スバルショップ三河安城の最新情報。米ソ宇宙開発競争。フォン・ブラウンとコロリョフの奇跡の生涯 その6| 2025年9月25日更新

 
ヴェルナー・フォン・ブラウンとセルゲイ・コロリョフ
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激しさを増す東西対立。アジアと東欧に広がる共産ドミノ。

世界は破滅へと向かうのか。明確な恐怖が世界を支配する。

R-7が宇宙を目指した1950年代は、人類滅亡への恐怖が支配する極端に不安定な時代でした。第二次大戦集結後に訪れた平和は、束の間の幻。同盟国だった米ソは、イデオロギーの相違を背景に時々刻々と対立を先鋭化。資本主義国家の盟主・米国と、社会主義国家ソビエトは、次なる時代の覇権を巡って熾烈な陣取り合戦を始めます。地図を青に染めるか、はたまた真っ赤に染まるのか。二大超大国の争いは、核が飛び交う第三次世界大戦の渦へと、世界を今にも巻き込もうとしていました。

西はフランス、北はノルウェー、東はソビエト領内、広大な範囲を勢力下に置いていたナチス・ドイツ。その占領下では、共産主義者たちが活発に反ファシズム運動を展開していました。1945年5月8日、ドイツ無条件降伏。赤軍の西進に呼応するように東欧諸国で次々に共産党政権が誕生。ドイツを最前線に、東欧は真っ赤に染めあげられていきます。人口が密集する欧州のど真ん中に、東西対立の最前線が形成されたのです。米国は西側の盟主として、ソビエトとの直接対峙と西欧の安全保障を迫られます。

1945年8月15日、大日本帝国がポツダム宣言受諾。抗日運動という共通目的を失った東アジアでは、抑え込まれていたイデオロギー対立が一気に表面化します。ところが、時のトルーマン政権は全く関心を示さず、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーは日本の占領政策以外眼中にありませんでした。そもそも、朝鮮半島は米国の絶対防衛圏にさえ含まれていなかったのです。

国共内戦を経ても、朝鮮半島に全く無関心な米国の慢心。

On August 18, 1966, Mao Zedong received the Red Guard for the first time.

1966年8月18日、紅衛兵の閲兵に臨む毛沢東。吕相友, Public domain, via Wikimedia Commons

Official potrait of Chiang Kai-shek in 1955.

1955年、蒋介石の肖像。Office of the President of the Republic of China, Attribution, via Wikimedia Commons

1946年6月、国共合作と呼ばれる共同戦線が崩壊した中国では、国共内戦が勃発。蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる共産党が、激しい内線を繰り広げます。ただ、国民党が得ていた米国の支援は中途半端なものに過ぎず、インフレの失政や内部腐敗などで徐々に失速。これに対し、民衆の支持を得た毛沢東は一気呵成に勢力を拡大。共産党は、国民党を南へと追い詰めていきます。

1947年、米国大統領トルーマンは反共活動を世界的に支援するトルーマン・ドクトリンを宣言。共産党に対する封じ込め戦略を打ち出し、国内でレッドパージとソビエトスパイの炙り出しを開始します。ただ、彼らの考える主戦場は専ら欧州と日本であり、アジアの封じ込め政策は全くの無策。米国は、このツケを後にたっぷりベトナムで払うことになります。

一方、朝鮮半島は米ソ合意の下で、38度線を境に南北に分断。南では右派内で独力建国を主張する李承晩が台頭。1948年8月15日に李承晩が大韓民国の成立を宣言すると、対日パルチザンの首領・金日成率いる共産勢力が9月9日に朝鮮民主主義人民共和国を建国。ところが、米国は李承晩を制御できず、半島統一を標榜する南北の対立は一触即発の事態へ発展します。

1949年10月1日、毛沢東は中華人民共和国の成立を宣言。国共内戦は中国共産党の勝利に終わり、国民党政府は海を渡って台湾に逃れます。毛沢東の勝利は、西側陣営にとって悪夢。東アジアの地図の大半が、真っ赤に染まってしまったのですから。

次第に米国を追い詰めていく、東側陣営。対抗するNATO。

Bundesarchiv Bild 183-38870-0003, Berlin, Otto Nagel, Otto Grotewohl, Kim Ir Sen

1956年6月9日、東ドイツを訪問。ベルリンでの歓迎レセプションに出席した金日成。Bundesarchiv, Bild 183-38870-0003 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 DE, via Wikimedia Commons

1952年5月13日、釜山の大統領官邸で、米海軍少将に武功勲章を授与する李承晩。via Wikimedia Commons

国共内戦の帰趨を見ても、米国はアジア軽視・日本偏重に固執。マッカーサーは朝鮮半島をたった一度訪れたのみで、半島防衛は現地司令官に丸投げ。北に侵攻の兆候はないと高を括り、金日成の本気度を完全に過小評価していました。これに対し、南進を切望する金日成は、スターリンに侵攻の許可を再三要請。米国との直接対峙を嫌うスターリンは、これを頑なに拒否するものの、1949年8月にソビエトが初の核実験に成功すると、姿勢を一変。金日成に侵攻を許可し、軍事的支援を確約。次いで、金日成は北京を訪問し、中国の支援獲得にも成功。1950年6月25日午前4時。38度線にて北朝鮮が一斉砲撃を開始。朝鮮戦争がここに勃発します。

突然の電撃侵攻に、米韓連合軍は為す術なく壊滅。8月には、戦線は最南の釜山橋頭堡まで後退。これに対し、9月15日にマッカーサーは仁川上陸作戦を決行し反転攻勢に成功するも、中国の参戦を信じない米軍は愚かにも山間の中朝国境へ盲進。見事術中に嵌り、中国義勇軍の手痛い挟撃を受けて敗走。戦線は再び38度線まで後退し、1951年末には膠着状態に陥ります。

一方、欧州では1948年6月に西ベルリンへの陸路をソビエトが封鎖。これを無効化すべく、米英は大規模空輸作戦を展開し、西ベルリン市民を支援。封鎖を解除させます。ソビエトの切先を喉元に突き付けられた欧州は、米国を運命共同体に巻き込むべく、1949年4月4日に北米2カ国と欧州10カ国を以て軍事同盟を締結。北大西洋条約機構(NATO)が誕生し、欧州は核の傘を手に入れます。

世界へ拡大する共産主義陣営。ワルシャワ条約機構の締結。

Cold War Map 1959

1959年時点の世界情勢。凡例:NATO加盟国、アメリカの他の同盟国、植民地の国、ワルシャワ条約機構加盟国、ソ連の他の同盟国、非同盟諸国Sémhur, CC BY-SA 4.0, ウィキメディア・コモンズ経由で

1940年代、共産主義者の活動は活発で、東欧、アジアで次々に革命政府が樹立。世界地図は次々に赤く塗り潰され、その波は中米カリブ海にも押し寄せます。1953年7月26日、フィデル・カストロが武装蜂起。ここにキューバ革命が始まります。

但し、当初カストロが志したのは共産革命ではなく、民衆から搾取する米国支配の排除と、私腹を肥やす支配階級の打倒。親米バティスタ政権転覆を期してモンカダ兵営を襲撃するも、計画は失敗し、80名以上が死亡。投獄されたカストロは、2ヶ月後に恩赦で釈放。メキシコへ亡命したカストロはチェ・ゲバラと出会い、弟ら82名と共に「グランマ号」で1956年11月に逆上陸を敢行。この時、民衆の蜂起を期して上陸を予告したため、政府軍がカストロらを包囲。一方的な戦闘で、12名を残して全員死亡。残ったメンバーは山中に逃げ込み、ゲリラ活動を開始します。カストロが政権奪取に成功するのは、それから2年後。その後、カストロはソビエトに接近し、社会主義に転換。西側の喉元に刺さったトゲとして、重要な役割を演じます。

1955年5月14日、NATOに対抗する防衛同盟として、ソビエト及び東側7カ国がワルシャワ条約機構を締結します。次々に勢力を拡大する東側とて大国はロシアのみで、所詮弱者の共同体。彼らにとって、NATOは生存を脅かす危険な存在だったのです。その決定的な差が、熱核爆弾でした。1952年11月1日、米国は熱核爆弾の保有を宣言。事実上の核独占に再び成功します。

トロツキストの弾圧に始まる、スターリンの大粛清。

Joseph Stalin in 1932 (4) (cropped)(2)

1932年、ヨシフ・スターリン。レーニンの死後、権力を掌握。トロツキー派の抹殺を手始めに、悪名高い大虐殺が始まる。James Abbe, Public domain, via Wikimedia Commons

Лев Давидович Троцкий

1924年、レフ・トロツキー。十月革命の指導者の一人で、レーニンに次ぐ中央委員会の一員だったが、スターリンと対立し、1940年にメキシコで暗殺される。See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons

次々に赤く染まっていく東欧。しかし、共産政権とて決して盤石ではありません。戦時下に於いては、枢軸国支配からの解放運動の一環として支持された、共産党のパルチザン。ただ、共産党員は依然として少数派。これでは社会主義革命はおろか、共産党が国民選挙で政権を獲得することさえ無理筋。例え、第一党となったとしても、国民の総意として社会主義を選択した訳ではなく、社会主義革命など到底不可能。では、どのようにして東欧に東側陣営が形成されていったのでしょうか。

1930年代のボリシェヴィキ幹部・レフ・トロツキーは、「一国による革命と国際革命ー世界革命の結合なくして資本家の搾取を廃絶する社会主義体制の建設と確立は不可能である」とする世界革命論を主張。盟友レーニンとの共通認識としました。さらに、労働者階級の自己開放と大衆民主主義によるプロレタリアート独裁を主張します。つまり、指導者の強権的指導(弾圧)ではなく、民衆の一体的な意志の下でのみ真の共産革命は存在し得るとしたのです。

加えて、トロツキーは「世界革命を経なくても(ロシア)一国による社会主義建設が可能である」というスターリンの一国社会主義に明確に反対し、官僚の特権と既得権益防衛のために必然的に専制体制へ堕落すると予言してみせます。トロツキーの忠告はスターリンにとって屈辱。スターリンの支配は、トロツキーの抹殺とトロツキストの弾圧で幕を開けます。大粛清の始まりです。

正式な手続きを経ずして、政権を奪取するスターリニスト。

Rákosi Mátyás portré

ハンガリーを掌握したラーコシ・マーチャーシュは、人民を弾圧。恐怖政治で支配した。Unknown photographer, Public domain, via Wikimedia Commons

常に結果を重視するスターリン主義では、プロセスには興味を持ちません。如何なる手段を以てしても、社会主義国家が実現すれば良いのです。簡単な話です。選挙制度そのものを廃止し、反対勢力を弾圧し、反対意見を封殺する。つまり、東欧に於いては、民衆の支持など全く無意味。駐留するソビエト軍が共産党を「指導」し、社会主義体制を確立。反対する者に加え、反対すると思しき者は残らずスパイとして摘発する。これが、スターリン主義者のやり方でした。つまり、人権弾圧を是とする、一党独裁の専制体制です。

1945年11月4日、ハンガリーで行われた総選挙では、ハンガリー労働者党(MDP)の得票はたった17%。2年後の選挙で22%を獲得し、第一党の座を得たMDPは、唯一の合法的な政治勢力と自らを位置づけると、ソビエト軍を使って反対する者を摘発していきます。1947年2月25日、人気の政治家コヴァチ・ベーラをスパイの罪で逮捕。コヴァチは、ソ連へ連行され有罪判決を受けます。

MDPを率いたラーコシ・マーチャーシュは、「スターリンの最も優秀な弟子」を自称。スターリン主義者として、忠実に政策を実施していきます。その最も著名な手法が、サラミ戦術です。敵対勢力を、まるでサラミを薄く削いでいくように、順次残滅していく手法でした。敵対勢力を排除したラーコシは、1949年には独裁体制を確立。個人崇拝を強要して、自身を小スターリン化。秘密警察を組織して反乱分子を次々に粛清し、スターリンそのままに恐怖政治で国民を徹底的に弾圧したのです。

ハンガリー国民を扇動したのは、フルシチョフだった。

Imre Nagy portrait

非スターリン主義のナジは、一旦は政権を掌握するも、ハンガリー動乱の最中に逮捕。2年後には絞首刑に処される。ismeretlen szerző(Nagy Imre Emlékház tulajdona), Public domain, via Wikimedia Commons

過度なスターリン主義によって、ハンガリーは深刻な経済難に陥ります。実質賃金で20%、農民の収入は1/3まで低下。加えて、ハンガリーはチェコスロバキアとユーゴスラビアに対し、GDPの1/4に達する莫大な戦時賠償を抱えていました。

苦境に喘ぐラーコシの独裁政権。その幕引きのキッカケがスターリンの死でした。ラーコシは公に批判される立場となり、1953年6月に失脚。代わってナジ・イムレが書記長のポストを引き継ぎます。ナジは、スターリンの象徴的事業である農業集団化を緩め、政治的抑圧を停止。経済を圧迫する大規模事業を中止し、生活分野における関税の引き下げを実施します。多くの国民の支持を得たナジの改革ですが、ソビエト指導部には反社会主義的と見なされます。ソビエトの強烈な批判を招いたナジは、1955年4月に失脚。11月には党を除名されます。ところが、2月9日のフルシチョフによるスターリン批判が、ハンガリー国民を一気に勢い付けます。

ラーコシの圧政を打倒すべく民衆の革命への熱意が高まる中、ナジは1956年10月23日に党に復帰。そして、首都ブタペストでは遂に民衆が武装蜂起。ここに、ハンガリー動乱が始まります。民衆が迫ったのは、ナジの政権維持とワルシャワ条約機構の脱退。蜂起を非ソビエト的と判断したフルシチョフは、軍の投入を決断。24日、事態沈静化のために閣僚評議会議長に復帰したナジですが、政権内に支持基盤がなく、ソビエト軍の首都侵攻を止めることができません。

ハンガリー国民を弾圧したのも、フルシチョフだった。

Szétlőtt harckocsi a Móricz Zsigmond körtéren

1956年10月23日に始まるハンガリー動乱では、3,000名以上が犠牲となり、20万人以上が難民となって国外に逃れた。See page for author, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

27日、ナジは政府の大規模改革を発表。30日には、スターリン主義の一派がソビエトに亡命し、ナジは複数政党制に基づく連立政権復活の意向を表明します。31日、ソビエト政治局はハンガリーの革命は行き過ぎであり、鎮圧の要ありと判断。これを受け、撤退を始めていたソビエト軍はハンガリーに再進出。ソビエトの動きに対し、ナジはワルシャワ条約機構からの脱退と、中立国としての地位の承認を求めます。ハンガリーの要請は、東側の連帯を脅かすもの。ソビエトは一気に態度を硬化させます。

11月1日〜3日にかけて、フルシチョフはワルシャワ条約機構加盟国及びユーゴスラビアを訪問。東側各国にハンガリー侵攻の意図を伝えます。4日早朝、ソビエト軍は、首都ブタペスト及び反乱軍勢力の拠点に対し大規模軍事攻撃を開始。反乱軍は為す術なく、敗走。身柄の保護を求めて、ユーゴスラビア大使館に避難したナジ。ところが、ユーゴスラビアはナジの身柄をソビエト軍に引き渡します。反逆罪で極秘に起訴されたナジは、激しい拷問の末に、1958年6月に絞首刑に処されます。

1950年代後半、ハンガリーやポーランドなど東欧各地で起きた動乱は、すべてフルシチョフのスターリン批判に始まります。スターリン主義を否定するフルシチョフこそが、健全な共産革命をもたらすと期待したのです。しかし、結果は全く逆でした。ハンガリー動乱では、ソビエトは武力鎮圧で民衆を弾圧。20万人もの難民が発生し、犠牲者は17,000人にも達したのです。

スターリンに従わなかった唯一の共産党指導者チトー。

Josip Broz Tito - President of the SFR Yugoslavia, 1945-1980. Picture from 1961.

多民族国家ユーゴスラビアを長きに渡り牽引した、ヨシップ・ブロズ・チトー。スターリンに勝利した、世界唯一の共産主義者である。See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons

Russische bezetters Joegoslavie, Bestanddeelnr 907-1635

ユーゴスラビアを訪問し、チトーと歓談するフルシチョフ。西側に於いてはスターリン時代の精算を行ったことで評価が高いフルシチョフだが、ロシアではソビエト衰退のキッカケを作ったとして辛辣な評価を受けている。Anefo, CC0, via Wikimedia Commons

ナジが最後にユーゴスラビアを頼ったのには、スターリンに一人反旗を翻したヨシップ・ブロズ・チトーの存在がありました。ユーゴスラビアは、東欧で唯一ワルシャワ条約機構に加盟しない、非スターリン主義の社会主義国家でした。一国社会主義を否定するチトーの存在をスターリンは当然許さず、幾度ものクーデター及び暗殺計画を実行しますが、チトーは全てを秘密警察によって摘発。両者の戦いは、スターリンの死と、フルシチョフのスターリン批判により、チトーの勝利で終わります。

1955年、フルシチョフはベオグラードを訪問し、チトーに対してスターリン時代の不正行為を謝罪します。この事実は、スターリン主義からの脱却を象徴すると同時に、非ソビエト社会主義国家の存在を許すものでした。チトーはこの後も独自路線を貫き、民族主義者の激しい弾圧により連邦制と社会主義を維持。1980年に没するまで、多民族国家ユーゴスラビアを牽引し続けます。

決してソビエトが全てではない。勇気付けられた民衆は、東欧各地で相次いで蜂起。ソビエトによる武力弾圧を受けても、自主独立を求める民衆の胎動は決して止むことを知らず、東側体制の瓦解の萌芽となるプラハの春へと繋がっていくのです。

世界に共産主義の和を広げ、世界革命を実現する。1930年代に掲げられた共産主義者の理想は、ただ一度も実現することはありませんでした。スターリンの死を境に、社会主義国家の鉄の連帯は既に崩壊へと歩み始めていたのです。

貧者が求める必殺の鉾。ICBMにすがるしかないソビエト。

B-52 & Tu-95

同じエプロンに並ぶ、米露戦略爆撃機。中央の2機が旧ソビエトのTu-95、手前が米国B-52である。Camera Operator: TSGT. FERNANDO SERNA, Public domain, via Wikimedia Commons

早くも綻びが生じつつあった、ワルシャワ条約機構。ソビエトにはハッキリとした焦りがありました。核開発はスパイ情報に頼らざるを得ず、熱核爆弾は依然開発の途上。運搬手段たる戦略爆撃機では、B-29のデッドコピーTu-4に代わって、最新のターボプロップ爆撃機Tu-95(ペイロード:11t、戦闘行動半径:6,000km)の生産が漸く軌道に乗りつつあったところ。

一方、これに対峙するNATOは、核の傘の下に繁栄を築きつつありました。強力な熱核爆弾の運搬を担うのは、米空軍の戦略航空軍団(SAC)。主力は2,000機が配備された、ジェット爆撃機B-47(ペイロード:9t、戦闘行動半径:3,000km)。これに加え、最新の戦略爆撃機B-52(ペイロード:16t、戦闘行動半径:7,000km)の配備が進められていました。

空を制する者が世界を制し、核を持つ者が世界を支配する。20世紀の論理に則れば、ソビエトは既に敗者も同然でした。しかし、共産革命という錦の御旗を立て、全世界のプロレタリアの最前線にあるソビエトたればこそ、敗北は決して許されません。

弱者が劣勢を覆す、唯一の術。それは、相手の喉元に核を突き付けること。物量で敵わぬなら、一撃で相手を殲滅する手段を手に入れること。それこそが、大陸間弾道ミサイル(ICBM)でした。ICBMは、絶対迎撃不可能な唯一の手段。これを、米国に先んじて実現すれば、何千何百の戦略爆撃機に打ち勝つことが出来る。コロリョフへの期待は、弥が上にも高まっていたのです。

 

ソビエトが、世界初のICBM発射実験に「成功」する。

R-7 prototipo

Heriberto Arribas Abato, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

1957年初夏、3回立て続けに失敗したR-7の発射試験。

1957年初夏、クレムリンの焦燥を他所に、大いなる希望と期待に満ち、緊張の時を迎えていたトゥラタム。人事を尽くして天命を待つ。全ソビエトから結集した数万人もの科学者。これを率いるコロリョフは、R-7計画に一心不乱に邁進していました。

いざ、時は来たれり。1957年5月15日午後9時、トゥラタムの大地に轟音が鳴り響き、巨大な輝きは一閃の光線となって夜空を駆け上がっていきます。総重量283t、合計推力500t。世界初の大陸間弾道ミサイル・R-7は、紛うことなきソビエト科学技術の結晶でした。今この瞬間、コロリョフは世界ロケット技術の頂点に君臨していました。

しかし、R-7計画は嵐の只中。5月15日の1回目の打ち上げを皮切りに、3度行われた試験は立て続けに失敗。試験計画は、大きな岐路に立たされます。遥か極東の大地へ飛んでいくはずのR-7は、依然としてたった300kmしか飛んでいなかったのです。

打ち上げ試験を一旦中断し、残された全機体をザゴルスクに送り返し、分解整備した上で、改めて燃焼実験を再実施すべき。ネデリン元帥の提案に対し、エンジンの信頼性に不安を抱えたグルシュコは一人賛成。設計責任者評議会の意見は分裂し、緊急会議は一気に紛糾します。これに対し、コロリョフは「4度目の正直」を主張。会議は結論が出ぬまま、なし崩し的に打ち上げ試験は続行されることとなります。そして、運命の日8月21日を迎えます。

4度目の正直。8号機が空を突き破り、天高く駆け上がる。

トゥラタムの大地に聳え立つ、R-7 セミョルカ 8K71・8号機。1957年8月21日12時25分、ブースターステージの4基のRD-107とコアステージのRD-108は、メインステージ推力に到達。チューリップが四方に開傘し、セミョルカは重力に打ち克ち、轟音と共に大地を離れます。コロリョフらの信念とグルシュコの恐怖を乗せ、セミョルカ8号機が遥か上空へ駆け上っていきます。

テレメトリにより送信されるデータはすべて正常。軌道も計画通り。R-7は順調に加速を継続。発射約120秒後、速度が2.17km/sに達すると、ブースターステージは終了。いよいよ最大の難関である分離シーケンスが開始されます。

まず、ブースター下部のタイロッドを爆発ボルトによって開放。4基のブースターが、頂部のボールジョイントを支点に四方へ開くと、頂部のコネクタが抜けてコアステージとの接続が切り離されます。制御システムは、RD-107の推力を中間段1へ移行し、バーニアモータをシャットダウン。続いて、酸化剤及び推進剤バルブを閉鎖して、メインノズルの燃焼を終了。そして、液体酸素ノズルのキャップを爆発投棄。残圧を開放することで、後方へ僅かな推力を発生させ、ブースターは後方に回転しつつ落下を開始。この瞬間、遥か高空にコアステージを中心に、神々しいクロスが描かれます。本体となるコアステージはさらに加速を続け、約300sec後に最高速度6.39km/sに到達。いよいよ、8号機は最後の難関である弾頭分離シーケンスを開始します。

6,000kmの彼方へ。世界初の大陸間弾道ミサイルの成功。

遥か宇宙空間に到達した8号機は、核弾頭に代わって計測機器を満載した「弾頭」を分離。役目を終えた8号機コアステージは、重力に引かれて大気圏へ再突入。数条の流れ星を曳いて、燃え尽きていきます。一方、分離されたペイロードは最高到達高度1,350kmに達した後、いよいよ降下を開始。自由落下運動で速度を増しつつ、分厚い大気層へと飛び込んでいきます。

弾頭から絶え間なく届くテレメトリデータは、落着予定時刻15〜20秒前に途絶したものの、その間すべてのシーケンスが順調に進んでいることを示していました。これが事実ならば、R-7は計画通り6,000kmを飛行し、遥か極東カムチャツカまで弾頭を送り届けたはずです。試験は成功でした。遂に成功したのです。R-7の打ち上げ試験は4回目に至り、コロリョフは漸く成功を手にしたのです。賭けは、見事に成功。ここに大願は晴れて成就したのです。3度目ならぬ、4度目の正直でした。

落着予定区域に指定されたカムチャツカ州クリウチ村では、今や遅しと弾頭の落下を待ち侘びています。遥か高度1,350kmから落ちてくるのです。落着予想範囲が、相当広大になることは事前に想定されていました。当局は軍を大量動員し、一大捜索を開始。ところが、待てど暮らせど、発見の報は入らず。結局、捜索隊は1片の破片たりとも発見できぬまま、捜索は終了。8号機の打ち上げは確かに成功でした。しかし、弾頭は分厚い大気層の空力加熱で崩壊、一陣の塵に消えていたのです。

確かに発射には成功した。が、再突入で弾頭で蒸発した。

空力加熱によって、大気圏再突入時に弾頭が極端に熱せられることは、従前に理解されていました。そのため、1956年2月〜8月にかけて、推力制御システムの検証を目的に実施したR-5RDの打ち上げ試験に際して、再突入体の耐熱試験を実施。炭化ケイ素を用いたTO-2熱絶縁型が3機、アスベストコーティング型が2機、再突入実験に供され、何れも良好な結果を得ていました。

しかし、R-5Mの射程は精々1,200km。これに比して、R-7は最大射程8,000km。弾道計算を行えば、最高到達高度は凡そ10倍に達します。R-5MとR-7の弾頭再突入速度には、天と地ほどの差があったのです。従来想定の耐熱性では、全く不十分。対策として、航空力学専門家の立ち会いのもと、適切な弾頭形状の研究を進めることが決定されます。

9月7日、打ち上げを確かなものとすべく、改めて9号機の打ち上げ試験が実施されます。こちらも、全てのシーケンスが順調に機能したものの、弾頭は再び「蒸発」。ICBMの仕事は、弾頭を飛ばすことではなく、攻撃地点に正確に落着させること。これでは、戦略兵器システムとしては、何ら意味を成しません。試験は明らかに失敗でした。ところが、クレムリンは驚きの発表でこれに応えます。8月27日、タス通信が「大陸間弾道ミサイルの発射試験に成功した」と、報じたのです。そもそも、鉄のカーテンと形容される機密主義のソビエトにあって、虚偽を報じることはあっても、最新兵器開発を報じることは前代未聞でした。

存在を明かしたものの、存在に関するものは秘匿する。

戦略核兵器の開発状況を晒せば、敵に対応策を講じる余裕を与えます。本来、その開発状況は秘匿するべきです。ただ、戦略核兵器の存在が非公開のままでは、ICBMに抑止力を持たせることはできません。フルシチョフは、R-7の意義を兵器システムではなく、政治的抑止力にあると考えたのでしょう。「西側が核爆撃の大編隊をソビエト連邦に送り込むのなら、北米への熱核攻撃で応戦する」と米国側に仄めかします。フルシチョフは事実と虚偽を綯い交ぜに認識させることで、西側の増長を牽制したのです。

ただ、タス通信が伝えたのは「大陸間弾道ミサイルが発射試験に成功した」という事実のみ。弾頭再突入失敗は当然、それ以外の情報も徹底的に秘匿されました。R-7計画を率いるセルゲイ・コロリョフの存在はもちろん、トゥラタムに関する情報も厳しく制限されたのです。ソビエトがカプースチン・ヤールに代わってトゥラタムを選んだのは、トルコに配備された米軍レーダの監視から逃れるため。発射試験場の位置が特定されては、元の木阿弥です。そこで、トゥラタムの地名は当然ながら、砂漠、ラクダ、サソリ、ヘビ、カメ、シル・ダリヤ川等の記述は一切禁じられ、記述内容はすべて検閲が行われました。トゥラタム発射試験場の住所も、1955年に「Moscow-400」だったものが、1956年末に「Kzyl-Orda-50」へ、その後は「Tashkent-90」へと随時変更。アラル海の至近に建設された、ソビエトの重要拠点は「秘密都市」として、その存在を厳しく秘匿したのです。

トゥラタムを発見したCIAが、致命的な分析ミスを犯す。

Baikonur CIA U-2

1957年8月5日、戦略偵察機U-2が撮影したトゥラタム。CIAは、その規模の分析で致命的なミスを犯す。CIA, Public domain, via Wikimedia Commons

砂漠のど真ん中に巍然屹立する、巨大な発射試験施設群。その存在を完全に秘匿するのは、現実的には不可能な試みでした。米国側は、戦略偵察ミッションにより早々に新たな発射施設群の存在を暴いてしまうのです。

1957年8月5日、パキスタンを離陸した偵察機U-2がソビエトを領空侵犯。戦略偵察ミッション・No.4035を実施し、無事帰投に成功します。CIAは、当初より発射実験施設が鉄道輸送に依存すると読んでおり、撮影した膨大なフィルムを捜索。モスクワータシケント間の鉄道の北側に奇妙な施設群を見出します。飛行経路から離れていたため、斜めにぼやけていたものの、その存在は確実視されます。最終的に、1939年にドイツ軍が作成した地図との照合により、正確な地点の特定に成功。次いで8月28日、再びU-2が戦略偵察ミッション・No.4058を敢行。今度は、精細な垂直画像の作成に成功。これを基に、CIAは発射台の細部を再現したミニチュアを作成。詳細な分析を行います。しかし、ここでCIAは重大なミスを犯します。ソビエトが開発に成功した飛翔体は直ちに深刻な脅威を与えるものではない、とCIAは結論付けたのです。この分析は、完全に誤りでした。たった2ヶ月後、ソビエトは傲慢なCIAを嘲笑うように、人類史上最大の科学的偉業を成し遂げ、米国市民をパニックに陥れます。1957年10月4日、ソビエトは「スプートニク1号」の打ち上げに成功。全米にスプートニク・ショックを巻き起こすのです。

 

R-7計画の背後で極秘裏に進捗していた人工衛星開発計画。

人類が夜空に星を浮かべる。たった30年前、お伽噺でなかった奇跡を、人類は目前に控えていました。しかし、そんな偉業が僅か2ヶ月後に達せられようとは、誰も想像だにせぬ事でした。計画を知っていたのは、コロリョフを筆頭とする極僅かな関係者のみ。ソビエト国民は何も知らされておらず、ホワイトハウスはその兆候さえ掴んでいませんでした。一方の米国市民に至っては、何事であろうとも世界の覇者たる米国が、軍事、経済両面で「周回遅れのソビエト」相手に遅れを取るなど決してあり得ない、と高を括る始末。危機感に焦燥を募らせていたのは、元ドイツ人のフォン・ブラウンただ一人でした。

R-7が2回目の試験に成功した、1957年9月7日。悲願たる宇宙への歩みは、その実現を目前にしていました。ソビエトの人工衛星打ち上げ計画は、実はR-7計画の裏で極秘のままに進められていたのです。しかも、コロリョフはクレムリンからある法令を引き出していました。それは、R-7計画の成功を以て人工衛星打ち上げ計画を始動する、というもの。ソビエトは、国際地球観測年(IGY)期間内に人工衛星を打ち上げる、という米国の挑発に対抗し、これに必ず先んじることをコロリョフに命じていたのです。

準備は極秘裏に進められ、小型人工衛星「PS-1」は、製造・組み立てを完了。R-7の人工衛星打ち上げ用派生型「8K71PS」もポドリプキでの地上試験を終え、トゥラタムへの搬入を完了していました。全てはコロリョフの望んだ通りに進捗していました。

大願成就のため、意のままに国を動かしていたコロリョフ。

Sergey Korolev with dog

存在自体が極秘とされたため、セルゲイ・コロリョフの写真は多くない。そんなコロリョフは、大変な犬好きであったという。Mos.ru, CC BY 4.0, via Wikimedia Commons

コロリョフは悲願達成のため、超大国ソビエトを意のままに動かしているように思えます。しかし、一設計局の主任設計者に過ぎないコロリョフが、如何にして国家を動かし得たのでしょうか。その源は、コロリョフの類まれな人心掌握術にあります。

コロリョフは、クレムリン、軍、科学アカデミーと利益も目的も異なる3つの国家機関を、時に結び付け、時に切り離すことで巧妙に操りつつ、計画を一歩ずつ着実に前進させていました。しかし、コロリョフは、決して人を欺いた訳でも、騙した訳でもありません。有人宇宙探査という遥か遠大な夢を手繰り寄せるため、荒唐無稽な計画の現実性を高め、実現するであろう利益を説き、相容れぬ3者の利益をパズルのように繋ぎ合わせていっただけなのです。そして、1957年10月4日。その偉業が達せられた時、3つの国家機関はコロリョフが確約した以上の、途方もない利益を手にすることになります。

クレムリンから見れば、コロリョフは優秀な技術指導者であり、軍にとってはR-7計画を統括する主任設計者であり、科学アカデミーにとっては信頼ある支援者でした。コロリョフは3つの顔を巧みに使い分け、各々の利益を代表することで、唯一無二の信頼と立場を確立。最高レベルの会議に出席するという、特別な権限を獲得するに至ります。ただ、幾ら重要な会議であっても、出席するだけでは、単なる傍観者。発言権を得て、議論をリードし、結論に関与せねば、国家を動かすことはできません。

軍管轄下のコロリョフが、国と科学アカデミーを動かす。

Academy of Sciences of the USSR

1934年、ソビエト科学アカデミー本部はレニングラードからモスクワへ移転している。Кислов, Public domain, via Wikimedia Commons

ただ、OKB-1に与えられた計画、予算、権限は、すべて軍の所轄。コロリョフを以てしても、軍の許可なしに鐚一文動かすことは許されません。軍の要求は、世界初の大陸間弾道ミサイルの実現、ただ一点のみ。宇宙開発の受益者ではない軍にとって、宇宙探査計画など、核戦力整備計画を遅滞させる障害でしか無いのです。軍の利益を代表していても、有人宇宙探査に辿り着くのは当面不可能でした。コロリョフは宇宙開発の受益者を見つけ出し、その利益を代弁し、国家の承認をを勝ち取る必要があったのです。

ソビエトに於いて莫大な予算を動かし得るのは、軍の他には共産党中央委員会と科学アカデミーの他にありません。もし、宇宙探査計画が成功した暁には、共産党には米国に対する勝利を、科学アカデミーは地球外天体の科学観測という、確固たる利益を実現可能です。彼らの利益の代弁者となることが、唯一可能なアプローチと思われました。しかし、OKB-1を動かすには、何よりも軍の承認が不可欠です。しかし、軍の説得に失敗すれば、その時点ですべての計画が破綻するのは間違いありません。

コロリョフが、説得に際して絶対に注意すべき点が二つありました。一つは、計画が個人的願望ではなく、国家的使命であると証明すること。もう一つは、常に計画が米国に先んじること。何れか一つでも破綻すれば、コロリョフは全てを失うだけでなく、スターリン指導下では命を失う可能性さえあります。大粛清で投獄されたコロリョフは、誰よりもその恐ろしさを知っていました。

コロリョフとティホンラヴォフ、二人三脚の努力と足跡。

宇宙探査計画は、コロリョフは盟友ティホンラヴォフと共にを長年温めてきたものです。記念すべき第一歩は、1945年半ばにティホンラヴォフが同僚とまとめたBP-190計画でした。ただ、囚人をパイロットにするという悍ましい計画は、コロリョフの意見具申によりストップされます。コロリョフは、宇宙探査計画が荒唐無稽かつ無謀な夢物語であるとの烙印を押されるのを恐れたのです。コロリョフは、暫く宇宙探査計画を心の内に仕舞い込み、本来業務たる弾道ミサイル開発に死力を尽くします。

一方のティホンラヴォフは、簡単には諦めませんでした。1948年7月、弾道ミサイルにより人工衛星を打ち上げが可能との提案を行うも、反応は芳しくありません。1950年3月には、改めて人工衛星と有人宇宙飛行に関する提案を行うと、今度は非現実的な提案と苛烈な批判を浴び、NII-4の副所長の肩書を剥奪された上に、研究現場からも追放されてしまいます。立場を失ったティホンラヴォフを、コロリョフが救います。1951年以降、ティホンラヴォフはコロリョフが進めるICBM開発計画(後のR-7)の一環として、多段式ロケット「パケットコンセプト」に関する研究に従事することになります。

1953年3月5日、恐怖の支配者スターリン死去。これにより、事態は一気に急転します。長い漆黒の氷河期は漸く終わりを告げ、大地に春が訪れます。コロリョフとティホンラヴォフの二人三脚の努力が、漸く実を結ぶ時が来るのです。

ティホンラヴォフの挫折が、閉ざされた扉を動かす。

1953年初め、ICBM開発計画は順調に進展し、NII-4では研究の当面の目標を達成しつつありました。これに伴って、NII-4上層部は新たな研究テーマの検討を指示。そこで浮上したのが、人工衛星に関する研究でした。たった3年前、ティホンラヴォフは宇宙探査に関する希望を公然と訴えた時、役職も職責も剥奪される屈辱的な経験をしています。しかし、ティホンラヴォフはスターリンの圧制下に於いても死を恐れず、個人的研究に邁進し、情熱を傾けてきたのです。物静かな男の胸中は察するに余りあります。

ティホンラヴォフはプレゼンを携えて、NII-4上層部と共に砲兵総局ロケット部門を訪問。熱心なプレゼンを行います。ここで特筆すべきは、宇宙探査計画を実行可能なステップで示したことです。

最初のステップには、科学的かつ技術的事情を考慮して「単純な衛星」を設定。第二段階では、有人ロケットの技術実証を目的に発射実験を実施。第三段階では、1〜2人搭乗の小型実験衛星での長期間滞在を実現。第四段階は、大型のステーション衛星。これを地球からの定期輸送によって維持しつつ、科学研究及び深宇宙探査ミッションの母機として活用します。そして、ティホンラヴォフが示した最終目標は、月周回軌道及び月面着陸。人類が地球外天体に最初の一歩を刻むことを、将来構想として掲げたのです。決して屈しない、決して諦めない、僅かなりとも前進する。ティホンラヴォフの情熱は、遂に軍を動かすことになるのです。

1954年1月、遂に人工衛星開発が正式に許可される。

国家計画省軍事局長パシュコフは、ティホンラヴォフのプレゼンに強い感銘を受けます。軍事大臣ヴァシレフスキーと相談の上で、人工衛星研究の承認を決断。パシュコフは、研究に対する政治的支援を確約するだけに留まらず、NII-4上層部がティホンラヴォフの研究を妨害すること一切を禁じます。職責剥奪から3年。ティホンラヴォフは、遂に本懐を遂げることになったのです。

1954年1月、NII-4に対して「人口地球衛星の製造問題に関する研究」と第する科学研究プロジェクト第72号の開始が正式に許可されます。二人がずっと待ち侘びてきた日が、遂に訪れたのです。ザンダーらとGIRDを設立した1931年のあの日以来、レジスタンスが地下室で灯すランプの炎の如く、人に悟られぬよう心の内で温めてきた二人の宇宙への夢。ティホンラヴォフとコロリョフが幾度もの恐怖に屈せず、大切に育んできた宇宙探査計画は軍の承認を得て、ここにソビエトの正式な国家プロジェクトへと昇格を果たしたのです。コロリョフも、ティホンラヴォフも、密告を恐れて口を憚る必要はもう無くなったのです。

しかし、コロリョフは逸る心を抑え、拙速を戒めます。クレムリンよりも先に、ソビエト科学界の支持を得ることが重要だと考えたのです。人工衛星は科学観測が目的であり、直接的な受益者は科学者だからです。1月23日、応用数学研究所で人工衛星に関する特別会議が開かれます。ここでコロリョフがティホンラヴォフに引き合わせたのが、新進気鋭のある科学者でした。

 

科学アカデミー側の窓口となった、科学者ケルディッシュ。

Мстислав Всеволодович Келдыш, 1946 год

コロリョフの盟友、ムスチスラフ・ケルディッシュ。人工衛星打ち上げに際しては緊密に連携し、上層部の説得に成功。遂には、フルシチョフさえも動かす。See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons

ムスチスラフ・ケルディッシュは、1911年1月28日にロシア領リガに生まれます。父は土木工学者フセヴォロド、母はマリア。王政下では貴族階級に属する家系であり、幼少期を何不自由なく暮らします。ところが、1915年にドイツ軍がラトビアに侵攻。これを機に、父は失職。モスクワに移るも、一転して貧しい日々を過ごすことになります。

1931年、モスクワ大学物理数学部を卒業したケルディッシュは、中央航空流体力学研究所(TsAGI)に職を得ます。応用数学に熱心に取り組んだケルディッシュは早々に頭角を現し、多数の論文を発表。最大の業績は、航空機に於けるフラッタ現象の解析でした。フラッタは、空気力学的振動が発散する現象で、空中分解に至る危険な現象として恐れられていました。当時、空気力学的作用に関する理論式は導かれていたものの、余りの複雑さ故に解くのは困難でした。ケルディッシュが応用数学を用いて導き出したのは、当時の演算能力で実行可能かつ信頼性の高い近似方法でした。この功績により、1942年スターリン賞を受賞します。

ケルディッシュは科学アカデミー数学研究所で博士課程の研究に取り組み、1938年に理学博士号を取得。1942年以降は、モスクワ大学教授として従事します。1946年、35歳の若さで科学アカデミー正会員に選出。12月にはTsAGIを離れ、NII-1の所長に就任します。1953年時点では、科学アカデミー数学研究所に自ら設立した、応用数学部の部長に就任していました。

科学アカデミー総裁が、人工衛星開発計画の指示を表明。

Несмеянов, Александр Николаевич 001

科学アカデミー総裁ネスメヤノフは、コロリョフにとって最大の援軍となった。これを機会に、人工衛星計画は一気に躍進する。See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons

この頃、ケルディッシュは、1947年に開始されたR-1Aを用いた科学観測実験に、強い興味を抱いていました。ところが、かつてロケット開発に取り組んだNII-1には昔日の見る影もなく、今や航空機エンジン開発を専門としていました。そこで、ケルディッシュは若手技術者を広く募り、NII-1でのロケット研究の再興を目指します。

続いて、ケルディッシュはNII-88の顧問に就任し、コロリョフとの知遇を得ると、両者は協力体制を構築。ソビエトロケット開発の科学アカデミー側の窓口として、同じ宇宙への夢を描く同志として、大いに貢献することとなります。

1954年2月、ケルディッシュはティホンラヴォフのチームを招き、物理学者セルゲイ・ヴェルノフ、天文学者ボリス・クカルキン、ペオトル・カピツァらとの間で会議を開催。3月16日には、将来の人工衛星に関する科学的課題を検討することを目的とした会議を、ケルディッシュを議長に科学アカデミーで開催。ケルディッシュは、意欲的に人工衛星に関する議論を推し進め、4月には科学アカデミー総裁アレクサンドル・ネスメヤノフとの間でさらなる議論を交わすと、ネスメヤノフは人工衛星計画の支持を表明。そして、5月25日。人工衛星計画は科学アカデミー理事会で正式に承認を得ます。宇宙探査計画は、遂に受益者の理解を得たのです。

軍の承認を得て、科学アカデミーの支持を得たコロリョフ。残る壁は、クレムリンだけでした。

上司ウスティノフの指示を得ることに成功したコロリョフ。

Генерал-полковник инженерно-артиллерийской службы Герой Социалистического Труда Дмитрий Фёдорович Устинов

上司たるウスティノフは、常にコロリョフ最大の理解者であった。ウスティノフの支援が無ければ、コロリョフが存分に力を発揮することはできなっただろう。Mil.ru, CC BY 4.0, via Wikimedia Commons

1954年2月、コロリョフは軍需大臣ウスティノフと人工衛星について議論を開始。ティホンラヴォフの論文に肯定的評価を与えるよう、働きかけを行います。同じ頃、ティホンラヴォフは、アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥に手紙を送ると、熱烈な返信が記されてきます。「同志ティホンラヴォフへ。困ったことがあったらいつでも連絡したまえ。」

5月26〜27日、コロリョフはウスティノフに対し、「人工地球衛星について」と題する正式な提案書を提出し、OKB-1内に宇宙船を専門とする部署の設置を求めます。この提案書には、これまでの研究成果に加え、米国の研究レビューが添えられていました。この提案書には、以下のようなティホンラヴォフのメモが添えられています。

「『人工地球衛星について』及び、米国での関連作業に関する翻訳資料を提出します。現在進行中のミサイル開発計画によって、数年内に人工地球衛星を実現する可能性を議論することが可能になりました。ペイロードを僅かに減じることで、衛星に必要な最終速度8.0km/secを達成することが可能です。この衛星は、上記計画に基づいて開発することが可能ですが、後者を大幅に手直しする必要があります。現時点では、衛星の初期研究作業と、この分野に関連する複雑な問題をより詳細に検討するための研究開発部門を組織することが、タイムリーで有益であると考えます。つきましては、上記内容のご許可を願います。」

科学アカデミー、軍の指示を獲得。残すはクレムリン。

一方、コロリョフは「衛星は惑星間航行を可能にするロケット開発の道筋に於ける必然的なステップである。人工衛星と惑星間航行に対する外国メディアの関心が、過去2、3年で高まっている。」と記しています。コロリョフは、遂に自らに秘めてきた悲願と信念を詳らかにしたのです。コロリョフは世紀の大願成就へ向けて、大阪夏の陣の如く、丹念かつ丁寧に外堀を埋めていきます。

ウスティノフは、R-7計画に於ける戦略兵器としての軍事的重要性を理解しつつ、人工地球衛星計画に対して前向きな姿勢を明確にします。8月、ウスティノフの推薦により、ソビエト閣僚会議は宇宙飛行に関する研究の発展に関する提案を承認。翌1955年4月、NII-4は科学研究プロジェクト第72号に於ける予備報告書No.571「人工地球衛星の製造に関する研究」を提出。これに機を同じくして、科学アカデミーはケルディッシュを委員長、コロリョフとティホンラヴォフを副委員長とした、衛星開発計画を監督する特別委員会を設置します。コロリョフは個人的願望と看破されぬよう、ケルディッシュを前面に立てることとしたのです。

1955年6月25日、コロリョフは「1954年の科学活動に関する報告書」に署名すると共に、「最初は最も単純な構成の人工地球衛星の開発のあらゆる側面に関する作業を開始する」ことを提案します。この中でコロリョフは、ティホンラヴォフの研究を基に、1956年末までに人工衛星の予備設計が完了できる旨を記しています。

米国の人工衛星打ち上げ宣言が、コロリョフの追い風に。

1955年7月29日記者会見

1955年7月29日、ジェームズ・ハガディは高らかに米国の衛星打ち上げ計画を宣言する。鼻息荒いこの会見は、スプートニク・ショックの後に米国最大の恥として記憶されることになる。 via NASA.gov

その一方、米国が人工衛星に強い関心を抱いているのに対し、ソビエトでは関心が低いことを憂慮。加えて、コロリョフは科学アカデミー内に分散する宇宙探査専門の組織を一つに統合することを助言しています。

また、コロリョフは1956年6月16日付けで、OKB-1内への宇宙船分野の業務組織設置に関する提案書を承認しています。

コロリョフは宇宙への第一歩を記すべく、最後の仕上げに取り掛かります。人工衛星の打ち上げがソビエトの技術力を顕示するものとして、非常に重要な政治的意味を持つことを強調したのです。そして、コロリョフは望外の政治的支援を得ることになります。

1955年7月29日、大統領報道官が重要な発表を行います。米国大統領ドワイト・D・アイゼンハワーのコメントとして、国際地球観測年(IGY:1957年7月1日から1958年12月31日)の期間中に米国が小型地球周回衛星を打ち上げる意向を正式に表明したのです。これに関し、ナショナル・ジオグラフィック誌は「その日は、ホワイトハウスが真の宇宙船を建造するとアメリカ合衆国が発表した日として歴史に記録されるだろう」とまで自信たっぷりに断じます。

米国の挑発的な発表を受け、ソビエトは直ちに対抗心をむき出しにします。4日後の8月3日、コペンハーゲンで開催された第6回国際宇宙連盟会議に於いて、ソビエトの科学者レオニード・セドフが、ソビエトも衛星を打ち上げる予定があると発言したのです。

 

大願成就まであと僅か。。。気が逸るコロリョフ。

ソビエト最高指導部に対し、脅しを掛けるコロリョフ。

Wernher-von-Braun

コロリョフにとってフォン・ブラウンは常に脅威だったが、この頃のフォン・ブラウンは「陸軍の研究所の主任研究員」に過ぎなかった。NACA, Public domain, via Wikimedia Commons

世界を東西を二分する超大国。IGYでの宣言は、科学技術の勝利が非常に重要な政治的意味を持つと予言したコロリョフの発言を、そのまま具現化するものでした。これを以て、人工衛星の打ち上げは米ソ冷戦の舞台へと転じることになります。ここに、1969年7月20日20時17分にアポロ11号の世紀の瞬間へと続く、世紀の宇宙開発競争の幕が切って落とされたのです。

1955年8月5日、コロリョフはソビエト閣僚会議のメンバーであるミハイル・フルニチョフとヴァシリー・リャビコフの連名で、ソビエト最高指導部のフルシチョフとブルガーニンに対し、書簡を送っています。

コロリョフはこの書簡の中で、フォン・ブラウン擁する米国の宇宙開発の脅威について、大袈裟な誇張を加えた上でこれを警告しています。コロリョフの情報によれば、フォン・ブラウンの元で巨大ロケット計画が進行中であり、その総重量は7000tとR-7の25倍にも達するとしたのです。コロリョフは、もし2億5千万ルーブルの費用があれば、R-7計画が当初の目的を達する1957〜58年にかけて、人工衛星の打ち上げが可能でことを提示。加えて、人工衛星の打ち上げがソビエト科学技術及び軍事技術の発展の扉を開くことを強調します。そして、計画が承認された場合、1.5〜2ヶ月以内に必要な活動計画を提出することを約束します。この際、コロリョフは人工衛星に搭載する科学観測機器の開発が、計画の大きな課題になることを指摘しています。

共産党中央委員会が、コロリョフの提案を正式承認。

その僅か3日後の8月8日、ソビエト連邦共産党中央委員会議長会は、コロリョフの提案を正式に承認。さらに、人工衛星開発に関するソビエトの公式声明の作成を指示します。11日、これに応じてコロリョフ、フルニチョフ、リャビコフは声明の草案を提出します。ところが、24日の会議では不承認。紆余曲折を経て漸く承認された草案の末尾には、ソビエトお決まりの自賛が追加されていました。人工衛星のアイデア、理論、原理は、偉大なる科学者コンスタンティン・ツィオルコフスキーに基づく、としたのです。

ソビエトを挑発するように、米国がIGY期間内の衛星打ち上げ公表したことは、コロリョフに千載一遇の好機をもたらします。コロリョフはクレムリンに畳み掛けるように計画推進を促すことで、事態を一気に加速させることができたのです。

8月29日、コロリョフはクレムリンに対し、最初の人工衛星から有人宇宙飛行へ至る宇宙探査の詳細なロードマップを作成し、提出。これを受けて、R-7の設計者会議に於いて、R-7の宇宙ロケットへの転用に伴う改造を評価。さらに、コロリョフは科学アカデミーの会議にケルディッシュとグルシュコを伴って出席し、人工衛星の科学的応用の可能性を議論しています。この中で、コロリョフは科学アカデミー内に、様々な科学プログラム及び動物実験を目的とした科学機器の開発を監督する特別組織の編成を提案しています。そして、この組織のトップには、ケルディッシュを推薦します。

意気上がるコロリョフ、宇宙開発の早期着手を求める。

続いて、コロリョフは軍事産業委員会委員長であるリャビコフ主催の会議に出席します。クレムリンの支持と科学アカデミーの支援を受け、意気が揚がるコロリョフは、声高らかに宇宙開発の意義と利益を訴え、計画の具体化と早期着手を求めます。

この席上、コロリョフは重要な提案を行っています。2段式のR-7を、新たに3段式とすることを想定。酸素とケロシンの混合燃料を用いて、約400kgの探査機を月近傍へ運搬するプラン。そして、より強力な一酸化硫黄とエチルアミンを用いることで、同じく月近傍に800〜1,000kgのペイロードを届けるプランを提案したのです。コロリョフは、宇宙探査計画の最終目標を現実のものとすべく、早くも具体的検討を促したのでした。ただ、コロリョフの提案は些か拙速だったようです。

宇宙開発の直接的な受益者となるであろう、クレムリンと科学アカデミー。これに対し、軍は常に冷静でした。この会議の席上、軍を代表して出席したムリキン大佐は、コロリョフの計画が本来優先すべきR-7計画に遅滞を招く可能性を指摘。そこで、人工衛星に関する計画を、R-7のテストが完了するまで延期することを提案し、コロリョフの暴走に釘を刺したのです。

9月3日、コロリョフは重量1,100kgの宇宙船の予備仕様書に開発計画の概要を加えて、クレムリン及び関連先へ送付しています。9月14日には、人工衛星開発に関する政令の第一次草案が、共産党中央委員会議長会に提出されます。

本命の大型衛星より先に、小型衛星MSPを打ち上げる。

第一次草案の草案の骨子は、想定重量1,000〜1,400kgの人工衛星「物体SP」に、200〜300kgの科学観測機器を搭載し、1957年半ばに打ち上げるというもの。これに伴い、当該計画がソビエト最重要機密に指定されるため、関連するR-7計画は以後KGBによる特別処置下に置くことを要求しています。当草案に於いて注目すべきは、初めて「小型衛星」に触れたことです。

小型衛星「MSP」をR-5及びR-11の3段目に搭載し、先行実証機として打ち上げることが提案されたのです。後に、スプートニク1号として永遠に歴史に刻まれる、小型人工衛星が初めて公式文書上に存在が定義された瞬間でした。

コロリョフが憂慮したように、重量1tを超える人工衛星開発に際し、現状想定しない様々な技術的課題が伴うことは、想像に難くありません。ただ、クレムリンにとっての「利益」は、人工衛星が完全に機能して有意義な科学観測データを得ることではなく、共産主義の栄光を象徴する人類初の人工衛星が、強欲に塗れた資本主義者の頭上を闊歩して、厚顔無恥なその顔に泥を塗りたくることにあります。そのために達すべきミッションは、ただ一つ。人工衛星の打ち上げに必ず成功し、米国に先んずること。

ところが、ソビエト領内で試験が完結する熱核爆弾やR-7とは異なり、軌道を周回する人工衛星の成否は必ず米国の知る処となります。部分的な成功を事実を歪曲して報道させるのは不可能なのです。挑むからには、確実に成功させる必要がありました。

人類初の人工衛星軌道投入という、コロリョフの生命線。

一方、コロリョフは別の懸念を抱いていました。クレムリンがプロパガンダこそ最大の成果とするのであれば、米国が元ドイツ人の主導で人工衛星打ち上げに先んじた場合、クレムリンは対抗処置として人工衛星計画そのものを「無かったこと」にしかねない、と案じたのです。その場合、壮大な宇宙探査計画は即座にゴミ箱行きとなり、主導したチーフデザイナーは更迭されるに違いありません。GIRD創設以来、すべてを捧げて積み上げてきた努力は、一瞬にして水泡に帰してしまうのです。

計画の早期達成と確実な成功。その双方を満たすプランは、ただ一つ。小型人工衛星の他にありません。しかし、人工衛星計画の直接的な受益者である科学アカデミーが、御為ごかしの小型人工衛星で米国に先んじることに意義を見出すとはとても思えません。米国に対する勝利と、確実な科学観測。計画は検討段階ながら、クレムリンと科学アカデミーの利益に齟齬が生じていたのです。

1955年秋。ここへ来て、突如事態は沙汰止みとなり、草案の承認は3ヶ月に渡って停滞を強いられます。理由は定かではないものの、関係部門及び受益者すべての合意が得られなかったことは否定できません。刻一刻と増していく、米国の脅威。コロリョフの焦りは次第次第に分厚く募っていきます。フォン・ブラウンが擁する短距離弾道ミサイル・PGM-11レッドストーンは、発射試験を繰り返し、精度及び信頼性を改善しつつありました。

焦る共産党中央委員会が、オブジェクトDを正式承認。

Fifth Redstone launch

フォン・ブラウン率いる米陸軍ABMAが開発した、レッドストーン。予算と任務の制限により、その規模はSRBMに留まったものの、米国で最も信頼性の高いロケットシステムとして成熟の速度を早めていた。US Military, Public domain, via Wikimedia Commons

レッドストーンを2段ないし3段式とすれば、米国はすぐにでも超小型衛星を打ち上げることが可能です。もし、形振り構わずソビエトへの勝利を狙うならば、玩具のような超小型衛星でも打ち上げることでしょう。明日にでも米国の人工衛星が新聞の一面を飾る可能性があったのです。コロリョフには、時間がありませんでした。

明くる1956年、停滞していた事態が漸く動き出します。1月11日、閣僚会議副議長:M.フルニチョフ、科学アカデミー総裁:A.ネスメヤノフ、国防産業大臣:D.ウスティノフ、防衛大臣:G.ジューコフ、閣僚会議特別委員会委員長:V.リャビコフ、電波工学大臣:V.カルムイコフら錚々たる面々に加え、P.デネチエフ、P.パーシン、S.コロリョフ、M.ケルディッシュの署名を加え、政令の第2次草案がソビエト連邦共産党中央委員会議長会に提出されたのです。

1月30日、遂にその瞬間が訪れます。共産党中央委員会議長会が、閣僚会議令第149-88ss号を正式に承認。ここに、ソビエトの人工衛星開発計画が正式にスタートを切ったのです。人工衛星には、コードネーム「オブジェクトD」の名称が与えられ、重量は1,000〜1,400kgとし、科学観測機器:200〜300kgを搭載。但し、姿勢制御システムは搭載しないものとされました。開発プログラムは、1957〜1958年にかけて実施され、その打ち上げは1957年に計画するものと定められました。

ソビエト初の人工衛星計画、オブジェクトDの責任範囲。

当該計画の責任範囲は、法令により次のように定められました。

・プロジェクトの科学分野の管理及び機器の供給:科学アカデミー

・衛星バス(機体主要構造・機器)開発:OKB-1

・飛行制御システム・無線・テレメトリシステム:電波工業省

・ジャイロセンサー:船舶工業省

・地上作業・輸送・燃料供給・打ち上げ施設:機械製造省

・打ち上げ作業:国防省

・衛星追跡手段:航空産業省

・オブジェクトD計画全般の管理・調整:閣僚委員会特別委員会

オブジェクトDの科学観測機器を利用して、以下の分野に活用することが定められます。

・地球物理学:重力及び地場の研究、地球の形状、電波の伝播と上層大気構造へ与える影響

・物理学:宇宙放射線の研究及び相対性理論の影響の観測

・生物学:人工衛星に搭載された生物の長期滞在が及ぼす影響の研究

・天文学:太陽の研究、小天体落下の研究、地表の写真撮影

当該計画の実行性を高めるため、他の分野・計画で開発された技術・機器のオブジェクトDへの流用が、支障のないことを条件に許可されています。

法令に記されていた、2つの人工衛星構想。

当該法令は、単発の人工衛星打ち上げ計画ではなく、1953年初めにティホンラヴォフが提案した人工衛星開発計画への道を開くものでした。オブジェクトDに加えて、2つの人工衛星に関する予備研究も許可されていたのです。

一つは、姿勢制御可能な人工衛星である「オブジェクトOD」です。オブジェクトODは、周回軌道からの帰還も視野に入れた技術的難易度の高いプランであり、将来の有人宇宙船の開発を見据えたものでした。オブジェクトODの技術要件はこの時点では決定しておらず、防衛産業省、国防省、科学アカデミーの3者が共同で検討を行い、計画立案・策定することとされます。

注目すべきが、もう一方の低予算の科学研究用小型衛星「オブジェクトMPS」です。2ヶ月以内に提案書を閣僚会議に提出することが求められており、明らかに早期打ち上げを意図したものでした。このオブジェクトMPSこそが、スプートニク1号となるのです。

 

最高指導者へ直訴!生涯一度の大勝負に出る、コロリョフ。

フルシチョフに直訴した、一世一代コロリョフの大博打。

Nikita Khrushchev 1962 (cropped)

1956年2月26日、最高指導者ニキータ・フルシチョフがOKB-1を訪問する。コロリョフの人生を賭けた大博打が、ここに始まる。See page for author, CC BY-SA 3.0 NL, via Wikimedia Commons

1956年2月26日、モスクワ近郊ポドリプキは俄に興奮に包まれていました。ソビエト連邦共産党中央委員会第一書記ニキータ・フルニチョフが、コロリョフのOKB-1を訪れてたのです。共産党指導者の訪問目的は、ただ一つ。鋭意開発中の大陸間弾道ミサイル・R-7の視察でした。この時点ではモックアップしか存在しなかったものの、それはフルシチョフの想像を絶する巨大なものであり、偉大なる新兵器の開発状況に強い感銘と大いなる確信を得ることとなります。

得意満面のコロリョフは、フルシチョフに次のように宣言します。「この巨大なロケットによって、ソビエトの核兵器は米国にとってアンタッチャブルな存在になるでしょう!」これを聞いたフルシチョフは、大いに感激します。R-7が成功すれば、米国の核戦力の優位性は失われ、リバランスが達せられるのです。フルシチョフは、国家技術陣の優秀さに大いに感銘を受けたことでしょう。

しかし、コロリョフにとっての勝負はここからでした。コロリョフは最高指導者に披露するため、あるモックアップを準備させていたのです。「実は、もう一つのプロジェクトが存在するのです。」視察を帰路に着く一行を、コロリョフは呼び止めます。

「R-7が成功して初めて実現可能になるものです。中央委員会に報告したところ、好意的な回答を頂いています。」そう続けると、コロリョフは指導者一行をプラントの隅へ誘います。そこにはスタンドが置かれており、その上には不思議な形状の物体が飾られていました。それは何とも似つかぬ、不可解な物体でした。

コロリョフは、偉大なるツィオルコフスキーの辿った足跡を披露します。そして、彼の夢が「地球圏からの脱出」であったことを述べると、突如叫ぶように宣言するのでした。「そして今、我々はそれを実現することができる!」と。コロリョフ一世一代の大芝居、いや大博打でした。ソビエトの最高指導者に、宇宙探査計画が国家的使命であると説き、その実現を直訴したのです。

大粛清を生き抜いた元犯罪者が最高指導者に意見する奇跡。

コロリョフは、この瞬間を一体どれだけ待ち侘びてきたことでしょう。コロリョフは、他ならぬ元犯罪者。18年前、セルゲイ・コロリョフは同僚グルシュコの告発により、国家に対する反逆者として濡れ衣を着せられ、極北の強制収容所に収容。拷問で顎骨は粉々に打ち砕かれ、極寒の強制労働で壊血病を患い、歯はすべて抜け落ち、心臓は生涯癒えぬダメージを負いました。そんな人間が、指導者に対して直接意見具申する機会を得たのです。初志貫徹、臥薪嘗胆、人事天命。人生とは分からないものです。

今や、悪しきスターリンは死に、暗黒の時代は過ぎ去りました。今眼前にいる人物は、スターリンの悪行を詳らかにし、その罪状の全てを国家的犯罪として総括した、新時代の指導者です。この男ならば、この男だからこそ、必ず道は開ける。そう信じた、いや信じる他なかったことでしょう。稀代の天才技術指導者セルゲイ・コロリョフは、すべてをこの瞬間に賭けたのです。

対するフルシチョフは、OKB-1の訪問をずっと待望していました。強弁を張った処で、米国の優勢は明らか。レーニンが作り上げた美しき社会主義国家を守り抜くには、米国が持たざるものを持つ他ありません。フォン・ブラウンを米国に横取りされた今、唯一の希望がセルゲイ・コロリョフだったのです。ただ、チーフデザイナーがさも大事そうに見せたのは、実に不思議な物体でした。四方に棒が突き出し、その造形はとても美しいとは言えない、酷く無骨なものだったのです。

ツィオルコフスキー博士の夢と、資本主義者に対する勝利。

GIRD

フルシチョフの祝福を得て、コロリョフがGIRD創設以来ずっと心に秘めてきた願いが、遂に現実のものとなる。シベリアで生死を彷徨った時も、決して諦めなかったからこそ、この祝福があったのである。今更ながらに、コロリョフの志の強さに感服せざるを得ない。Anonymous Soviet photographer, Public domain, via Wikimedia Commons

自身に満ち、雄弁に語るコロリョフに対し、最高指導者は怪訝そうに物体を見つめるだけでした。その様子にサッと興奮を鎮めたのか、コロリョフは慎重に言葉を選びつつ、説明を進めていきます。コロリョフは、飛行物体がある速度に達すると、地表には落下せず、小さな惑星や月の如く、地球の周りを周回できると、物理的原理を解説。そして、その原理を利用すれば、遥か昔にツィオルコフスキー博士が夢見たような、人工地球衛星が実現できる。と、力強く宣言したのです。

それでも、反応芳しからぬフルシチョフ。そこで、コロリョフは遂に禁断の言葉を口にします。アメリカ人が人工衛星打ち上げに向け、ソビエトと熱狂的な競争を繰り広げており、ソビエトはこの戦いに必ず勝利せねばならない!と、最高指導者に対し、決断を迫ったのです。そして最後にこう述べます。この競争は比較的容易に達成可能であり、低予算で勝利できる。。。荒唐無稽な計画に確実な現実性を与えて、壮大な演説を結んだのです。

コロリョフの大博打は終わりました。後は、最高指導者の決断のみ。もし失敗すれば、全てはご破産。。。ところが、フルシチョフは想像だにせぬ驚きの行動に出ます。何と、コロリョフに祝福を与えたのです!コリマ鉱山で死を覚悟した、あの瞬間。それでも諦めなかった宇宙への夢。それが今、最高指導者の認める処となったのです!大願成就、悲願達成、遂に道は開かれたのです。

 

コロリョフの宇宙への思いは、ソビエトの国家プロジェクトに。

最高指導者の祝福を得て、一気に加速する人工衛星計画。

2月、コロリョフは人工衛星の最初の設計要件を提出。いよいよ、作業は本格的な設計段階へと前進します。6月14日には、オブジェクトDを周回軌道へ打ち上げるための、R-7の人工衛星打ち上げ転用を目的とした改修作業に関する技術詳細を最終決定。最高指導者の祝福を得て、計画は一気に加速していくことになります。

7月、オブジェクトDの予備設計が完了します。地球に帰還しない人工衛星では、すべての科学観測データを無線で地上に送信する必要があり、地上から衛星を制御する場合は信号を受信せねばなりません。抵抗が極めて少ない軌道上では、長期間に渡って軌道を維持できるものの、有効な観測データを送信可能な運用寿命は電池容量によって制限されることになります。

この時点での予備設計では、2〜12周間程度軌道を維持可能とされたものの、有効な運用寿命は7〜10日程度を想定されました。テレメトリシステムはR-7からの転用とし、その機能を維持するための化学電池は3週間分の容量とされます。人工衛星と聞けば巨大な太陽電池パネルを想像しますが、当時の技術水準では大型パネルの搭載は不可能で、小型のパネルが上部に4枚、側面に4枚、後部隔壁に1枚が設置されただけで、これだけでテレメトリシステムを維持するのは到底不可能でした。

また、地上との通信を司る追跡用アンテナは、反射板を2本のバネ式ブーム(長さ12m及び15m)によって展開する計画でした。

科学アカデミーの開発スケジュールに致命的な遅れが発生。

機体内部に搭載されるテレメトリシステムは、テレメトリの生成及び送信を行うアビオニクス、地上レーダステーションに追跡信号を提供する送信機及び受信機、軌道測定ステーション用の送信機、コマンドシステム用ハードウェアで構成され、これらにより地上管制から科学機器やサービスシステムの制御を可能にします。

限りなく真空に近い環境下を飛行する人工衛星は、極端な温度変化に晒されます。厳しい環境下で機能を維持するには、熱のコントロールが重要です。オブジェクトDでは、冷却を担うラジエータを覆うように電気駆動で開閉するブラインドを16個設置。搭載される温度センサーの測定値に応じて開閉し、熱制御を可能とする設計としていました。

機体は重量軽減を考慮して、外装にアルミニウム合金、フレームにはマグネシウム合金を採用。予備設計時点での見積もりでは質量:570kgで収まっており、200〜300kg程度の予備重量が残されていました。

9月14日、ケルディッシュはコロリョフを科学アカデミー理事会に招待し、人工衛星開発計画について会合を実施します。コロリョフが懸念した通り、スケジュールに遅れが生じていたのです。8月に提出予定だった科学機器の仕様は、9月に延期。10月に納品予定だったプロトタイプ検討用の科学機器のモックアップは、11月にプロトタイプを納品することで合意します。

OKB-1を独立させ、ソビエト宇宙開発計画を掌中に収める。

8〜9月にかけて、コロリョフ率いるOKB-1では組織改編を実施し、人工衛星開発を専門とする第9部を新設します。そこには、コロリョフの野心がありました。コロリョフは、自身がトップを務めるOKB-1を、軍隷下の設計局NII-88から独立させ、宇宙開発全般を専門とする国家直轄の研究開発拠点へと生まれ変わらせようとしていたのです。

9月末、NII-88からのOKB-1の独立が承認され、OKB-1はロケット産業に於ける外部専門家センターとして再スタートを切ります。同時期、NII-88の科学技術評議会に於いて、コロリョフは人工衛星開発計画の進捗状況を報告。この中で、人工衛星を1機ではなく、3機構成とすることを提案。NII-88が提案に賛同の意を示したことで、人工衛星開発計画のロードマップが決定されます。

10月3日、コロリョフは盟友であり、同志でもあるティホンラヴォフを、この第9部へ移すようウスティノフへ要請します。続いて12月27日には、ネデリン元帥に対しても同様の要請を提出。この要請は無事承認され、ティホンラヴォフは新たにコロリョフの部下となり、科学顧問の立場で将来の人工衛星の予備設計を担うこととなります。

事態はコロリョフの望む通りに、順調に進展していました。自らのOKB-1が独立を果たしただけでなく、計画の功労者たるティホンラヴォフを掌中に収めることで、宇宙探査計画の主導権は完全にコロリョフのものとなったのです。

 
 

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