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超音速実験機XS-1のフライトプラン。
XS-1のフライトプラン1:危険な燃料の取り扱い
初めての動力飛行は、8月29日。この動力飛行に於けるXS-1のフライトプランを、詳しく見ていきみましょう。
実験機であるXS-1は、その飛行に際して、各部の慎重な点検・調整が欠かせません。燃料と酸化剤は混合するだけでも爆発的に反応するため、これらを近接して取り扱う液体ロケットエンジンでは、殊更危険が伴うのです。
ただ、XS-1は過去のロケット機よりは幾分マシでした。燃料に液体酸素とアルコールを用いたため、Me163の高濃度過酸化水素(H2O2)や、現在でも一部で用いられるヒドラジン(N2H4)のように、触れただけで死傷するというような事はないからです。実際、Me163を国産化した秋水では、事故時にパイロットが過酸化水素に触れ、死亡しています。
それでも、XS-1の機体内部には、巨大なタンクが隣接して搭載されている訳で、何らかの要因で構造的破壊に至れば、直ちに漏出が始まり、機体は即座に爆散するのは間違いありません。実際に、X-1 3号機やX-2 2号機では、燃料漏出に伴う事故が発生することになるのです。
エプロンに儲けられたピットに落とし込まれた、XS-1・2号機。母機のB-29は、XS-1を跨ぐように抱え込み。これを吊下する。from US Air Force
XS-1のフライトプラン2:地上での最終点検作業
XS-1で特に危険だったのは、液体酸素の取扱いでした。漏れ出した液体酸素は、可燃物であればどんなものでも爆発的に燃焼させます。また、-183度という極低温下では、金属材料やエラストマー材料の脆化が問題となることが多く、充填を前にしての各部の点検は欠かすことができません。
1,177Lの液体酸素タンク、1,110Lのアルコールタンク、そして圧縮窒素タンク。更には、それらの配管類。そして、XLR11エンジン。加えて、3つの操縦翼面と操縦系、多数の計器、測定器、送信機。考えられ得る限りに最善の状態とすべく、XS-1は飛行前に念入りに点検・整備が実施されます。そして、確実な安全があると断定できた場合に限って、飛行試験に望むのです。
ただ、そもそも遷音速さえ未知の領域であった当時の話。確実な安全なぞ、望むべくも無かったのです。テストパイロットという職業に危険が伴うのは、当たり前の話。それだけではありません。XS-1は、未知の「致命的な問題」を抱えていたのです。。。
ストラップで引き上げ、XS-1を腹下に抱え込んだ母機B-29。from US Air Force
XS-1のフライトプラン3:パイロットの最終チェック
致命的な問題の原因は、液体酸素タンクのパッキンに用いられていたウルマー革。このウルマー革を液体酸素と化学的に結合させて、ある条件下で衝撃を与えると、容易に爆発に至ったのです。ただ、その事実が判明したのは、1955年のこと。知らぬが仏、とは良く言ったもので、テストパイロットたちは機体を信じて身を任すしかありません。
彼らは、そのための人「材」なのですから。悲劇的な事故に遭遇してしまったら、、、ミューロック(現エドワーズ空軍基地)の路地に、自分の名前が刻まれるだけのこと。事実、この時代に「未亡人製造機」とあだ名された航空機は数知れないのです。
点検・整備が完了したXS-1は、チャック・イェーガー自らが最終確認作業、プリフライトチェックを実施します。エレベータ、エルロン、フラップが確実に作動すること、XLR11に異常がないこと、各部の漏れやガタツキなど不穏な兆候がないこと。これは、軍用機では飛行前点検として、すべてのパイロットが実施する儀式。
イェーガーは、自らが命を託す愛機が、それに相応しいコンディションにあるか否か。経験と勘に基づき、機体をグルリと回りながら、パイロット自らが最終チェックを行うのです。
爆弾倉にXS-1を完全に固定すると、ストラップは外される。投下はパイロット自身ではなく、爆撃手席からフライトエンジニアの手で遠隔で行われる。写真はXS-1の発展型の一つ、X-1B。from NASA
XS-1のフライトプラン4:燃料充填作業と母機への懸吊
続いて、XS-1は燃料充填作業に入ります。巨大な地上液体酸素タンクから、機内タンクに慎重に充填を開始し、徐々に圧力を高めていきます。そして、アルコールの注入。これらが完了する頃には、XS-1の腹下は霜がビッシリと付いて、真っ白になります。-183度の液体酸素は、常に灼熱に晒されているも同然。どんどん気化が進み、タンクの内圧は高まっていきます。一定圧力に達すると気化した酸素をベンドするため、機体の周囲は常に蒸気が包み込まれてます。
XS-1をB-29に懸吊する際に問題となるのは、機体と支障する垂直尾翼。そのため、母機の後方や側方からそのまま所定位置に移動する訳にはいかないのです。
そこで考えられたのが、エプロンを掘り下げたピットを作り、ここにXS-1を落とし込む方法です。ピットは上から見るとT字型をしており、後方から滑り込ませるように、クレーンで吊りつつ慎重に落とし込んでいきます。最終的には、XS-1の垂直尾翼がB-29の胴体を交わすよう、主翼が地面レベルまで下げられます。
そこに、母機B-29がトーイングされてやってきます。
XS-1のフライトプラン5:離陸発進とチェイス機の存在
ピットに落ちたら大惨事ですから、慎重に穴を交わしていきます。B-29の主脚を所定の位置を合わせ、最後に前脚を大きく振って、母機をXS-1の直上にピタリと合わせます。
この状態でXS-1にベルトを掛けると、慎重を期してゆっくり爆弾倉に引き込んでいきます。B-29への懸吊が終わると、ベルトは外され、XS-1は脚を収納します。まるで、母のお腹にぶら下がる猿の赤ん坊のように、XS-1は母機に身を委ねるのです。
懸吊作業が完了すると、B-29は液体酸素タンク前に進み、ベンドによって減少した液体酸素の補充を実施します。XS-1は自力飛行に至るまで、気化した液体酸素をずっとベンドし続ける他なく、減少分の液体酸素を切り離し直前まで母機から補充される機構となっているのです。
XS-1を爆弾倉に「装填」したB-29は、充分加速した後、機首上げを最小限としつつ、慎重に離陸していきます。
これをチェイスするのが、予備パイロットのボブ・フーバーが駆るP-80。飛行試験では、チェイス機の存在は極めて重要です。チェイス機は、可能な限り試験機に追従し、異常の兆候を正確かつ迅速に把握し、地上及びテストパイロットに伝えねばなりません。
XS-1発進へ向け、高度・速度を稼ぐB-29。パイロットは離陸前ではなく、空中でXS-1のコックピットに乗り込む。この間も、XS-1は気化した液体酸素をベントしているため、母機から液体酸素を補充し続けている。from US Air Force
XS-1のフライトプラン6:XS-1への搭乗
機上では気が付かない異常な挙動、脚の固定、着陸時の誘導と高度・速度の読み上げなど、その任務は枚挙に暇がないほど多数に登ります。テストパイロットは、チェイス機の存在があるからこそ、安心して試験に臨むことができるのです。
所定の高度に達すると、ジャック・リドリーとイェーガーはコックピットの予圧区画を出て、爆弾倉に移動します。2名は、この日のフライトプランとして試験最高速度マッハ0.82を確認。さらに、XS-1の計器類の最終確認を行っていきます。
母機が高度12,000ftに達すると、イェーガーはいよいよXS-1に乗り込みます。爆弾倉に設置された梯子(後に、エレベータに改造)に乗り込むと、XS-1の乗降用ドア脇に降りていきます。
XS-1のコックピットは、まるでレーシングカーの様相。XS-1のコックピットは一応予圧式のため、パイロットは気休めのパラシュート以外は比較的軽装。膝を抱え込むように低く座るため、耐Gスーツさえ不要なのです。リドリーが、上から乗降用ドアを手渡すと、イェーガーは内部からこれをロック。コックピットの予圧を「一応」確保します。
フライトエンジニアの指示により、母機から投下されたXS-1。限界まで加速したと言えど、母機はプロペラ機。薄翼のXS-1にとっては、遅すぎる速度。この後、パイロットは必死に失速と闘うことになる。from US Air Force
XS-1のフライトプラン7:空中発進と失速との闘い
リドリーは予圧区画に戻ると、爆撃手の位置に座ります。そして、計器類に異常が見られないか、コックピットのイェーガーと無線通信を行いつつ、最終確認を実施します。
母機は高度25,000ft以上に達すると、20度の機首下げで緩降下。386km/hまで速度を上げていきます。そして、カウントダウン開始。カウント・ゼロで、リドリーがレバーを引くと、ガクンとB-29が軽くなり、XS-1がリリースされます。
ところが、この日は母機の速度が遅く、イェーガーはいきなり失速と闘わねばなりませんでした。格闘を続けるうちに、高度はどんどん下がっていきます。1,000ft程降下した処で、イェーガーは漸く機体を安定させました。こうした異常事態の時こそ、ボイド大佐が見出したイェーガーの稀有な能力が発揮されるのです。
失速は、航空機にとって最も危険な現象です。主翼で生じる揚力は速度に比例しますから、速度が足りない場合、機体はズルズルと高度を下げていきます。
ただ、アンコンローラブルに陥るのは、スピンに入ってから。回復不能なスピンに陥ると、パイロットには為す術がありません。
母機から投下され、XLR11エンジンに点火したXS-1。この後、XS-1は猛然と空を駆け上がっていく。from US Air Force
XS-1のフライトプラン8:動力飛行とフライトプラン
紙飛行機を飛ばした時、クルクルと回転しながら垂直落下することがあります。これがスピンです。速度の不足により、片翼が先に失速すると、失速側を内側にスピンが始まります。この状態では、パイロットがヨーを止められない限り、スピンから脱出するのは不可能。多くのテストパイロットが、失速試験中にスピンに陥り、命を失っているのです。
機体の挙動が落ち着くと、イェーガーはいよいよ動力飛行に移ります。
XLR11は自重たった95kg。各燃焼室が6.7kN、合計27kNの推力を生成します。計器パネルには、左から1・2・3・4と記されたコーションランプとトグルスイッチがあり、これでXLR11の各燃焼室にON/OFFするのです。イェーガーは、自らの判断でこれを扱うことができましたが、当然ながらフライトプランは確実に遵守せねばなりません。
XS-1では、各テスト毎に最大速度が厳密に設定されていました。
即時音速突破を目指したAMCとはいえ、無謀な挑戦を許可した訳ではありません。そもそもテストパイロットに自由など無い、はずです。。。
チェイス機から見たXS-1。ミューロック乾湖を下に見つつ、滑空しながら高度を下げていくXS-1。失速速度が高いXS-1は、着陸進入速度も高いため、NACAのパイロットは前脚をボキボキ折ったという。from US Air Force
XS-1のフライトプラン9:危険な着陸進入
イェーガーは、XLR11のスイッチを投入。燃焼室1基に点火すると、機体は強力に上昇を開始します。プロペラ機や当時のジェット機では得られない、強烈な加速感と上昇率。XS-1は、どんどん高度を稼いでいきます。あっという間に、45,000ftに達し、レベルオフ。既に、速度はマッハ0.70に達していました。ここで、水平飛行に移ります。
ただ、ここでイェーガーの悪い癖が発動。フライトプランを、独断で変更。燃焼室を切ると、高度300ft(91m!)まで一気に降下。ここで、4本の燃焼室に全点火。凄まじい加速力がイェーガーを襲います。操縦桿をグッと引くと、XS-1は天頂を目指して矢のような垂直上昇を開始。高度35,000ftに達した時、速度はマッハ0.85を指していました。
燃料は、残り1分。大いに満足したイェーガーは、エンジンをオフ。フーバーの正確な誘導を受けつつ、乾湖の硬い地面に難なく機体を滑り込ませます。民間パイロットたちと違い、イェーガーは一度たりとも前脚を折ったことはありません。やはり、彼は間違いなく優秀なテストパイロットなのです。何しろ、このフーバーがイェーガーを「自身のヒーロー」だと言っているのくらいですから!
イェーガー、ボイド大佐に大目玉を食らう。
大仕事をやってのけた!と思い満足に浸るイェーガー。そんな有頂天の彼を待ち受けていたのが、カンカンに怒ったボイド大佐でした。今日のフライトプランは、マッハ0.82。その指令を破ったことに激怒。結局、イェーガーは大目玉を食らうことになります!
AMCがマッハ0.82に留めることにこだわったのは、遷音速域では翼上面の流れが音速を越える可能性があるからです。部分的にでも流れが音速を越えれば、衝撃波が発生。後方では剥離が生じますます。衝撃波に伴う造波抵抗により、抗力は不安定に急増。剥離の発生によって揚力も不安定になり、揚力中心も突如前方に移動します。
流れが部分的に音速を超えると、バフェットやピッチアップといった挙動が発生します。激しいバフェットや予期せぬピッチアップにより、機体強度を越えた負荷が作用すれば、容易に機体は破壊されましょう。
そうすれば、自身の肉体は機体とともに、乾湖の墓標に変わるでしょうし、何より計画の停滞を余儀なくされてしまうのです。
音の壁へ近付くXS-1を襲う、強烈なバフェット。
順調に進む試験。遂に、マッハ0.92まで到達。
テストパイロットたるもの、私心は持たず、邪念も待たず、例え命が奪われるその刹那でさえ、常に任務に忠実で、義務を果たすべし。それこそが、彼らの使命なのです。
1週間後の9月4日には、イェーガーは2回目の動力飛行を実施。このテストではテレメータが故障しており、地上にデータが送信できないままで飛行試験が実施されました。試験終了後、記載の計測機器のデータを解析すると、その速度はマッハ0.89に達していたことが判明。さらに、8日に行われた飛行試験でも、同じくマッハ0.89に到達。10日に、マッハ0.91。12日には、マッハ0.92まで記録を伸ばします。
9月16日、イェーガーとフーバーに暫しの休息。2名はライトフィールドに戻り、予圧服を仕立て、音速突破へ備えます。そして、その2日後に陸軍航空軍は、陸軍から独立。US Air Force(米国空軍)として歴史の第一歩を記します。
25日、ミューロックに戻ったイェーガーの任務は、改修作業が完了した2号機の動力飛行試験。10%の主翼と8%の水平尾翼を持つ2号機は、本来NACAの担当。しかし、NACAのパイロットたちは動力飛行の経験が無かったため、イェーガーらが担当したのです。
音の壁の恐怖。恐れていたバフェットが発生。
音速は、もう間近。音の壁は最早眼前にあり、手が届く処まで来ていました。10月5日、6回目の飛行試験でマッハ0.92に到達。しかし、ここで大きな問題が生じます。マッハ0.86で飛行中に、恐れていた激しいバフェットに見舞われたのです。NACAの調査によれば、主翼上面で衝撃波が発生していたことを示していました。
そして、3日後の10月8日に行われた7回目の飛行試験で、さらに深刻な事態に陥ります。
高度40,000ftをマッハ0.94で飛行中、エレベータが機能不全に陥り、縦制御が不能になったのです。もし、この状況下でピッチアップに見舞われれば、ひとたまりもありません。超音速を間近に迫った状況で発生した、激しいバフェットとエレベータの機能不全。邪見にXS-1計画を見る者は、それこそが音の壁であると忠告したことでしょう。
XS-1計画始まって以来の重大な事態に、一時は計画の続行が危ぶまれます。これを解決に導いたのが、リドリーのアイデアでした。リドリーが考案したのは、水平尾翼の角度を調整可能に改造すること。
リドリーのアイデアにより、可動式へ改造されたXS-1・1号機の水平尾翼。これにより、遷音速域での激しいバフェットの問題が解決された。from NATIONAL AIR AND SPACE MUSEUM
リドリーが生み出すアイデアと、3人の協調。
ボイド大佐の人選が、的中していました。彼らは、決して消耗品などではなかったのです。「直感」的なイェーガーとフーバーと、工学的見識に溢れたリドリーの組み合わせ。卓越した技量と絶対的冷静さを兼ね備えたイェーガーとフーバーと、命令に忠実で常に協調性を重んじるリドリーの組み合わせ。あらゆる意味に於いて、この3名は絶妙な調和を見せ始めていたのです。
イェーガーには、バフェットとやピッチアップといった複雑な事態を理解するのに必要な航空工学的知識はありません。
新たに施した改造が、どのように機能し、どのように作用し、どのように影響を及ぼすのか。そして、どのような状況が想定され、どのようなシチュエーションに陥ったときに、この機能をどれだけ・どのうように使うべきなのか。
パイロットとしても一流の技能を持つリドリーは、いつでも懇切丁寧に時間を掛けて説明し、イェーガーに理解させてくれました。リドリーのアドバイスは、的確かつ正確でイェーガーにも分かりやすいものだったのです。
チャック・イェーガーとジャック・リドリー。2人は、強い信頼で結ばれていた。あの、10月14日。イェーガー最大のピンチを救ったのは、このリドリーだった。from US Air Force
何よりも大切だった、リドリーという存在。
ここで、もう一度リドリーに対するイェーガーのコメントを紹介しましょう。
「フーバーと私は、フライトテストエンジニアではありませんでした。
私たちは飛行機を飛ばすことができましたし、空気力学に対する直感もありました...しかし、ジャック・リドリーは頭脳派でした。ジャック・リドリーは、空気力学について知るべきことをすべて知っており、実用的でした。それに、彼は優秀なパイロットであり、我々にぴったりと馴染んでいました。
彼は私たちの言葉を話しました。ボブはテネシー、私はウェストバージニアでしたが、オークランドのジャックは私たちの言葉をよく理解してくれました。
X-1を飛ばす前から、私は彼とじっくりと話し合っていました。『何をしようとしているのか?』『何をするつもりなのか?』『お前にはわかるかもしれないが、俺にはわからないんだ。 いったい何をしようとしているんだ?』そういう時、ジャックは辛抱強く説明してくれました。」
ノーズに描かれた「GLAMOROUS GLENNIS」のペイント。愛機に刻まれたグレニスの名は、ミッションに命を賭けたイェーガーの覚悟そのものでもあった。現在保存中の機体には、薄っすらと上書きされた跡が見て取れる。from NATIONAL AIR AND SPACE MUSEUM
XS-1にGLOMOROUS GLENNISと勝手にペイント。
リドリーのアイデアを取り入れたXS-1は、飛行を再開。10日の飛行試験では、高度43,000ftでマッハ0.955を記録。ただ、機上のデータを精密に解析すると、実際には既にマッハ0.997に達していたことが判明します。イェーガーは、既に音の壁に手が届いていたのです。
事実上、イェーガー専用機となっていたXS-1 1号機。ここで、イェーガーのイタズラ心が再び顔を出します。空軍最重要プロジェクトの虎の子実験機のノーズに、彼の愛機を示す「GLAMOROUS GLENNIS」を勝手にペイントしてしまったのです。無許可の勝手な行いに、軍当局には快く思わない者も多くいました。その嫌悪感は、公式写真でわざわざ修正で消し去るほどでした。
ただ、イェーガーが自らの愛妻の名を実験機に記す。それは、悲壮な決意の現れでもあると理解する者もいたのです。結局、喧々諤々議論はあっても、このノーズアートは守られることとなります。ただ、スミソニアン航空宇宙博物館に収蔵されるに際し、遠慮なく消し去られたのですが。。。
パンチョのクラブで、手痛いポカを犯したイェーガー。
運命の日の2日前、最大のピンチが訪れる。
そして、運命の日がやってきます。1947年10月14日、航空史上に永遠に刻まれる記念すべきマイルストーン。人類が初めて音速を突破する、遂にその日が訪れるのです。
10月14日のフライトプランは、マッハ0.98。ところが、この日イェーガーの気分は最悪でした。動くたびに、その肉体は激痛に見舞われたからです。
痛みの原因は、痛恨の失策。右肋骨2本の骨折でした。イェーガーは、人生最大のポカを犯していたのです。
ミューロック乾湖という荒野のど真ん中にできたのが、パンチョ・バーンズが作ったハッピー・ボトム・ライディン・クラブであった。いつしか、パンチョのクラブはテストパイロットたちのたまり場となっていった。from NATIONAL AIR AND SPACE MUSEUM
挑戦2日前の12日。イェーガーの姿は、ある乗馬クラブにありました。
ハッピー・ボトム・ライディング・クラブ。そこは、何処までも殺風景に広がるモハーベ砂漠に灯る、一点のオアシス。絶対的な漆黒に包まれる、砂漠の夜。煌々と輝くこのクラブに、人々はそこに集い、語り合い、飲んで、遊んで、歌って・・・。
笑いと喜びに包まれるこの場所は、テストパイロットという危険な任務に臨む人々にとって、砂漠での孤独な毎日にささやかな彩りを与えてくれる、かけがえのない場所でした。
空に魅せられた女性。パンチョ・バーンズ。
このクラブを経営するのは、フローレンス・"パンチョ"・バーンズ。実は、彼女も空に魅せられた一人でした。
1901年にカルフォルニア州パサディナの裕福な家庭に生まれた彼女は、1919年にサウスパサディナのC・ランキン・バーンズ牧師と結婚。子を授かっています。その後、4ヶ月滞在したメキシコで革命に巻き込まれ、男性に変装して難を逃れる際に使ったのが、「パンチョ」というニックネームでした。パンチョは、両親の遺産を持ってサンマリノに戻ります。
1928年、従兄弟を飛行訓練に連れて行ったとき、パンチョは自身の本当の夢に気が付くのです。それは、空を飛ぶことでした。パンチョは、その日のうちに航空教官を説得すると、6時間の正式な訓練を経て、単独飛行が許可されます。その後、エアレースに出場。1930年には、アメリア・イアハートの女子世界速度記録を更新して、優勝を遂げます。ところが、スポンサーを失うと、パンチョはハリウッドに移って、スタントパイロットの組合を設立。報酬の標準化や飛行の安全性の推進に尽力します。パンチョの人生は実に目まぐるしく、熱気と熱情に溢れています。
乾湖のオアシス、ハッピー・ボトム・フライング・クラブ。
ところが、1935年の大恐慌をキッカケにすべてを失ったパンチョは、一世一代の賭けに出ます。たった一つ残されたアパートを売り払い、それで得た"なけなしの金"で砂漠のど真ん中に土地を購入したのです。
その場所は、モハーベ砂漠にあるロジャース乾湖。ミューロック飛行場に隣接する73haの土地でした。彼女は、ここでムラサキウマゴヤシを育て、豚や牛を飼い始めます。1933年にパンチョの牧場「ランチョ・オロ・ベルデ」をオープンさせると、乗馬クラブ、レストラン、バー、モーテル、プールなどを次々に建設。ミューロックを訪れる将校や兵士が集う、一大レクリエーションスポットへ変貌させます。そして、「ハッピー・ボトム・フライング・クラブ」へと、看板を掛け変えたのです。
そこに集うのは、明日をも知れぬテストパイロットたち。パンチョは、彼らを「地球上で最も速く、最も勇敢な男たち」と呼び、心から敬愛していました。イェーガーは、フーバーやリドリーとともに、ここを訪れては親交を深め、幾晩も語り合ったのです。
フライト2日前に、乗馬に興じるおめでたい夫婦。
並のパイロットであるならば、人類初の偉業を前に、ハメを外したりはしないでしょう。近付くXデーを指折り数え、体調を万全に整えつつ、集中力を高めていき、まるで受験を控えた学生のようにプロセスとタスクの確認を繰り返すことでしょう。
ところが、常に冷静沈着というテストパイロットに対する完璧な素養を備えたイェーガーには、そのようなプレッシャーなど感じる素振りもありません。如何なる過酷な状況下でも、イェーガーは常に平常心でした。
10月12日日曜日、イェーガーの姿は、愛すべきグレニスとともに、パンチョのバーにありました。いつもの通り、楽しい夕食をとると、やんちゃな夫婦は夕方のモハーベの大地で乗馬に興じることにします。
馬上の二人は、乗馬クラブを駆け出すと、乾湖の果てしない大地に駆け出していったのです。荒涼とした風に包まれ、遙かなる大地に煌々と沈みゆく夕日。それは、何と美しい夕暮れだったことでしょう。
パンチョのクラブで、愉しいひとときを過ごすイェーガー。明日をも知れぬ命のテストパイロットにとって、パンチョのクラブは最高の安らぎであった。from NATIONAL AIR AND SPACE MUSEUM
イェーガー、馬に撃墜されて右肋骨を2本を骨折。
散々愉しんだ帰路、厩舎に急ぐ二人。ところが、イェーガーはいつもなら開いているはずのゲートが閉まっていることに気が付きませんでした。すんでのところで気が付いたのは、馬の方。ところが、その急減速も間に合わず、ゲートにぶつかってしまうのです。慣性の法則に従えば、すっ飛ばされるのはイェーガーの方。
イェーガーは宙に放り投げられると、強かに地面に体を打ちつけます。激しい痛みがイェーガーを襲います。
最悪の状況でした。飛行を40数時間後に控えて、乗馬に興じて骨折するなぞ、テストパイロットとして絶対にあってはならぬこと。ボイド大佐がこれを知れば、間違いなく飛行を許可しないでしょう。そして、もしこの大失態を、イェーガーを忌み嫌う人々が知れば、XS-1の主任パイロットの地位さえ失うかも知れません。
人生の最大のピンチ。しかし、イェーガーは諦める訳にはいきませんでした。グレニスは、痛みの激しい部位をテープで止める簡単な処置を施すと、基地から離れた民間の病院へ連れていくことにします。
落馬したイェーガーは、強かに体を打ちつけ、肋骨2本を骨折。ハッチのロックハンドルは、予圧に関わるため固く、骨折したイェーガーにはロック不可能だった。リドリーが編み出したのは、魔法のステッキでハッチのハンドルをロックするアイデアだった。from NATIONAL AIR AND SPACE MUSEUM
リドリーが思い付いた、危機打開の魔法のスティック。
診断の結果は、右の肋骨2本の骨折。幸い、ギブスをする必要はありませんでした。そして、6週間ほど痛みを我慢すれば楽になる、と医者はご丁寧に教えてくれたのです。イェーガーの次のミッションは、たった2日後。己の招いた災と言えども、何の気休めにもならない結果には違いありません。
最大の問題は、飛べるのか否か。不幸中の幸いか、飛行に関しては問題は無さそうでした。ただ、あるプロセスが最大の難関として立ちはだかります。それが、乗降用ハッチのロックでした。予圧コックピットであるXS-1は、気密を確保するために、外側からハメたドアを内側からロックせねばなりません。このロックに、相当の力を要するのです。この最大のピンチを打ち明けられるのは、リドリーを置いて他にはいませんでした。
リドリーは、暫し悩むと、一つのアイデアを思い付きます。おもむろに長ボウキを持ってくると、その柄を切ってしまいます。リドリーが用意したのは、長さ30cmほどの棒。何の変哲も無いこの棒が、イェーガーの最大のピンチを救うことになるのです。
イェーガー、世紀の音速突破飛行に挑む。
1947年10月14日。世紀の飛行が始まる。。。
10月14日、来るべき日は雲ひとつない晴天。ただ、とても寒い朝でした。イェーガーはいつも通りにA-2ジャケットを身に付けており、何食わぬ顔で準備を進めていきます。イェーガーが怪我人であるとは、露程も思わぬ人々は、各々のミッションを事も無げにこなしていくだけでした。
8時00分頃、カーデナス少佐のB-29に搭乗。この日のフライトプランでは、マッハ0.98(一説には、マッハ0.97)に到達する計画でした。母機が高度5,000ftに達すると、早々と予圧区画を出てXS-1に移動を開始。相棒のリドリーから、肝心要の「魔法のスティック」を渡されると、これを懐に忍ばせ、エレベータを降りて愛機グラマラス・グレニスのコックピットに乗り込みます。
リドリーが上から乗降用ハッチを手渡すと、苦痛に耐えつつこれをハメ込みます。そして、ロックレバーにリドリー特性の魔法のスティックを挿すと、テコの原理でガッチリとロックに成功。
ここまで来れば、後は大空に飛び出すだけ。。。
激しいバフェットが、加速するほど消えていく。。。
10時20分、降下速度402km/h・高度20,000ftで、カウント・ゼロ。ところが、この日も母機は降下角度が浅く、速度が足りません。イェーガーは暫く失速と闘わねばなりませんでした。漸く機首が下がり、挙動が安定してきた処で、4本の燃焼室を次々に点火していきます。
予想通り、遷音速域では激しいバフェットが発生。マッハ0.88辺りで激しくなり、マッハ0.92でこれが最大となります。ここでリドリーのアイデアである、水平尾翼の調整スイッチを使用してトリム調整を実施し、縦操縦を確保。
30,000ftに達すると、2本の燃焼室をオフ。そのまま、42,000ftまで上昇すると、残燃料はまだ30%を示していました。そこで、3本目の燃焼室に再点火。XS-1は更に加速して、マッハ0.96に到達。
ここで激しかったバフェットが落ち着き、振動は嘘のように消滅します。加速すればするほど、挙動が落ち着きを増していったのです。ところが、ここで予想もしない事態がイェーガーを襲うのです!
XLR11に点火し、猛然とダッシュするXS-1。1947年10月14日、チャック・イェーガーの駆るXS-1・1号機は、水平飛行で音速を突破。遂に、音の壁を破ることに成功する。下は、その際に記録された飛行データである。from NASA
突然暴れだすマッハ計。そして、地上に響く衝撃波。
マッハ計の針が不規則に触れだすと、マッハ0.965に達した途端に、突然に目盛りから振り切れてしまったのです!その瞬間のことです。地上にいた人々を襲ったのは、凄まじい炸裂音でした。。。
超音速を理解しない人々は、その炸裂音を機体が「音の壁」に叩き割られ、哀れ爆散した音と勘違いしたかも知れません。しかし、超音速を理解する人々は知っていました。それこそが衝撃波であり、今この瞬間に「音の壁」は破られた、その証だと。
ところが、当のイェーガーは、何が起こったのか確信は持てずにいました。とにかく、そのまま20秒間飛び続けると、機首を上げて減速を開始。相方のフーバーに見守られつつ、いつも通りに鮮やかに機体を乾湖に滑り込ませます。
飛行時間30分、最高高度43,000ftの通算50回目の飛行試験は、無事終了します。イェーガーは、マッハ計は読み取れなかったものの、少なくともマッハ1.05には達していたはずと考えていました。後にデータを解析すると、見事にその速度はマッハ1.07にまで達していたことが判明します。
遂に達せられた、人類初の有人音速飛行の偉業。
1947年10月14日、「人類初の水平飛行による有人音速飛行」が達せられた瞬間でした。「音の壁」は、チャールズ・エルウッド・"チャック"・イェーガーの駆る、ベル社のXS-1 1号機(46-062)によって、見事に打ち破られたのです。
これは、人類が新たな領域へ踏み込んだ瞬間でもありました。ところが、この事実を人々がすぐに知ることはできませんでした。理由は不明ながら、空軍がイェーガーの偉業達成を機密対象に指定してしまったからです!
この処遇について、イェーガーとフーバーの感想は180度異なっています。イェーガーは、XS-1のフライトミッションは、当時並行して複数抱えていた「業務」の一つに過ぎず、一人の軍人として任務に就き、その義務を果たしたに過ぎない、とさえ述べています。ですから、機密指定も軍の方針ならば、従うのみ。そこには、個人的感情なぞ介在し得ないのです。
イェーガーはこのミッションについて、次のように語っています。
航空宇宙史上、永遠に不滅の偉業を達成したXS-1・1号機。今は、米国国立航空宇宙博物館に展示されている。from NATIONAL AIR AND SPACE MUSEUM
与えられた任務を忠実にこなしただけ。。。
「それが私の義務だったからです。何が起こったかは私には関係ありません。私が言ったように、それは1つのテストプログラムが終了しただけのことです。私たちは飛行テストエンジニアと一緒にテストプログラムを行っていて、当時は並行して9つ以上のプログラムをこなさなければならず、多くの飛行機(P-84)や兵器管理システムなどの開発をしていました。」
つまり、イェーガーはXS-1専属のテストパイロットではなく、数多の航空機を飛ばしては、日々試験評価を行っていたのです。ですから、イェーガーは、一人の空軍パイロットとして、与えられた任務を忠実にこなした。ただ、それだけだったのです。そういう大局観があるからこそ、如何なる難題に直面しても、常に冷静さを維持することができるのかも知れません。
ところが、イェーガーを自らのヒーローと言って憚らないフーバーにとって、それは許し難い処遇であったようです。
人類初の水平飛行による音速突破という、航空史上屈指の偉業を成し遂げたチャック・イェーガー。しかし、その記録は空軍により直ちに機密指定され、一般に公表されたのは1948年6月15日のことだった。世界最速の男となったイェーガーは、この後再び人生最大の危機に見舞われることになる。from Wikipedia
1947年度コリアー・トロフィーを受賞。
「私はチャックに強い思い入れがあり、コックピットでの彼の素晴らしさを知っていたので、(マッハ1飛行に)セキュリティと秘密が課せられた時、大きな不利益を被ったと感じました。私はチャックに強い思い入れがあり、彼がコックピットでいかに素晴らしかったかを知っていた。それなのに、この出来事が隠蔽され、長い間、彼が評価されなかったのは......。つまり、確かに噂は少しずつ広まっていったが、彼が本当に認められたのは何年も後のことだったんだ。」後に、フーバーはこう語っています。
世紀の偉業が漸く世間の知る処となったのは、12月22日にAviation Weekのスクープ。以降、雪崩を打つように各社が偉業を報じました。それでも、空軍は頑として首を縦に振りません。漸くそれを公式に認めたのは、翌1948年6月15日のことでした。
この功績が認められたイェーガーは、自身2度目となる空軍殊勲十字章を受章。12月17日には、NACAのジョン・スタック、ベル社社長ローレンス・ベルとともに、トルーマン大統領から、航空関係者最大の栄誉である1947年度コリアー・トロフィーを授与されています。
XS-1からX-1へ。新たな記録樹立を目指して。
XS-1の残した記録の数々。
では、ここでXS-1の特筆すべきミッションについて、紹介していきましょう。
イェーガーは1号機で、1947年11月6日の2度目の超音速飛行でマッハ1.35を記録。続いて、翌年3月26日にはX-1の最高速度マッハ1.45を記録しています。
1949年1月5日には、X-1 1号機がNACAの「希望通り」に自力離陸による飛行試験を実施しています。パイロットは、イェーガー。最大離陸重量を加味して燃料搭載量は50%とし、ミューロック乾湖を離陸。90秒後に高度23,000ftに到達し、最大速度はマッハ1.03を記録しています。結局、イェーガーは1号機で33回、2号機で1回の飛行試験を実施。これは、XS-1プログラムで最大のミッション数となっています。
一方、X-1で最高高度に到達したのは、後に著名なテストパイロットとなるフランク・エベレスト少佐。1949年3月21日に初フライトを行ったエベレストは、主に予圧服を使用した高高度ミッションを担当。8月8日には、高度71,900ftに到達しています。1号機は1950年5月12日の82回目のミッションを最後に退役。現在では、スミソニアン航空宇宙博物館に展示されています。
悲運の機となった、B-50母機とX-1・3号機。3号機は、1〜2号機と異なり、ホワイトにペイントされていた。3号機が稼働を開始した1950年頃になると、エプロンには専用のジャッキが埋設され、母機への搭載が容易になった。from NASA
悲運だった、X-1 3号機。
一方、翼厚比10%の主翼を持つ2号機は抗力が大きく、最高速度は1950年5が26日に記録したマッハ1.2どまり。1951年19月23日までに63回のミッションを終了し、翼厚比4%という超薄翼を持つX-1Eへ改造されることになります。
さて、X-1にはもう一人兄弟がいます。それが、3号機です。ターボポンプの完成を待たされていた3号機は、1951年4月になって漸く完成。7月20日に、初の無動力滑空試験を実施しています。ターボポンプ搭載により、大量の窒素ガスタンクの多くが不要となり、これを考慮して採用された耐圧の液体酸素タンクも不要となっています。これにより、燃料搭載量は当初の計画通りに拡大。連続燃焼時間は、246秒まで増加しました。また、コックピットの予圧も漸く完全なものとなり、高高度ミッションにも期待が高まっていたのです。
この背景には、海軍のダグラスD-558-IIが順調に記録を伸ばし、マッハ2を狙う動きがありました。3号機は早速、11月9日に新たな母機であるB-50A 46-006(B-29の出力向上型)に懸吊され、燃料の空中投棄試験を実施します。
原因不明のまま発生した爆発事故。
ところが、3号機を待ち受けていたのは、過酷な運命でした。
いざ、燃料投棄を開始すると、放出に用いる圧縮窒素の圧力が低下。結果的に投棄不能に陥ります。試験は即座に中止され、地上での燃料抜き取り作業が開始されます。その瞬間、爆発と火災が発生。3号機は、一度たりともターボポンプの威力を発揮すること無く、短い生涯を終えてしまうのです。燃料投棄中のトラブルは、実はこれが始めてでは無かったのです。
1951年7月24日に初飛行した、第2世代X-1の初号機であるX-1D。8月22日に、エベレストが担当した初の動力試験で、上空での最終確認段階で圧縮窒素の圧力低下が判明。試験は即座に中止し、燃料の空中投棄を開始すると、液体酸素が突如爆発。エベレストは直ちに母機に戻ったため、無事でした。
この2件の事故原因こそ、あのウルマー革でした。しかし、その原因が明らかになるのは、1953年5月12日のX-2爆発事故の調査でのこと。この事故では、テストパイロットとエンジニアの2名が爆発に巻き込まれ、犠牲になっています。
空軍vs海軍。マッハ2を突破せよ。
海軍がD-558-IIで、マッハ2.005に到達!
XS-1開発を主導したNACAは、2号機を用いて54回もの飛行試験を実施しています。ところが、このXS-1は実際にはNACAの本意を反映した機体ではありませんでした。
そもそも、NACAのジョン・スタックが主張していたのは、ジェットエンジン搭載の小型航空機。航空技術研究に資するのであれば、実験機であっても「実用性」の評価は不可欠と考えていたのです。しかも、XS-1は燃料噴射時間を有効に活用するため、自力離陸さえ諦めていました。これでは、単なるレコードブレイカーに過ぎません。
実用性という観点から、彼らが期待したのは海軍のD-558の方でした。ジェットエンジンを主動力とするD-558は、水平飛行での音速突破は叶わなかったものの、長時間遷音速で飛行することが可能で、貴重なデータを収集できたからです。ただ、海軍と空軍、2つのチームが互いに競い合うようになると、結局は海軍も同じ穴の狢。新たに開発したのは、空中発進式の発展型であるダグラスD-558-IIスカイロケットでした。
D-558-IIは1951年8月15日、マッハ1.88・79,494ftを達成。空軍を上回るスピードレコードを記録し、挑戦状を叩き付けます。そこに立ちはだかったのが、地上最速の男チャック・イェーガーでした。彼は、空軍のプライドを賭け、新たに危険なミッションに挑むことになります。。。
ダグラスD-558は、XS-1同様の高速実験機であったが、動力はジェットエンジンで航続距離も長かったため、地上からの発進が可能であった。また、遷音速で連続飛行が可能なため、貴重なデータ収集が可能であるとNACAは歓迎した。しかし、空軍の名声を見た海軍は、方針を転換。空軍との直接対決に臨むこととなる。このD-558は、奇っ怪な見た目からクリムゾン・レッド・チューブと呼ばれた。from NASA
エドワーズに戻ったイェーガーを待つ、新たなミッション。
1953年9月21日、韓国金浦空軍基地に北朝鮮のMiG-15bisが飛来し、パイロットの盧今錫が亡命。鹵獲されたMiG-15bisは、沖縄へと運ばれ、テストフライトが行われます。マニュアルなし、事前情報なし、という危険な任務に際し、ボイド大佐が指名したのがイェーガーでした。イェーガーは見事に期待に応え、困難な任務をこなしてみせたのです。
エドワーズに戻ったイェーガーを待っていたのは、刺激的かつ危険なテストフライトでした。新たな愛機は、X-1A(48-1384)。1953年2月14日に無動力滑空飛行を行ったX-1の発展型で、胴体延長により燃料搭載量を増積していました。イェーガーは早速12月2日に初飛行に臨み、海軍のD-558-IIからの記録奪還に挑むことになります。
ただ、それより少し前の11月13日。不可思議な事件が起こります。パンチョのハッピー・ボトム・ライディング・クラブが、原因不明の火災で全焼してしまったのです。エドワーズでは、原子力推進試験機コンベアX-6のテストを実施するため、滑走路の拡張を計画。パンチョに退去を求めていたのです。これに応じないパンチョに対して政府が訴訟を起こすと、パンチョは名誉毀損、ハラスメント、土地の不法取得、共謀罪で反訴。両者の関係は、修復不可能な事態へと発展。原因不明の火事は、その最中に起きたものでした。
1953年9月21日に韓国金浦空軍基地に北朝鮮のMiG-15bisが飛来し、パイロットの盧今錫が亡命する。鹵獲した機体は米空軍の欲するものとなり、沖縄まで移された上で、チャック・イェーガーによるフライトテストが実施された。朝鮮戦争で手痛い損害を被っていた米軍は、MiG-15のデータを必要としていたのだった。from US Air Force
海軍D-558-IIに先んじて、X-1Aでマッハ2を突破せよ。
イェーガーが、大戦のダブルエースで、世界初の音速突破を果たした伝説の人物であっても、空軍にとっては一介のテストパイロットに過ぎません。そのため、この頃はありとあらゆる航空機の試験を担当し、日々業務に忙殺されていました。X-3、X-4、X-5、X-1Aの他、様々な航空機の研究飛行をしていのです。その何れもが、「試験が必要な機体」を飛行させるのですから、危険極まりない任務であることに変わりはありません。
1951年8月15日にマッハ1.88・79,494ftを記録した海軍は、さらにマッハ2を狙う動きに出ていました。これを警戒した米空軍は、イェーガーに対して次なる任務を課します。その任務とは、海軍に先んじてマッハ2を突破すること。それは、イェーガーが再び「世界最速の男」に返り咲くことを意味していました。
ただ、D-558-IIは問題を抱えていました。横方向の安定性不足により、危険なロールに見舞われたのです。NACAのテストパイロット・スコット・スロスフィールドは、20回に渡って試験飛行を実施。縦・横方向の制御と安定性評価、主翼に関するデータを収集。また、マッハ1.878での揚力、抗力、バフェッティングの特性を評価しています。
そして、1953年8月21日には、海兵隊中佐マリオン・カールが83,235ft(マッハ1.728)の非公式高度記録を達成します。
1948年2月4日に初進空した、ダグラスD-558-II。D-558−IIは、X-1同様に完全に実用性を度外視した高速実験機であり、母機からの運用を基本とする。from NASA
胴体を137cm延長。燃料を増積した第2世代X-1。
NACAの技術者たちは、エンジンスラストがラダーに及ぼす影響を減じるために、エンジンノズルを延長。これにより、D-558-IIは、マッハ1.7・70,000ftで推力が6.5%改善されます。当初、慎重だったNACA側は、マッハ2超の飛行プランを拒否。これに対し、海軍はNACAの民間テストパイロットである、スコット・クロスフィールドの同意を確保すると、再度NACAと交渉。ヒュー・L・ドライデンはNACAの慣例を緩和し、海軍の意向に同意します。これを以て、海軍は空軍を凌駕するマッハ2突破へ向けて、一途邁進することとなります。
一方、空軍はX-1の発展型X-1Aの準備を進めていました。空軍は1948年4月2日に、最高高度90,000ft、最大速度マッハ2以上をターゲットとする4機の第2世代X-1を開発するMX-984計画を承認します。X-1A、X-1Bの2機は空力特性、X-1Xは超音速領域での武装テスト、X-1Dは空力加熱のテストに用いられる計画でした。
4機の第2世代X-1は、NACA65-108翼型の翼厚比8%の主翼と6%の水平尾翼を装備。エンジンは、X-1の3号機と同じXLR11-RMを搭載。燃料搭載量の増積のため、胴体を137cm延長。この結果、液体酸素は1,893L、アルコールは2,158Lに増加。ターボポンプ用過酸化水素140Lも搭載されました。
1953年2月14日に初進空した、X-1A。X-1から胴体が137cm延長され、燃料搭載量を増積していた。第1世代のX-1が3機存在したのに対し、第2世代のX-1はA、B、D、Xの4機が存在した。from US Air Force
ベント中に爆散したX-1D。そして、X-1Aの登場。
視界に難があったコックピットは、胴体ラインから突出する「通常」形態に変更。また、より高空を目指すために、予圧も改善されていました。ただ、操縦系統は従来の機械式がそのまま維持されています。
第2世代X-1で最初に進空したのは、X-1D(48-1386)でした。1951年7月24日、"スキップ"・ジーグラーが初の滑空テストを実施するも、早速着陸時に前脚を破損。修理後の8月22日に、フランク・エベレスト中佐が動力飛行を実施するも、圧縮酸素の圧力低下が判明。直ちに、試験を中止し、液体酸素のベントを開始。ところが、液体酸素が突如爆発。エベレストは母機に戻り難を逃れますが、機体は投棄され失われています。
続いて進空したのが、X-1Aです。X-1Dの事故から1年半後の1953年2月14日、ジーグラーが初の滑空試験を実施。21日には初の動力飛行に成功しています。X-1Aは4月25日の試験終了後にベル社に戻され、圧縮窒素パイプの改修を実施しています。
1953年晩秋、X-1Aはエドワーズに復帰。イェーガー少佐とともに、マッハ2を目指すことになります。11月21日、復帰後初飛行を実施。マッハ1.15を記録。続いて、12月2日にはマッハ1.5。順調に、8日にはマッハ1.9まで伸ばします。
X-1への乗り込みは、母機が離陸した後に行われる。当初、乗り込みにはハシゴを利用したが、後年はエレベータが設けられた。ただ、動きが良くないようで、映像にはイェーガーがガツガツ揺らして降りていく様子が映っている。from US Air Force
祝賀パーティで海軍に吠え面をかかせろ。空軍の厳命。
時すでに遅し。1953年11月20日、D-558−IIはクロスフィールドが浅いパワーダイブを敢行し、マッハ2.005を記録。世界で初めて音速の2倍を超える快挙を達成したのです。
この1953年は、ライト兄弟が初の動力飛行に成功してちょうど50年。12月17日にはその記念式典が予定されていたのです。大記録を打ち立てた海軍とNACAは、この記念式典で賞賛を一身に集める権利を得たことになります。先を越された空軍は、式典当日に吠え面をかかされるも同然。空軍のプライドはズタズタでした。
そこで、空軍は起死回生の逆転劇を計画します。それは、記念式典にイェーガーの記録突破のニュースをブチ当てて、海軍とNACAのプライドを木っ端微塵にするという計画でした。やられたら、やり返すの精神です。「Operation NACA Weep」と命名されたフライトプログラムを考案したのは、フライトテストエンジニアのリドリーでした。
この時のことを、エベレストは後にこう振り返っています。「スカイロケットが純粋にダグラスのプロジェクトであったならば、我々はそれほど競争心を抱くことはなかったかもしれないが、これは海軍のためにスポンサーとなって作られたものなので、当然ながら軍同士のライバル意識が存在することになる。」
1953年11月20日、スコット・クロスフィールドは浅いパワーダイブでマッハ2.005を記録し、空軍を世界最速の座から引き摺り下ろすことに成功する。売られた喧嘩を買うしか無い空軍は、既に伝説的テストパイロットとして知られていたイェーガーを投入。X-1Aで。水平飛行でのマッハ2突破を目指すことになる。from NASA
イェーガーとクロスフィールド、犬猿の仲の二人。
クロスフィールドについて、イェーガーは次のように述べています。「熟練したパイロットだが、私が出会った中で最も傲慢な人物の一人でもある。我々ブルースーツ(空軍パイロット)は、NACAの奴らがマッハ2を出すのを見ても誰も興奮しなかった。」まぁ、イェーガーにかかれば、民間のパイロットは皆こんな調子。。。
一方、クロスフィールドは次のように述べています。「空軍は、チャーリー・イェーガーにマッハ2を達成させて、それを記念行事にしようと画策していた。」クロスフィールドとは一貫してチャックと呼ばず、チャーリーと呼び続けたのです。余程二人の仲が悪かったことが想像されます。。。
計画に際して、空軍はパイロットをエベレストからイェーガーに交代。伝説のヒーローの復活劇を演出することとします。ここまで、準備は万全でした。ただ、実の処は違っていました。X-1Aは、幾つかの困難な問題を抱えていたのです。マッハ1.5を超えると操縦桿は尋常ではない重さとなり、ベル社のエンジニアはマッハ2.3を超えると挙動が発散する可能性があることを指摘していました。ただ、12月17日までに記録飛行に臨むことは、絶対条件でした。
マッハ2突破も、絶体絶命の危機に晒されるイェーガー。
マッハ2.44に到達。そして、露わになるX-1Aの悪癖。
そして、1953年12月12日Xデー。式典まで、残り5日。絶対に失敗が許されない危険なフライトが始まります。
イェーガーの駆るX-1Aは、高度31,000ftで母機B-29(45-21800)から正常に切り離されると、XLR11-RMの燃焼室#4、#2、"1に点火。一気に上昇に転じ、マッハ0.8まで加速します。X-1Aは猛然と43,000ftまで駆け上がると、#3にも点火。水平飛行で、マッハ1.1まで加速します。ここから更に上昇、50,000ftをマッハ1.1、60,000ftをマッハ1.2で通過。62,000ftでゼロG加速させると、76,000ftで水平飛行に移行。ここで、既にマッハ1.9に到達していました。
水平飛行を維持したまま、X-1Aはさらに加速。最大速度マッハ2.44(計器表示はマッハ2.535)に達したところで、エンジンはカットオフ。ここにクロスフィールドの記録は打ち破られ、新たな速度記録が樹立されます。イェーガーの技術は完璧で、すべては順調。フライトは完全にミッションプラン通りに進んでいました。
ただ、記念式典にブチかますには、機体を安全に基地に降ろさねばなりません。ところが、エンジンがカットオフされたX-1Aは、突如その悪癖を露わにするのです。
1953年12月12日、イェーガーは危険なテストフライトに挑む。このフライトで、イェーガーは二度目の人生最大の危機を迎えることになる。from US Air Force
マッハ2.44達成と絶体絶命のイナーシャカップリング。
X-1Aは何の前触れもなく、ゆっくりと約2振動分のダッチロールを始めます。その後、機体は猛烈な勢いで右ロールに転じます。イェーガーは、直ちに反対側のラダーを踏み込み、ロールを止めにかかりますが、少しもロールレートを下げることができません。そのまま、8〜10回ロールを続けると、X-1Aは真っ逆さまの状態で漸くロールを停止。ところが、今度は360°/secを超えるスピードで激しく左にロールし始めたのです。
歴戦のイェーガーでさえ、状況は絶望的でした。冷静さを失い、完全な混乱に陥ったのです。8Gもの凄まじい加速度が全身の自由を奪い、激しい振動であちこちに叩きつけられます。機体の挙動を把握するなど、全く不可能。上下加速度は8Gを超え、横Gも2Gに達したのです。その時のことです。凄まじいマイナスGに襲われたイェーガーは、キャノピーにヘルメットを激しく叩きつけ、インナーを叩き割ってしまうのです!
並のパイロットなら、地面に叩きつけられて伝説に散華するでしょう。しかし、イェーガーは違いました。生きることを諦めなかったのです。イェーガーが最初に状況を認識した時、X-1Aは高度33,000ftでインバーテッド・スピンに陥っていました。イェーガーはパニックに陥るX-1Aと格闘を始めると、そこから8000ft落下する間に、何とか手懐けることに成功します。
奇跡のリカバリーで生還を果たした、伝説の男。
イェーガーは、超音速でアンコントローラブルに陥るという、人類史上初となる絶体絶命の危機から辛くも生還を果たしたのです。X-1Aが制御を失ってから、たった76秒。その間に、機体は高度76,000ftから25,000ftまで降下していました。
当時の無線記録からは、イェーガーが珍しく混乱している様子が伺えます。
イェーガー:テハチャピ上空で25,000ftまで落ちてしまった。基地に戻れるかどうかはわからない。
リドリー:チャック、今は25,000フィート?
イェーガー:これ以上、何も言えない。自分で...(不明瞭)...何とかしないと。
イェーガー:私は...。
リドリー:チャック、何だって?
イェーガー:私は、何かを叩き割ったかも分からない。あぁ、何てことだ!
この時、イェーガーが経験したのは、イナーシャカップリング(慣性結合)と呼ばれる現象でした。イナーシャカップリングは、軸周りの挙動によって生じる機体のジャイロ効果に、空力学的特性が組み合わさることで、機体の挙動が発散する現象を指します。X-1Aはこの時、修正舵によるロールが収束せず、急激にロールレートが増加。挙動がそのまま発散してしまったのです。イナーシャカップリングは、X-1Aのように翼スパンが短く、空力学的復元力が小さい機体で顕著となる現象です。X-1Aが操縦翼面も小さく、その回復は非常に困難でした。
NASAが公開している、1953年12月12日のX-1Aのフライトデータ。イェーガーが陥ったのは、イナーシャカップリングと呼ばれる人類未経験の現象であった。マッハ2.44・高度23,000mで制御を失ったX-1Aが、再び制御を取り戻したとき、その高度は7,600m。まさに、間一髪であった。(NASAの画像に加筆)
世界最速の男の座を再び取り戻した、イェーガー。
8Gを超える激しい加速度を経験し、イェーガーがキャノピーを叩き割ったX-1Aは、徹底的な検査が行われます。その検査結果は、実に意外なものでした。機体表面には、何処にも座屈や亀裂は一切見当たらず、構造的な損傷も全く無かったのです。しかも、飛行制御装置の遊びさえも許容範囲内に収まったままでした。
この危険なフライトは、イェーガーの強靭な肉体と精神力、±18Gに耐える強靭な機体設計があったからこそ、成し遂げられたものでした。そして何より、X-1Aが地面にクレータを作るのには、充分時間が残されていたことが、何よりも幸いしたのは事実です。ただ、事はそう容易ではありません。この間の降下率は45,000ft/sec、平均速度は750ft/sec(823km/h)に達しています。それもそのはず、X-1Aは、超音速で落下し続けていたのです!
このフライトについて、クロスフィールドは次のように語っています。
クロスフィールドは、このフライトが「歴史上最も速く、最も荒々しい飛行機の冒険」であったとし、「おそらく他のパイロットは、あの経験を生き延びることはできなかっただろう。」「私は彼を恨んではいない。よくやったと称賛されるべきパイロットがいるとすれば、それはイェーガーだ。」
NACAが民間雇用したテストパイロットであった、アルバート・"スコット"・クロスフィールド。彼もまた、イェーガーと同じ時代を駆け抜けた、勇気あるテストパイロットの一人だった。クロスフィールドとイェーガーが犬猿の仲なのは良く知られているが、かのニール・アームストロングはクロスフィールドを師と評している。まぁ、アームストロングとイェーガーも犬猿の仲だったのだが。from NASA
再び液体酸素爆発事故が発生。失われたX-1A。
来る12月17日、ライト兄弟記念晩餐会。その席上、イェーガーの新記録が大々的に発表されると、偉業達成を祝して会場は大喝采に包まれます。そして、イェーガーには名誉あるハーモン・トロフィーが授与されたのです。この瞬間、イェーガーは再び「世界最速の男」の称号を取り戻したのです。
但し、X-1計画は路線変更を強いられます。マッハ2領域での試験は危険性を鑑みて一旦中止とされ、高度記録を狙うフライトプログラムへと路線変更を強いられることになったのです。
X-1Aはアーサー・マレー少佐により、海軍が持つ高度記録83,235ftに挑戦。1954年8月26日に90,499ftに到達し、非公式ながら高度記録を樹立します。1955年にはNACAに移管され、試験が再開されます。ところが、ジョセフ・ウォーカーが2度目の飛行に臨んだ8月8日、切り離し直前に液体酸素が爆発。X-1Aは投棄され、機体は失われます。
4機の第2世代X-1で、最後に進空したのが3機目となるX-1Bでした。この頃、航空技術の発展は目覚ましいものがあり、XP-86が緩降下で音速突破が可能であることが判明すると、兵装テスト用のX-1C(48-1387)はキャンセルされることとなります。
X-1Bは、空力加熱の研究を目的に測定装置が増設されていた他、RCS(ロケット反動姿勢制御システム)を搭載していた。1954年10月から空軍でテストが行われたX-1Bは、1955年1月にNACAに移管。その後、1958年1月まで飛行試験を実施したものの、タンクに亀裂が発生したため退役を余儀なくされた。from NASA