スバルショップ三河安城の最新情報。人類を宇宙へ。フォン・ブラウンとコロリョフの奇跡の生涯 その1| 2024年8月18日更新

 
ヴェルナー・フォン・ブラウンとセルゲイ・コロリョフ
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クラブ・スバリズムWeb版、第7弾は宇宙!

これまで、全71回を数えるクラブ・スバリズムは、陸海空様々なテーマを扱ってきました。その内容は自動車、航空機、土木技術、計算機などなど、枚挙に暇がありません。その中で、一つだけ扱っていないもの。それが、宇宙でした。

但し、2人の天才科学者の歩んだ生涯は、それは壮大なものです。ですので、スバリズム本編でも現在進行中。それ故、Web版では10回以上に分けてアップされるものと思います。先の長い話になりますし、アップも数年単位に及ぶものと思いますので、ぜひご覚悟のうえで御覧ください。

今回は、まずは第1弾。2人の天才科学者がこの世に生を受け、第二次大戦下を力強く生き抜いていきます。では、ぜひお楽しみあれ。

世界初の超音速飛行、チャック・イェーガーの挑戦。

2024年08月09日 クラブ・スバリズム

世界初の超音速飛行、チャック・イェーガーの挑戦。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

人類を宇宙へ。偉大な天才科学者の名は、なぜ忘れ去られたのか。

アポロ11号

1969年7月20日、全人類の希望とともに月面に降り立ったアポロ11号。なぜ、人類はこれ程の偉業を成し遂げたのか。そこには、数奇な運命を辿った2人の天才科学者の尋常ならざる情熱があった。from Wikipedia

 

令和の時代に暮らす私たちの生活は、宇宙工学の恩恵なくして成立しません。気象予測、通信・放送、高精度測量、安全保障など、この半世紀に実現した技術の数々は、私たちに多大な恩恵をもたらし、豊かなものにしてくれています。

人類は今や、当然のように宇宙を活動のフィールドにしています。地球上には現在、約4,400個もの人工衛星が周回し、15カ国が参加する宇宙ステーションは今や建設開始から四半世紀を経過しています。人類の宇宙工学がこれ程までに発展を遂げたキッカケが、米ソ宇宙開発競争にあることは、多くの皆さんがご存知のはずです。

1957年10月4日、スプートニク1号軌道投入に成功。これにショックを受けた米国は、宇宙開発を一気に加速。冷戦下の米ソは、激しい宇宙開発競争を展開。1961年4月12日には、ソビエトがユーリ・ガガーリンの有人宇宙飛行に成功。そして、1969年7月20日には米国のアポロ11号が有人月面着陸を成功させるに至ります。「That's one small step for [a] man, one giant leap for mankind.(これは人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な跳躍だ。)」ニール・アームストロングのあの名言は、余りにも有名です。

しかし、熾烈な米ソ宇宙開発競争の影に、巨大計画を自ら立案し、自ら牽引した2人の傑出した人物がいたことを、皆さんはご存知でしょうか?その天才科学者の名は、ヴェルナー・フォン・ブラウンと、セルゲイ・コロリョフ。彼らの並ぶ者のない傑出した宇宙への情熱と、類まれな技術責任者としてのマネージメント能力は、宇宙へ、月へ、人類を果てしない夢へと導くこととなります。人類の宇宙進出という壮大な夢は、彼らの出現なくして決してあり得ないものだったのです。

しかし、ガガーリンやアームストロングや、日本の糸川英夫博士を知っていても、米ソ宇宙開発を主導した2人の名をご存知の方は、本当に少ないはずです。一体、何故なのでしょう?何故、米ソ両国は偉大なる彼らを英雄に祭り上げなかったのでしょうか?

それを理解するには、第二次大戦と東西冷戦という暗黒の時代に翻弄された、彼らの生涯とその時代背景を紐解く必要があります。

 

ファシズムをを打倒せよ。第二次大戦後、時代は東西冷戦へ。

虚言にまみれた狂気の時代。それが、東西冷戦。

1949年8月29日、RDS-1の核実験成功により、ソビエトは世界で2番目の核保有国となった。

東西冷戦は、虚言にまみれた狂気の時代。西から東は見えず、東は西を知らず。真実は何処にもなく、真相は誰も知らず。核を鉾に厳しく対峙する米ソは世界を二分し、舌口鋭く互いを罵倒し合う。全面戦争の火種は、石ころ程に数知れず。核の恐怖から救うのは、幾度もの偶然のみ。激しい対立を前に、第三次大戦を明日の脅威として肌身に感じ、それが世界終末戦争となるであろう事に恐怖していた、身も凍る冬の時代を人々は過ごしていたのです。

誰しもが望むのは、平和の春。しかし、導き出される未来は、全てを破壊し尽くした核の冬。人類はイデオロギーという狂気に急かされ、誰一人望まぬ人類滅亡の終末へと歩みを進めていたのです。

1945年7月16日、マンハッタン計画で人類初の核実験に成功した米国は、翌月には広島・長崎に原子爆弾を投下。核の脅威をまざまざと見せ付け、世界随一の超大国としての立場を不動のものとします。これに対抗すべく、ソ連はスパイを通じて情報を入手。1949年8月29日に初の核実験に成功。2カ国目の核保有国として名乗りを上げ、米国の核独占に終止符を打ちます。

ベルリンには壁が築かれ、米国では赤狩りが始まり、NKVD(後のKGB)とCIAは漆黒の世界で互いに夥しい血を流していました。

産業革命が作り上げたブルジョアによる、富の独占。

米ソの対立軸。それは、自由・資本主義と専制・共産主義というイデオロギーの対立。それは、決して相容れぬ根源的かつ絶対的な対立でした。その対立の歴史は、遥か中世に遡ります。

中世に於いては、貴族が土地や富を独占し、領民に対して最低限の食い扶持を「分配」することで、地域を統治していました。当時の論理では、領民として生まれた者は、下剋上を果たさぬ限り、死ぬまで被支配を受け入れねばなりません。

ところが、18世紀後半に巻き起こった産業革命の嵐が、民衆の暮らしを激変させます。領民だった農民の比率は減少し、商工業従事者が増加。ここに労働者階級が誕生します。また、商工業経営者は中産階級(ブルジョワ)を成し、徐々に勢力を増していきます。貴族による一方的支配体制が、崩壊の兆候を見せ始めるのです。

19世紀、人類は階級制度からの脱却を模索。新たな国家支配のあり方を巡って、様々な思想・主義が勃興。それらは、アンダーグラウンドの小規模政治活動から狼煙を上げ、いつしか民衆主体の政治活動へと昇華。自らの正義を旗印に暴力的革命を成し遂げ、民衆自らが体制を選択する新たな国家支配が樹立されていきます。

万民平等、富の均等分配。共産主義の勃興。

共産党宣言

1848年、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスにより執筆された書籍「共産党宣言」。from Wikipedia

 

共産主義とは、本来それは理想主義に基づくものでした。財産の私有を廃し、全てを共有し、身分の上下(階級)を廃して、全ての民を平等とする。決して欲張ってはならず、決して楽をしてはならず、決して我を通してはならない。金や欲に支配されず、政府組織さえも必要としない。縄文時代の如き、万民平等の理想社会を成立させるとしたのです。

カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスは、階級のない共同社会を理想とする社会主義思想を体系的に確立。民衆に新たな可能性を拓くと、1848年に「万国のプロレタリア、団結せよ」で高名な共産党宣言を執筆。ここに、秘密結社共産主義者同盟が結成されます。マルクス主義と呼ばれる新たな思想は、労働者(プロレタリア)の新たな道標として、生き盛んな若者たちの魂を、激しく揺さぶるのでした。彼らは、全世界的共産主義革命を期して、苛烈な階級闘争に身を投じていくのです。

理想的な平等を実現する、共産主義社会の樹立。その実現を阻んだのが、私欲にまみれて富を独占し、労働者から一方的に搾取するブルジョワであり、それを許す資本主義でした。つまり、資本主義とは私欲に毒された惰民の堕落であり、理想的社会の樹立に際して、真っ先に排除すべき対象に他なりませんでした。彼らの掲げる革命とは、資本主義の打倒そのものなのです。

1917年10月、社会主義国家ソビエト誕生。

ウラジーミル・レーニン

1920年5月、演説を行うレーニン。レーニンはソビエト初代指導者であり、1917年の二月革命、十月革命でロシア帝国を打倒し、1922年12月のソビエト社会主義共和国連邦成立では主導的な役割を果たした。from Wikipedia

 

理想的な共産主義を体現するには、私欲を捨て去る強い精神と信念が不可欠です。そのため、共産主義は強力な教育制度と、カリスマ性のある強い指導者を必要とします。万事首尾一貫せねば、国家支配が成立しないからです。指導者は絶対であり、それに歯向かう者はすべて断罪されました。象徴たるソ連の共産主義は全体主義となり、専制主義になっていくのです。

ウラジーミル・レーニン率いるポリシェビキは、1917年のロシア革命後の混乱の最中、10月革命によって権力奪取に成功。ポリシェビキはマルクス・レーニン主義を掲げ、1919年に共産党に改名。ロシア連邦共和国を含めた各国は、アゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国と同盟条約を締結。1922年に、ソビエト連邦が成立します。そして、1924年にレーニン没。激しい権力闘争を制したのが、ヨシフ・スターリンでした。

ロシア出身ではないスターリンは、レーニン下で汚れた仕事を引き受けていました。そうした過去は、スターリンの異常なまでのコンプレックスとなり、極度の人間不信の原因となります。スターリンは、自らの過去を知る者を次々に抹殺していきます。政敵は倒すよりも、手っ取り早く粛清していったのです。1930年までに、スターリンは絶対的支配体制を確立します。

スターリンの大粛清、密告という恐怖のシステム。

ウラジーミル・レーニン

ソビエト成立から2年、レーニン死去。その後、ソビエトを率いたのがヨシフ・スターリンである。スターリンは大粛清により、反対勢力と「思しき者」をすべて排除し絶対的権力体制を構築、第二次大戦に於いては大祖国戦争を勝利に導いた。なお、スターリン政権下では、大粛清では最大1000万人が、大祖国戦争では2660万人が犠牲になったという。from Wikipedia

 

スターリンは、犯すべからざる絶対的存在でした。彼の作り上げた恐怖のシステムが「密告」です。1934年に設立された、秘密警察NKVD。その目的は、反革命分子及びスパイの摘発にありました。即決裁判にかけられた者は、弁論の機会すら与えられず、即日処刑されるか、収容所に送られました。人々は、NKVDの恐怖から逃れるため、生贄を差し出す他ありません。それが、密告です。自らの命を永らえるため、誰かを犠牲にする。そこには、理想的な共産主義社会の実現などという正義なぞ、微塵も存在しませんでした。悍ましいまでの生存の欲求のみが支配する、狂気の世界だったのです。

スターリンの根拠は、階級闘争に破れた搾取者階級がソ連という国家支配を脅かすという階級闘争激化論にありました。ところが、その実は自らのコンプレックスと人間不信にあったのやも知れません。

「手ぬるい」と苛立つスターリンは、2度に渡りNKVD長官を交代させると、前長官及び幹部をすべて処刑。世に言う大粛清は1934年に始まり、スターリンが没する1953年まで続きました。この間、約68万人以上が処刑され、約63万人が強制収容所に送られたと言われます。なお、犠牲者の中には共産主義を学ぶため、憧れの国ソ連を訪れた情熱溢れる海外学生たちも含まれていることは、特筆すべきでしょう。

欧州の植民地だった、アメリカという大地。

人間の本能である煩悩を否定し、理想的な共産主義社会の実現を図るために、恐怖で人々を支配したソ連。それと、まったく真逆に存在するのが、自由の国アメリカでした。

米国は、生来移民の国として誕生しています。イギリス、フランス、オランダ、スペインなど、母国を捨てて大陸に辿り着いた人々は、自らの手で大地を切り拓き、新たな秩序を形成していきます。身分の上下など元来存在せず、暫くは統一政府さえ存在しませんでした。自らが開拓した命と土地は、自らの手で守る。そこには崇高な理想主義なぞ存在せず、広大な荒れ地で生き抜くという、生存の欲求があるだけでした。ここで芽生えた自主独立の精神は、全体主義と真っ向から相対するもの。自主独立、自由尊重の米国の国家像は、こうして形成されていったのでしょう。

米国の最初の闘いは、母国たる欧州支配からの自立でした。そもそも、米国は欧州にとって植民地。欧州列強は、北米大陸で支配権を巡って対立し、植民地には厳しい課税を強いていたのです。1775年、英国との間に独立戦争が勃発。これに勝利した米国は、1776年7月4日に独立宣言を発し、アメリカ合衆国を建国します。

差別と共に誕生した、自由と平等の国・アメリカ。

独立宣言

民主主義の盟主、世界随一の超大国として君臨するアメリカ合衆国は、1776年7月4日の独立宣言を以て建国された。米国は自由民主主義を標榜しているものの、建国時点では女性及び有色人種、先住民に対する権利は一切保障されなかった。つまり、米国は建国以来、ずっと差別が存在しているのである。from Wikipedia

 

その独立宣言をに確約されたもの。それこそが、基本的人権と国民主権であり、万民平等の精神と生命・自由・幸福追求の権利でした。米国は、その誕生の瞬間から自由と自主独立の精神を持つ国家なのです。

ただ、その画期的な権利が、欧州にルーツを持つ男性のみに限定されたことは、忘れてはなりません。南部を中心に奴隷制度が確立され、女性は参政権を認められていなかったのです。自由・自立の象徴たる米国は、生来「差別の国」でもあるのです。また、政教分離は成されておらず、現在でも大統領の宣誓は聖書に対して行われ、全ての紙幣には「IN GOD WE TRUST」の文字が印刷されています。思想信条の自由はあるべきとしても、政治に対する宗教の介入は一考あるべきでしょう。

欧州から自主独立を果たした米国は、モンロー主義に則って大陸に篭り、海外(欧州)不干渉に徹します。果てしない大地に、産業革命は打って付けで、米国は一大工業国として富を蓄えていきます。第一次大戦に際してもモンロー主義を貫いた米国は、灰燼に帰した欧州各国を尻目に、世界最大最強の国家へと躍進を遂げることになるのです。当初、欧州域内の地域紛争であった第二次大戦に際しても、米国はモンロー主義を貫くかに見えましたが、方針を転換するに至ります。

第一次大戦による欧州の衰退と、米国の第一次大戦参戦。

その理由は、ファシズムの台頭です。ファシズム国家は軍部が独裁的に国家支配を行う国家体制であり、世界恐慌に揺れる民衆の心を掴み、破竹の進撃を開始。1939年9月1日に突如ポーランドに侵攻し第二次大戦の口火を切ったナチス・ドイツは、イタリアのムッソリーニ、二・二六事件以降軍部が支配する日本と、1940年9月27日に日独伊三国同盟を締結。ファシズム3国は、呉越同舟を決断します。当初は、ファシズムに寛容な姿勢を示し、第二次大戦へも不関与を貫いてきた米国は、次第に態度を硬化。特に中国大陸で権益が衝突する日本に対して、対決姿勢を鮮明にします。

一方、日本は対米作戦に注力しつつ、北方の懸念を制すべく、1941年4月13日にソ連との間に日ソ中立条約を締結。ところが、独ソ戦によって、情勢は一気に不安定化します。日伊に通告なく、ドイツは6月22日にソ連に電撃的に突入。戦端が開かれます。そして、12月8日の真珠湾攻撃を以て、米国は日本との全面戦争を開始すると、劣勢の英国支援を目的に欧州戦線にも参戦。大西洋と太平洋の二正面作戦を余儀なくされます。

米国とソ連は、大戦下にあっては同盟国でした。打倒すべきは、ナチス・ドイツ。敵の敵は味方、という論理です。

ポーランドを巡る、東西両陣営の決定的な対立。

ヤルタ会談

1945年1月、第二次大戦後の国際秩及を決定付けたヤルタ会談。左から、イギリス首相ウィンストン・チャーチル、米国大統領フランクリン・ルーズベルト、ソビエト書記長ヨシフ・スターリン。from Wikipedia

 

ただ、イデオロギーの異なる両者は、当然の如く道を違えていきます。それを決定的にしたのが、戦後処理の方針を決したヤルタ会談です。特に問題となったのが、ポーランドでした。

ドイツ支配下にあったポーランドは、英国に亡命政府を樹立。ところが、亡命政府が支援した国内軍のワルシャワ蜂起に対し、スターリンは支援を約束していたにも関わらず、状況を放置。ドイツは猛反撃の末、国内軍は壊滅に追い込まれます。さらに、スターリンがカティンの森事件で22,000人を殺害したことが明るみになると、亡命政府はソ連と断交。この2つの問題に際し、英国とソ連は激しく対立します。また、共産革命の西進を恐れた英国は、ヤルタ会談にてポーランドでの総選挙の実施を要求。ところが、帰国した亡命政権指導者をソ連は逮捕。共産党政権の樹立が決定的になると、米国トルーマン大統領は激怒。米ソ対立が深まります。ソ連は、ポーランドに共産党政権を樹立し、東欧丸ごと東側陣営に引き込もうとしたのです。

さらに、日本の戦後統治を巡っても、米ソは対立。1947年3月12日。「武装少数派、あるいは外圧によって試みられた征服に抵抗している、自由な民族」を支援するという、共産主義封じ込め政策たるトルーマン宣言で対立は決定的になります。

時代は東西冷戦へ。各地で巻き起こる共産革命運動。

これを以て、米国はモンロー主義を放棄。自由主義社会の盟主として、世界各国に積極的に介入することを決意したのです。こうして、世界は東と西に完全に二極化。米ソ対立を軸とする、東西冷戦の時代へと突入していくのです。ベルリンは壁で遮られ、歯向かう者は世の東西を問わず、超法規的に断罪されました。

ソ連共産党指導部の理想は、米国にプロレタリア革命が起こり、共産主義革命が全世界に伝播すること。悲願成就に向けて、世界各地に潜伏するプロレタリアたちは、ソ連共産党の支援を受けつつ、その活動を強めていきます。彼らの熱望は苛烈なもので、プロパガンダやオルグは当然として、暴力闘争も非とせず、テロ行為から暗殺、果ては内ゲバまで、ありとあらゆる手段で闘争を展開していきます。自らの主張のためなら、手段を選ばぬ過激主義者。それは、恐怖の存在でした。

国家転覆を図るその活動は、思想・信条の自由の範疇を越えるもの。米国を始めとした西側各国は、徹底的な「赤狩り」を実施。プロレタリアたちは魔の手から逃れるべく、地下に息を潜めて活動を展開します。KGBとCIAは、互いの中枢にスパイ人脈を構築するや、今度は二重スパイを養成。血で血を洗う、激しい情報戦争を繰り広げていくのです。

東西冷戦下、最大の闘争。それが米ソ宇宙開発競争。

アポロ・ソユーズ計画

東西冷戦に於ける、「実戦」の一つに数えられる米ソ宇宙開発競争。国家財政を疲弊させるほどに熾烈を極めたその戦いは、1975年7月17日のアポロ・ソユーズ計画による軌道上でのドッキング実験により、平和裏に終わりを告げることとなる。from NASA

 

東西冷戦下にあっては、核開発からオリンピックに至るまで、すべてが「戦争」でした。ですから、原子物理学者からアスリートまで、利用できるものは全て利用されました。彼らは、国家戦略の兵隊であり、単なるコマに過ぎなかったのです。

チャック・イェーガー、ユーリイ・ガガーリン、ニール・アームストロング、ワレンチナ・テレシコワ。航空宇宙史に燦然と輝く彼らとて、東西冷戦のコマに過ぎません。空を制する者、宇宙を制する者が、世界を制する。米ソはそのためにこそ、研究開発に莫大な投資を行い、成果を誇大に喧伝しただけでなく、彼らを偉大な英雄に仕立て、己の正義を喧伝する道具としたのです。

ソ連への勝利は自由主義社会の勝利であり、米国への勝利は社会主義社会の勝利そのもの。その渦中にあっては、宇宙開発競争とて、戦争の一部でしかありません。しかし、世界経済が大躍進を遂げた1960年代、米ソ両国が平和利用の原則の下で宇宙開発競争という「人類共通の夢」に全精力を注いだことは、世界人類にとって幸いします。宇宙開発に莫大な予算を浪費したことで、国家財政は疲弊するに至り、以降は軍縮・緊張緩和の時代へと転じていくキッカケの一つとなったからです。その象徴が、1975年7月17日に実施されたアポロ・ソユーズテスト計画であり、軌道上での米ソ宇宙船のドッキング実験でした。ここに米ソ宇宙開発競争は終焉し、新たな国際協調の宇宙時代へと突入していくこととなるのです。

 

ソビエトに誕生した孤独な天才科学者、セルゲイ・コロリョフ。

スプートニク1号が、世界人類に与えた衝撃。

スプートニク1号

1957年10月4日、衝撃の一報が世界を駆け巡った。スプートニク1号軌道投入成功。そのニュースは、世界唯一の超大国との揺るぎない自信を持つ米国市民のプライドを粉々に打ち砕くことになる。疑心暗鬼になるソビエト政府は、計画を立案・主導したセルゲイ・コロリョフの名を一切秘匿し、「チーフデザイナー」とだけ公表した。from Wikipedia

 

1957年10月4日。世界を駆け巡った衝撃は、世界の運命を根本から覆すことになります。ソビエトが、人類で初めて人工衛星「スプートニク1号」の地球周回軌道への投入に成功したのです。後にスプートニク・ショックと呼ばれる、この事件。間もなく、西側世界を疑念と恐怖の渦に突き落とすことになります。

世界で初めて核実験に成功し、大型爆撃機開発にも成功した西側の盟主・米国は、米国から流出した情報で核実験を行い、B-29の「デッドコピー」Tu-4で核爆撃を企図するソビエトに対し、自らの優位性を固く信じ、疑うことを知りませんでした。ところが、スプートニクの報に接したホワイトハウスは、ソビエトに対する優位性は確信ではなく、単なる盲信に過ぎなかったこと心底思い知らされたのです。スプートニク・・ショックは、民主主義の権威が完全に地に落ち、自信過剰の盟主が赤っ恥をかかされた瞬間でした。

米国は、蜂の巣を突いたようにパニックに陥ります。スプートニク1号は、共産主義国家が大陸間弾道ミサイル(ICBM)技術を既に保有していることを示していたからです。米国国民は、いつ頭上から降り掛かるとも知れぬICBMの恐怖に慄き、恥も外聞もなく我を失ったのです。

情報漏洩を恐れ、コロリョフの名を機密指定。

セルゲイ・コロリョフ

若き日のセルゲイ・コロリョフ。幾度の絶望、幾度の危機に晒されても、この青年は決して望みを失うことはなかった。その唯一無二の強靭な精神力こそが、人類を宇宙へ導くことになる。from Wikipedia

 

スプートニク1号を成功に導いたのは、「チーフ・デザイナー」とだけ公表されたソビエトの技術者でした。ソビエトは、スパイによる情報流出を阻止するため、敢えて実名を秘匿したのです。

そのチーフ・デザイナーの名は、セルゲイ・パブロビッチ・コロリョフ。今ではソビエト宇宙工学の父と称賛されるコロリョフは、1907年1月12日に現ウクライナの首都キエフ市近郊に生まれます。父母は間もなく別居し、祖父母に預けられて暮らすことになります。両親不在の環境は、セルゲイ少年を強靭な精神力を持つ、孤独な人物へと成長させていきます。

空を志したのは、初めて航空機を見た1910年のこと。しかし、夢を誰彼に語ることなく、孤独な少年期を過ごします。そんな境遇が、彼を勉学に駆り立てることになります。ただ、彼が進学したのは、大工仕事を教える職業訓練校。コロリョフはここで学んだ技術で学費を工面して、キエフ工科大学に進みます。そこで出会ったのが、空を自由に舞うグライダーでした。自ら設計するなどグライダーの世界にのめり込んだコロリョフは、国立モスクワ工科大学への入学許可を得ることに成功します。

ここに、コロリョフの道は拓かれていきます。師たる天才航空設計者アンドレイ・ツポレフの教えに導かれ、コロリョフは遂に自らの夢に辿り着くことになるのです。

宇宙の夢を心中に秘め、仕事に打ち込むコロリョフ。

コロリョフが生涯を賭けて取り組んだのは、ロケット工学であり、宇宙への見果てぬ夢でした。しかしこの時代、ジュール・ヴェルヌが物語に紡ぎ、コンスタンティン・ツィオルコフスキーが公式に描き出した宇宙というフィールドは、未だ想像の彼方にありました。それでも、コロリョフは固く信じていました。いつか、自分が宇宙へ辿り着くと。孤独な青年は、宇宙への夢を胸に秘め、果てしない茨の道を歩き始めることになります。

コロリョフという人物が誰よりも傑出しているのは、スターリンが支配する絶望的な時代にありながら、少しも瞳を濁らすことなく、その夢へ一途邁進したことにあります。そして、コロリョフの純粋かつ膨大な情熱こそが、遂にはあのスターリンさえも動かしてしまうのです。そんなコロリョフの成し遂げた偉業は、人類の生み出した奇跡の一つに数えられるでしょう。何しろ、世界随一の超大国・米国を完膚無きに打ちのめし、世界に先んじてソビエトを宇宙へ辿り着かせたのですから。

コロリョフが宇宙への第一歩として、真っ先に取り掛かったのは、ロケット工学でした。大気に依存せずに推力が得られるロケットであれば、空気の存在しない高度、つまり宇宙へ達することができる。ツィオルコフスキーの著作を読み漁ってきたコロリョフは、それをよく知っていたのです。

しかし、ソビエトという過酷な環境に於いて、成果の得られない研究など、仕事ではありません。航空機が漸く単葉機の時代へ移ろうとしていた頃、宇宙を目指すロケットなど、まったく国家の求めるものではなかったのです。

ソビエトという国家には、自由は一切存在しません。国家に一方的に課せられた義務を果たすことが、人民の使命。社会主義国家では、国民は国家を形成する「部品」に過ぎないのです。大学卒業後、航空機設計局OPO-4に配属されたコロリョフは、大願を胸に秘めたまま、目立たない一介の技術者として日々を過ごすこととなります。

宇宙への道を拓く、コロリョフのGIRDへの参加。

GIRD

[左]サンクトペテルブルク技術博物館に展示される、GIRD-09、GIRD-X。[右]1931年に撮影された、GIRDメンバー。左上から、I・P・フォルティコフ、Yu・A・ポベドノスツェフ、ザボチン。前列左から、A・レヴィツキー、ナジェージダ・スマロコワ、セルゲイ・コロリョフ、ボリス・チェラノフスキー、フリードリヒ・ザンデル。from Wikipedia

 

一大転機となったのは、1931年に創設された反動推進研究グループ(GIRD)への参加でした。GIRDは、ロケット研究に情熱を傾ける技術者たちの任意の集まり。基本的にはクラブ活動のため給与はなく、資金は軍事発明管理グループから提供されていました。

GIRDを牽引したのは、フリードリッヒ・ザンデル。彼は熱心なロケット研究者で、1929年には圧縮空気とガソリンで作動するハイブリッドロケットエンジンOR-1エンジンを試作しています。ザンデル率いるGIRDの面々は各々週末に集まると、4つのグループに分かれ、10個の実験的プロジェクトを推進していきます。彼らがまず希求したのは、燃焼剤でした。ガソリンやアルコールを含む、あらゆる燃料をテストしていったのです。

GIRDの10のプロジェクトのうち、ソビエト初の本格的ロケット実験となったのが、GIRD-9でした。特徴は、ニコライ・エフレモフによる変わった燃料でした。燃焼剤はロジンをガソリンに溶解して作られたグリス状の半固体燃料で、酸化剤には液体酸素を用いました。青銅製の燃焼室は2重壁構造で、燃焼剤が内壁の穴から圧入されるのに対し、液体酸素は外壁から導入することで、燃焼の高温からエンジンを保護する設計でした。GIRD-9は、1933年8月17日に打ち上げられ、到達高度:400mに達します。11月3日に打ち上げれた2号機は高度100mで爆発するも、翌年1月には最高到達高度:1,500mを記録します。

この時、コロリョフ率いる第4グループが取り組んでいたのは、グライダーにロケットエンジンを搭載してテストするというプログラム。ロケットエンジン技術が未熟な時代のこと、大気圏中は揚力を活用することが最善と考えたのです。ただ、肝心のロケットエンジンの問題により、プロジェクトが完了することはありませんでした。

コロリョフがもう一つ取り組んでいたのが、無人巡航ミサイルを開発するGIRD-6です。硝酸/灯油を推進剤とするロケットエンジンを搭載した有翼機で、ジャイロスコープを用いた自動誘導装置を備えていました。固体燃料ロケットエンジンを搭載するソリに載せられ、軌道上を加速して離陸する設計でした。

ザンデルの死にめげず、プログラムを推進するGIRD。

1933年3月28日、GIRDのメンバーを突然の悲しみが襲います。ソビエトのロケット開発を牽引してきたザンデルが、チフスによって突然亡くなったのです。悲嘆に暮れるメンバーでしたが、彼の第1グループの研究は残りのメンバーに引き継がれ、その成果はソビエト初の液体燃料ロケットエンジンである「プロジェクト10エンジン」に結実します。

11月25日、プロジェクト10エンジンを搭載したGIRD-X(全長:2.2m、直径:140mm、重量:30kg)が、初の打ち上げ実験に挑みます。燃料を当初予定のガソリン/液体酸素から、バーンスルーの問題を考慮してエネルギーの少ない78%アルコールに変更。先進的な再生冷却技術を導入していました。これは、燃焼室とノズルを二重構造とし、その隙間に液体酸素を流すことで、気化潜熱でこれを冷却しようというコンセプトでした。最初の打ち上げでは、到達高度は80mに留まりますが、最終的には最高到達高度:5,500mに達します。

GIRDの成果が飛躍的進化を遂げていたのは、ある優れたエンジン設計者のお蔭でした。その男の名は、ヴァレンティン・グルシュコ。グルシュコは、後にソビエトロケットエンジン開発を牽引する重要な存在へと成長を遂げることとなり、ロケット機体開発を担うコロリョフと激しく対立することとなります。

コロリョフとグルシュコの関係は、光と影。常に、近くに相手の存在を感じていても、決して互いを求め合うこともない。そのうちに、心から相手を疎ましく思うようになり、いつしか、その存在すら許せなくなるのです。

コロリョフの永遠のライバル、宿敵グルシュコ。

ヴァレンティン・グルシュコ

[左]ソビエト・ロケットエンジン開発の第一人者である、ヴァレンティン・グルシュコ。コロリョフとグルシュコが不仲であったことはつとに有名で、後に最高指導者フルシチョフが仲介に乗り出すも、全く効果なく終わったとされる。[右]グルシュコが、1936年に試作した実験用液体燃料ロケットエンジン・ORM-65。from カザン国立研究技術大学、Wikipedia

 

1908年8月20日、グルシュコは現ウクライナのオデッサに生まれます。青年時代にSF小説で宇宙に興味を持つと、様々な文献をかき集めて研究を始めます。1925年、レニングラード州立大学への留学が決定。1929年春には惑星間宇宙船に関する論文を作成します。この論文がきっかけとなり、グルシュコは電気ロケットエンジンの研究に取り組むことになります。電気ロケットは、推進剤と酸化剤の化学反応を用いる化学ロケットと違い、電気エネルギーを用いて推進剤を加速させるもの。推力は極めて小さいものの、比推力が大きいため、現在では宇宙空間での姿勢制御等に用いられています。

1929年5月、グルシュコはソビエト初のロケット研究機関である気体力学研究所(GDL)に招聘されます。グルシュコはこのGDLで、電熱ロケットエンジンを試作。続いて、液体燃料ロケットのロケットの開発に専念するようになります。グルシュコがまず求めたのが、最適な酸化剤と推進剤の組み合わせでした。酸化剤として四酸化二窒素、液体酸素、硝酸を、燃焼剤としてトルエン、ガソリン、灯油、ベンゼン等を試していきます。グルシュコは遺憾なくその才能を発揮し、ORMシリーズと呼ばれる液体燃料ロケットエンジンを次々に試作。1933年に試作したORM-52は灯油/硝酸を推進剤とし、推力:3,000N・比推力:210secという当時の世界最高性能を実現するに至ります。

コロリョフとグルシュコ、束の間の蜜月。

グルシュコが設計する優れた液体燃料ロケットエンジンは、GIRDのメンバーの元に届けられ、様々な技術的成果を現実のものにしていきます。GDLとGIRDは、誰から見ても相思相愛の関係にありました。そこで、1933年9月21日のソビエト革命軍事会議の決定により、両者は合併。新たにジェット研究所(RNII)として再出発することが決定されます。

RNIIで働き始めたコロリョフとグルシュコは、互いの実力を認め合う素晴らしい関係を維持していました。グルシュコの優れたエンジンを、コロリョフの優れた機体に搭載する。二人は、ロケット技術者としてまさに至福の時間を過ごしていました。しかし、人生とは儚いもの。至福の時間は、そう長くは続かないのです。

ヨシフ・スターリンによる大粛清の魔の手は、知らぬ間にGIRDのメンバーに忍び寄っていました。アンドレイ・コスティコフという人物が、悪名高き秘密警察NKVDに手を貸していたのです。

しかし、RNIIのメンバーに何ら落ち度が無かったという訳ではありません。確かにその予兆はありました。GDLのメンバーが液体燃料ロケットを利用した宇宙開発に興味を示さず、RNIIの研究は著しく停滞していたのです。彼らの派閥的行動が、国家的研究を遅滞させていたのは確かだったのです。

RNIIを襲う、NKVDの魔の手。大粛清の悲劇。

先に魔の手に掛かったのは、グルシュコの方でした。1938年3月23日にブティルカ刑務所に収監されると、翌8月15日までに禁錮8年が宣告されます。囚われの身となったグルシュコは、他の逮捕者と共に刑務所内に設けれた研究所にて、様々な航空機プロジェクトに取り組むことになります。しかし、その処遇は、服役中の身分としては随分優遇されたものでした。その理由は、グルシュコがNKVDとの「司法取引」に応じたからに違いありません。それこそが、「密告」でした。グルシュコは、コロリョフを密告することで、罪の減免を認められていたのです。

1938年6月7日早朝、コロリョフはモスクワの自宅のドアを激しく叩く音に目を覚まします。「秘密警察だ!」彼らは、コロリョフに逮捕状が出ていることを宣告すると、幼い娘にひと目別れを告げることも許さず、着の身着のまま連行します。容疑は「ドイツに於ける反ソビエト団体との共謀」。「ロケットオタク」のコロリョフにとって、政治活動なぞ全く興味のないもの。正に、寝耳に水でした。

しかし、相手はNKVD。すなわち、スターリン。言い訳の通じる相手ではありません。当時、ソビエトの人々は密告によって次々に大粛清の犠牲になっていきました。密告が、次の密告を生む。忌むべき連鎖が、罪なき人々を次々に屠っていったのです。彼らがやって来るのは、決まって早朝4時。ソビエトの人々は、日々「魔のモーニングコール」に怯えながら暮らしていたのです。

 

コロリョフの心身を破壊した、極寒の強制労働。

グルシュコと共に逮捕された、GDL所長イワン・クレイメノフとエンジン設計者ゲオルギー・ランゲマックの2名には死刑を宣告。1938年1月10日には、早々に死刑が執行されます。ソビエトの1930年代は、狂気と恐怖が支配する暗黒の時代でした。

コロリョフを待っていたのは、10年の強制労働という重すぎる刑罰。身柄が送られたのは、シベリアの果てにある極寒の強制収容所・コリマ金鉱山でした。世界に貢献すべき天才的ロケット技術者コロリョフは、極寒の大地にツルハシを振るいながら、意味もなく心身を酷く壊していくことになります。

極東に位置するコリマは、外界とは隔絶された極寒の僻地。6ヶ月にもよぶ冬の平均気温は、-38~-19℃。ここに収容所を作るには、柵も門番も必要ありません。ホモ・サピエンスでは、絶対脱出不可能だからです。コリマに送られたその多くは、学者や知識人でした。1930年代に開かれ、1956年にフルシチョフが大赦を命じるまで、この人造地獄で命を落とした人々の数は、100万を優に超えると言われています。

地獄に落ちたコロリョフに与えられたのは、極寒を過ごすには到底不十分な食料と衣料、そして最悪の衛生状態でした。極度の栄養失調に陥ったコロリョフは、壊血病で次々に歯を失っていきます。そして、過酷な環境と境遇により、心臓に深刻なダメージを負っていくことになります。そして、遂にコロリョフは倒れてしまうのです。

 

師ツポレフの導きで、命を救われたコロリョフ。

コロリョフに一筋の光明を与えたのは、彼を航空宇宙の道へ導いた恩師。アンドレイ・ツポレフでした。ところが、ツポレフもまた囚われの身。シャラシュカと呼ばれたNKVDの秘密研究所で、囚人の身分で研究に従事していたのです。弟子の身を案じるツポレフは、スターリン宛に幾度も嘆願書をしたため、1939年6月にコロリョフをモスクワのシャラシュカに移送させることに成功します。直ちに再審理が行われると、無実のコロリョフに課せられた刑期は「8年に短縮」されます。

コロリョフはツポレフの元で、Tu-2爆撃機やPE-2急降下爆撃機の設計に励むこととなります。ところが、運命とは皮肉なものです。このシャラシュカで上司となったのは、自分を奈落の底へ突き落とした張本人たる、グルシュコだったのです。コロリョフにとっては、心底耐え難い日々だったことでしょう。自分をNKVDに売り飛ばすことで、安寧を手に入れた男。この男のお陰で、娘に一目逢うことも叶わず、一度は死を覚悟したのですから。

しかし、良くも悪くも、コリマでの生活がコロリョフを変えていました。酷く控えめで、用心深くなったのです。二度と地獄を見たくない。その一心が、コロリョフを研究に専念させることになります。

シャラシュカでコロリョフとグルシュコに許されたのは、航空機支援用ロケットブースターの研究。本格的な液体燃料ロケットの開発は顧みることさえ許されませんでした。一時は頂点を極めたソビエトのロケット開発は、ここに完全に停滞を余儀なくされたのです。

 

米国ロケット研究のパイオニア、不遇のロバート・ゴダード。

NYタイムズ紙に愚弄された、ゴダードの研究。

ロバート・ゴダード

1926年3月16日、ロバート・ゴダードと世界初となる液体燃料ロケット「ネル」。ネルは2.5sec間に12.5m上昇し、56m先の畑に落下、実験は成功した。ロケットがエンジン燃焼が完了した後、落下して破壊に至るのは今日的には至極当然であるが、当時はこれを失敗と見なし、嘲笑の対象となった。from NASA

 

1920年代末、ロケット開発で最先端を走っていたのは、米国の発明家ロバート・ゴダードでした。ゴダードは、1914年までにスミソニアン協会から財政援助を得て、本格的ロケット研究を開始。1926年3月26日には、液体燃料ロケットの打ち上げに成功します。そのロケット「ネル」は、人間の腕ほどの小さなものでしたが、2.5sec間に12.5m上昇させることに成功します。

ゴダードは、何時しか宇宙へ達することを夢に描き、一人研究を続けます。ところが、1929年に行われた実験では、野次馬が集まり消防署に通報される騒ぎとなります。実験用ロケットは、上昇を終えれば、そのまま地面に落下するのは当然。ところが、それを理解しない地元紙記者が、実験を嘲笑的に大失敗と報じたため、ゴダードは極端な人間不信に陥ります。特に彼の信念を傷付けたのは、ニューヨーク・タイムズ誌による社説でした。彼らは、真空中では例えロケットエンジンでも「反作用」が得られないため、推力は得られない。それを知らないゴダードは高校レベルの知識さえないと酷評したのです。

当時のアメリカ人にしてみれば、ロケット研究など変わり者博士の奇天烈研究。宇宙に行こうなどと言えば、変人扱いされるのは当然だったのかも知れません。

ラバールノズルにより、エンジン効率を劇的に改善。

しかし、ゴダードの実験は着実に大きな成果を得ていました。数学的にロケットの位置と速度を導き出す方程式を完成させ、蒸気タービンに用いるラバールノズルを用いることで、それまで2%だった効率を一気に63%まで引き上げました。ゴダードはクラーク大学の物理学部長でしたが、大学はロケット研究に全てを費やすことを許可していました。ただ、ゴダードを常に悩ませていたものがありました。ロケット研究に要する、研究資金でした。

嘲笑的に見ていた大衆同様に、米陸軍も海軍もゴダードの液体燃料ロケット研究の重要性に全く気付いていませんでした。数少ない理解者であったチャールズ・リンドバーグは彼方此方を奔走しますが、大恐慌の最中にスポンサーを探すのは不可能でした。漸く、鉱業で財を築いたグッゲンハイム家の財政援助を得たゴダードは、かのニューメキシコ州ロズウェルに研究拠点を移します。人里離れたロズウェルは、孤独を好み、嘲笑を嫌がるゴダードにとって、理想の研究環境でした。

1931年9月までに、ゴダードのロケットは現代的な形状を成しており、全長は4mを超え、燃料には窒素で加圧されたガソリンと液体酸素を用いていました。1932年4月には、ジャイロを活用した誘導システムの実験を行っています。

正当な評価を得られぬまま、病に倒れたゴダード。

ロバート・ゴダード_ロズウェル

1930年代、嘲笑と侮辱に耐えかねたゴダードは大学の許可を得ると、ニューメキシコ州ロズウェルに研究の拠点を移します。ゴダードは終生不遇な環境に晒されたが、中でも深刻だったのは資金不足だった。米国でただ一人その研究の価値に気付き、資金確保に奔走したのは、あのチャールズ・リンドバーグだった。1958年10月1日、NASAが設立されたとき、その一つの研究センターにゴダードの名を冠したのは、彼に対する贖罪だろうか。from NASA

 

1935年3月8日の実験では、A-4ロケットが高度:300mに到達。1935年3月28日には、A-5ロケットが速度:885km/h・到達高度:1,500mを達成。誘導システムにより、垂直上昇の軌道を維持することにも成功します。5月31日には、2,300mまで達します。ゴダードの研究は画期的な成功を収め、1930年代時点で世界を遥かにリードしていました。

ロケットの研究者たちが国家の財政支援を仰ぐには、「妥当な理由」が必要です。宇宙探査・宇宙旅行などという呑気な目的では、予算確保は当然不可能です。いつの世にも多額の予算を確保するには、国家の安全保障に資する軍事目的が不可欠なのです。

ただ、漸く固定翼機が全金属製となりつつあったこの時代。混迷を深める時勢を鑑みれば、宇宙より空を制するのが先決。来る大戦では、航空機こそが主役となるであろうことは明らかでした。通常弾薬では、数をバラ撒かねば、打撃は与えられません。敵に打撃を与えられるのは、長距離精密打撃ではなく、大型爆撃機による絨毯爆撃なのです。時代はロケット技術ではなく、航空技術の発展を求めていたのです。

ゴダードは不遇な境遇はそのまま、晩年は病に苦しむこととなります。漸く、軍がロケット技術の有効性に気が付いた時、ゴダードの命は消え入る寸前でした。1945年8月10日、世界で唯一民間資金のみでロケット研究を進めたロバート・ゴダードは、その業績を正当に評価されることのないまま世を去ります。

 

天才科学者ヴェルナー・フォン・ブラウン、奇跡の男。

オーパーツの如き完成度を誇る、V-2ロケット。

ロバート・ゴダード_ロズウェル

天才科学者ヴェルナー・フォン・ブラウンが生み出したV-2ロケットは、すべてのロケット/弾道ミサイルの母である。つまり、V-2なくして、今日の宇宙技術はあり得ない。それ程までに、V-2は革新的であり、技術的最適解だった。フォン・ブラウンがV-2の設計に着手したとき、彼は若干31歳でありながら、ドイツ陸軍の軍事研究施設に於いて、主任技術者を務めていた。from Wikipedia

 

6年半に渡った、第二次大戦。その業火が消え去った後、世界で最も先進的なロケット技術を有していたのは、ソビエトでも米国でもなく、ナチス・ドイツでした。ロシアでGIRDメンバーが、米国ではゴダードが、僅かな予算と恵まれない環境に悩んでいる頃、ドイツでは若き天才科学者が実用化を目指して発射試験を繰り返していたのです。これ程までに圧倒的な差を生み出したのは、全てがすべて軍事目的による国家的財政支援でした。

ナチス・ドイツが作り上げた、V-1飛行爆弾とV-2ロケット。世界がその実態を知った時、その驚くべき先進性に驚愕することとなります。ソビエトの技術者たちが儚い実験成功を祝っているとき、ナチス・ドイツの技術者たちは自律誘導兵器と弾道ミサイルを「量産」していたのですから。中でも特筆すべきは、液体燃料ロケットV-2です。ロンドン、アントワープ、リエージュを攻撃目標とするV-2は、1944年10月から5ヶ月の間に3000発以上が発射され、9,000人以上を死に至らしめました。

1945年、大佐に任じられた囚人コロリョフは、降伏したドイツへ派遣されます。その目的は、V-2ロケットに関するあらゆる資料・部品、そして技術者たちを「回収」すること。米ソはこの「オーパーツ」を我が物とすべく、競って狩りに出かけたのです。

この時、コロリョフが受けた衝撃は計り知れないものでした。今、眼前にあるV-2は、高度80,000m以上に達し、遥か175km先の目標を打撃可能なのです。V-2に比べれば、自分のロケットなどおもちゃに過ぎませんでした。

V-2ロケットは、Vergeltungswaffe(報復兵器)2の略称であり、ロケットとしての制式名称は、A4。このA4は、人類史上初めてカーマン・ライン(宇宙と大気圏の境界:高度100km)を越えた人工物体でもありました。

若き天才科学者、ヴェルナー・フォン・ブラウン。

VfR

フォン・ブラウン(右から2人目)の人生最大の転機となったのは、VfR(ドイツ宇宙旅行協会)に参加したことだった。コロリョフ同様に、自主的な研究グループへの参加が道を切り拓いたのである。from 米国議会図書館

 

人類史上、特筆すべき兵器開発で重責を担ったのは、若き天才科学者ヴェルナー・フォン・ブラウン博士でした。この時代、この国にフォン・ブラウンが居たことは、地球人類にとって大変重要なことでした。もし、フォン・ブラウンがそこに居ないとしたら、何か別のことに導かれたとしたら、人類は未だに月面に辿り着いていないことでしょう。

ただ、フォン・ブラウンの第一歩が、ナチス・ドイツの兵器であったことが、その業績に大いに影を落としていることは間違いありません。そして何より忌むべきは、フォン・ブラウン自身がSSのメンバーであり、V-2の生産工場が強制収容所であったこと。そう、この事実こそが、フォン・ブラウンが世界に冠たる偉大な科学者と称されない理由なのです。

それでも、フォン・ブラウンが地球人類にとって、宇宙技術の父であることは疑いようのない事実です。しかし、ドイツ人であったフォン・ブラウンが、如何にして人類を月に導き得たのか。その答えは、フォン・ブラウンの奇跡のように類まれな生涯を紐解く必要があります。

フォン・ブラウンは、1912年3月23日に現ポーランドのポーゼン州ヴィルジッツに生まれます。父は農業大臣を努めた人物で、母が買い与えた望遠鏡を手にすると、宇宙に対して強い興味を抱くようになります。1923年、ヘルマン・オーベルトの著作「惑星間宇宙へのロケット」を手にしたフォン・ブラウンは、ますます興味を強くし、自ら勉強に打ち込むようになります。

フォン・ブラウンの運命を決定付けたのは、ドイツ宇宙旅行協会(VfR)に参加したことでした。宇宙旅行協会は、1927年7月5日にマックス・ヴァリエによって設立されたもので、会費は年3マルク。この年の終わりには、メンバーは100人を突破します。

ファン・オペルのロケットデモンストレーション。

OPEL

ドイツに於けるロケット研究に先鞭をつけたのは、フリッツ・フォン・オペルとフリードリヒ・サンダーによる、一連のデモンストレーションだった。彼らは、ロケット推進自動車やロケット推進鉄道など、最高速度記録に的を絞った公開実験を度々実施し、大衆の興味を引いた。これに触発されたのが、若き日のフォン・ブラウン少年である。from Wikipedia

 

ドイツに於けるロケットへの先進的な取り組みは、フリッツ・フォン・オペルとマックス・ヴァリエ、フリードリッヒ・ウィルヘルム・サンダーによるオペル-RAKと呼ばれるプロジェクトに始まります。自動車会社オペルの創始者アダム・オペルの孫であるフリッツは、ヴァリエの提案に興味を持ち、ロケット推進航空機の実現によるデモンストレーションプログラムを実行に移します。そこで声を掛けたのがサンダーで、彼の所有するHGコーデス社は黒色火薬製造から手を広げ、信号ロケットを手掛けていました。

まず、彼らが手を付けたのは、ロケット推進自動車でした。1928年3月12日に試運転に成功。4月には、RAK1を試作。最高速度:100km/hを達成します。続いて試作したのが、リヤエンドに120kgの爆薬を詰め込んだロケットを24本搭載したRAK2。5月23日に数千人の観衆を集めた公道サーキット・アヴスで公開試験を実施すると、見事に最高速度:238km/hを達成します。なお、ボディサイドにウイングを逆さに設置し、高速走行時のダウンフォース獲得を考慮していたことは特筆に値するでしょう。

続いての挑戦は、鉄道。6月23日、ハノーバー近郊の5kmの直線上で、RAK3での試験走行を実施。当時の世界最高速度記録を40km/h以上更新する256km/hを達成します。

フォン・ブラウン、止まらないロケットへの興味。

オペルRAKの挑戦は、満を持して空へ向かいます。同年6月に制作されたOPEL-RAKは、コロリョフのGRID-6同様のロケット推進有翼機。ただ、2回目の試験飛行中に、ロケットの一つが爆発。翼面に穴を開け火災が発生したため、高度20mから緊急着陸。機体は投棄されました。続いて、試作されたのがOPEL-RAK.1。1929年9月30日、フランクフルト近郊に大群衆を集め、公開試験が実施されます。RAK.1は、推定最高速度:150km/hに到達し、75秒間・3.5kmの飛行に成功。RAK.1は当時典型的なグライダー機で、翼下に222Nの推力を持つ16本のロケットが搭載するポッドが吊下されていました。

デモンストレーションを目的としたオペルRAKは、大衆にロケットの威力を鮮烈に印象付けます。そして、一人の天才的青年の情熱に、文字通り点火してしまうのです。16歳のフォン・ブラウン青年は、自家製ロケットカー(といっても、花火を付けただけ)を製作。混雑した表通りで誤って爆発させてしまい、大騒動を巻き起こしてしまいます。けれど、自らの使命を見出したフォン・ブラウンの情熱を止められる者は、もう誰も居ませんでした。そんなフォン・ブラウン青年を待っていたのは、運命的な出会いと最大のチャンスでした。

国家機密に指定された、フォン・ブラウンの論文。

ヘルマン・オーベルト

ヘルマン・オーベルトは、フォン・ブラウン生涯の師であった。フォン・ブラウンが宇宙に興味を抱いたのも、師の著作を読んだのがキッカケである。from Wikipedia

 

1930年、フォン・ブラウンは宇宙旅行協会に参加。そこで、ドイツロケット研究のパイオニアであり、生涯の師となるヘルマン・オーベルトに出会います。1932年春にベルリン工科大学で機械工学の学位を得たフォン・ブラウンは、1934年7月27日にはベルリン大学で「燃焼試験について」という論文で物理学の博士号を獲得します。

実際には、この論文はフォン・ブラウンの執筆した膨大な論文のほんの一部に過ぎません。本編と言える「液体燃料ロケットの問題に対する建造、理論及び実験的解決」は、ドイツ軍によって機密指定されたのです。その論文が一般公開されるのは、マーキュリー計画が苦難の最中にあった1960年のことでした。たった、22歳の大学生の論文が四半世紀に渡って国家機密とされ続けたことは、フォン・ブラウンが傑出した能力の持ち主であったことを如実に示していると言えるでしょう。

オーベルトの航空宇宙工学に於ける最大の貢献は、フォン・ブラウンという傑出した人物を育て上げたことでしょう。オーベルトは、アポロ11号の打ち上げを現地で見守るなど、陰日向でフォン・ブラウンを生涯に渡って支え続けます。師の教えに導かれたフォン・ブラウンは、早くも成長の時を終えて、その天賦の才を遺憾なく発揮していくことになります。

ロケット開発に着目するドイツ陸軍と、反発するVfR。

後にフォン・ブラウンは、師オーベルトについて次のように述べています。

「ヘルマン・オーベルトは、宇宙船の可能性について考えたときに、計算尺を用いて数学的に分析された概念と設計を示した最初の人でした。私自身、彼は私の人生の道標となっただけでなく、ロケットや宇宙旅行の論理的・実用的な側面に初めて触れた恩人でもあります。航空宇宙分野に於ける画期的な彼の貢献に対して、科学技術史の中で名誉ある地位が確保されるべきでしょう。」

ドイツは、第一次大戦の敗戦処理に伴うヴェルサイユ条約により、長距離砲の開発・所有を禁じられていました。そこで、条約に反しないロケット開発に着目します。1932年の春ごろ、陸軍兵器局からヴァルター・ドルンベルガーとカール・ベッカーが、宇宙旅行協会の打ち上げ試験を視察に訪れます。陸軍兵器局ロケット開発の責任者であるドルンベルガーは、秘密厳守と軍事転用を条件に宇宙旅行協会に対して支援を提案します。

平和的な宇宙開発を目指す宇宙旅行協会の面々は、これに反発します。ただ一人、この申し出に応じたのがフォン・ブラウンでした。天才技術者を失った宇宙旅行協会は瓦解。大きな成果を残すこと無く、萎むように消えていくことになります。

フォン・ブラウンの選択。それは陸軍を利用すること。

ヴァルター・ドルンベルガー

ドイツ陸軍将校の視察に、笑顔で応じるフォン・ブラウン。最も左が、ヴァルター・ドルンベルガーである。ドルンベルガーは、フォン・ブラウンが理想的な環境で研究に専念できるよう、万策を尽くした。ドルンベルガーは陸軍将校でありながら、ロケット技術を兵器として利用するのではなく、平和的に宇宙旅行を実現することを考えていた。from Wikipedia

 

フォン・ブラウンの友人であり、共にVfRに参加したロルフ・エンゲルはこの時フォン・ブラウンが話したことを覚えていました。

「考えてみろよ、ロルフ。僕たちのロケットの研究を進めたいんだ。だけど僕たちにはそのための資金がない。資金と援助の他にも必要ないろんなものを得るためのたった一つの道が、陸軍なんだ。」

この選択は、極めて正しいものでした。あのゴダードが「世捨て人」とならなければ、NASAは彼によって造られたかも知れません。しかし、この時の最善にして、唯一の選択は、フォン・ブラウンの人生にずっと影を落とし続けることになります。

フォン・ブラウンは、母に望遠鏡を与えられたその日からずっと、宇宙に辿り着くことだけを夢見ていました。研究者の生計させ何ともできないVfRでは、測定機器や実験装置を購入することもままならず、ただ無駄に時間だけが過ぎてく日々を、何よりも悔しく感じていたのです。

陸軍の支援があれば、何だって手に入る。航空機だって、第一次大戦が無ければ、発展は無かった。それはロケットも同じはず。フォン・ブラウンは、陸軍に隷属するのではなく、陸軍を使って自分の夢を叶えることを考えていたのです。

 

クンマースドルフの技術者から、ペーネミュンデの技術責任者へ。

フォン・ブラウンが着手した、陸軍ロケット開発。

当初、ドイツの研究者たちはゴダードの研究に強い興味を抱いていました。実際にゴダードに連絡を取り、技術的質問を行っています。ただ、ゴダードの技術がフォン・ブラウンに不可欠であったとするゴダードの主張は、フォン・ブラウン自身が否定しています。彼によれば、ゴダードの特許を見たことは当時一度もなく、米国で戦後ロケットに関する特許を取得できたことからも、ゴダードの先駆的研究は技術的洗練性に欠けているとしています。

フォン・ブラウンは1932年11月から、ドイツ陸軍兵器局で大型ロケット、すなわち現代で言う処の弾道ミサイルの開発を始めます。ドルンベルガーの主導する弾道ミサイル研究プログラムの拠点は、ベルリンの南25kmにある陸軍のクンマースドルフ試験場に置かれました。1932年12月には液体燃料ロケットの実験場が建設され、フォン・ブラウンはここで偉大なる足跡の第一歩を記すことになるのです。

フォン・ブラウンが設計した弾道ミサイル開発用試験ロケットは、アグレガット・シリーズと呼ばれ、その略であるAが冠されています。V-2は、4番目の設計だったことから、A-4と呼ばれます。

処女作A-1は失敗。新たにA-2の開発に挑む。

アグレガット・シリーズ

ドイツ陸軍が、フォン・ブラウン主導で開発を進めたロケットプランは、アグレガット・シリーズと呼ばれる。これらプランは、A-4開発を目的としたA-1〜A-3、A-5と、A-4の発展型として計画されたプランに二分される。A-10の先端が不思議な形状となっているのは、ここにA-9を搭載し、2段式大陸間弾道ミサイルとする計画だったため。from Wikipedia

 

1933年、現代のロケットの技術的祖先とされるA-1が、フォン・ブラウン自身により設計されます。全長1.4m、直径30.5cm、離陸重量は150kg。推進剤は75%アルコール、酸化剤は液体酸素エンジンとし、窒素ガスで加圧する圧送式ロケット推進システムを搭載し、推力は2.9kNで16秒間の燃焼が可能でした。液体酸素タンクはアルコールタンク内に設置され、その先端に設置された3軸ジャイロスコープシステムによって飛行を安定させる設計でした。エンジンの燃焼テストは問題なく完了したものの、1933年12月21日の発射実験の際、0.5秒後に爆発。実験は失敗に終わります。原因は、エンジン点火前に推進剤が堆積したことにありました。フォン・ブラウンは、A-1の設計を放棄し、新たなロケットA-2の設計に移行します。

A-2は、A-1での教訓から、ジャイロスコープを機体中央の液体酸素タンクとアルコールタンクの間に移設し、機体の重量バランスを改善。また、円筒形の再生冷却式燃焼室はアルコールタンク内に溶接されていました。2基製作されたA-2は、それぞれ当時流行の漫画に因んでマックスとモーリッツと名付けられました。1934年12月19日と翌20日、北海のボルクム島で相次いで発射試験が実施されます。19日には高度2.2km、20日には高度3.5kmに到達。試験は成功裏に完了します。

大きな危険を伴った、黎明期のロケット開発。

1934年3月、クンマースドルフで犠牲者が発生します。90%過酸化水素とアルコールを混合して燃焼させる試験中に、推進剤タンクが爆発。ワームケ博士と助手2名が死亡。1名が負傷します。やはり、ロケット研究に危険が伴うのは確かでした。

アグレガット・シリーズに搭載されたエンジン開発を推進したのは、ヴァルター・リーデルとアーサー・ルドルフです。彼らは、ベルリン工科大学在学中に、オペルRAKを推進したマックス・ヴァリエに出会い、その実験を手伝ううちに研究にのめり込んでいったのです。彼らの師たるヴァリエは、1930年5月17日にエチルアルコールの代わりに灯油を使ってロケットの燃焼実験を行っていた際、爆発に巻き込まれて不慮の死を遂げます。遺されたリーデルとルドルフは、ヴァリエの研究の継ぐことを決意するのでした。

ルドルフは、宇宙飛行協会の会合に出席した際、フォン・ブラウンと知遇を得ます。そして、ドルンベルガーにエンジンをデモンストレーションし、それが認められると、リーデルと共にクンマースドルフにやってきます。こうして二人は、フォン・ブラウンの下で働く事となるのです。彼らは、優秀かつ信頼性の高いエンジンを開発し、フォン・ブラウンのロケット開発に大いに貢献することになります。

開発の舞台は、新天地ペーネミュンデへ。

ペーネミュンデ

1936年、ドイツ陸軍は、ドイツ北東部バルト海沿岸にペーネミュンデ陸軍兵器実験場の建設を開始。1937年5月には、フォン・ブラウンらはクンマースドルフを離れ、広大な新天地に移動。より大型なA-3、A-5の開発を進め、集大成となるA-4の完成を目指す。ただ、巨大研究施設とA-4の存在は早々に英国空軍の知る処となり、手酷く爆撃されることになる。from Wikipedia

 

A-2の成功を見届けたドルンベルガーは、内陸のクンマースドルフでは研究の続行が不可能であることを痛感します。次に計画されていたA-3が、かつてない規模の大型ロケットだったからです。

そこで、1935年のクリスマスまでにドルンベルガーによって新たに選定されたのが、バルト海沿岸に浮かぶウーズダム島ペーネミュンデでした。一説には、フォン・ブラウンの母方の祖父がかつてアヒルを飼っていた場所で、人里離れていたためにここを勧めた、とも言われています。ロケット開発のメッカとなるペーネミュンデでは、急ピッチで試験施設・各種設備、建屋が建設されます。1937年5月には、いよいよペーネミュンデ陸軍テストセンターが稼働を開始します。

A-3は、A-2同様に75%アルコールと液体酸素を用いた圧送式ロケットエンジンを搭載。ただ、その推力はA-1、A-2の約5倍となる14.7kNに達し、連続燃焼時間は45秒まで延伸されました。燃焼室は基本的にはA-2をスケールアップしたものでしたが、リーデルの設計に基づいて改良が成されています。キノコ型のインジェクターが燃焼室上部に設置され、上向きに噴射されるアルコールと、下向きに噴射される酸素がより良く混合されることで、燃焼効率が向上。より高い燃焼温度を得たのです。

慣性誘導システムとジェットベーンを搭載するA-3。

A2&A3

[左]A2の断面模型。エンジン本体は、アルコールタンク内にすっぽりと収納されている。その上部にはジャイロがあり、そのさらに上には液体酸素タンクが配置されている。[右]A-2と比して、一気にそのサイズが増したA-3。フォン・ブラウンは、A-3で技術完成度を高めて、一気に本命A-4に取り掛かる計画であったが、A-3の試験結果が思わしくなかったため、一旦A-5へ迂回を余儀なくされる。from 米国議会図書館

 

ロケット本体の形状は、超音速領域での安定性を得るため、8mm銃弾の形状をベースとしていました。全長は6.74m、直径0.68m、発射重量は748kg。慣性誘導システムは、3軸ジャイロスコープシステム及びピッチ・ヨーの加速度計と、モリブデン-タングステン合金のジェットベーン及びこれを駆動するサーボモータ構成され、ベーンを同相に作動させてピッチ・ヨーを、逆相に作動させてロールを制御しました。

1936年2月、クンマースドルフで進められていたA-3の静的地上試験を、陸軍最高司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュが視察。感銘を受けたフリッチュは、プログラムの支援を確約します。フォン・ブラウンのロケット開発は、いよいよ国家的注目を浴びつつあったのです。そこで、ドルンベルガーは1937年9月1日に、完成間近いA-3を4基発射実験を行うという、ライトハウス作戦と銘打った実験計画を策定し、これをフォン・ブラウンに命じます。

実験場所に指定されたのは、バルト海に浮かぶグライフスヴァルターオイエ島。ところが、予定していた11月上旬、島は想定外の暴風雨に見舞われます。

失敗に終わった、離島でのライトハウス作戦。

事前に準備されていたテントは崩壊し、A-3を輸送するフェリーは到着が遅れました。その上、歯の丈夫なネズミが、タール紙と電話ケーブルをカジッてしまいます。結局、発射準備が整うには12月を待たねばなりませんでした。

12月2日、最初の打ち上げ予定日は、天候と技術的問題により中止。4日午前10時に初めて行われた試験は、失敗に終わります。A-3は3秒間垂直に上昇したものの、突如パラシュートが展開。炎上してロケット本体を引きずった上、7秒後にはエンジンが停止。300m先に落下して爆発炎上したのです。原因究明のため、残骸回収を図りますが、原型を留めるものは殆どありませんでした。続いて、6日午後に第2回の実験が実施されますが、同様にパラシュートが勝手に展開、崖の先7m程のところで再び爆発炎上します。

8日に行われた3回目の実験は、誤作動するパラシュートに代えてフレアを用います。ところが、A-3は発射後、垂直方向から風に向かって旋回し、4秒後にフレアが作動。高度:300mでエンジンが停止すると、パラシュートで減速できないA-3は海上に叩き付けられ、海中で爆発します。

11日朝には、4基目の試験が実施されますが、結果は同様でした。

本命A-4を先延ばしにし、A-5での試験を優先。

ペーネミュンデ2

ペーネミュンデの第1燃焼試験場のコントロールームで、ペリスコープを覗き込むフォン・ブラウン。from 米国議会図書館

 

実験が失敗に終わる度に、ドルンベルガーとフォン・ブラウンは懸命に原因究明を図ります。当初疑われたのは、パラシュートの静電気による誤作動でした。しかし、これは尽く反証されます。最終的に至ったのは、試作された慣性誘導システムが依然不完全であったというものでした。

後の検証によれば、この慣性誘導システムは風速:3.7m/s以上ではロケットの旋回を止めることが出来ず、ジャイロの可動範囲が30°以内に制限されていたため、これ以上の角度を検知したためパラシュートが自動的に作動していたと結論付けられます。また、胴体とフィンの設計に小さな不安定性があり、この設計を改める必要もありました。加えて、意図しないロールを制御するには、ジェットベーンはより速い動作と、より大きな制御力が必要でした。

ライトハウス作戦の失敗を受けて、A-3の開発は直ちに放棄され、次なる本命のA-4ロケットの開発は延期として、別途検証用実験ロケットであるA-5の設計作業が開始されることとなります。A-5は、既に設計が進められていたA-4のスケールモデルです。ドルンベルガーとフォン・ブラウンは、A-5で徹底した試験を実施することで、A-4の技術的整合性を高めることに成功するのです。

1939年10月、A-5の誘導飛行試験に成功。

A-5のエンジンは、A-3と共通。ただ、それ以外は全く新たな設計が採用されていました。全長:5.83m、直径:0.78m、離陸重量:900kg。ロケットの形状はスケールモデルによる風洞実験によって改善が成され、フィンはより幅広で外側に湾曲した形状とされました。また、ジェットベーンはモリブデンに代わってグラファイト製とされています。1938年9月には、He-111から投下試験が実施され、超音速領域での飛行特性が試験されています。

A-5最初の打ち上げ実験が行われたのは、この年の秋のこと。グライフスヴァルターオイエ島で、まずは無誘導で試験を実施。翌年10月、A-5は漸く誘導飛行試験に成功します。このA-5では、A-3の失敗原因となった慣性誘導システムが徹底的に試験されます。また、爆撃目標へ誘導するため、指定速度で推進力をカットし、弾道飛行させる無線システムも搭載されていました。

当初搭載されたのは、クライゼルゲラート社製のSG-52完全誘導制御システム。姿勢制御及び機体傾斜プログラムに、3ジャイロ安定化プラットフォームを採用し、アルミ製ロッドでジェットベーンを制御しました。続いて、1940年4月24日にはシーメンス製制御システム、30日にはメラー・アスカニア製制御システムがテストされています。

堅実に完成度を高める、フォン・ブラウンの開発手法。

1943年10月までに、A-5は合計80回に渡って打ち上げが実施されます。逐次改良が施されつつ、精度・信頼性を高めていった結果、最大高度:12km・射程:17.7kmにまで達していました。ドルンベルガーとフォン・ブラウンは、A-5開発を通じてロケットの空力特性に関する理解を深め、より優れた誘導システムを実現してました。いよいよ、機は熟しつつあったのです。

ドルンベルガーは、次のように述べています。「私は、どんな砲よりも遥かに優れた射程距離を持つ武器を作ることに成功するべきだと考えた。A-5で成功したことは、A-4でも同じように、改良された形で有効であるはずだ。」

大型ロケット開発に確固たる理解と確信を得たドルンベルガーとフォン・ブラウンは、いよいよ本命たるA-4開発に本格着手するのです。当時、荒唐無稽前代未聞の兵器開発を数多く手がけていたナチス・ドイツ。もしかしたら、フォン・ブラウンが居なければ、A-4もナチスの幻として、そこに名を連ねていたかも知れません。しかし、A-4は完成してしまうのです。

フォン・ブラウン、若干31歳。A-1の実験失敗から、たった11年。宇宙旅行協会に参加して、たった14年。爆発騒ぎを起こして、たった15年。フォン・ブラウンは国家を代表するロケット技術者となり、今や世界をリードする存在となっていました。

国立研究施設の頂点に君臨するフォン・ブラウン。

ペーネミュンデ3

ペーネミュンデのオフィスで、執務に臨む若き日のフォン・ブラウン。from US ARMY

 

駆け出しの技術者フォン・ブラウンは、ナチス・ドイツが国家を挙げて建設した「大規模研究施設要塞」ペーネミュンデのトップに君臨していました。しかし、フォン・ブラウンを生意気な権威主義の若造と、影で罵る者はいませんでした。寧ろ、多くの人々はその若者の人間的魅力に触れ、憎むよりも遥かに魅了されていたのです。

その長身で眼光鋭い若者は、常に人の輪の中心にいました。彼が部屋に入ると、それに気が付かない者は誰もいないのです。まるで、引力に引き寄せられるかの如く、自然と人を惹き付けていくからです。そして、彼は全ての問題に誰よりも精通していました。

「こんにちは、博士。調子はどうです?」そんな調子でたくさんの研究室を回っては、少しも横柄な態度を見せることなく、鋭く問題点を突く質問を行っていきます。そうやって、各分野の研究開発について、常に正確に状況を把握していたのです。

問題に遭遇すると、フォン・ブラウンは鋭く適切に質問を投げかけます。例え、技術者が答えに窮しても最大の注意を払って、辛抱強く話を聞くのです。問題を適切に把握し、膨大な知見と情報と照合し、正確に問題を解析して、慎重にそれを解いていきました。そして、その答えは誰よりも創造的な考えを刺激するもので、研究者から最大限の能力を引き出していったのです。

 

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