウンのチームの中に、後に訴追された人物がいました。主要技術者の一人であった、アーサー・ルドルフです。1970年、米国司法省特別捜査局(OSI)のイーライ・ローゼンバウムは、ルドルフが強制労働に関与していた記述を偶然発見。国立公文書の保管資料からドーラ戦犯裁判の記録を再調査し、強制労働に関する確たる証拠を得ます。
1982年9月、出頭要請を受けたルドルフはOSIとの取引に応じ、1983年11月28日にルドルフは米国市民権を放棄し、国外移住することに同意します。ところが、西ドイツ政府はルドルフの受け入れを拒否。その後、殺人容疑の審理が行われ、漸くドイツ市民権を得たのは1987年3月のことでした。
ペーパークリップ作戦は、米国の冷戦体制の根幹を成すICBM開発の原動力となりました。彼らドイツ人科学者無くして、相互確証破壊体制の構築はあり得なかったことでしょう。しかし、その一方でユダヤ系米国人が米国政財界の中枢を成していることも、良く知られた事実です。彼らユダヤの人々にとって、ナチスは仇敵。イスラエルの特殊機関モサドは、1960年にアルゼンチンに逃亡していたアドルフ・アイヒマンを現地で拉致。極秘裏に移送し、裁判にかけた上で死刑に処しています。ユダヤ人には強い処罰感情があることは厳然たる事実です。彼らにとっては、NASAもまた忌むべき対象なのかも知れません。
英国主導によるV-2発射試験、バックファイア作戦。
V-2の検証を目的に、ドイツ人に発射実験を実施させる。
バックファイア作戦のため、メイラーワーゲンに積載されてクックスハーフェンに搬入されるV-2。試験飛行時の姿勢評価用に、機体は白黒にペイントされている。Public domain, via Wikimedia Commons
トフトイらの尽力によって、ソビエトと英国を欺いてまで運ばれた、100基のV-2ロケット。それらが、ホワイトサンズ試験場で初めて発射実験に供されたのは、1946年3月15日のこと。米国に於ける、国家としての本格的なロケット技術開発は、ここに産声を上げることになります。
ただ、連合軍がV-2ロケットを打ち上げたのは、これが最初ではありません。これに先んじたのが、1945年7月~10月に渡って英国の主導で実施されたバックファイア作戦です。
1944年後半、スウェーデンでV-2ロケットの残骸を回収した英国は、諜報機関を通じて幾つか情報を得ていたものの、ロンドンに日々着弾する忌まわしきV-2ロケットの詳細は、依然として掴めないままでした。
終戦を機会に、捕虜となった8000名近い発射部隊。そこで、鹵獲したV-2ロケットを彼らに打ち上げさせることで、これに関する取扱と発射手順を検証することが提案されます。1945年6月22日、アイゼンハワー司令官はこれを許可。英国のキャメロン少将は、連合軍の命により、V-2ロケットの試射による技術検証を指示されます。アイゼンハワーはその目的として、「この作戦の主な目的は、長距離ロケットを発射するドイツの技術を確認し、実際の発射によってそれを証明すること」を挙げ、「ロケットの準備、付属機器、および燃料の取り扱い」を習得することを望んでいました。
ドルンベルガーが作った、30人の技術者リスト。
6月29日、英国諜報員はドルンベルガーへの質問を許可されます。ドルンベルガーは、当初英国の協力に対し消極的でした。ただ、同僚の身の安全を鑑みて、協力が最善と判断するに至ります。ドルンベルガーは、適切な発射場所の選定及びロケットの組立・発射に関する懸念を情報として提供します。それは、ドルンベルガー自身が経験した事故・失敗そのものでした。加えて、ガルミッシュ=パルテンキルヒェンに拘束されているメンバーから、発射に携わる資格を有する30人のリストを提供します。
発射場所に選定されたのは、北海沿岸のクックスハーフェン発射場。ここには既にレーダーサイトが設置されていた他、鉄道の引込線があり、十分なインフラが整っていたのです。早速、クックスハーフェンに組立施設、格納庫が急ピッチで建設されます。7月21日、V-2ロケットの再組立が想像以上に複雑だったため、これを支援する79人のドイツ人技術者の召集が許可されます。
翌日早朝、彼らは早速数台のトラックに分乗し、クックスハーフェンへ移送されます。この後、更なる安全を期するため、130~150人の技術者と、100人の発射部隊、600人の通常捕虜を追加召集しています。
彼らを複数のグループに分けると、別々に尋問を実施。それぞれが提供した情報を比較することで、慎重にその真偽を判断しました。この時、フォン・ブラウンとドルンベルガーをクックスハーフェンに連行していますが、発射場でドイツ人と合う機会は与えられませんでした。特にドルンベルガーの影響力は大きく、それを英国が懸念したためでした。彼らにはそれぞれ別のキャンプが与えられたほどで、英国が如何にドイツ人を信用していなかったかが伺えます。
ドイツ全土を捜索。かき集められたV-2の部品。
8月11日、連合国最高本部は解散。バックファイア作戦は、英国戦争省に引き継がれます。ただ、米国は自国の利益を保証するために、米国陸軍条例局のウィルソン大佐の立会いを要求します。米国には、大きな懸念がありました。それは、ドイツ人に対してより良い条件を提示することで、引き抜き工作を図るのではないか、というものでした。米国側の懸念とは裏腹に、殆どのドイツ人は英国に行くつもりは無かったのですが。
それは、V-2ロケットの半分が英国に向かって発射されたものだったからです。自分たちが歓迎されるはずもないと考えていたのです。それ以上に、当時唯一の超大国であった米国での研究開発に心惹かれるのは、無理からぬことでした。
最大の問題は、V-2ロケットの殆どを米国が運び出してしまったために、目ぼしいものが残されたいないことでした。そこで、ミッテルヴェルケにソビエトが駐屯する前に、英国にV-2ロケットの部品収集の機会が与えられます。英国人らは、8基分の部品を確保することに成功します。ただ、それだけでは一部部品が不足しており、ドイツ全土で捜索が行われます。
また、発射に要する制御車、タンクローリー、発射台等々の各種機材は、ドイツ北部の地域で発見されています。一部はご丁寧にも川に投棄されており、これを回収するには浚渫機材を使用する必要がありました。最も頭を悩ませたのは、姿勢制御ユニットに給電するための特殊なバッテリでした。また、損傷のないテールフィンユニットの捜索も困難を極めます。そこで、米国側が鹵獲品を一部提供することとなります。回収された部品は、約400両の鉄道車両と70機の爆撃機ランカスター、60台の特殊車両を使って、25万に及ぶ部品がドイツ北東部のクックスハーフェンに集められます。残る問題は、燃料でした。液体酸素は、ファスバーグの液体酸素プラントを再稼働させ確保。ノルトハウゼン近郊では、エチルアルコールを等を搭載するタンク貨車5両を発見。さらに、過酸化水素はキールに貯蔵されていたものが確保されました。
発射成功!英国・ドイツ、別け隔てなく成功を喜び合う。
1945年、バックファイア作戦に伴って発射されたV-2。発射は3回実施されたとされ、そのうち2回の発射に成功した。ところが、V-2の価値を理解しない英国は、残存する部品を投棄したうえ、技術者を一人も獲得しなかったため、弾道ミサイル開発の道を自ら閉ざすことになる。その結果は、核運搬手段を米国に依存するという屈辱的なものとなる。unlisted, Public domain, via Wikimedia Commons
それら部品の組み立てに動員されたのが、アーサー・ルドルフを筆頭とする600人に及ぶドイツ人技術者たちでした。彼らは捕虜ではなく、英国に雇用される民間人として、その「業務」に積極的に従事しました。英国人は、ドイツ人を真っ当な労働者として扱いました。充分な食料支給はもちろん、近くの集落や映画館や図書館、ビーチへの立ち入りさえも許可されたのです。ドイツ人は、再開を喜び合うと共に、自分たちが誇るべきV-2ロケットを再び打ち上げられることに、何よりも喜びを感じていました。ただ、彼らには新しい制服が支給されなかったため、旧ドイツ軍の姿そのままでした。そのため、この時撮影された打ち上げ映像が、戦時中のものと混同されることがあります。
ドイツ人たちが組み立てたのは、8基のV-2ロケットでした。それらは、ペーネミュンデでの初期試験同様に、白黒の試験塗装でペイントされました。英国人は、最初の発射日時を1945年9月27日に指定します。時が近付くにつれ、ドイツ人たちは緊張感に包まれていきます。
1基目のV-2ロケットは、発射数日前までに発射位置へ運ばれます。なお、弾頭の火薬はすべて抜かれ、それは砂に置き換えられていました。発射準備が整ったのは、予定より4日遅れの10月1日のこと。ところが、この日の発射は失敗に終わります。点火に2回失敗したため、試験は中止とされ、燃料を抜き取らねばならなくなったのです。にも関わらず、ドイツ人は少しも落胆していませんでした。彼らは、こうした失敗を幾度も経験していたからです。それに引き換え、V-2ロケットの複雑さを目の当たりにした英国人将校は、明らかに戸惑いを隠すことはできませんでした。
そして、10月2日14時41分、1基目のV-2ロケットが遂に打ち上げの時を迎えます。点火されたV-2ロケットは、力強く上昇を開始すると、鮮やかに晴れ渡った青空に一点の光点となって消えていきました。打ち上げ試験は見事に成功します。高度:69.4km・飛行距離:249.4kmに達し、その圧倒的な技術力が、英国人たちを驚かせたのです。それを見たドイツ人は、喜びを爆発させます。今や、敵味方ではなくなった英国人・ドイツ人は、別け隔てなくその成功を喜び合ったのです。
続いて、4日14時16分に2基目を発射します。ただ、この時はエンジンが離陸直後に故障したため、高度17.4km・飛行距離24kmに留まっています。続く3基目の発射は、15日15時6分に実施されました。試験は再び成功し、V-2ロケットは、高度:64kmに到達し、飛行距離は233kmを記録しています。
バックファイア作戦に、代表団を派遣したソビエトの思惑。
この3回目の発射には、報道機関に加え、米国、フランスの代表者の他、ソビエトの代表団も招待されていました。
ソビエト代表団は3名で、その中にはヴァレンティン・グルシュコの姿はあったものの、セルゲイ・コロリョフの姿はありません。囚人の身分であったコロリョフは、代表団の選に漏れていたのです。しかし、その姿は柵外にありました。コロリョフの能力は疑いようもなく、この後主導的な役割を果たすことは明らかだったため、ソビエト側はコロリョフを運転手に変装させて潜り込ませようとします。しかし、企みが露見したため、コロリョフは柵の外から眺める他なかったのです。
この出来事を見ても、ソビエトが如何にロケット技術を重要視していたかを察することができます。これに対し、その重要性に気付かぬままチャンスを逸したのが、バックファイア作戦を主導したはずの英国でした。英国は、バックファイア作戦を成功裏に終えると、すべての設備を撤去。未確認ながら、回収された未使用の部品は北海沿岸に投棄したとされています。
これを以て、英国がロケット技術を手にする機会は永遠に失われます。長きに渡り列強に名を連ねてきた英国にとって、この選択は致命的なものとなります。結果的に、英国は独自のICBM開発を諦め、核戦力開発を米国に依存せざるを得なくなったからです。核戦力の依存、それは米国に首縄を付けられているも同然。ヤルタ会談では米ソに並ぶ席を用意された英国は、戦後はズルズルと奈落の坂を滑り落ちていくこととなります。
英国での「仕事」を終えたドイツ人は、戦犯として身柄を拘束されたドルンベルガーを除き、再び米国の監護下に戻されることとなります。ドイツ人らが、キャンプ・オーバーキャストに戻ってきたのは10月25日のことでした。
V-2を我が物とせよ。スターリン指導下で再編される組織体制。
自らの占領予定地域から、V-2を奪われたソビエト。
紫色の範囲が、1945年7月まで米国が駐留を続けた地域。ミッテルヴェルケは、その南部にあるテューリンゲン州にある。US Army, Public domain, via Wikimedia Commons
欧州戦線に於いて、最も勲章を多くの与えられるべきは、ソビエト赤軍です。独ソ戦だけでも、犠牲者はドイツ側1,075万人に対し、ソビエト側は1,470万人にも達します。ソビエト赤軍は夥しい犠牲を払いつつも、怯むこと無く前進を続け、遂にはベルリンに達したのです。その奮戦無くして、世界最強と言われたドイツ軍の敗北はあり得なかったことでしょう。にも関わらず、V-2ロケットの遺産は一方的に米国に収奪されてしまいます。V-2ロケットの開発の本拠が置かれたペーネミュンデやミッテルベルケ等はすべて、ヤルタ会談で定められたソビエト占領予定地域であったのにも関わらず、です。
ただ、その事の重大さをクレムリン、つまりスターリンは十分理解していませんでした。ペーパークリップ作戦のソビエト版と言える、オソアヴィアキム作戦が実行に移されたのは、1946年1月22日のこと。ここに至るまで、ソビエトの接収作業は散発的なものに過ぎず、また接収された物品も管理が杜撰なため使用不可能になるなど、十分に成熟したものとはならなかったのです。
100基のV-2ロケット、フォン・ブラウンら1000人の技術者、14tの技術資料。全てを掌中に収めた米国。しかし、それを以てしても、宇宙に先んじたのは、ソビエトでした。ここから、飛車角落ちのソビエトによる大逆転劇が幕を上げるのです。
大粛清により、活動を停止したソビエトロケット開発。
1933年9月21日、セルゲイ・グルシュコが所属したGIRDと、ヴァレンティン・グルシュコの所属したGDLは、モスクワの命により合併。新たにRNIIと名を変え、ソビエトに於ける国家的ロケット研究を開始します。ただ、合併後も両車は派閥を形成し、非協力的な態度で対応したため、RNIIは芳しい成果を挙げることが出来ずにいました。
勿論、そのような停滞がスターリン支配のソビエトで許されるはずもありません。RNIIにも、当然大粛清の魔の手が伸びるのです。その口火を切ったのは、コスティコフよる密告でした。以後、全てが暗転。所長のイワン・クレメイノフとランゲマックが逮捕され、1938年1月には早々に銃殺刑に処されます。そして、グルシュコの密告によって、当時副主任であったコロリョフも強制収容所送りとなります。主要なメンバーが大粛清の犠牲となり、主要な研究作業は中断を余儀なくされます。
1942年7月15日、停滞するRNIIはソビエト人民委員会により国家研究所(GIRT)に名称を変更。さらに、1944年2月18日に「ソビエトに於けるジェット技術の開発に伴う耐え難い状況」に関連して国防委員会は、研究所の体型を刷新することを決定し、RNIIは精算処分とされます。これを受けて、1946年5月18日に新たに航空産業人民委員会(NKAP)の管轄下に設立されたのが、NII-1でした。
ポーランドでV-2に関連する品を得ていた、ソビエト。
大戦中に、ブリズナで撮影されたV-2。弾頭が装着され、発射準備が進めらていれる。1944年8月6日に進駐したソビエトは、このブリズナでV-2の一部部品の接収に成功している。Deutsch: Walter FrentzEnglish: Walter Frentz, Public domain, via Wikimedia Commons
1944年7月13日、ウィンストン・チャーチルは、スターリンに手紙を書いています。その内容は、V-2ロケットの発射場がポーランドのブリズナに存在すること。そして、そこから50kmの地点まで前進しているソビエト赤軍に対して、発射場を制圧後、基地・設備を維持・保存し、英国の専門家の調査を許可するように求めるものでした。しかし、冷酷非道で知られるスターリンが、英国側の要請をそのまま受けるはずもありません。
7月下旬、赤軍の猛攻を受けたドイツ軍は、ブリズナを放棄。8月6日、赤軍はブリズナに進駐します。ところが、英国諜報機関がブリズナの査察を許されたのは、9月に入ってから。その間、赤軍はせっせと後片付けを行い、残された部品の全てをソビエトに運び去ってしまっていたのです。英国に残されたのは、僅かな部品だけでした。英国は米国だけでなく、ソビエトにも出し抜かれていたのです。
しかし、ソビエト側の戦果も不十分なものでした。ソビエトは回収した部品をNII-1で独自に研究したものの、到底1基を構成し得るものではなく、V-2ロケットの技術を我が物とするには、より多くの部品、より多くの資料、そして何より、より多くの技術者の獲得が不可欠とされたのです。
ドイツ領内から価値ある物品を接収せよ。戦利品旅団の任務。
1945年2月21日、国家防衛委員会(GKO)の政令第7563号により、戦利品旅団(トロフィー旅団)と呼ばれる部隊が新編されます。この部隊は、ソビエト勢力下に落ちたドイツ領内から、価値ある機械・設備・資料を探し出し、これを接収するのが任務としていました。当然ながら、一般将校に接収品の価値が理解できるはずがないため、これに同行させたのが、「労働組合将校」です。彼らは、陸軍のジープに乗り、拳銃とサブマシンガンこそ携行するものの、軍服姿は何処か他所よそしく、勲章も見当たりません。彼らの本業は技術者なのです。2月25日、ヨシフ・スターリンはGKOの政令第7590号に署名。GKO内に戦利品特別委員会を設置。これをF.I.ヴァキトフ中将が統括しました。戦利品旅団は、1945年9月までに48個まで増加。このうち、ドイツに23個、ポーランドに7個、チェコスロバキアに6個が編成されます。
1945年4月23日、航空機装備科学研究所(NISO)所長ニコライ・ペトロフ将軍率いる戦利品部隊が、先陣を切ってモスクワを出発します。この中には、後にコロリョフの右腕として力量を発揮し、後に99歳の長寿を全うしてソビエト宇宙開発史の伝道師となるボリス・チェルトックがいました。
当時NII-1の技術者であったチェルトックは、友人を頼ってペトロフ将軍と面会。ペトロフに対し、貴重なV-2ロケットの遺産が他の機関や軍によって破壊されたり、分散されてしまう前に、充分な知識と理解の下で適切に接収・管理すべきであると、その価値を訴えます。その結果、チェルトックは辛うじて10名の派遣メンバーに名を連ねることは出来たものの、ペトロフが航空を専門とするが故に、部隊の目的は航空電子工学やレーダ、航空兵器の捜索に置かれることとなります。
NII-1を所管するNKAPがV-2ロケットの価値を充分理解していなかったため、彼らには少々困った指示が出されていました。当面は設計のアイデアや技術資料の押収に余り関与せず、まずは工具や機械の獲得に専念すべしとされたのです。それはつまり、いつか役立つ物品ではなく、明日使える物品を接収せよ、ということ。実利主義のソビエトらしい判断と言えるでしょう。
まったく新たなロケット技術、その所管を巡る政府内の混乱。
ソロコフの部隊が航空関連の技術接収に主眼を置いた最大の理由は、ロケット技術を統括・管理・実行すべき政府機関が存在しなかったことにあります。端的に言えば、ロケット技術を巡って勢力争いが生じていたのです。
もし、ロケットが砲の延長線上にあるとすれば陸軍が、翼のない航空機と考えるなら空軍が担うべきでしょう。はたまた、地上発射ならば陸軍が運用すべきですが、同型ロケットを艦上から運用したら海軍の管轄となるのか、飛行するものはすべて空軍の管轄とすべきか。地上作戦の支援に用いるなら陸軍が運用すべきですが、単体で運用される超射程ロケットは誰が運用するべきなのか。ロケット技術を巡る管轄の問題は、後に米国でも大騒動となって世間を賑わせることになります。
ロケット技術の所管が妥当と思われる政府機関は、NKAPの他にも存在します。軍需産業を管轄下に置く、弾薬人民委員会(NKB、後の農業機械省)です。NKBを率いるボリス・ヴァーニンコフは、1945年3月19日に農業機械省第114号により、ミサイルの設計を目的とする中央設計局GTSKB-1を設立。ドイツ領内の資料収集を積極的に開始します。5月31日には、GKOは「ドイツの反応弾の産業用・実験用機器、設計図、実験品の捜索・撤去作業の実施について」という報告書を作成。V-2ロケット技術の所管を声高に主張します。
1945年6月12~14日にドイツからモスクワに戻っていたチェルトックは上司に質問し、どの政府機関がV-2ロケットを所管すべきか尋ねています。これに対する回答は、当時のソビエトの航空産業の課題を如実に示すものでした。
「A-4(V-2)は誰も必要としていない。ジェット機が必要なのだ・・・。」
航空を専門とするNKAPは、ロケット技術よりもジェットエンジン技術の確立を強く要請されていたのです。
ロケット技術をNKB管轄下に集約。強力指導体制のメリット。
[左]ソビエト第2代最高指導者ヨシフ・スターリン。ただ、その名は実名ではなく、本名はヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリという。Unknown authorUnknown author; image flipped by Gaeser, Public domain, via Wikimedia Commons
[右]スターリンの最側近であった、ゲオルギー・マレンコフ。スターリンの死後、後継者として首相に就任するも、フルシチョフに失脚に追い込まれている。See page for author, CC BY-SA 3.0 NL
1945年7月、GKOはスターリンとその側近ゲオルギー・マレンコフの了解を得て、シャフリン航空工業大臣を特別委員会議長に指名。ロケット開発計画の組織体制に関する提言を行うことを決定します。
1945年7月23日、特別委員会はNKB管轄下に3つの開発局を設置することを求めます。GTSKB-1は射程20~30kmの固体燃料ミサイル、第67工廠にあるGTSKB-2は射程100kmまでの個体・液体燃料ミサイル、第70工廠にあるGTSKB-3がV-2の流れを汲む液体燃料ロケットをそれぞれ所管することとします。
1945年8月3日、スターリンはGKO政令第9716号に署名。砲兵総局(GAU)の他、軍需、航空、電気、造船等々様々な分野の代表者を含む、ロケット戦利品に関する特別省庁間委員会の設置を命じます。これを率いたのは、技術中将レフ・ガイドゥコフでした。
8月5日、航空産業を率いるシャフリンは、NKB率いるヴァーニンコフの提案を受け入れ、NKB管轄下にロケット開発を統合することを承認します。
ソビエトの強みは、強力な指導体制であるが故に、個人及び組織個々の主張より国家としての実利が優先されることにあります。その点、国家として常に意思統一が図られており、意思決定は迅速に行われます。米国が弾道ミサイル開発及び人工衛星打ち上げでソビエトに敗北を喫した理由は、まさに此処にあります。特に、スターリン政権下では、その傾向は特に顕著でした。当時のソビエトでは、「スターリン同志」のみが正義なのであり、その決断がすべてなのです。スプートニクへ向けた基礎は、スターリン時代にゆっくりと形作られていくことになります。
GTSKB-3のメンバーに抜擢された、グルシュコとコロリョフ。
ロケット技術の所管に関する議論が一応の決着をみたことで、ミッテルヴェルケで獲得した戦利品のうち、V-2ロケットに関するものはGTSKB-3に輸送されることとなります。ロケット技術を所管する政府機関が決定したことで、漸く戦利品部隊の活動も順調に捗るかに見えました。
ところが、1945年8月6日。情勢は更に変化します。米国による広島への原子爆弾投下を見たスターリンは、国家防衛委員会政令第9887号に署名。ヴァーニンコフ及びNKBに対し、原子爆弾に関する新たな重大責務を課し、これを最優先事項としたのです。これに伴って、各方面からロケット技術の所管を巡って提案が相次ぐことになります。
そのプランが、V-2ロケットを主管する組織を国家連合科学研究所第70号(GS NII-70)に格上げするというもの。これは第70工廠に由来するGTSKB-3そのものでした。さらに、第67工廠をベースとするGTSKB-2の設立を断念し、NII-1を航空産業から軍需産業の所管へ移すことが検討されます。
このGTSKB-3のメンバーに名を連ねていたのが、ヴァレンティン・グルシュコ、そしてセルゲイ・コロリョフでした。バックファイア作戦によるV-2の試験発射の際、彼らはその技術調査を目的に試験に立ち会っていたのです。
1946年の冬が終わる頃になっても、依然として何ら決定されたものはありませんでした。ロケット技術に関する争いは、未だ判然としません。そこで、スターリンはロケット技術を一旦ガイドゥコフに委任することとします。
コロリョフ、長距離弾道ミサイルを所管するNII-8第3部の主任設計者に。
一方、新たにドミトリー・ウスチノフが率いていた軍需人民委員会は、これまで砲兵を所管してきたものの、ここに来てロケット兵器について検討を開始していました。1945年12月30日、ウスチノフは政令第463号により、新設計局NII-88の設置を指示。NII-88は、モスクワの北東にあるポドリプキの砲兵第88号棟に設置されることとなります。
1946年2月25日、新たに再編成が成され、軍需人民委員会は軍需省に、弾薬人民委員会は農業機械省に改称されます。
続く、1946年5月13日。スターリンはロケット技術に関する重大な決断を行います。ソビエト連邦大臣ソビエト極秘命令第1017-419号に署名。ロケット技術に関する責任を幾つかの産業省に分散しつつ、それらを監督する特別委員会を設置することを決断したのです。この処置は、核技術、防空技術も同様とされ、各々特別委員会が設置されることになります。これにより、
この組織再編は、コロリョフに大きく道を拓くものとなります。1946年8月9日、軍需大臣ウスチノフが、長距離弾道ミサイル(NII-88第3部)の主任設計者に、コロリョフを指名したのです。この時、コロリョフは若干39歳。身分は、未だ囚人のままでしたが、赤軍には大佐として迎えられていました。NII-88第3部は、後にOKB-1として独立。主任設計者として我が城を得たコロリョフは、初期の弾道ミサイル開発を主導し、宇宙開発の「チーフデザイナー」へとのし上がっていくこととなります。