スバルショップ三河安城の最新情報。世界初の超音速飛行、チャック・イェーガーの挑戦。| 2024年8月9日更新
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音の壁を打破して、未来へ突き抜ける勇気。
音の壁(Sound barrier)。それは、実在しない空想の障壁。しかし、1947年10月14日に偉業が達せられるまでは、それが存在しないと断言できる者は、誰一人いなかったことも事実です。未来から顧みて、壁を恐れる者を嘲笑うことは、誰にだって出来るでしょう。しかし、壁に果敢に立ち向かって、その恐怖を打破するには、命を捨てる覚悟が無くてはなりません。だからこそ、チャック・イェーガーの偉業は偉大なのです。
人類はそうした「ブレイクスルー」を幾度も繰り返すことで、今に至っている事は決して忘れてはなりません。過去の延長線上という束縛(それを、当時は音の壁と当時呼んでいた)を打破して、未来に突き抜ける勇気。それが無いのなら、ただ時代の敗者として敗れ去るだけなのです。
イェーガーが史上初の超音速飛行に挑むに際し、当時そこに関わっていた人たちが、如何なる勇気と信念を持って、壁に立ち向かっていったのでしょうか。そして、21世紀に生きる私たちは、彼らから何を学ぶべきなのでしょうか。
人類が挑んだ、音の壁。それは、本当に存在するのか。
リパブリック社の超音速プロペラ試験機XF-84Hサンダースクリーチ。ジェット戦闘機F-84を改造し、ダーボプロップに換装した実験機。先端速度が音速を超えるのが前提の設計であったため、プロペラからは凄まじい騒音と連続した衝撃波が発生。その騒音は、付近で作業中の整備士を失神させ、飛行場の管制装置に異常が生じる程だったいう。from Wikipedia
超音速領域を最も難解にした、空気の圧縮性の影響。
人々が、音の壁を信じていた理由は、唯一つ。音速を越えた領域が、全く未解明だったからです。音速とは、媒質中を伝わる振動の最高速度であり、これを超える際には衝撃波等の様々な特異な現象が生じます。特に深刻だったのは、航空機の速度向上に際して、劇的に現れる空気の圧縮性の影響でした。
よく知られていたのは、プロペラでの影響でした。プロペラ機の速度を向上させるには、プロペラの回転速度を高めねばなりません。すると、プロペラ先端の速度が音速に限りなく近付き、時に音速を越える場合があり、劇的な効率の低下に遭遇したのです。原因は、プロペラ先端で衝撃波が生じたことにありました。
一般に、線形性が維持される現象の解明は容易です。例えば、「十分に大きい物体」の物理学は、現象に十分線形性が維持されるため、理解は難しくありません。しかし、それが「十分に小さい物体」となると、現象に線形性は失われ、その理解は途端に難しくなります。当時の超音速に対する理解も同様でした。すなわち、音の壁は現象論的に存在しただけでなく、理学上にも存在していたと言えるでしょう。
[左]超音速領域の研究に多大な貢献を果たした、エルンスト・マッハ。[右]航空工学の父と呼ばれる、セオドア・フォン・カルマン。from Wikipedia
1930年代に始まった、高速飛行に関する研究。
音の壁に最初に挑んだのは、19世紀の数学・物理学者であるエルンスト・マッハでした。1887年、シュリーレン法と当時最新の写真技術を用いたマッハは、音速を越えた場合に空気に劇的な変化が生じ、衝撃波が発生することを実験的に示しました。マッハは生涯を通し、超音速飛翔物体と空気の流れ、圧縮性と音速の関係の研究を続けています。
超音速飛行への胎動が始まったのは、半世紀後の1935年のこと。9月から1ヶ月に渡ってローマで開催された、「高速飛行に関する第5回国際会議」。これを機会に、世界各国に超音速風洞が建設され、後退翼の研究が始まるなど、高速飛行、そしてその先の超音速飛行への期待が高まっていくこととなります。
この会議に米国代表として参加していたのが、「航空工学の父」とも呼ばれるセオドア・フォン・カルマンでした。カルマンは、風洞を用いて超音速に関する研究を進めたものの、マッハ0.75~1.3の領域で風洞の壁に反射した衝撃波の影響を回避することができず、正確なデータを得ることは不可能でした。そのため、超音速飛行は依然、研究の領域に留まらざるを得なかったのです。
ジョン・スタックと、イーズラ・コッチャー。
この頃、米国では超音速飛行は重要な研究テーマとして、多いに関心を呼んでいました。この研究に取り組んでいた中に、X-1に繋がる重要な人物を見ることができます。
一人は、NACA(全米航空諮問会議委員会)のラングレー記念航空研究所圧縮部門のジョン・スタック。そして、もう一人は、陸軍航空軍ライト・フィールドの航空学校講師イーズラ・コッチャーです。
コッチャーは1939年、陸軍航空軍の高官が参加したキルナー=リンドバーグ委員会で講演した際に、超音速風洞のデータを検証することを目的に、ジェットエンジンもしくはロケットエンジンを動力源にした超音速実験機の製作を訴えます。8月には、講演を報告書にまとめ、航空軍参謀長"ハップ"・アーノルド少将に提出します。
1943年、英国で開発中のジェットエンジンの調査のため、陸軍航空軍、海軍、NACA及び主要航空機メーカーの代表で構成された視察団を派遣。その有効性を確信したことで、ジェット機開発が米国でも本格化。さらに、音速突破を目的とした実験機開発も視野に入りつつありました。
米国初のジェット戦闘機であるベル・XP-59A。from Wikipedia
遷音速域で生じた、未解明の激しいバフェット。
1942年10月に米国初のジェット戦闘機XP-59の飛行に成功していたベル社は、ロバート・ウォルフ技師を中心に高速飛行に関する研究を進めていました。1943年12月、NACAに対して超音速機の開発が可能であることを表明します。しかし、その実現には、強力なジェットエンジンが不可欠。つまり、この時点ではベル社の提案は、良くあるペーパープランの一つに過ぎませんでした。
1940年代半ば、2000ps級のエンジン開発に目処が立ち、戦闘機の高速化は一気に進展。この頃になると、P-38ライトニングやP-47サンダーボルトといった新鋭機に於いて、パワーダイブで遷音速に達する事例が報告されるようになります。しかし、翼上面やプロペラ先端が一部でも音速を越えると、激しい衝撃波が発生。空気の特性が著しく変化して、機体は激しいバフェッティングに見舞われて操縦不能に陥り、最悪の場合は機体が破壊されることすらありました。
この未解明の恐ろしい現象を目にした人々は、そこに「音の壁」があると信じざるを得なかったのです。音の壁は、悲劇の教訓であり、蛮勇を憂う戒めでもありました。
1944年1月、超音速実験機開発への胎動。
NACAのラングレー研究所で圧縮部門のトップにあったジョン・スタックは、イーズラ・コッチャーとともに、XS-1計画の推進に尽力した。from NASA
大戦の最中に開始された、マッハ0.999の研究。
莫大な戦費の影響をまともに受けた高速飛行に関する研究は、1944年1月に陸軍航空軍資材部が漸く予算の確保に成功。遂に、「600~650mph(966~1,046)の領域での空力特性」の調査・研究を目的とした超音速機研究にゴーサインが出されます。NACAは、これに呼応して2月に「高速飛行審議会」を設立。NACA本部の総合調査部長ラッセル・ロビンソンを議長とする審議会が開催され、ジョン・スタックもこれに参加します。一方のコッチャーは「マッハ0.999の研究」と第する報告書を提出しています。
ここで問題となったのは、「強力なエンジン」でした。当時のジェットエンジンは推力が低く、4機程度の搭載が必須となるため、重量面での不安が指摘されていました。一方、ロケットエンジンは推力は十分でも、燃焼時間が短いという欠点を抱えていました。何れにせよ、超音速機の研究が具体的進展を見せ始めたのは確かでした。
1944年4月は第二次大戦の戦況の分岐点にあり、ノルマンディー上陸作戦及びサイパン島上陸作戦という大規模作戦の準備段階にありました。この情勢下で超音速実験機の計画を進める米国には、恐ろしさすら感じます。
陸軍航空軍と海軍の2つのプロジェクト。
1944年3月16日、NACAと陸軍航空軍資材司令部技術部、海軍航空局の3者は、ラングレーで会議を開催。超音速飛行へ向けた研究の現状と今後の方針を議論します。ここで鮮明になったのは、3社の方針の違いでした。
陸軍は、直ちに音速突破を目指すべきと主張。これに対し、海軍はデータを蓄積しつつ、徐々に音の壁に近付くべきとしたのです。結果、両者は袂を分かち、NACAと協力の上で各々別のプロジェクトを進めることとなったのです。何れにせよ、陸軍と海軍は何処でも水と油。これ以後、両者は先陣を切るべく、プライドを掛けた熾烈な競争に挑むこととなります。
NACAにしてみれば、こうして2つのプロジェクトが進むことは、決してマイナスではありませんでした。別のアプローチを取ることが、半ば保険として作用するだろうと考えたのです。
ベル社社長ラリー・ベルは、4月14日にNACAに対して、超音速実験機の概念図を提示しますが、肝心のベル社に対する陸軍の信用が十分でなく、そのプランは半ば無視されることとなります。
ロッキード社のケリー・ジョンソンがたった183日で開発した、米国初の制式ジェット戦闘機P-80。from Wikipedia
極端な薄翼を持つ、ジェットエンジン搭載の小型機。
1944年5月、陸軍航空軍は超音速実験機計画を優先順位第1位に指定。プロジェクトを、パワーダイブによる遷音速飛行、ロッキードP-80Aによる遷音速飛行、超音速実験機による超音速飛行という、3段階で進めることを決定します。
8月、NACAはコッチャー少佐に対し、全備重量:2,900kg、ウェスティングハウス製ジェットエンジン4機(合計推力:2,900kg)を搭載し、推力重量比1:1を実現する小型機のプランを提示。加えて、腹案としてゼネラルエレクトリック製ジェットエンジン(1,814kg)を単発の機体案も提示します。ただ、このようなプランでは、推力重量比1:1の達成は不可能であり、強力なエンジンの確保は喫緊の課題でした。
NACAは、機体に関する具体的な提案も行っています。主翼は、リスクを避けて直線翼を採用しつつ、衝撃波の発生を遅らせるために、極端な薄翼(翼厚比:8~9%ないし12%)とすることを提案したのです。当時、既に後退翼のメリットは明らかだったものの、NACAは無謀な冒険を避けたのです。また、強烈なバフェッティングに耐える耐えるため、+12~15Gの荷重に抗し得る強固な設計が必要であるとしています。
ベル社が受注に成功。但し、完成目標は1年以内。
機体の設計・製造を行うメーカーとして候補に上がっていたのは、ノースアメリカンとリパブリックの2社でした。ところが、彼らは興味こそ示したものの、P-51及びP-47の開発・生産に忙殺されており、これに関わる余裕はありませんでした。
そこで、天はベル社に運を授けます。11月30日、悩むコッチャーの元を、ベル社主任設計技師ロバート・ウッズが不意に訪れたのです。ウッズは、人類初の超音速実験機の製作を申し出て、この世紀のプロジェクトの受注に成功します。
コッチャー少佐のベル社に対する要求は、「マッハ0.8まで安全に操縦できる遷音速機」でした。両者は断続的に協議を重ね、1944年末までに高速実験機計画MX-524の概略を決定します。その概略は次の通り。当面の目標を遷音速に関する研究とするが、超音速飛行も考慮しておくこと。離着陸にはドリー(台車)とソリを使用すること。高度35,000ftまで上昇後、10分間の水平飛行が可能であること。完成目標は1年以内。
一点難航したのが、推進力の選定でした。NACAとベル社がジェットエンジンを主張したのに対し、コッチャーはロケットエンジンを主張したのです。
ノースロップが試作した、XP-79B。 水平尾翼を持たない全翼機である。 ジェットエンジン2基を搭載した試作戦闘機であり、敵爆撃機に体当たりするミッションが想定されていた。本来ならば、ロケットエンジンを搭載する計画であったが、これが間に合わず、3機発注済みのXP-79は一旦キャンセルとなる。しかし、これをジェットエンジン搭載として復活させたのが、XP-79Bである。from Wikipedia
ロケットエンジンを強く主張するコッチャー。
コッチャーがロケットエンジンを主張したのは、自身が関与したノースロップのXP-79Bの経験があったからでした。
XP-79は、ジャック・ノースロップが設計した試作戦闘機であり、尾翼を持たない全翼機という特徴的な設計を有していました。そのため機体が極めて薄く、パイロットはうつ伏せ状態での操縦を強いられました。この奇妙な航空機の目的が、敵の爆撃機に「特攻」することにあったのは、歴史上の事実として特筆すべきでしょう。
XP-79は、搭載するロケットエンジンに問題が生じたため、1機の製造で中止。これをウェスティングハウス製ジェットエンジンに換装した、XP-79Bが新たに製造されます。
完成したたった1機のXP-79Bは、1945年9月12日に初飛行に漕ぎ着けます。ところが、離陸から15分後、スローロールの試験中にXP-79Bは、突如原因不明の制御不能に陥ります。機首を下げながらロールを続け、回復不能なスピンに。。。テストパイロットのハリー・クロスビーは、ハッチを開けて脱出を図るも、スピンする機体の主翼に激突。機体もろとも乾湖の硬い地面に叩き付けられて死亡したのです。
世界初の超音速実験機XS-1の誕生。
砲弾型の機体、ロケットエンジン搭載のベルXS-1。
搭載するエンジンが決まらないMX-534でしたが、これに先行して機体の検討が進められています。機体形状は弾丸型とすることとし、陸軍アバディーン兵器実験場で、当時唯一の超音速飛行体であった12.7mm機銃弾の試射を見学。その結果、風貌も機体から突出しない形状とすることに決定します。
計画名称はMX-653(ベル社内名称:モデル44)に変更となり、1948年3月16日、ATSC(航空資材本部)とベル社の間でXS-1(Experimental Supersonic-1)3機の製造契約が締結。同時に、XS-1の計画全体が機密指定となります。4月26~28日には、ベル社ニューヨーク工場にて最初のモックアップの審査を実施されています。
課題だったエンジンは、コッチャーの主張通り、リアクション・モーターズ社が海軍向けに開発中のXLR11を搭載することに決定します。XLR11は、燃料のアルコールと酸化剤の液体酸素を用いる方式で、従来の硝酸とアリニンを用いる方式よりも、高い安全性を確保していました。ただ、離陸から高度35,000ftまで達するのに、4tもの燃料を必要とするため、機体の設計変更を余儀なくされます。
リアクション・モータース社が開発した、ロケットエンジンXLR11。液体酸素とアルコールを燃料とし、圧縮窒素ガスで制御を行う機器構成。自重はたった95kgながら、6.7kNの推力を持つ4本の燃焼室を有し、合計27kNの最大推力を発揮する。from Wikipedia
XLR11の搭載により、離陸重量が2倍以上に。。。
当初、コッシャーが描いていたのは、重量2,900kgという小型の機体。ところが、XLR11を搭載することで、予定のフライトプランをこなすには、この倍以上の離陸重量6,150kgが必要と算出されます。
これは非常に危険な兆候でした。自重の増加は燃料搭載量の追加を必要とし、それに伴う自重の更なる増加は、エンジン出力の増強を求め、一層の自重の増加を招きます。このスパイラルに陥り、頓挫した計画は、これまでに数知れません。
ただ、エンジンに端を発する問題はこれだけに留まりませんでした。GE製燃料噴射用ターボポンプに実用化の目処が立たず、これを置き換えるために、12個もの圧縮窒素ビンを搭載する必要に迫られたのです。この場合、液体酸素の予圧の必要があり、ステンレス製タンクにより高い強度が求められます。この結果、搭載燃料は当初予定の60%に留まる上に、離陸重量は7,000kgに到達。最大出力での噴射時間は、たった2分30秒まで減じられてしまったのです。特に心配されたのは、急激な圧力変化で強いストレスを受けるであろう、主翼でした。
母機に選定されたB-29(45-21800)が爆弾倉にXS-1を懸吊した姿。機首には、米国人らしいセンスに溢れたユニークなノーズアートが描かれている。from Wikipedia
地上発進を諦め、空中発進へ。母機B-29の改造。
このままでは遷音速さえ怪しいという状況に、打開策が模索されます。導かれた答えは、母機からの空中発進でした。XS-1をB-29の爆弾倉に吊下し、必要高度に達した時点でリリース。自由落下しつつ、エンジンに点火して一気に駆け上がる、というフライトプランを選択したのです。
ベル社はB-29の生産ラインを保有していたものの、構造上の問題から、母機に選定されたのはボーイング社レントン工場製の機体(45-21800)でした。この機体のシリアルNoからは、恐ろしい米国の生産規模を窺い知ることができます。
母機となるB-29は改造のため、ベル社ニューヨーク工場に運び込まれます。XS-1の尾翼に合わせて、爆弾倉後部を切り欠き、不足する強度を鋼材で補強。そして、機首には、弓でミサイルを放つ赤ん坊をコウノトリが運ぶノーズアートが描かれました。
このB-29は長らく現役にあって、一旦後継機B-50A(46-006)に譲ったものの、すぐに事故で失われたため、1946年1月から1958年11月まで、13年の長きに渡って使用されることになります。
翼厚比8%と10%の2種類の主翼を比較。
XS-1は、超音速という未知の領域での、未知の負荷に耐えるために、全く常識外の+18Gを許容する機体強度が与えられました。砲弾型の胴体は、アルミ合金製のセミモノコック構造。
主翼はアスペクト比を6.03としたものの、翼厚比の結論がなかなか出ません。結局、1号機には翼型をNACA65-108とした、翼厚比10%の主翼と、8%の水平尾翼を。2号機には65-110タイプの翼厚比8%の主翼と、6%の水平尾翼を与え、双方を比較検討することになりました。
通常の倍近い負荷に耐え得る強度を実現するため、主翼外板には1枚板からの削り出しで、その厚さは付け根部で12.7mm、翼端部で0.79mmとします。
これに加え、翼面上の圧力分布の把握をNACAが求めたため、左翼に240個もの穴が開けられ、歪ゲージ12個も設置されました。機体全体では、何と400個もの穴が設けられることとなります。NACAの試験目的は、ただ単に音速を突破することではありません。遷音速・超音速領域での正確なデータ収集を図り、今後の超音速機開発に資することにあったのです。
XS-1の概要。胴体中央に液体酸素タンク、後方にアルコールタンクを備え、この他、隙間を埋めるように、燃焼室へ推進剤を圧送する窒素タンクを複数設置している。from NASA
機体を占拠する、巨大な2つの燃料タンク。
当初はV字翼も検討したものの、結果的には操縦翼は主翼後縁のエルロン・フラップ、水平尾翼のエレベータというコンベンショナルな設計を採用。エルロン、フラップの作動には、圧縮窒素ガスを用いた他、エレベータは電気モータで窒素ガスのアクチュエータを作動する方式で、その作動角は+5~-10度とされました。
砲弾型の胴体は、コックピットと計測機材の他は、ほぼ全てがタンク。前方に1,177Lの液体酸素タンク、後方に1,110Lのアルコールタンクを搭載し、ターボポンプの代用となる圧縮窒素タンクも詰め込んだため、燃料パイプやケーブル類は胴体内に収納できず、機体上面に張り出したスパイン内に収められました。
右側面の乗降用ドアは外側からの取り外し式とし、外からはめた後に内側からハンドルでロックする方式。高度35,000ftを飛行するXS-1では、コックピットの予圧が必要だったため、完全なシーリングを施す必要があります。ところが、このシーリング材が不完全なため、実際には予圧が漏れ続ける状態。そのため、窒素ガスで外気圧より若干高く維持することで、当面の対策とします。結局、この問題の解決は3号機まで待たれることになります。
XS-1のコックピット。右側2列目最上段にあるのがマッハ計。手書きで「2」「3」と書かれた下にあるトグルスイッチが、XLR11の各燃焼室をON/OFFするスイッチである。from NASA
タイトなコックピット、但し脱出は不可能。。。
特徴的な風防は、2層のプレキシグラスで構成され、層間に乾燥空気を満たして曇りを防止しました。
予圧と重量の問題から射出座席は設置されておらず、機外へ脱出する場合は乗降用ドアを投棄して、パラシュート降下を図るしかありません。ただ、XS-1の薄い主翼がすぐ背後に控えるため、実際には安全な脱出は不可能。「空飛ぶ棺桶」とも言える設計でした。当時のテストパイロットが、如何なる立場・状況にあったかが窺い知れるでしょう。
当初計画のソリは、地上での取り回しが余りに不便だと考えられたため、降着装置を圧縮窒素ガスで作動する3点式車輪に変更しています。しかし、前脚の強度は結果的に不十分でした。主翼面積の小さいXS-1は翼面荷重が大きく、低速時の機体沈下率が非常に高く、前脚の折損事故が頻発したのです。
結局、車輪式を採用したのはXS-1のみで、X-2やX-15ではソリが採用されるに至っています。ただ、それでも前脚の折損事故は減ることは無かったのですが。。。
空軍博物館に展示される、XLR11エンジンのカットモデル。系統毎に色分けされており、シルバーが窒素系、赤がアルコール系、緑がアルコール系。ターボポンプに加え、膨張比の大きなノズルもないため、今日的なロケットエンジンと比較して、その成り立ちは大きく異なっている。米国ロケットエンジン技術が発展するのは、ドイツから移送したヴェルナー・フォン・ブラウンらの知見が活かされた後のことである。from US Air Force
4段階で出力制御する、ロケットエンジンXLR11。
エンジンのXLR11-RM-3(モデル6000C4)は、推力6.7kNの燃焼室4本を束ねたもので、各燃焼室のON/OFFのみで推力制御を行うため、推力制御はたったは4段階。燃焼室は、外側に配されたジャケットを通過する-148.9度の液体酸素で常に冷却される構造となっています。
コックピット内は、各種計測器と送信機で埋め尽くされています。右翼端には速度記録用のピトー管、機首にもピトー管が設置され、左翼端には偏流測定用の送信機が設置されています。操縦桿はH型で、パイロットはこれを両手で操作しました。また、パイロットの肩越しに撮影するガンカメラを設置していました。
1945年12月12日、鮮やかなオレンジに彩られたXS-1の1号機(46-062)が、ニューヨーク工場にて完成。計測機器を機体に取り付けを終えて12月27日にロールアウト。XS-1は、1946年1月3日から3日間に渡って、航空資材本部(AMC、旧ATSC)による検査を受けます。
そして、1月18日。母機B-29の爆弾倉に括り付けられると、4時間30分かけてフロリダ州パインキャッスル飛行場に移動します。
予備的なテストフライトに挑む、XS-1・1号機。
YP-59Aのテストフライトに臨む、ジャック・ウーラムズ。ウーラムズはベル社主任テストパイロットであったため、XS-1の初期のテストフライトを積極的に行った。しかし、P-39改造レーサーで飛行中に事故死してしまう。from US Air Force
XS-1初の無動力滑空飛行と1号機と2号機の主翼交換。
1月25日、XS-1は遂に初飛行を迎えます。ただ、XLR11の完成が遅れていたため、代わりにバラストを搭載。無動力滑空試験となります。パイロットは、ベル社の主任テストパイロットであるジャック・ウーラムズ。
慎重にも慎重を期して、高度27,000ftに上昇したB-29は、内側の第2、第3エンジンを停止。プロペラをフェザリングとして、速度を290km/hまで減速。ここで、XS-1を切り離します。フワリと浮いたXS-1は、操縦性、失速性能等の試験を実施。9分42秒の飛行を終えて、無事パインキャッスル飛行場に着陸します。
ただ、2月8日に実施された第4回目のテストで、着陸時の衝撃で左主脚が引き込み、左翼を破損。修理を終えた2月19日の第5回目のテストでは、前脚の故障で機首を破損。早々に2回の事故に見舞われます。3月6日、合計10回の無動力飛行テストを終了すると、1号機はニューヨーク工場に戻されます。
ここで、完成間近の1号機と2号機で主翼の交換を実施。これに伴い、8%の主翼と6%の水平尾翼が1号機に、10%の主翼と8%の水平尾翼は2号機に装着されることとなります。
XS-1、初の動力飛行試験に成功。マッハ0.795に到達。
ここで、ベル社を悲劇が襲います。テストの合間を縫ってレース出場準備中だったウーラムズが、P-39改造レーサーで事故死したのです。新しい主任パイロットには、チャルマーズ・グッドリンが指名されます。
そして、遅れていたXLR11が、リアクション・モーターズ社にて漸く完成。2号機に先行して搭載されます。この2号機による動力飛行試験は、ミューロック乾湖で実施されることとなり、10月11日にテストが再開されます。
12月9日、5回目(通算15回目)の飛行で、XS-1はXLR11に初点火。グッドリンは、高度9,000ftで2号機に乗り込むと、チェイス機のP-51に見守られつつ、11時54分に高度27,000ftで母機からリリース。10秒後に第1燃焼室に点火。上昇を開始。続いて、第2燃焼室に点火。すぐにOFFとするも、上昇率は792m/minに達します。高度35,000ftまで到達すると、第2燃焼室に再点火。一気に加速すると、速度はマッハ0.75(NACAの記録計でマッハ0.795に達していたことが判明)に達します。この後、全燃焼室に点火して、上昇力を確認。無事、テスト項目を完了して、12時13分にミューロックに着陸します。
ミューロック乾湖で強い日差しに照らされる、XS-1。1946年の修復時の換装により、1号機は8%の翼厚比の主翼を、2号機は10%の主翼が与えられた。空軍とNACAの方針の違いから2機のXS-1は袂を分かつこととなり、1号機は空軍の管轄下で、2号機はNACAの管轄下で試験を実施することとなる。from US Air Force
ベル社での社内試験を終了。NACAとAMCの対立。
続いて、1947年1月17日の飛行では4本の燃焼室に点火。マッハ0.828に達します。さらに、漸くXLR11を搭載した1号機のテストを再開。グッドリンは、4月11日に1号機初の動力飛行に成功します。
これを以て、ベル社は責任目標のマッハ0.8を達成。機体の安全性も証明されたことから、6月5日の通算37回目の飛行を以て試験を終了。機体は、陸軍航空軍とNACAに正式に渡され、記録への挑戦も新たな舞台へ移されることとなります。
ところが、AMCとNACAは、XS-1の試験の進め方について再び対立してしまいます。NACAは、後退翼の実験機X-2の開発を進めるベル社を含め、3者共同でデータを蓄積しつつ、慎重に音速に迫ることを主張。これに対し、AMCは一気に音速突破を狙うとを主張したのです。結局、1号機はAMCで、2号機はNACAで、各々試験を進めることで決着。両者は袂を分かち、試験を各々進めることとなります。
不屈の闘志と図太い神経、沈着冷静な判断力を兼ね備えた、稀有な男。
ミューロックに現れた、生意気ざかりの仮免テストパイロット。
1947年7月半ば、XS-1のテストフライトが実施されるミューロック乾湖に、ライトフィールド基地から派遣された3名の若者が降り立ちます。彼らは、控えパイロット:ボブ・フーバー、フライトエンジニア:ジャック・リドリー、そして正パイロット:チャック・イェーガーの3名。生意気盛りの彼らに課せられた任務は、「音の壁を破る」こと。ここに、彼らの命を賭けた挑戦が始まることとなります。
1923年2月13日生まれのチャック・イェーガーは、ウェストバージニア州出身。山野を駆け抜ける野生児として育ち、1941年6月に陸軍入隊。9月に整備士に任じられ、1942年7月には航空学生に選ばれます。空の魅力にすっかり取り憑かれたイェーガーは、1943年3月10日にウイングマークを獲得。第363戦闘飛行隊に配属されると、1943年12月に前線への異動を命じられます。その直前、イェーガーは、グレニスという美しい女性に出会い恋に落ちます。
しかし、運命とは皮肉なもの。幸せの絶頂にあったイェーガーを待っていたのは、実に過酷な運命でした。
左から、フライトエンジニア:エド・スウィンデル、バックアップパイロット:ボブ・フーバー、母機B-29パイロット:ボブ・カーディナス、パイロット:チャック・イェーガー、ベル社エンジニア:ディック・フロスト、フライトエンジニア:ジャック・リドリー。from US Air Force
伝説のテストパイロット、チャック・イェーガー。
初陣は1944年2月。鼻持ちならない天狗の若者は、実戦の恐怖に叩きのめされることとなります。しかし、イェーガーは天賦の才を持っていました。3月4日の8回目の出撃で、早くもBf109の初撃墜を記録したのです。しかし、好事魔多し。翌日、イェーガーは被撃墜。早くも、生命の危機に晒されることになります。
高度18,000ft、イェーガーは愛機を捨て脱出を試みます。しかし、ここはフランス・ボルドー。完全なるドイツ軍の勢力下。命からがらパラシュート降下したイェーガーですが、ドイツ軍に捉えられれば命の保障はありません。
ここから、野生児イェーガーの大脱出が始まります。祖国の土を再び踏むには、フランスを脱出。中立国スペインに逃れる他ありません。しかし、国境を隔てるのは、大山塊ピレネー山脈。しかし、季節は早春。雪深い山脈を越えなければ、愛するグレニスに二度と会うことは叶いません。
降下したイェーガーが最初に遭遇したのは、幸いレジスタンスの支援者でした。彼らの加護を得たイェーガーは、フランス領内を西へ移動。3月23日、スペイン国境のピレネー越えに挑むことになります。イェーガーは、膝まで積もる雪の中、丸4日歩き続けます。目指すは、スペイン国境。。。その時、イェーガーの胸に去来していたのは、空の借りは必ず空で返す。つまり、部隊復帰でした。
フランス領内で撃墜。ドイツ軍の追手から逃れ、スペインに脱出。
極寒のピレネーでは、幾度かドイツ軍に遭遇。その度に辛くも逃げ切ったイェーガーでしたが、山小屋を急襲された際には、同行の米軍兵士が足を吹き飛ばされ負傷。しかし、イェーガーは不屈の男。その兵士を背負うと、激痛と極度の眠気に襲われつつも、急登を続けたのです。
スペインに脱出したイェーガーは、ジブラルタル経由で英国へ移送。そこで待っていたのは、米本土への帰還命令でした。レジスタンスと交流を持ったイェーガーは、規定上部隊復帰は許されなかったのです。最後にイェーガーが泣き付いたのは、連合国軍最高司令官ドワイト・D・アイゼンハワーでした。6月6日、アイゼンハワーはDデーを決行。これに勝利した連合国軍では、レジスタンスに関する規定が消滅。8月、イェーガーの部隊復帰が許可されます。
9月13日、P-51Dを駆るイェーガーは、Bf109を共同撃墜。10月12日、1日で5機撃墜する「Ace in a day」を達成。11月6日には、Me262を撃墜し、史上初のジェット機撃墜を記録。1月15日には、凱旋飛行を実施し、第二次大戦での全任務を終了。イェーガーは、欧州戦線で11機撃墜、1機共同撃墜を記録し、2階級特進し大尉に任じられます。
ダブルエースとなってイェーガーを待つ、新たな任務。
米本土へ戻ったイェーガーは、ライト・フィールドへの勤務を希望します。新たな任地を得たイェーガーを待っていたのは、テストパイロットが飛行試験を実施する前に、機体の機能確認飛行を行うこと。大した学のないイェーガーでしたが、厳しい実戦と新たな任務を通じて、新たな資質が引き出されつつありました。
ここライト・フィールドは、陸軍航空軍開発部隊の本拠。多数のテストパイロットが在籍し、その才能を競い合っていました。しかし、彼らは皆学位保有者で、実戦未経験者。模擬空戦に臨めば、イェーガーに叶う者は誰もいません。
その中にあって、唯一イェーガーに喰らいついてきた若者がいました。ボブ・フーバー中尉です。欧州戦線に臨んだフーバーは、敵機に撃墜され、捕虜として拘束。しかし、収容所で起こった大暴動を機会に、ここを脱出。飛行場に逃れたフーバーを待っていたのは、ドイツ軍の偵察機Fw190でした。整備兵を拳銃で脅迫し、エンジンを始動させると、オランダ領内へ不時着。フーバーは英国軍に保護されますが、ここで大戦は終結。消化不良の思いを抱えたまま、フーバーはライト・フィールドにやってきていたのです。
紛うことなき天才パイロット、イェーガーとフーバー。
選ばれしパイロットというものは、度を越した図太い神経と沈着冷静な判断力を常に失わないがために、緊張というものを知りません。大統領を前にした時でさえ、彼らは冷静さを維持できるのです。そうした態度は、時に生意気と映ることがあります。
同時に、相当な自信家でなければ、虎の子の試験機を正確に扱うこともできません。常に自分こそが最高のパイロットである。そう信じる人物のみが、テストパイロットになるチャンスを得られるのです。
イェーガーとフーバーは、どちらも天才的な素養を備えたパイロットではありました。が、自慢できるような学歴はありません。つまり、両者は似た者同士だったと言えるでしょう。しかし、大きな違いが一つだけありました。
イェーガーは偉大なるダブルエースでしたが、フーバーは出撃してただ逃げ帰って来ただけの男でした。フーバーが本気で模擬空戦を挑んだ理由は、そこに見出すことができるでしょう。そんな若く生意気で粗野な二人は、ある人物によって才能を見出されることになります。
ボイド大佐が見出した、イェーガー、フーバー、リドリーの3人。
若き天才を見出した、現代飛行試験の父 ボイド大佐。
当時、陸軍航空軍の飛行試験部門を率いていたのが、アルバート・G・ボイド大佐でした。米国テストパイロットの父と称されるボイド大佐は、1957年に至る30年間のキャリアで723タイプの軍用機で飛行した経験を有し、生涯飛行時間は23,000時間に達しました。1947〜1957年に制式化された米国空軍の航空機は、すべてボイド大佐が承認したもの。戦闘機、攻撃機、爆撃機、輸送機、練習機、連絡機、観測機、ヘリコプターに至るまで、あらゆる航空機の開発に貢献した、航空史上傑出した人物なのです。
イェーガーの傑出した才能を見出したのは、誰であろうこのボイド大佐でした。ボイド大佐は、部下から非常に厚い尊敬を得ていた人物で、引退の折には現代飛行試験の父、世界一のテストパイロット、USAFテストパイロットの父、テストパイロットの中のテストパイロットなど、あらゆる賛辞を得るほどでした。
最終階級は少将で、エドワーズ空軍基地空軍飛行試験センターの初代司令官、ライト・パターソン空軍基地航空開発センターの司令官、ウェポンシステムの副司令官等を歴任しています。
P-80Rの速度記録飛行に挑んだ、アルバート・ボイド大佐。ボイドは、チャック・イェーガーの類まれな才能を見抜いただけでなく、ボブ・フーバー、ジャック・リドリーとチームを組ませることで、より多くの才能を引き出すことに成功した。ボイド大佐の功績なくて、チャック・イェーガーの偉業はあり得ない。from US Air Force
テストパイロットは、科学者であり、技術者であれ。
ボイド大佐は、テストパイロットの定義を根本から書き換えました。腕の立つパイロットではなく、テストパイロットはサイエンティストであり、エンジニアであるべき、としたのです。実戦経験など全く不要で、飛行中に発生する様々な事象を完全に理解する能力こそ必要、としたのです。
テストパイロットの仕事とは、事前に綿密に計画された試験プログラムの全てを完璧に実行してデータを収集し、それを地上に持ち帰ってデータ化することにあります。ですから、自らの感性・感覚に基づき我流で操縦することは、絶対に許されません。いつ如何なる状況であっても、試験プログラムを正確無比に淡々と消化せねばならないのです。それは、機体が不穏な兆候を示していても同じこと。その兆候の先に生じる挙動を経験・記憶し、地上に確実に持ち帰って、それを航空工学の理解に基づいて正確にデータ化せねばならないからです。
敵機目掛けて猛然と突っ込む。信じるものは自らの腕と愛機だけ。そういう戦闘機パイロットとは、全く相容れぬものがあるのが理解できるでしょう。
音速の壁を打ち破れ。ボイド大佐に課せられた使命。
ボイド大佐自身、1947年6月19日にP-80を速度記録挑戦用に改修したP-80Rで、623.73mph(1,004.2km/h)を記録。世界速度記録を樹立した経験があり、意欲的かつ挑戦的なイェーガーに自分に近い「何か」を感じていたのでしょう。
大佐自身がP-59とP−80のテストをミュロック乾湖の陸軍飛行場で行う際、お気に入りのイェーガーを整備士官として同道させています。大佐は、イェーガーの並外れた能力にいち早く気付き、この旅の中でその考えに自信を深めていくことになります。その能力を認められたイェーガーは、エアショーのデモフライトのパイロットに選ばれるという栄誉に浴しています。
ボイド大佐はこの時、「音速の壁(sound barrier)」を打ち破る野心的なプロジェクトを率い、これを成功に導く重責を課せられていました。ボイド大佐はこのプロジェクトに相応しい、優秀なテストパイロットを探さねばならなかったのです。通常なら、経験と知見のあるベテランを選ぶ処でしょう。しかし、ボイド大佐の決断は全く逆だったのです。
2人の天才を導く、頼もしいチームメイトとは。
1946年1月、イェーガーとフーバーの2名はフーバー大佐により、テストパイロットスクール入校を命じられます。並の精神力ならば、そのレベルの高さに尻尾を巻いて逃げ出したことでしょう。カリキュラムは、工学系大学卒の人間でも苦しむ、最高難度のものだったからです。
スクールの教官の最初の仕事が、生意気な二人の鼻っ柱を折ることにあったのは間違いありません。彼らはここで、収集した飛行データを計算してグラフやチャートにまとめる、テストパイロットの基礎を徹底的に叩き込まれます。
イェーガーとフーバーは、確かに若く意欲的で可能性に溢れていました。そして、何より卓越する飛行技術と、常に冷静さを失わぬ強靭な精神力を備えていました。しかし、如何せん頭脳がイマイチでした。工学的理解が彼らには無かったのです。そこで、彼らに加えてもう一人、頭脳となり彼らを諭し導く頼もしいチームメイトが必要とされます。
しかし、ボイド大佐が考えるテストパイロットに求められる素養とは、機械工学と航空工学に関する深い見識でした。
イェーガー、フーバー、そしてジャック・リドリー。
テストパイロットは、試験を行う機体の特性・機構を正確に理解し、試験の目的・内容をすべて把握せねばならないのです。2人が高度なカリキュラムに必死に喰らいつく中、優秀なクラスメートと出会います。彼こそが、3人目の男。ジャッキー・リンウッド・"ジャック"・リドリー大尉です。イェーガー、フーバー、リドリーの3人は、空軍の音速突破計画で運命を共にすることになります。
リドリーは、1915年6月16日オクラホマ州ガーヴィン生まれ。サルファーの高校を卒業すると、オクラホマ大学へ進み、機械工学の学位を得ます。1941年7月、陸軍入隊。航空機の可能性に夢中になったリドリーは、間もなく陸軍航空軍に身を転じます。1942年5月、リドリー中尉はテキサス州のケリー陸軍航空機地の飛行訓練学校でウイングマークを獲得。パイロットの一員に仲間入りを果たします。陸軍航空軍はこの頃、パイロットとして訓練を受けた技術者を必要としていました。リドリーは実戦部隊に配属される機会に恵まれず、テキサス州フォートワースにあるコンソリデーテッド・ヴァルティーの工場に配属となります。
ボイド大佐の英断。それは学生パイロットという選択。
リドリーの仕事は、4発重爆撃機B-24の受領試験でした。その後、6発搭載の超々重爆撃機であるB-36計画の開発メンバーに選ばれています。1944年、リドリーは更なる教育を受けるため、ライト・フィールドの陸軍航空軍技術学校(現:空軍技術研究所)を経て、カルフォルニア工科大学に派遣され、1945年7月に航空工学の理学修士号を取得します。
叩き上げのイェーガーとフーバー。パイロット兼技術者として、エリートコースを歩んできたリドリー。全く相容れぬように思われる3人は、後に素晴らしい化学反応を見せることになるのです。
1947年春、ボイド大佐は音速突破を目指す試験機ベルXS-1のパイロットとして、3名を指名します。
正パイロット:チャールズ・エルウッド・"チャック"・イェーガー大尉
控えパイロット:ロバート・アンダーソン・"ボブ"・フーバー中尉
フライトエンジニア:ジャッキー・リンウッド・"ジャック"・リドリー大尉。
イェーガーに対する、ボイド大佐の確信とは。
ボイド大佐は、イェーガーについて後にこう語っています。
「X-1パイロットの選定は、私の人生の中で最も難しい決断の一つだった。もしパイロットが事故を起こせば、超音速飛行計画を数年遅らせることになりかねないからだ。私は、この決定が歴史的なものになることを十分に認識していたので、私は副官のフレッド・アスカニ大佐に、私と一緒に座って飛行試験課の125人のパイロット全員を見直し、どのようなリストを作成できるかを検討するように頼んだのです・・・。
私は、非常に正確で科学的な 飛行ができるパイロットを求めていました 何よりも、安定性に優れたパイロットが欲し彼の能力、安定性、指示に従う意思、そしてもちろん、パイロットとしての彼の途方もない能力のために、私達の心の中には、彼がそうであることに疑いの余地はありませんでした・・・。他にも何人か優秀なパイロットがいましたが、彼のコックピットでの技術やプレッシャーの下での冷静さには敵いませんでした。」
3番目の男、ジャック・リドリーという存在。
また、イェーガーはリドリーについて、次のように述べています。
「フーバーと私は、フライトテストエンジニアではありませんでした。
私たちは飛行機を飛ばすことができましたし、空気力学に対する直感もありました...しかし、ジャック・リドリーは頭脳派でした。ジャック・リドリーは、空気力学について知るべきことをすべて知っており、実用的でした。それに、彼は優秀なパイロットであり、我々にぴったりと馴染んでいました。
彼は私たちの言葉を話しました。ボブはテネシー州人、私は西バージニア州人でしたが、オッキーであるジャックは私たちの言葉をよく理解してくれました。
X-1を飛ばす前から、私は彼とじっくりと話し合っていました。『何をしようとしているのか?』『何をするつもりなのか?』『お前にはわかるかもしれないが、俺にはわからないんだ。 いったい何をしようとしているんだ?』そういう時、ジャックは辛抱強く説明してくれました。」
左から、チャック・イェーガー、ボブ・フーバー、そしてバド・アンダーソン。90才を超えて長命だった3人は生涯の友であり、米空軍の英雄であった。アンダーソンは16機撃墜の記録を持つエースパイロットであり、第363戦闘飛行隊ではイェーガーの同僚・親友であった。ここにリドリーがいないのは、1957年3月12日に白馬岳でC-47で飛行中に墜落。殉職しているからである。
チャック・イェーガー以上の人物はいなかった。
一方、フーバーはイェーガーについて、次のように残しています。
「私もチャックと同じように、このプログラムについて感じていた。私は最初の飛行者になりたい、あの飛行をしたいと思っていたのです。
しかし、それは叶いませんでした。私が言えるのは、長年にわたって何度も何度も言ってきたことだが、私の親愛なる友人であるチャック・イェーガー以上にうまくやれる人はいなかったということだ。
私はチャックに強い思い入れがあり、コックピットでの彼の素晴らしさを知っていたので、(マッハ1飛行)にセキュリティと秘密が課せられた時、大きな不利益を被ったと感じました。
私はチャックに強い思い入れがあり、彼がいかに素晴らしいコックピットであったかを知っていた。それなのに、この出来事が隠蔽され、長い間、彼が評価されなかったのは。。。つまり、確かに噂は少しずつ広まっていったが、彼が本当に認められたのは何年も後のことだったんだ。」
ミューロックに降り立つ、3人の仮免テストパイロット。
ボイド大佐の命を受けた、チャック・イェーガー、ボブ・フーバー、ジャック・リドリーが遂に運命の地、ミューロックに足を踏み入れたのは、1947年7月半ばのこと。ところが、彼らは何とテストパイロットスクールに依然在学中の「仮免」テストパイロットとあって、余りにも若い彼らを見た関係者は失望。悲劇に終わる計画の「消耗品」だろうと噂するほどでした。
当時、危険な実験機のテストパイロットは、民間人を雇用した上で危険手当を払うのが通例でした。24歳と若いグッドリンは、ベル社がスターに祭り上げていた超一流のパイロット。彼は、XS-1で音速突破をするのであれば、15万ドルが必要と吹っ掛けたと言われています。
ところが、3人の「消耗品」は基本給のみ。第二次大戦では米国軍人40万人が死亡している事を考えれば、少なくともまだ「生きているテストパイロット」に危険手当なぞ、ある訳がないのは当然でしょう。
そもそも、イェーガーはいちいち金を要求する割に、大した腕でもない民間パイロットが大嫌いでした。
XS-1初体験のイェーガー、フーバーと空戦に興じる。
イェーガーは、「エドワーズで目立って傲慢なのはNACAの連中ばかりで、2号機を飛行させるのに民間からふたりのパイロットを雇ったが、相次いで首脚を壊した。このふたりにはX-1に乗る資格がなかった。」とさえ述べています。
飛行試験が本格的に開始されるのを前に、NACAの2号機もミューロックに到着し、NACAによる改修が実施されています。計器4個を取り替え、自動消火装置、自動エンジン停止装置、緊急フラップ作動システム、新型の燃料投棄装置などが設置され、機体の安全性が改善されていました。
そのNACAが招聘した「傲慢」なパイロット、ハーバート・フーバーとハワード・リリーの2名が、8月15日にミューロックに到着します。
イェーガーによる、XS-1の初飛行は1947年8月6日の燃料非搭載の無動力完熟飛行。高度25,000ftでリリースされたXS-1は、何の問題もなくミューロックに着陸。続いて、7日と8日のも同様の滑空試験を実施しています。余裕綽々のイェーガーは、滑空中にフーバーと模擬空戦に興じています。